「僕は、自分の心にある、叶わぬ願望を、小説を書くことによって、実現させようという思いで、小説を書いています。僕は、現実の女性と、つき合えません。なので、小説で、架空の、可愛い、僕にとって、理想の女性を、登場させ、その女性と、つき合おう、としたり、その女性に、面白い、生き方をさせたりして、お話しを作ろうとしています。そういう小説が多いです」
「そうですね。山野さんの小説を読んで、それは、感じました」
「まず。コンビニ人間、に、ついてですが。・・・圧倒されました。古倉さんの小説は、みな、読みやすく、文章も美しい。僕は、芥川賞の受賞作を、ほとんど、読みません。僕は、新しい物、好きの世間の人間とは、ちょっと、違います。僕は、自分が、小説を書くことのみが、僕の関心の全てなんです。僕は、長年の経験から、小説を読むことは、自分が、小説を書くヒントを得られることは、まずない、と、確信するようになりました。作家の、感性も、体験した経験も、小説の舞台も、全然、違います。しかし、今回の、古倉さんの小説は、違いました。コンビニ人間、は、古倉さんの小説の中でも、一番、優れた作品のように、思います。これほどの、小説なら、芥川賞の受賞作に、ふさわしいと思いました。なにせ、芥川賞は、日本人で、100万人、ほどの、作品の中で、ただ一人、選ばれる賞ですが、まさに、それに、ふさわしいと、思いました。これは、決して、お世辞でも、なんでもありません」
「そう言って、頂けると、素直に、嬉しいです」
「あなたには、妹さんが、いるという設定になっていますが、本当は、いないのでは、ないでしょうか?」
「ええ。そうです。私は、一人っ子です。でも、どうして、それが、わかるんですか?」
「妹さんが、あなたに、世間で、変わった人間に、見られないように、色々と、アドバイスしますね。しかし、あなたほど、思索の深い方なら、妹さん、という、アドバイスしてくれる、他の存在が、いなくても、あなたの思考力で、十分、わかるはずです。しかし、・・・(私は、変わり者に、見られないように、こうすればいいと思った)、・・・というふうに、主人公の独白の形式で書くより、そうした方が、小説が面白くなります。あたかも、諸葛孔明のような、優れた軍師が、いて、変わり者の、主人公を、助けているようにした方が、小説が、面白くなります」
と、彼は言った。
「え、ええ。その通りです。そういう計算がありました」
「次に、白羽さんですが。この人は、あなたの敵として、作った、人物ですが、この人は、あなたの、敵でもありますが、あなたの分身でもありますね?」
「ええ。よくわかりますね。どうして、わかるんですか?」
「だって、あなたと、正反対の価値観を持った、敵を登場させなければ、お話しが、作れない。しかし、白羽さんの、言葉の、いくつかは、あなたの、考え、そのものが、多く表現されています。それに、こんな、複雑なことを、考える人間なんて、まず、現実には、存在しっこありません。世の人間、や、男は、もっと、単純です」
「え、ええ。その通りです。敵役を作るのには、苦労しました。本当は、もっと、単純な男にしたかったのですが。それでは、私が作りたい、お話しが、作れなくなってしまいますし。また、主人公である私に、私の気持ちを、言わせるのは、照れくさいですし、主人公である私に、世の不条理さを、言わせるのも、恥ずかしいですし。それで、彼の口を借りて、私の思いを、述べさせました。違和感を感じられましたか?」
「いえ。全然、感じません。ああいう、複雑な、精神の男は、まず、現実には、1000人に一人もいないと思いますが、いても、おかしくないと思います」
「そう言って、頂けると、非常に、嬉しいです」
「一番、というか、感動したのは、ラストです。ここでは、白羽さんは、完全に、いわゆる世間の常識的な人間となっています。しかし、立ち寄った、コンビニで、あなたは、スーツ姿で、店員でもないのに、コンビニ店員の仕事をしてしまっている。せずにはいられない。そして、店員も、あなたを、受け入れるようになる。ここに至って、あなたの、コンビニに対する、激しい愛、が、完全に勝利している。僕は、読んでいて、涙が出て来ました。あなたは、音に対して、とても、敏感ですね。すごく、繊細な精神を持っておられるのでしょう。人間にとって大切なことは、傍目からみると、つまらない、とか、価値が無い、と思われていようとも、自分の仕事に、生き甲斐を持って、精一杯、頑張っている人は、異常でも、なんでもない。そういう人こそ、活き活きと、生きて、充実した人生を送っている人だと、つくづく感じました」
「仰る通りです」
そう言って、彼女は、顔を赤らめた。
「次に僕が、素晴らしいと思ったのは、清潔な結婚、という、短編小説です。これは、印象が、あまりに、強かったでした。セックスしない夫婦。というより、セックスを嫌っている夫婦。しかし、子供は欲しい、という、小説です。ここでも、あなたは、世間的な常識の見方を完全に破壊している。というより、あなたは、常識という枠に、縛られない、感性、考え方、を先天的に持っている。と、感じました。しかし、ああいう考え方は、僕にもあります。僕は、小学6年生まで、結婚した男女は、何をしているんだろう。それは、わかりませんでした。寝る時は、お互い、パジャマを着て、手をつないで寝ているのだろうと、思っていました。中学生になって、男女は、セックスをし、そのセックスによって、人間が、産まれると知った時は、ショックでした。これは。人間も動物ですから、自分の種を残さなければならない。それが動物、生物の宿命です。人間もその例外ではない。それが成されるためには、生殖行為が、気持ちのいいものでなくては、ならない、と、ショーペンハウアーは、言っています。人間は、子供の頃の、初めの時期は、セックスという、行為に、嫌悪を感じても、成長するのと同時に、徐々に、第二次性徴と、ともに、高まっていく思春期の激しい性欲から、それを、いつの間にか、自然な行為と、受け入れてしまっている。しかし、僕には、それが、どうしても、受け入れられませんでした」
「仰ることは、全て、その通りです。しかし、山野さんは、どうして、セックスを、受け入れられないのですか?」
「僕は、生殖という行為、を嫌っているからです。僕は、人間なんて、幸せな人生が送れる、という保証がない限り、産まれて来ない方が、良いとさえ思っています。人間が、産まれること、とか、それを意味する、数の子、だの、末広がり、だの、という、ことを、単純に喜ぶ、大人の気持ちが僕には、全く、わかりません。僕は、あの小説には、非常に共感しました。ただ、僕には、ああいう小説を書いてみたい、という、情熱までは、起こらなかっただけです」
「そうですか」
「(殺人出産)も、面白く読ませていただきました。男は、いつも、発情していますが、女性の性欲は違いますね。女性は、いつも着飾って、男に対して、フェロモンを出している。しかし、性欲という点では。女は、基本的に、普段、男を、性欲の対象としては、見ていません。ある、一定、以上の、性欲の快感を感じてしまうと、性欲が、燃えあがってしまいますが・・・。それに、女は、出産する時、苦しまなければならない。これは、聖書では、アダムとイブが罪を犯したから、と言っていますが、ともかく、女は、産み、の、苦しみを、しなければ、ならない。妊娠した、女性も、スマートなプロポーションが、お腹が、ふくれて、格好が、わるくなる。それどこか、妊娠中毒症などになったら、自分の命も危なくなる。まさに、命がけで、人間を産んでいる。そもそも、女は、月に一回、子供を産むための、準備である、生理、と共に生きている。それに、セックスによって、人間が産まれる、というのも、ちょっと、考えてみれば、不謹慎ですよね。石川啄木も、(二筋の血)という、小説のラストで、こう言っています。(男と女が不用意の歡樂に耽っている時、其不用意の間から子が出來る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。其偶然が、或る永劫に亘る必然の一連鎖だと考へれば、猶痛ましく、猶悲しい。生れなければならぬものなら、生れても仕方がない。一番早く死ぬ人が、一番幸福な人ではなかろうか)、と。あなたの作品は、あなたが、女だから、書ける、と思いました。夫婦のセックスにおいては、男も女も、快感を得ますが、人間の誕生に於いては、男は、何も苦しまない。しかし、女は、初潮から閉経までの、人生のほとんどの期間を、毎月、起こる生理と、妊娠による体の崩れと、出産の命がけの苦しみ、という、三つの苦しみ、を、味あわなくてはならない。これは、不公平ですよね。あなたは、その不公平さ、に、不満、というか、憤りを持っている。あなたの小説、(殺人出産)は、神に対する、その不公平さ、の、許しがたい、煮えたぎるような怒りが、動機ですね。(殺人出産)では、男も人工子宮を埋め込まれ、人間を産むことが出来る、ようになっていますね。わがまま勝手な世の男どもよ。女の産みの苦しみをおもい知れ、という、あなたの、男に対する、凄まじい憎しみの怨念が、ひしひしと、感じられました」
「え、ええ。そうかもしれませんね。でも、私。妊娠や、出産の、苦しみは、経験していませんし。生理は、経験してきましたが、そんなに、つらかったことは、ありません」
彼女は、顔を赤くして、焦って言った。
「それと。(マウス)ですが。これは、おとなしい私(田中律)が、自分以上に、もっと、おとなしい、というか、全くクラスメートの誰とも、話さない、ネクラな性格の、塚本瀬里奈、に、(くるみ割り人形)の、話しをしてあげて、その翌日から、塚本瀬里奈、は、(くるみ割り人形)の、主人公の、マリーになりきって、さかんに喋り出し、積極的に行動する、という話ですが。これは、読んでいて、現実には、そんなこと、絶対、あり得ない、と、違和感を感じました。他人が読んであげた、一つの童話が、きっかけで、誰とも全く一言も、話さなかった無口な子が、その翌日から、性格が豹変して、さかんに喋り出して、積極的に行動する、などということは、現実的には、考えられません。それは、選考委員も感じていると思いました。しかし、この作品は、三島由紀夫賞の候補になっています。しかし、小説や、漫画なんて、現実的かどうか、なんて、細部の正確さを、きびしくは、見ていないんだな、と思いました。手塚治虫の、医療マンガ(ブラックジャック)にしても、医学的には、デタラメなのが、かなりあります。しかし、ストーリーが面白ければ、違和感を感じません。芥川龍之介の、(蜘蛛の糸)や、(杜子春)にも、矛盾は、あります。しかし、批判する人はいません。だから。文学賞では、選考委員は、細部の、揚げ足をとるのではなく、小説の、全体の文学的価値を、評価しているんだな、と、知らされました。つまり、作品の評価は、減点方式ではなく、良い点を見つけての、加点方式なのだと、思いました。読者も、面白さを、求めて、小説を読みます。僕は、性格が神経質なので、小説作品の、現実との、整合性、が、気になってしまいます。しかし、(マウス)を、読んで、小説は、小説のお話の中で、辻褄が合っていれば、いいのである、ということを、あらためて、感じました。これは、前から感じていたことですが。現実性、ということに、こだわっていると、小説は作れません。むしろ、いかに、現実性を壊すか、という、ことに、僕は、心がけています」
「ええ。私も、(マウス)は、ちょっと、現実性と点で、批判されないかな、と、心配して書いていました」
「ところで、古倉さん。あなたは、自分の作品に、愛着を持っていますか?」
「自分が満足できる作品には、愛着は、あります。愛着、という言葉が、適切かどうかは、わかりませんが」
「作家にとって、作品は、自分が産んだ、自分の子供、とも、言われていますが、その、一方で、哲学者の、メルロ・ポンティーは、作家にとっては、過去に書いた作品は、墓場、とも、言っています。それは、作家にとっては、作品を作っている時だけが、生きている時である、という意味です。それは、僕も感じています。三島由紀夫は、死ぬ前に、自分の作品の全てを、自分の排泄物とまで、言っています。それは、ちょっと、卑下しすぎ、だとも思っていますが・・・。だって、三島由紀夫の作品では、成功作とか、失敗作、とか、客観的に、文芸評論家によって、判断されていますが、文学賞をとった、文学的価値のある、作品の方が圧倒的に多いです。ましてや、三島由紀夫は、ノーベル文学賞の候補にも、なったほどですから。自分の作品を、自分の排泄物、とまでは、本当には思ってなく、過剰に、卑下しているとも思っています。少なくとも、僕は、創作は、コックと同じだと思っています。コックは、手によりをかけて、美味しい料理を作る。そして、お客さんが、(美味しい)と、言って、喜んで、自分の作った料理を食べているのを、見るのが、コックの、喜び、であって、創作も、それと、全く同じだとも思っています。太宰治も、そういう考え方です。ただ、味つけ、つまり、心にも思っていないことは、作家は、書けないでしょう。そういう点、僕は、読者に、まずい料理は出したくない。美味しい料理を出したい、と思っています。しかし、あまり、美味しさ、とか、心地よさに、こだわっていたり、自分が愛着をもてるような作品ばかり書いていると、文学的に価値のある作品は、書けない、とも、あなたの作品を読んで、感じました」
「そうですね」
「あっと。ちょっと、僕だけ、一方的に、話してしまって、申し訳ありません。つい、小説とか文学のことになると、饒舌になってしまっで・・・」
「いえ。構いません。山野さんは、小説を、見る目が、鋭いのですね。鋭い文芸評論家、以上の文学評論です。これからも、私の、書いた小説、や、文学のこと、聞かせて下さいね」
「ええ。でも、僕は、文芸評論家になるよりも、自分が小説を書きたいのです。たとえ、文学的価値は無くても。あるいは、あっても、低くても。でも。歳をとって、自分が、どうしても小説を書けなくなったら、文芸評論的な、ことでも、書こうかな、とも思っています」
「今度は、私に、話させて下さい」
「はい。何なりと。言って下さい。ちょっと、一方的に、芥川賞を受賞したプロ作家先生に、偉そうなことを言って、まことに、申し訳ありませんでした。何なりと、お話しして下さい」
「まず。単純な質問をさせて下さい。山野さんは、どうして、医者になろうと、思ったのですか?」
「それは、ひとことで言って、医者に対する復讐です。僕は、幼い頃から、喘息で、自分史である、(浅野浩二物語)、とか、(ビタ・セクシャリス)にも、書いていますが、小学校の半分の三年間を、親と離れて、喘息の療養施設で過ごしました。自律神経の切り替えが、悪くて、小児喘息が、治りきらずに、大人になってしまいました。胃腸も、ストレスで、過敏性腸症候群という、かなり、つらい病気にかかってしまいました。僕は、一生、医者、や、薬、なしには、生きていけないのです。医者は、無能なくせに、威張った医者も多いんです。自分の体のことを、一番よく知っているのは、まず第一番目に自分であるはずです。一日中、自分の体と、つきあっているのですから。医者は二番目、あるいは、三番目で、もっと下で、あるはずです。なのに、現実は違います。医者は患者を、病気に関しては、素人とバカにしています。そんな、自分の体のことを、一生、ヘコヘコと、医者に頭を下げ続けるのが、口惜しくて、いっそ、自分が医者になってやろう、と、思ったのです。患者でも、医者ならば、(僕も医者です)、と、堂々と言えます。そして、そう言えば、医者も患者を、医学の素人と、バカにすることが出来なくなります。そういう、不純な理由が、第一番です」
「負けん気が強いんですね」
「ええ。劣等感が強いんです。それと、二番目は。僕は、自分が、本当にやりたいことを、高校生になっても、どうしても、わかりませんでした。僕は、一人で、コツコツとやる仕事が僕の性格に合っていると思いました。たとえばオートバイの設計技術者のような仕事が、僕の適性には、ふさわしいのでは、ないかとも思いました。しかし、やはり、病気や医者に対する、コンプレックスの克服の方が、まさって。これは、どうしても、克服しなければならない、僕の宿命だという思いが、まさり、それで、医学部に入ることが、僕の至上命題になってしまったんです。それで、難関で、世間的な評価も高い、医学部に入ろうと思ったんです。医学部6年間のうちに、自分が本当に、やりたいことが、見つかるだろう、とも思っていました。つまり、モラトリアムです」
「それで、大学三年生の時に、小説家になることが、自分が本当にやりたいこと、だと気づいたのですね」
「ええ。その通りです」
「作品について、ですが。読みやすく、面白い作品が、多いですね。(ロリータ)とか、(虫歯物語)とか、(蜘蛛の糸)とか、(杜子春)とか、つい最近のでは、(七夕の日の恋)とか、とても、面白く読ませて頂きました。可愛らしい小説が多いですね」
「そう言って、頂けると、嬉しいです」
「文学賞に投稿しようとは、思わないのですか?」
彼は、ニコッと微笑した。
「あなたも、ちょっと、意地悪な質問をしますね。僕の作品の中で、文学賞を受賞できるような、作品があると思いますか?僕は、無いと思っています。僕の小説は、娯楽で読んで、ちょっと面白いな、と、思える程度の小説に過ぎないと思っています。しかし、文学賞となるような、作品は、娯楽で読んで、ちょっと面白いな、という程度の作品では、ダメなんです。そんなことをしたら、その文学賞の価値が下がってしまいます。作品は、ある一定、以上の、何らかの、文学的価値のある作品でないと、どんな文学賞でも、受賞できません。それは、色々な文学賞に投稿してきた、あなたになら、わかるはずです」
「すみません。その通りです」
「いえ。いいんです。僕は、文学賞を獲りたいと、熱烈に望んでいるわけでは、ないんです。僕は、小説を書いていれば、それで満足なんです。文学賞は、スポーツに喩えるなら、国体とか、日本選手権のようなものだと、思います。技術も体力も、かなりのレベルの選手でないと、大会で、優勝することは、出来ません。僕も健康のため、色々と、スポーツをやっています。ですが、技術の基本は、身についていても、それだけでは、テニススクールで、コーチと対等に、打ち合える程度の実力です。そんな人は、吐いて捨てるほどいます。その程度の実力では、正式な大会で、勝つことは、絶対、出来ません。だから、文学賞に投稿する、なんて無駄なことは、しないんです」
「山野さんは、自分というものを、よく知っていますね。山野さんに、ウソは、つけないと思いました。失礼ですが正直に言います。私が、もし、文学賞の選考委員だとしたら、山野さんの、作品で、受賞の価値がある、と、堂々と、自信をもって言える作品は、・・・大変、失礼ですが、・・・ありません」
彼は、ニコッと笑った。
「いえ。いいんです。僕は、小説を書いていれば、幸せなんですから。僕にとっては、文学賞を、受賞できないことより、小説が、書けなくなることの方が、はるかに、こわいんです。僕にとって、小説を書く、ということは、生きるということ、そのものなんです。命なんです。ですから、命である、小説を書く、ということが、出来れば、それで、十分、満足なんです。そして、逆に言うと、命である、小説を書く、ということが、出来なくなると、僕は、死の恐怖に、おびえるようになるんです」
「山野さんは、天性の小説家ですね。認められるか、認められないか、などということを、度外視して、小説を書き続けているのですから」
「僕は、何事においても、競争とか、他人と比べることが嫌いなんです。上は、オリンピックから、下は、テニススクールのレッスン中の試合まで。世間の人間は、スポーツでは、全て、どっちが、勝ったか、負けたか、という、勝敗ばかりに、みな、注目します。そして、勝敗を決めなくては気が済まない。しかし、水泳とか、短距離走とかでは、0.01秒の差で、勝ったり、負けたりして、それが、金メダルと、銀メダルの、大きな違いになります。そして、選手も、観客も、勝敗の結果に、目の色を変えます。しかし勝負は時の運であり、そんな差は、もう一度、やれば、簡単に、逆転する、ということなど、ザラにあります。僕は、そういうことが、くだらないことだと、思っているのです。大学受験にしても、選抜試験ですから、他人を蹴落とす競争です。しかし、芸術の世界は、個性の世界ですから、比べることが出来ません。サザンオールスターズと、ユーミンの、音楽を、どっちが、上とか下とか、そんなこと、比べることなど出来ません。僕の書く小説は、確かに、文学的価値という点では、高いものではないでしょう。あなたの、いくつもの受賞作は、文学的価値という点から言えば、僕のコメディー的な小説より、はるかに上です。しかし、僕の書く小説は、僕にしか書けない、そして世界で、唯一の作品です。だから、僕は、満足できる小説を書ければ、それだけでいいのです」
「山野さんは、純粋な人なんですね」
「でも。何か、偉そうなことばかり、言いましたが、もちろん、僕は、あなたが、うらやましい。芥川賞もさることながら、それ以上に、全国の書店の、目立つ所に、平積みで、置かれ、もう、すでに、50万部、を越しています。つまり、50万人の人に、もうすでに、読まれているわけですし、これからも、発行部数は、増え続けるでしょう。人づきあいが苦手で、孤独に苦しむ芸術家なら、誰だって、芸術作品を、通して、つまり、自分が書いた小説が読まれることによって、世間と、関係を持ちたい、と思っていますから。その点は、僕は、古倉さんを、すごく、うらやましく思っています」
「山野さんも、いつか、世間の人達に、認められる小説が、書けるといいですね」
「ええ。僕が小説を書くのは、多分に、自己満足という面もあると思います。しかし、僕の小説を読んで、面白い、と、言ってくれる人もいるのです。はじめは、大学時代の文芸部の友達から、そして、ネットでも、少し勇気を出して、あるホームページの、掲示板に、小説の宣伝をすると、面白い、と言ってくれる人が、多いんです」
「そうでしょうね。山野さんのは、面白いですもの」
誉められて、彼は、少し、得意になった。
彼は、パソコンの、あるホームページを開いた。
ホームページアドレスは、http://policewoman.sakura.ne.jp/top/link.html である。
そこには、こう書かれてあった。
「個人的お勧めサイトの紹介。
簡単な紹介コメントを勝手に添えています。
浅野浩二のホームページ
その名の通り浅野浩二さんのWEBサイトで、小説やエッセイなどが読めます。
その作品には掴みどころのない不思議な魅力が溢れていて、特に自分は「女生徒」という作品がお気に入りです。
疲れた時に、この作品を何度も読み返してしまうのですよ。
自分が、他の方の作品を読んで羨ましく思う時の感想は二種類あって、
「頑張って、いつかはこういう作品を書きたいなぁ。」というものと、
もうひとつは「こういう作品は、僕には一生書けないのではないか?」というものです。
浅野さんの小説は数少ない後者に該当する素敵な作品群です」
「これは、僕が、ホームページを作って、間もない頃、それは、僕が、(女生徒、カチカチ山と、十六の短編)を、文芸社で、自費出版した頃、(平成13年)ですから、もう、15年も前に、頼んでもいないのに、相手の人が、書いてくれたのです。リンクまでしてくれて。こういうふうに、読んでくれる人が、いると、とても、嬉しく、また、創作の、ファイトがでます」
彼は、いささか得意になって、さらに、続けて話した。
「これは、僕が、文芸社に、短編集を、送ってみたところ、返ってきた、感想です」
と言って、彼は、A4の用紙を、彼女の前に差し出した。
それには、こう書かれてあった。
「平成12年9月27日。(株)文芸社。山野哲也様
本稿は、18編の掌編・短編と、5編のエッセイで構成されている。どの作品も手堅く、まとめられており、作者のレベルの高さを感じた。内容的には、掌編といっても短編に匹敵するような大きく重いテーマのものがあり、短編でも、もっとよく短く刈り込んだ方が仕上がりの良くなるものもあるが、総じて、どの作品も、よく計算された上で書かれていることがわかる。文学作品として平均的なレベルをクリアしていると言えるだろう。
掌編では、「スニーカー」、「少年」など、実に達者な語り口で書かれており、短編も無駄なく構成され、展開もスムーズである。作者は、かなり修練を積み、筆力を蓄えられた方だと推察する。作者の持ち味の一つに、職業経験を生かした心理的な描写、人間を解剖し分析する文章力がある。分析も細部にこだわりすぎて説明的になると、かえってくどくなり、作品をぶちこわす結果になるが、本稿では程好く味付けされているため、作品の質感を高めることに成功している。
エッセイは、「ちゃんと小説を書きたく、こんな雑文形式の文はいやなのだが・・・」(P82;婦長さん)とあるが、病院の日常をさりげなく描いたエッセイには、小説に劣らぬ魅力を感じるという意見もあった。なかでも、「おたっしゃナース」、「婦長さん」は、作者の独断場の世界でもあり高い評価がされた。また、山野様の作品の一つの方向として、「少年」や「春琴抄」にみられるように、被虐の世界に徹底されていることも興味深い。精神分析、心理解剖の知識と経験が十分に生かされている。
ただし、作品としての全体の構成を見た場合、どのような意図で編まれたものなのか判断が難しいところである。安定した筆致で書かれた個々の作品は、それぞれ完成度が高いのだが、小説にしても、エッセイについても、どのような読者を想定してあるのかが曖昧である。その流れを明確にした方が、作品の密度を高め、読者に、より強いインパクトを与えることが出来るだろう。
なお、各作品にはタイトルが付けられているものの、本稿のタイトルともなるべき総合タイトルが付されていない。ぜひ、山野様ご自身で納得のいくタイトルを考えていただきたい。
などが挙げられました。
いかがでしたでしょうか。山野様の作品は、弊社に毎月800点以上、送られてくる作品の中でも印象深い作品であることに間違いなく、好評を得たもののひとつでした。」
彼女が読み終わって、顔を上げたので、彼は、そのコピーを取り戻した。
「文芸社は、あの時は、協力出版と、宣伝していましたが、実際は、悪質な自費出版で、しかも、製作費の費用に、相当な水増しをしていて、本を売ることでなく、本を作ることで、利益を上げていた、詐欺商法でした。それは、ネットで、調べて、僕も知っていました。しかし、この評価の文章は、心にもない、おだて、を言っているとは、思いません。この感想は、かなり、正確に、僕の小説を、評価していると思います。おだてて、契約に、こぎつけるため、だけだったら、(山野様の作品の一つの方向として、「少年」や「春琴抄」にみられるように、被虐の世界に徹底されていることも興味深い)、などとは、はっきりと、書いたりしないでしょう」
「被虐って。山野さんは、マゾなんですか?」
「ええ。そうです。僕の小説を読んで、マゾっぽい、と思いませんでしたか?」
「いえ。私。マゾって、さっぱり、わからないんです」
「そうですか。サド、とか、マゾ、とか、が、全くわからない人も、世間には、結構、いますからね。そういう人の方が幸福かもしれませんね。今は、ドSとか、ドM、とか、いう言葉を、世間の人達が、平気で使うようになりました。しかし、今、使われている、ドSとは、単に、(いじわる、とか、わがまま)という意味で、ドMとは、単に、(気が小さい)という意味に変わっただけです」
「山野さんは、マゾという、ものを、表現するために、小説を書いているのですか?」
「そうです。それただけでは、ないですが。それは、大きいです」
「私には、マゾは、わかりませんが、私も、自分の異常な感覚を表現するために、小説を書いています」
「そうでしょうね」
「ところで、山野さん。世間では、私が、芥川賞を受賞しているのに、コンビニで働きたい、と思っている、ことを、異常と見ていますが、山野さんには、その私の心理が、わかりますか?」
「ええ。もちろん、わかりますよ。あなたが芥川賞を獲っているのに、コンビニのアルバイトを続けたいと、いう気持ち」
「では、説明して下さい」
彼女は、黙ってニコッと、笑った。
彼が、どんな説明をするのかを、ワクワクと待っているという感じだった。
「簡単なことです。世間の人は、芥川賞を獲れば、それ以後は、創作に専念するもの、という、固定観念に、まだ、おちいっているのです。菊池寛は、(小説家たらんとする青年に与う)で、(小説を書くということは、紙に向って、筆を動かすことではなく、日常生活の中に、自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書くための修業なのだ)と言って、作家の創作、にとっての、実生活の重要性を主張しています。太宰治も、(如是我聞)で、(作家は、所詮、自分の生活以上の小説は書けない)と、作家が生活を真面目にすることを主張しています。三島由紀夫も、(小説家の休暇)の中で、(創作においては、規則正しい日常生活こそが、大切だ)と言っています。僕も、それは、感じています。医者の仕事だって、慣れれば、同じ事の繰り返しです。僕は、仕事が好きではありません。もっとも嫌いなだけでも、ありませんが。しかし、なぜだか、仕事が終わって、ほっとした時に、小説のインスピレーションが思い浮かんだり、小説の筆が進むのです。まったく、大作家たちが、言っている通りです。むしろ、机の前で、ウンウン唸っていても、小説のインスピレーションは、なかなか起こってくれません。そういう時。町を歩くのでもいい。公園で遊ぶ子供達を見てみるのもいい。一度も入ったことがない喫茶店に入ってみるのでもいい。なにか現実の空気に触れることが、創作のヒントになります。僕は、それを、何回も経験しました」
「その通りです。私も、コンビニで働いていると、小説のアイデアが浮かんでくることが、よくあるんです。というか、コンビニで働かないと、小説のアイデアが沸かないんです」
「ところで、山野さんは、私を変わった人間だと思っていますか?」
「それは、もう、世間の常識的な人の目から見れば、変わった人間に見えるでしょう。あなたの作品のほとんどは、世間の常識的な人から見ると、おかしな、非常識な、小説に見えるでしょう。しかし、そもそも、物書き、というのは、世間の常識に合わないから、作品が、書けるんじゃないんですか?小説家なんて、みんな変人ばかりだと思いますよ。もちろん、僕だって、何十回、(変人。とか、変わり者)と、言われたことか、わかりません。僕は、自分でも、自分を変人だと思っています。世間の常識に合う人間は、現実に生きること、つまり、異性を愛し、結婚し、真面目に会社勤めをし、子供を生み、子供の成長を楽しみ、酒を飲み、おいしい料理を味わい、海外旅行で外国に行き、ペットを飼い、セックスの快感を楽しみ、プロ野球を見て好きなチームを応援し、と。そういうことを、することが、すなわち、その人が主人公となっている小説を書いているようなものです。つまり、常識的な人間は、現実に生きて行動することが、小説を書いている行為なのです。しかし、世間の常識に合わない感性に、生まれついた人間は、現実を生きることが、楽しみには、なりません。本当に生きることにも、なりません。だから、自分の心の中に、燻っている、自分の思い、を、紙と、ペンによって、架空の世界の、お話し、という形で、書いて、作りあげることが、自分が、本当に生きる唯一の方法であって、それ以外に、本当に、生きる方法が無いのです。だから、常識的な人間も、行動という手段によって、本当に生きているし、変人である小説家も、小説を書くことによって、本当に生きている。どっちの方が、正常、とか、どっちの方が、変とか、そういうことは、決められないこと、だと思います。しかし、あえて言うなら、変な人間である小説家の方が、自分の思いに忠実に生きていて、常識的な人間は、世間の常識、というものに、自分の心が、良くも悪しくも、無意識のうちに、影響されて、作られてしまっている、とも、思っています」
「仰る通りです」
彼女は、強い口調で声で言った。
「どうも、僕ばかり、小説の大家先生に、偉そうなことばかり、言ってしまって、申し訳ない」
彼は、恥ずかしそうに、顔を赤くして、頭を掻いた。
「いえ。いいんです。私、人間が好きですから。人間を観察するのが、好きですから。知らない人を見ると、この人は、どういうことを、考えいるのだろうなって、ことに関心を持ちますから。山野さんのこと、もっと、よく知りたいです」
「なら、話しますよ。何でも、聞いて下さい」
「二点、聞きたいことがあるんです。一点は、性と生、のことです。もう一点は、過敏性腸症候群という胃腸病のことです」
「一点目の、性と生のことですが。山野さんは、小説で、性的なことを、多く書いていますね。山野さんの、性と生に対する、考えを教えて下さい」
「人間は、どうしても、自分の価値観、モノサシで、他人をも見てしまいます。これは、よくないことだと、思いますが、感情として、起こってしまう、ことは、仕方のないことですよね。夏の暑い日に、暑いと思うな、と、言っても、無理なことです。心で感じることまで、修正しろ、というのは、無理なことだと思います。大切なことは。自分の感じ方を、そのまま、行動に移したり、他人に押しつけたりしなければ、それで、いいだけのことだと思います。芸術の創作に価値を認めている、人間は、どうしても、他人に対しても、芸術の創作、という価値観で、人を見てしまいます。スポーツに価値を感じている人は、スポーツ、の能力という視点、価値観で、人を見てしまいます。これは、仕方のないことだと思います。僕は、生まれてきてから、幼少の頃から、病気や、容貌、取り柄のなさ、などに、苦しんで、生きてきました。今でも、生きることは、喜びもありますが、つらさ、も、非常に多い日々です。だから、人間一般に対しても、この世に、生まれてくることを、手放しで喜べないのです。僕は、人間なんて、幸せな人生が送れる、という保証がない限り、産まれて来ない方が、良いとさえ思っています。絶対的な健康と、普通の程度の容貌と、正社員での就職、が保証されない、限り、人間が生まれてくることに、慎重になっているんです。そして。セックスと、人間の誕生は、つながっています。僕が、興奮するのは、SMだけでした。子供の頃は、みんな、SM的なことに、興奮すると思います。男は、女の裸を見たい。女に、エッチな悪戯をしたい、と思っています。しかし、男である自分は、女に、裸を見られたくない。まさに、SM的です。しかし、実際は、小学生、や、中学生では、女生徒は、性に目覚めてはいても、大人の性行為は受け入れらない。男子生徒が、一人の女生徒を、取り囲んで、裸にして、エッチなことをすれば、女生徒にとっては、それは、つらい、いじめ、であって、泣いてしまう、だけでしょう。男子生徒は、先生にも注意されますから、そんなことは、出来ません。つまり、そういう、エッチなことは、男の子の、夢想にとどまる、だけです。谷崎潤一郎の、(少年)、のような、小説は、実際には、行われるはずは、ありません。あれは、完全なフィクションです。しかし、高校生、そして、大学生になってくると、女も、胸が膨らんできて、また、性にも、目覚めてきます。なので、SMプレイを、する、女の大学生も、出て来ます。しかし、男は、何といっても、セックスというものに、目覚めます。そして、男も女も裸になって、抱き合い、そして、本番をしたくなります。SMは、消えていくか、ペッティングの一部となっていきます。しかし、本番は、人間を生む行為ですから、そして、出来ちゃった結婚、などのように、妊娠してしまうことも、あるわけですから。僕は、本番、という行為が生理的に嫌いなのです。男と女の体が、完全に、つながる。これの方が、ノーマルだと僕も思います。しかし、僕は、人間なんて、幸せな人生が送れる、という保証がない限り、産まれて来ない方が、良いと思っていますから、基本的に、生殖行為に嫌悪感を感じるんです。幼稚園児では、男女は、異性を、友達として、見ています。しかし、小学生も、学年が上になってくると、そして、中学生になると、異性として、意識し始めます。恥じらいます。それは、かわいい。しかし、高校生になると、女も、性を知り、男と平気で、手をつなぐようになる。恥じらいが、なくなる。それが、ノーマルなのでしょうが、僕には、それを見るのが、つらいのです。だから、僕の、理想的な、男女関係は、中学生の、恥じらいのある男女関係、です」
「なるほど。わかりました。では、次に、胃腸病のことについて教えて下さい」
「ええ」
「山野さんは、小説では、自分の病気のことを、ほとんど、書いていませんが、ブログでは、自分の消化器病のことを、結構、書いていますよね。ところで、過敏性腸症候群、って、どういう病気なんですか?ホームページでも、(過敏性腸症候群)と、題した文章がありますが、読んでみましたが、いまだに、わからなくて・・・」
「そういうふうに、聞いてくれる、だけでも、すごく癒されます」
「どうしてですか?」
「だって、世間の人は、親でも、そうですが、過敏性腸症候群、の辛さを訴えても、誰も、理解しようとしてくれませんから・・・。理解しようとしてくれる人は、過敏性腸症候群、に苦しんでいる人だけです。世間の人は、自分を無にして、相手の話を聞こうとは、決して、しません。自分の人生経験から、説教するのが、好きな人ばかりです。コンビニ人間、で、書いてあるように、土足で相手の心に踏み込むのが好きな人ばかりです。病気の、辛さを訴えても、祖父は、(オレも胃腸が悪くなったことがあるよ。しかし、オレは、こうして乗り切ったよ)と得々と自慢げに説教しますし、両親に言っても、(野菜はとっているのか)、とか、食事の注意ばかりです。しかし、そのくせ、世間の人間は、自分の苦しみは、訴えて、自分に対する理解は、必死になって、他人に、求めています。理解してくれないと、怒り狂います。自分の苦しみは理解されたいが、他人の苦しみは、自分の経験から、説教したがる。全く自分勝手だな、と、思います。それは、病気に限らず、全てのことで言えます。僕は、前から、そういう世間の人間の、身勝手さに気づいていましたから、人に理解なんか求める、というバカバカしい行為は、とっくの昔に、捨てています。病気や、自分の苦しさは、自分の努力で、治すものだと、思っています。つまり、自力本願です。そして、僕は、色々なことを試してみて、過敏性腸症候群、は、食事ではなく、運動が、一番、効果があると、わかり、健康のために、運動しているのです。ブログでは、自分の病気である、過敏性腸症候群、のことも、書いていますが。本当は、自分の病気のことは、書きたくないのですが。僕にとって、ブログは、書きたい事を、好き勝手に書いていますが、病気の考察の、記録でも、あるんです。今日は、調子が良かったが、それは、どうしてか、ということを、書くことで考えているんです」
「なるほど。そうだったんですか」
「たとえば。パラリンピックや、身体障害者の人を見ると、まず、見た目で、可哀想だな、辛いだろうな、と思ってしまいます。それは健常者に対する引け目だけでなく、ちょっと、想像力を働かして考えれば、片手の無い人は、歯を磨くのも大変だろうな、とか、トイレで用を足すのも大変だろうな、とか、障害によって起こる、二次的な、日常生活の、様々な、不便を想像してしまいます。しかし、障害者の人の表情を見ていると、結構、明るい人の方が多い。障害者の人が、日常生活で、どんなことが、辛くて、どんなことは、それ程でもない、のかは、他人には、わかりません。わかっているのは、障害者本人だけです。だから、障害者の人の、苦しみを、過剰に考えて、可哀想に思ってしまったり、逆に、想像しても思いつけないような意外なことで、苦痛になっている、ことも、あるはずです。ですから、他人の苦しみを、理解しようとする行為は、不潔だと、僕は思っています。一番、理解に近づくためには、相手に直接会って、相手の口から、話しを聞くことだと思います。それなら、ある程度、相手を理解できると思います。文章では、感情までは、伝えにくいですから」
「私も、そう思います」
「しかし、世間の人間は、どうしても、喋らずには、いられない。人を自分の先入観で、評価せずには、いられない。なので、人と、喋り合う。そして、お互いに、誤解し合って、お互いに、自分の主張を、言い合って、生きている。しかし、デリケートな性格の人は、他人に理解されたとも思わないし、他人を理解したいとも思わない。だから、人と話せなくなって、無口になってしまうんです。そして、無口だと、変人だと、言われるのです。アメリカ人は、喋ることが美徳です。喋らないでいると、あいつは、何も考えていないバカだ、と思われます。しかし、日本には、以心伝心、とか、沈黙は金、とか、謙譲の美徳、とか、の精神が昔はありました。今では、アメリカナイズされて、それらは美徳ではなくなってしまいましたが」
そう言って、彼は、一呼吸、おいて、さらに、話しを続けた。
「ちなみに、古倉さんは、ハンバーガーショップとか、牛丼家の店員、とかでは、ダメなんですか?」
「ええ。もちろん、私も、マクドルドや、吉野家で、働いたことも、あります。コンビニ同様、好きです。しかし、あれらは、早い、美味い、安い、を、売りにしていて、実際そうですが、流れ作業的です。しかし、コンビニは、何でも屋で、一つの、小さな、世界を感じるんです。食料もあれば、本もあれば、日用品もあります。人間の生活を感じるんです。商品は、売れてくれるのを待っている、私の、かわいい子供のような感覚なんです。努力、気配り、に、よって、お客様に喜んでいただけるし、お客様に、気配りできる余地がありますし、私の、努力によって、店の売り上げが、上がったり、する余地があります。それが、面白いのです。私も、いくつか、アルバイトをしましたが、コンビニ店員が、一番、私の相性に合っているな、と感じているんです」
「抱きつかれると、何も言わない、というのは、どうしてですか?普通、コンビニ店員が男に抱きつかれたら、最低でも、小さな声で、やめて下さい、と言うものですよ」
「それは、抱きついてくる、お客さんの、意図がわからないからです。単に、性欲が目当てなのか、あるいは、私を好きになってくれて、でも告白できず、心の中で、苦しい思いをしつづけて、ついに我慢できなくなって、そっと私の腰を、触れてしまった、というのかも、しれないじゃないですか。そういう人って、ロマンチストじゃないですか。私の、やめて下さい、の一言で、その人が、傷ついて、しまうのは、可哀想ですし、せっかくの、常連の、お客さんだったら、なおさら、お得意さんも、失ってしまいますし、その人の、純情な心も傷ついてしまうじゃないですか。だから、抱きついてくる意図が、わかるまで、声は出さない方針にしているんです」
「なら、僕も、あなたに、後ろから、そっと、腰を触れておけば、よかった」
彼は、ふざけて、そんなことを言った。
彼女は、ふふふ、と、笑った。
「ところで、古倉さんは、コンビニで、働いた日にしか、創作意欲が沸かず、小説が書けず、コンビニで働かない日は、創作意欲が、沸かないため、小説が書けず、それで、編集の担当の人から、コンビニで働く日を、増やすように、言われている、と、ネットに、書いてありましたが、あれは、本当なんですか?」
「ええ。本当です」
「そうですか。それは、ちょっと変わっていますね」
と彼は言った。
「山野さんの、創作意欲は、どうなんですか?」
「僕も、仕事をした日に、小説の、インスピレーションが、起こる、ということは、なぜかは、わかりませんが、よくあります。しかし、小説の、大まかな構想が、思い浮かんでしまえば、もう、しめたもので、あとは、働かなくても、インスピレーションで、起こった、小説の、構想を、文章にしていく、だけです。だから、働かなくても、小説は書けます」
「そうですか」
「僕が思うのに。古倉さんは、非常に、デリケートで、繊細で、でも、おとなしくて、体つきも、性格も華奢で、ガンガン、小説を、書く馬力が、ないように、思えます。なので、緊張感がないと、小説を書く、馬力が起こらないように、見受けられます。コンビニで、働くと、古倉さんに、緊張感という、強い刺激が、加えられるために、それで、精神が、活発になって、小説を書きたい、という、意欲が、起こる、ように、見受けられるんです。つまり、スポーツで言えば、ドーピング、です。働くことで、ノルアドリンが分泌されて、小説を書く意欲が、高まっているように思われます。どうでしょうか?」
「ええ。そうです」
と、彼女は言った。
「山野さんは、精神科医だから、異常な、精神の患者さんを、たくさん、見てきたから、異常な性格の、私を見ても、驚かないんですね」
「それは、違います」
「どう、違うんですか?」
「僕は、精神科医になりたくて、精神科を選んだのでは、決して、ありません。僕は、医学部を卒業した時、健康状態が、ガタガタで、外科はもちろん、内科も、とても、勤まる、体調ではありませんでした。それで、一番、体力的に、楽、と言われている、精神科を選んだのにすぎないのです」
「そうだったんですか」
「世間の人は、精神科医というと、人間の心を、精神分析する、医者、と、思っていますが、それは、全く、違います。昔の、フロイトの頃の時代は、神経症、つまり、ノイローゼ、の患者に、対して、精神分析も、行われていましたが、今の精神科医は、違います。精神科は、心理学ではなく、薬理学なんです。統合失調症の患者の薬の知識が、ほとんど、全てです。人間の心理に、興味のない人、や、苦手な人でも、つまり、誰でも、精神科医には、なれます。でも、そんなことを、ムキになって、世間に訴える気もありませんし、誤解している人には、どうぞ、精神科医を、好きなように、見て下さい、と、僕は、開き直った、態度でいます」
「そうなのですか」
「ええ。そうです。むしろ、医者、特に、精神科医、は、かえって、人の心に鈍感になってしまいます。これは、職業病です」
「それは、どうしてですか?」
「人の心を読む、という職業は、一体、どういう仕事でしょうか。たとえば、その一つは商売です。商売で、相手との、取り引き、契約、を成立させるには、相手との、虚々実々の、駆け引き、が必要になります。相手は、どういう性格だろうか、とか、どう言えば、相手は、どう感じるだろうか、とか、相手の心理を探ろうとしなれれば、なりません。また。商品を開発する技術者は、世間の人間が何を求めているか、ということを、細心の注意で、たえず、読もうとしなければ、売れる商品は、作れません。また、スポーツでもそうです。プロ野球でなくても、大学野球でも、高校野球でも、バッターは、ピッチャーが、次に、どんな球を投げてくるだろうか、と、ピッチャーの心理を読まなくては、なりません。つまり、相手と対等な仕事では、相手の心理を読まなければなりません。しかし、医者はどうでしょうか。医者と患者との、関係は、対等ではありません。医者の方は、先生、と呼ばれますが、患者は、先生とは、呼ばれません。つまり、医者の方が、上で、患者の方は、下、という、上下関係です。患者は、医者に対して、強気な態度には、出れません。特に、精神科では、そうです。精神科の、個人クリニックに行く人は、悩みや、精神的な病気で、毎日がつらく、助けて欲しくて、藁にもすがる、思いで、精神科クリニックに行きます。精神科医は、患者にアドバイスしますが、その、アドバイスに対して、患者は、医師に対して(それは違うんじゃないですか)とは、言えません。精神病院の、精神科医と患者の関係も、同じです。精神科医が、患者の問題点を、一方的に説教するだけで、その逆はありません。人から説教されず、一方的に、人に説教はがりして、自分で、ものを考えないでいると、精神が、どんどん、鈍化していきます。精神科医に限らず、社会的地位が上になって、権力や権威を持つと、人間は、どんどん、ダメになっていきます。スポーツでも、そうです。監督とか、コーチは、権威があります。なので、コーチに物申すことは出来ません。(こうしてみたい)、などと、自分の考えを言うことなど、もってのほかです。ひたすら、コーチの言うことを聞く、イエスマン、になるしかないのです。コーチは、一方的に、アドバイスというか、説教するだけです。だから、コーチも、どんどん、ダメになっていきます。古倉さん。あなたも、(マウス)という小説の中で、小学校のクラスの中の友達グループにも、いくつも、上下関係があって、下の、(おとなしい女子)、のグループは、上の、権力を持った(明るい活発な女子)、の、グループ、の心理を知り、それに合わせるよう、演じなくては平和な学校生活は送れない、と、書いているでは、ないですか。そして、あなた、つまり、田中律、は、(真面目でおとなしい女子)の三人組のグループの一員ではないですか」
「な、なるほど。そ、そうですね。でも、山野さんは、思索が深いですね。それは、どうしてですか?」
「それは、僕が、医師である、以前に、患者で、あるからです。あまり、自分の病気自慢のようなことは、言いたくないのですが。僕は、小学校の半分の三年間を、親と離れて、喘息の施設で過ごしました。僕には、普通の人間が持っている、集団帰属本能、というものが、ありません。なので、友達も一人もいません。喘息=内向的=ものを考える。という、図式が、僕には、見事に当てはまるのです。古倉恵子さん。あなたも、普通の、元気で溢れている、人間と違って、元気のエネルギーが、少ないですね。あなたの、小説を読んで、それを、つくづく感じました。元気のエネルギーが少なく、デリケートだと、人とのつきあいが疲れる=孤独を好む=内向的になる=ものを考える=空想にふける。という、傾向になります。そういう点で、僕は、あなたと、同類の人間だと思っています」
時計を見ると、もう、9時だった。
「古倉恵子さん。本当のことを、言います。僕は、あなたになら、殺されてもいいです。ただ、今は、僕は、まだまだ、小説を書きたい。し、書きたい小説があります。だから、僕が、体力が無くなって、小説が全く、書けなくなったら、僕は、あなたの手にかかって、殺されたい。医学の進歩の皮肉で、安楽死を望む人は、これから、もっと、増えていくでしょう。(殺人出産)で、殺される人は、憎い人ではなく、(死)を希望する人なら、いいのではないでしょうか?」
彼女は、ニコッと、笑った。
「山野さん。これからも、時々、お話ししても、いいですか?」
「ええ。僕は構いませんし、光栄ですが。あなたには、文学を語り合える友達が、たくさん、いるじゃないですか?」
「ええ。確かにいます。でも、彼女たちは、私のことを、クレージー、と、言うんです。彼女らは、元気があり余っていて、キャピキャピ、一刻たりとも、休むことなく、喋りつづけるんです。彼女たちも、やはり、常識的な人間です。そして私を、変わり者、と、見ているんです。なので、私は、彼女たちにも、変わり者、と、見られないよう、世間の普通、の基準のマニュアルの教科書で、対応しているんです。本心は、言えません。そうしないと、私。友達がいなくなっちゃいますから。ですが。山野さんは、根っから、おとなしくて、無口で、私を、変人と見ていません。だから、山野さんと、話していても、疲れないんです」
「そうですか。そう言って、もらえると、嬉しいです」
そんなことを話して、彼女は、彼のアパートを出ていった。
翌日からは、彼は、また、セブンイレブン湘南台店で、コンビニ弁当を買うようになった。
古倉さんは、コンビニで働いている。
というか、働きながら、小説を書いている。
彼も、古倉さんに、「努力」、という点で、負けないように、頑張って小説を書いている。
平成28年10月9日(日)擱筆
「そうですね。山野さんの小説を読んで、それは、感じました」
「まず。コンビニ人間、に、ついてですが。・・・圧倒されました。古倉さんの小説は、みな、読みやすく、文章も美しい。僕は、芥川賞の受賞作を、ほとんど、読みません。僕は、新しい物、好きの世間の人間とは、ちょっと、違います。僕は、自分が、小説を書くことのみが、僕の関心の全てなんです。僕は、長年の経験から、小説を読むことは、自分が、小説を書くヒントを得られることは、まずない、と、確信するようになりました。作家の、感性も、体験した経験も、小説の舞台も、全然、違います。しかし、今回の、古倉さんの小説は、違いました。コンビニ人間、は、古倉さんの小説の中でも、一番、優れた作品のように、思います。これほどの、小説なら、芥川賞の受賞作に、ふさわしいと思いました。なにせ、芥川賞は、日本人で、100万人、ほどの、作品の中で、ただ一人、選ばれる賞ですが、まさに、それに、ふさわしいと、思いました。これは、決して、お世辞でも、なんでもありません」
「そう言って、頂けると、素直に、嬉しいです」
「あなたには、妹さんが、いるという設定になっていますが、本当は、いないのでは、ないでしょうか?」
「ええ。そうです。私は、一人っ子です。でも、どうして、それが、わかるんですか?」
「妹さんが、あなたに、世間で、変わった人間に、見られないように、色々と、アドバイスしますね。しかし、あなたほど、思索の深い方なら、妹さん、という、アドバイスしてくれる、他の存在が、いなくても、あなたの思考力で、十分、わかるはずです。しかし、・・・(私は、変わり者に、見られないように、こうすればいいと思った)、・・・というふうに、主人公の独白の形式で書くより、そうした方が、小説が面白くなります。あたかも、諸葛孔明のような、優れた軍師が、いて、変わり者の、主人公を、助けているようにした方が、小説が、面白くなります」
と、彼は言った。
「え、ええ。その通りです。そういう計算がありました」
「次に、白羽さんですが。この人は、あなたの敵として、作った、人物ですが、この人は、あなたの、敵でもありますが、あなたの分身でもありますね?」
「ええ。よくわかりますね。どうして、わかるんですか?」
「だって、あなたと、正反対の価値観を持った、敵を登場させなければ、お話しが、作れない。しかし、白羽さんの、言葉の、いくつかは、あなたの、考え、そのものが、多く表現されています。それに、こんな、複雑なことを、考える人間なんて、まず、現実には、存在しっこありません。世の人間、や、男は、もっと、単純です」
「え、ええ。その通りです。敵役を作るのには、苦労しました。本当は、もっと、単純な男にしたかったのですが。それでは、私が作りたい、お話しが、作れなくなってしまいますし。また、主人公である私に、私の気持ちを、言わせるのは、照れくさいですし、主人公である私に、世の不条理さを、言わせるのも、恥ずかしいですし。それで、彼の口を借りて、私の思いを、述べさせました。違和感を感じられましたか?」
「いえ。全然、感じません。ああいう、複雑な、精神の男は、まず、現実には、1000人に一人もいないと思いますが、いても、おかしくないと思います」
「そう言って、頂けると、非常に、嬉しいです」
「一番、というか、感動したのは、ラストです。ここでは、白羽さんは、完全に、いわゆる世間の常識的な人間となっています。しかし、立ち寄った、コンビニで、あなたは、スーツ姿で、店員でもないのに、コンビニ店員の仕事をしてしまっている。せずにはいられない。そして、店員も、あなたを、受け入れるようになる。ここに至って、あなたの、コンビニに対する、激しい愛、が、完全に勝利している。僕は、読んでいて、涙が出て来ました。あなたは、音に対して、とても、敏感ですね。すごく、繊細な精神を持っておられるのでしょう。人間にとって大切なことは、傍目からみると、つまらない、とか、価値が無い、と思われていようとも、自分の仕事に、生き甲斐を持って、精一杯、頑張っている人は、異常でも、なんでもない。そういう人こそ、活き活きと、生きて、充実した人生を送っている人だと、つくづく感じました」
「仰る通りです」
そう言って、彼女は、顔を赤らめた。
「次に僕が、素晴らしいと思ったのは、清潔な結婚、という、短編小説です。これは、印象が、あまりに、強かったでした。セックスしない夫婦。というより、セックスを嫌っている夫婦。しかし、子供は欲しい、という、小説です。ここでも、あなたは、世間的な常識の見方を完全に破壊している。というより、あなたは、常識という枠に、縛られない、感性、考え方、を先天的に持っている。と、感じました。しかし、ああいう考え方は、僕にもあります。僕は、小学6年生まで、結婚した男女は、何をしているんだろう。それは、わかりませんでした。寝る時は、お互い、パジャマを着て、手をつないで寝ているのだろうと、思っていました。中学生になって、男女は、セックスをし、そのセックスによって、人間が、産まれると知った時は、ショックでした。これは。人間も動物ですから、自分の種を残さなければならない。それが動物、生物の宿命です。人間もその例外ではない。それが成されるためには、生殖行為が、気持ちのいいものでなくては、ならない、と、ショーペンハウアーは、言っています。人間は、子供の頃の、初めの時期は、セックスという、行為に、嫌悪を感じても、成長するのと同時に、徐々に、第二次性徴と、ともに、高まっていく思春期の激しい性欲から、それを、いつの間にか、自然な行為と、受け入れてしまっている。しかし、僕には、それが、どうしても、受け入れられませんでした」
「仰ることは、全て、その通りです。しかし、山野さんは、どうして、セックスを、受け入れられないのですか?」
「僕は、生殖という行為、を嫌っているからです。僕は、人間なんて、幸せな人生が送れる、という保証がない限り、産まれて来ない方が、良いとさえ思っています。人間が、産まれること、とか、それを意味する、数の子、だの、末広がり、だの、という、ことを、単純に喜ぶ、大人の気持ちが僕には、全く、わかりません。僕は、あの小説には、非常に共感しました。ただ、僕には、ああいう小説を書いてみたい、という、情熱までは、起こらなかっただけです」
「そうですか」
「(殺人出産)も、面白く読ませていただきました。男は、いつも、発情していますが、女性の性欲は違いますね。女性は、いつも着飾って、男に対して、フェロモンを出している。しかし、性欲という点では。女は、基本的に、普段、男を、性欲の対象としては、見ていません。ある、一定、以上の、性欲の快感を感じてしまうと、性欲が、燃えあがってしまいますが・・・。それに、女は、出産する時、苦しまなければならない。これは、聖書では、アダムとイブが罪を犯したから、と言っていますが、ともかく、女は、産み、の、苦しみを、しなければ、ならない。妊娠した、女性も、スマートなプロポーションが、お腹が、ふくれて、格好が、わるくなる。それどこか、妊娠中毒症などになったら、自分の命も危なくなる。まさに、命がけで、人間を産んでいる。そもそも、女は、月に一回、子供を産むための、準備である、生理、と共に生きている。それに、セックスによって、人間が産まれる、というのも、ちょっと、考えてみれば、不謹慎ですよね。石川啄木も、(二筋の血)という、小説のラストで、こう言っています。(男と女が不用意の歡樂に耽っている時、其不用意の間から子が出來る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。其偶然が、或る永劫に亘る必然の一連鎖だと考へれば、猶痛ましく、猶悲しい。生れなければならぬものなら、生れても仕方がない。一番早く死ぬ人が、一番幸福な人ではなかろうか)、と。あなたの作品は、あなたが、女だから、書ける、と思いました。夫婦のセックスにおいては、男も女も、快感を得ますが、人間の誕生に於いては、男は、何も苦しまない。しかし、女は、初潮から閉経までの、人生のほとんどの期間を、毎月、起こる生理と、妊娠による体の崩れと、出産の命がけの苦しみ、という、三つの苦しみ、を、味あわなくてはならない。これは、不公平ですよね。あなたは、その不公平さ、に、不満、というか、憤りを持っている。あなたの小説、(殺人出産)は、神に対する、その不公平さ、の、許しがたい、煮えたぎるような怒りが、動機ですね。(殺人出産)では、男も人工子宮を埋め込まれ、人間を産むことが出来る、ようになっていますね。わがまま勝手な世の男どもよ。女の産みの苦しみをおもい知れ、という、あなたの、男に対する、凄まじい憎しみの怨念が、ひしひしと、感じられました」
「え、ええ。そうかもしれませんね。でも、私。妊娠や、出産の、苦しみは、経験していませんし。生理は、経験してきましたが、そんなに、つらかったことは、ありません」
彼女は、顔を赤くして、焦って言った。
「それと。(マウス)ですが。これは、おとなしい私(田中律)が、自分以上に、もっと、おとなしい、というか、全くクラスメートの誰とも、話さない、ネクラな性格の、塚本瀬里奈、に、(くるみ割り人形)の、話しをしてあげて、その翌日から、塚本瀬里奈、は、(くるみ割り人形)の、主人公の、マリーになりきって、さかんに喋り出し、積極的に行動する、という話ですが。これは、読んでいて、現実には、そんなこと、絶対、あり得ない、と、違和感を感じました。他人が読んであげた、一つの童話が、きっかけで、誰とも全く一言も、話さなかった無口な子が、その翌日から、性格が豹変して、さかんに喋り出して、積極的に行動する、などということは、現実的には、考えられません。それは、選考委員も感じていると思いました。しかし、この作品は、三島由紀夫賞の候補になっています。しかし、小説や、漫画なんて、現実的かどうか、なんて、細部の正確さを、きびしくは、見ていないんだな、と思いました。手塚治虫の、医療マンガ(ブラックジャック)にしても、医学的には、デタラメなのが、かなりあります。しかし、ストーリーが面白ければ、違和感を感じません。芥川龍之介の、(蜘蛛の糸)や、(杜子春)にも、矛盾は、あります。しかし、批判する人はいません。だから。文学賞では、選考委員は、細部の、揚げ足をとるのではなく、小説の、全体の文学的価値を、評価しているんだな、と、知らされました。つまり、作品の評価は、減点方式ではなく、良い点を見つけての、加点方式なのだと、思いました。読者も、面白さを、求めて、小説を読みます。僕は、性格が神経質なので、小説作品の、現実との、整合性、が、気になってしまいます。しかし、(マウス)を、読んで、小説は、小説のお話の中で、辻褄が合っていれば、いいのである、ということを、あらためて、感じました。これは、前から感じていたことですが。現実性、ということに、こだわっていると、小説は作れません。むしろ、いかに、現実性を壊すか、という、ことに、僕は、心がけています」
「ええ。私も、(マウス)は、ちょっと、現実性と点で、批判されないかな、と、心配して書いていました」
「ところで、古倉さん。あなたは、自分の作品に、愛着を持っていますか?」
「自分が満足できる作品には、愛着は、あります。愛着、という言葉が、適切かどうかは、わかりませんが」
「作家にとって、作品は、自分が産んだ、自分の子供、とも、言われていますが、その、一方で、哲学者の、メルロ・ポンティーは、作家にとっては、過去に書いた作品は、墓場、とも、言っています。それは、作家にとっては、作品を作っている時だけが、生きている時である、という意味です。それは、僕も感じています。三島由紀夫は、死ぬ前に、自分の作品の全てを、自分の排泄物とまで、言っています。それは、ちょっと、卑下しすぎ、だとも思っていますが・・・。だって、三島由紀夫の作品では、成功作とか、失敗作、とか、客観的に、文芸評論家によって、判断されていますが、文学賞をとった、文学的価値のある、作品の方が圧倒的に多いです。ましてや、三島由紀夫は、ノーベル文学賞の候補にも、なったほどですから。自分の作品を、自分の排泄物、とまでは、本当には思ってなく、過剰に、卑下しているとも思っています。少なくとも、僕は、創作は、コックと同じだと思っています。コックは、手によりをかけて、美味しい料理を作る。そして、お客さんが、(美味しい)と、言って、喜んで、自分の作った料理を食べているのを、見るのが、コックの、喜び、であって、創作も、それと、全く同じだとも思っています。太宰治も、そういう考え方です。ただ、味つけ、つまり、心にも思っていないことは、作家は、書けないでしょう。そういう点、僕は、読者に、まずい料理は出したくない。美味しい料理を出したい、と思っています。しかし、あまり、美味しさ、とか、心地よさに、こだわっていたり、自分が愛着をもてるような作品ばかり書いていると、文学的に価値のある作品は、書けない、とも、あなたの作品を読んで、感じました」
「そうですね」
「あっと。ちょっと、僕だけ、一方的に、話してしまって、申し訳ありません。つい、小説とか文学のことになると、饒舌になってしまっで・・・」
「いえ。構いません。山野さんは、小説を、見る目が、鋭いのですね。鋭い文芸評論家、以上の文学評論です。これからも、私の、書いた小説、や、文学のこと、聞かせて下さいね」
「ええ。でも、僕は、文芸評論家になるよりも、自分が小説を書きたいのです。たとえ、文学的価値は無くても。あるいは、あっても、低くても。でも。歳をとって、自分が、どうしても小説を書けなくなったら、文芸評論的な、ことでも、書こうかな、とも思っています」
「今度は、私に、話させて下さい」
「はい。何なりと。言って下さい。ちょっと、一方的に、芥川賞を受賞したプロ作家先生に、偉そうなことを言って、まことに、申し訳ありませんでした。何なりと、お話しして下さい」
「まず。単純な質問をさせて下さい。山野さんは、どうして、医者になろうと、思ったのですか?」
「それは、ひとことで言って、医者に対する復讐です。僕は、幼い頃から、喘息で、自分史である、(浅野浩二物語)、とか、(ビタ・セクシャリス)にも、書いていますが、小学校の半分の三年間を、親と離れて、喘息の療養施設で過ごしました。自律神経の切り替えが、悪くて、小児喘息が、治りきらずに、大人になってしまいました。胃腸も、ストレスで、過敏性腸症候群という、かなり、つらい病気にかかってしまいました。僕は、一生、医者、や、薬、なしには、生きていけないのです。医者は、無能なくせに、威張った医者も多いんです。自分の体のことを、一番よく知っているのは、まず第一番目に自分であるはずです。一日中、自分の体と、つきあっているのですから。医者は二番目、あるいは、三番目で、もっと下で、あるはずです。なのに、現実は違います。医者は患者を、病気に関しては、素人とバカにしています。そんな、自分の体のことを、一生、ヘコヘコと、医者に頭を下げ続けるのが、口惜しくて、いっそ、自分が医者になってやろう、と、思ったのです。患者でも、医者ならば、(僕も医者です)、と、堂々と言えます。そして、そう言えば、医者も患者を、医学の素人と、バカにすることが出来なくなります。そういう、不純な理由が、第一番です」
「負けん気が強いんですね」
「ええ。劣等感が強いんです。それと、二番目は。僕は、自分が、本当にやりたいことを、高校生になっても、どうしても、わかりませんでした。僕は、一人で、コツコツとやる仕事が僕の性格に合っていると思いました。たとえばオートバイの設計技術者のような仕事が、僕の適性には、ふさわしいのでは、ないかとも思いました。しかし、やはり、病気や医者に対する、コンプレックスの克服の方が、まさって。これは、どうしても、克服しなければならない、僕の宿命だという思いが、まさり、それで、医学部に入ることが、僕の至上命題になってしまったんです。それで、難関で、世間的な評価も高い、医学部に入ろうと思ったんです。医学部6年間のうちに、自分が本当に、やりたいことが、見つかるだろう、とも思っていました。つまり、モラトリアムです」
「それで、大学三年生の時に、小説家になることが、自分が本当にやりたいこと、だと気づいたのですね」
「ええ。その通りです」
「作品について、ですが。読みやすく、面白い作品が、多いですね。(ロリータ)とか、(虫歯物語)とか、(蜘蛛の糸)とか、(杜子春)とか、つい最近のでは、(七夕の日の恋)とか、とても、面白く読ませて頂きました。可愛らしい小説が多いですね」
「そう言って、頂けると、嬉しいです」
「文学賞に投稿しようとは、思わないのですか?」
彼は、ニコッと微笑した。
「あなたも、ちょっと、意地悪な質問をしますね。僕の作品の中で、文学賞を受賞できるような、作品があると思いますか?僕は、無いと思っています。僕の小説は、娯楽で読んで、ちょっと面白いな、と、思える程度の小説に過ぎないと思っています。しかし、文学賞となるような、作品は、娯楽で読んで、ちょっと面白いな、という程度の作品では、ダメなんです。そんなことをしたら、その文学賞の価値が下がってしまいます。作品は、ある一定、以上の、何らかの、文学的価値のある作品でないと、どんな文学賞でも、受賞できません。それは、色々な文学賞に投稿してきた、あなたになら、わかるはずです」
「すみません。その通りです」
「いえ。いいんです。僕は、文学賞を獲りたいと、熱烈に望んでいるわけでは、ないんです。僕は、小説を書いていれば、それで満足なんです。文学賞は、スポーツに喩えるなら、国体とか、日本選手権のようなものだと、思います。技術も体力も、かなりのレベルの選手でないと、大会で、優勝することは、出来ません。僕も健康のため、色々と、スポーツをやっています。ですが、技術の基本は、身についていても、それだけでは、テニススクールで、コーチと対等に、打ち合える程度の実力です。そんな人は、吐いて捨てるほどいます。その程度の実力では、正式な大会で、勝つことは、絶対、出来ません。だから、文学賞に投稿する、なんて無駄なことは、しないんです」
「山野さんは、自分というものを、よく知っていますね。山野さんに、ウソは、つけないと思いました。失礼ですが正直に言います。私が、もし、文学賞の選考委員だとしたら、山野さんの、作品で、受賞の価値がある、と、堂々と、自信をもって言える作品は、・・・大変、失礼ですが、・・・ありません」
彼は、ニコッと笑った。
「いえ。いいんです。僕は、小説を書いていれば、幸せなんですから。僕にとっては、文学賞を、受賞できないことより、小説が、書けなくなることの方が、はるかに、こわいんです。僕にとって、小説を書く、ということは、生きるということ、そのものなんです。命なんです。ですから、命である、小説を書く、ということが、出来れば、それで、十分、満足なんです。そして、逆に言うと、命である、小説を書く、ということが、出来なくなると、僕は、死の恐怖に、おびえるようになるんです」
「山野さんは、天性の小説家ですね。認められるか、認められないか、などということを、度外視して、小説を書き続けているのですから」
「僕は、何事においても、競争とか、他人と比べることが嫌いなんです。上は、オリンピックから、下は、テニススクールのレッスン中の試合まで。世間の人間は、スポーツでは、全て、どっちが、勝ったか、負けたか、という、勝敗ばかりに、みな、注目します。そして、勝敗を決めなくては気が済まない。しかし、水泳とか、短距離走とかでは、0.01秒の差で、勝ったり、負けたりして、それが、金メダルと、銀メダルの、大きな違いになります。そして、選手も、観客も、勝敗の結果に、目の色を変えます。しかし勝負は時の運であり、そんな差は、もう一度、やれば、簡単に、逆転する、ということなど、ザラにあります。僕は、そういうことが、くだらないことだと、思っているのです。大学受験にしても、選抜試験ですから、他人を蹴落とす競争です。しかし、芸術の世界は、個性の世界ですから、比べることが出来ません。サザンオールスターズと、ユーミンの、音楽を、どっちが、上とか下とか、そんなこと、比べることなど出来ません。僕の書く小説は、確かに、文学的価値という点では、高いものではないでしょう。あなたの、いくつもの受賞作は、文学的価値という点から言えば、僕のコメディー的な小説より、はるかに上です。しかし、僕の書く小説は、僕にしか書けない、そして世界で、唯一の作品です。だから、僕は、満足できる小説を書ければ、それだけでいいのです」
「山野さんは、純粋な人なんですね」
「でも。何か、偉そうなことばかり、言いましたが、もちろん、僕は、あなたが、うらやましい。芥川賞もさることながら、それ以上に、全国の書店の、目立つ所に、平積みで、置かれ、もう、すでに、50万部、を越しています。つまり、50万人の人に、もうすでに、読まれているわけですし、これからも、発行部数は、増え続けるでしょう。人づきあいが苦手で、孤独に苦しむ芸術家なら、誰だって、芸術作品を、通して、つまり、自分が書いた小説が読まれることによって、世間と、関係を持ちたい、と思っていますから。その点は、僕は、古倉さんを、すごく、うらやましく思っています」
「山野さんも、いつか、世間の人達に、認められる小説が、書けるといいですね」
「ええ。僕が小説を書くのは、多分に、自己満足という面もあると思います。しかし、僕の小説を読んで、面白い、と、言ってくれる人もいるのです。はじめは、大学時代の文芸部の友達から、そして、ネットでも、少し勇気を出して、あるホームページの、掲示板に、小説の宣伝をすると、面白い、と言ってくれる人が、多いんです」
「そうでしょうね。山野さんのは、面白いですもの」
誉められて、彼は、少し、得意になった。
彼は、パソコンの、あるホームページを開いた。
ホームページアドレスは、http://policewoman.sakura.ne.jp/top/link.html である。
そこには、こう書かれてあった。
「個人的お勧めサイトの紹介。
簡単な紹介コメントを勝手に添えています。
浅野浩二のホームページ
その名の通り浅野浩二さんのWEBサイトで、小説やエッセイなどが読めます。
その作品には掴みどころのない不思議な魅力が溢れていて、特に自分は「女生徒」という作品がお気に入りです。
疲れた時に、この作品を何度も読み返してしまうのですよ。
自分が、他の方の作品を読んで羨ましく思う時の感想は二種類あって、
「頑張って、いつかはこういう作品を書きたいなぁ。」というものと、
もうひとつは「こういう作品は、僕には一生書けないのではないか?」というものです。
浅野さんの小説は数少ない後者に該当する素敵な作品群です」
「これは、僕が、ホームページを作って、間もない頃、それは、僕が、(女生徒、カチカチ山と、十六の短編)を、文芸社で、自費出版した頃、(平成13年)ですから、もう、15年も前に、頼んでもいないのに、相手の人が、書いてくれたのです。リンクまでしてくれて。こういうふうに、読んでくれる人が、いると、とても、嬉しく、また、創作の、ファイトがでます」
彼は、いささか得意になって、さらに、続けて話した。
「これは、僕が、文芸社に、短編集を、送ってみたところ、返ってきた、感想です」
と言って、彼は、A4の用紙を、彼女の前に差し出した。
それには、こう書かれてあった。
「平成12年9月27日。(株)文芸社。山野哲也様
本稿は、18編の掌編・短編と、5編のエッセイで構成されている。どの作品も手堅く、まとめられており、作者のレベルの高さを感じた。内容的には、掌編といっても短編に匹敵するような大きく重いテーマのものがあり、短編でも、もっとよく短く刈り込んだ方が仕上がりの良くなるものもあるが、総じて、どの作品も、よく計算された上で書かれていることがわかる。文学作品として平均的なレベルをクリアしていると言えるだろう。
掌編では、「スニーカー」、「少年」など、実に達者な語り口で書かれており、短編も無駄なく構成され、展開もスムーズである。作者は、かなり修練を積み、筆力を蓄えられた方だと推察する。作者の持ち味の一つに、職業経験を生かした心理的な描写、人間を解剖し分析する文章力がある。分析も細部にこだわりすぎて説明的になると、かえってくどくなり、作品をぶちこわす結果になるが、本稿では程好く味付けされているため、作品の質感を高めることに成功している。
エッセイは、「ちゃんと小説を書きたく、こんな雑文形式の文はいやなのだが・・・」(P82;婦長さん)とあるが、病院の日常をさりげなく描いたエッセイには、小説に劣らぬ魅力を感じるという意見もあった。なかでも、「おたっしゃナース」、「婦長さん」は、作者の独断場の世界でもあり高い評価がされた。また、山野様の作品の一つの方向として、「少年」や「春琴抄」にみられるように、被虐の世界に徹底されていることも興味深い。精神分析、心理解剖の知識と経験が十分に生かされている。
ただし、作品としての全体の構成を見た場合、どのような意図で編まれたものなのか判断が難しいところである。安定した筆致で書かれた個々の作品は、それぞれ完成度が高いのだが、小説にしても、エッセイについても、どのような読者を想定してあるのかが曖昧である。その流れを明確にした方が、作品の密度を高め、読者に、より強いインパクトを与えることが出来るだろう。
なお、各作品にはタイトルが付けられているものの、本稿のタイトルともなるべき総合タイトルが付されていない。ぜひ、山野様ご自身で納得のいくタイトルを考えていただきたい。
などが挙げられました。
いかがでしたでしょうか。山野様の作品は、弊社に毎月800点以上、送られてくる作品の中でも印象深い作品であることに間違いなく、好評を得たもののひとつでした。」
彼女が読み終わって、顔を上げたので、彼は、そのコピーを取り戻した。
「文芸社は、あの時は、協力出版と、宣伝していましたが、実際は、悪質な自費出版で、しかも、製作費の費用に、相当な水増しをしていて、本を売ることでなく、本を作ることで、利益を上げていた、詐欺商法でした。それは、ネットで、調べて、僕も知っていました。しかし、この評価の文章は、心にもない、おだて、を言っているとは、思いません。この感想は、かなり、正確に、僕の小説を、評価していると思います。おだてて、契約に、こぎつけるため、だけだったら、(山野様の作品の一つの方向として、「少年」や「春琴抄」にみられるように、被虐の世界に徹底されていることも興味深い)、などとは、はっきりと、書いたりしないでしょう」
「被虐って。山野さんは、マゾなんですか?」
「ええ。そうです。僕の小説を読んで、マゾっぽい、と思いませんでしたか?」
「いえ。私。マゾって、さっぱり、わからないんです」
「そうですか。サド、とか、マゾ、とか、が、全くわからない人も、世間には、結構、いますからね。そういう人の方が幸福かもしれませんね。今は、ドSとか、ドM、とか、いう言葉を、世間の人達が、平気で使うようになりました。しかし、今、使われている、ドSとは、単に、(いじわる、とか、わがまま)という意味で、ドMとは、単に、(気が小さい)という意味に変わっただけです」
「山野さんは、マゾという、ものを、表現するために、小説を書いているのですか?」
「そうです。それただけでは、ないですが。それは、大きいです」
「私には、マゾは、わかりませんが、私も、自分の異常な感覚を表現するために、小説を書いています」
「そうでしょうね」
「ところで、山野さん。世間では、私が、芥川賞を受賞しているのに、コンビニで働きたい、と思っている、ことを、異常と見ていますが、山野さんには、その私の心理が、わかりますか?」
「ええ。もちろん、わかりますよ。あなたが芥川賞を獲っているのに、コンビニのアルバイトを続けたいと、いう気持ち」
「では、説明して下さい」
彼女は、黙ってニコッと、笑った。
彼が、どんな説明をするのかを、ワクワクと待っているという感じだった。
「簡単なことです。世間の人は、芥川賞を獲れば、それ以後は、創作に専念するもの、という、固定観念に、まだ、おちいっているのです。菊池寛は、(小説家たらんとする青年に与う)で、(小説を書くということは、紙に向って、筆を動かすことではなく、日常生活の中に、自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書くための修業なのだ)と言って、作家の創作、にとっての、実生活の重要性を主張しています。太宰治も、(如是我聞)で、(作家は、所詮、自分の生活以上の小説は書けない)と、作家が生活を真面目にすることを主張しています。三島由紀夫も、(小説家の休暇)の中で、(創作においては、規則正しい日常生活こそが、大切だ)と言っています。僕も、それは、感じています。医者の仕事だって、慣れれば、同じ事の繰り返しです。僕は、仕事が好きではありません。もっとも嫌いなだけでも、ありませんが。しかし、なぜだか、仕事が終わって、ほっとした時に、小説のインスピレーションが思い浮かんだり、小説の筆が進むのです。まったく、大作家たちが、言っている通りです。むしろ、机の前で、ウンウン唸っていても、小説のインスピレーションは、なかなか起こってくれません。そういう時。町を歩くのでもいい。公園で遊ぶ子供達を見てみるのもいい。一度も入ったことがない喫茶店に入ってみるのでもいい。なにか現実の空気に触れることが、創作のヒントになります。僕は、それを、何回も経験しました」
「その通りです。私も、コンビニで働いていると、小説のアイデアが浮かんでくることが、よくあるんです。というか、コンビニで働かないと、小説のアイデアが沸かないんです」
「ところで、山野さんは、私を変わった人間だと思っていますか?」
「それは、もう、世間の常識的な人の目から見れば、変わった人間に見えるでしょう。あなたの作品のほとんどは、世間の常識的な人から見ると、おかしな、非常識な、小説に見えるでしょう。しかし、そもそも、物書き、というのは、世間の常識に合わないから、作品が、書けるんじゃないんですか?小説家なんて、みんな変人ばかりだと思いますよ。もちろん、僕だって、何十回、(変人。とか、変わり者)と、言われたことか、わかりません。僕は、自分でも、自分を変人だと思っています。世間の常識に合う人間は、現実に生きること、つまり、異性を愛し、結婚し、真面目に会社勤めをし、子供を生み、子供の成長を楽しみ、酒を飲み、おいしい料理を味わい、海外旅行で外国に行き、ペットを飼い、セックスの快感を楽しみ、プロ野球を見て好きなチームを応援し、と。そういうことを、することが、すなわち、その人が主人公となっている小説を書いているようなものです。つまり、常識的な人間は、現実に生きて行動することが、小説を書いている行為なのです。しかし、世間の常識に合わない感性に、生まれついた人間は、現実を生きることが、楽しみには、なりません。本当に生きることにも、なりません。だから、自分の心の中に、燻っている、自分の思い、を、紙と、ペンによって、架空の世界の、お話し、という形で、書いて、作りあげることが、自分が、本当に生きる唯一の方法であって、それ以外に、本当に、生きる方法が無いのです。だから、常識的な人間も、行動という手段によって、本当に生きているし、変人である小説家も、小説を書くことによって、本当に生きている。どっちの方が、正常、とか、どっちの方が、変とか、そういうことは、決められないこと、だと思います。しかし、あえて言うなら、変な人間である小説家の方が、自分の思いに忠実に生きていて、常識的な人間は、世間の常識、というものに、自分の心が、良くも悪しくも、無意識のうちに、影響されて、作られてしまっている、とも、思っています」
「仰る通りです」
彼女は、強い口調で声で言った。
「どうも、僕ばかり、小説の大家先生に、偉そうなことばかり、言ってしまって、申し訳ない」
彼は、恥ずかしそうに、顔を赤くして、頭を掻いた。
「いえ。いいんです。私、人間が好きですから。人間を観察するのが、好きですから。知らない人を見ると、この人は、どういうことを、考えいるのだろうなって、ことに関心を持ちますから。山野さんのこと、もっと、よく知りたいです」
「なら、話しますよ。何でも、聞いて下さい」
「二点、聞きたいことがあるんです。一点は、性と生、のことです。もう一点は、過敏性腸症候群という胃腸病のことです」
「一点目の、性と生のことですが。山野さんは、小説で、性的なことを、多く書いていますね。山野さんの、性と生に対する、考えを教えて下さい」
「人間は、どうしても、自分の価値観、モノサシで、他人をも見てしまいます。これは、よくないことだと、思いますが、感情として、起こってしまう、ことは、仕方のないことですよね。夏の暑い日に、暑いと思うな、と、言っても、無理なことです。心で感じることまで、修正しろ、というのは、無理なことだと思います。大切なことは。自分の感じ方を、そのまま、行動に移したり、他人に押しつけたりしなければ、それで、いいだけのことだと思います。芸術の創作に価値を認めている、人間は、どうしても、他人に対しても、芸術の創作、という価値観で、人を見てしまいます。スポーツに価値を感じている人は、スポーツ、の能力という視点、価値観で、人を見てしまいます。これは、仕方のないことだと思います。僕は、生まれてきてから、幼少の頃から、病気や、容貌、取り柄のなさ、などに、苦しんで、生きてきました。今でも、生きることは、喜びもありますが、つらさ、も、非常に多い日々です。だから、人間一般に対しても、この世に、生まれてくることを、手放しで喜べないのです。僕は、人間なんて、幸せな人生が送れる、という保証がない限り、産まれて来ない方が、良いとさえ思っています。絶対的な健康と、普通の程度の容貌と、正社員での就職、が保証されない、限り、人間が生まれてくることに、慎重になっているんです。そして。セックスと、人間の誕生は、つながっています。僕が、興奮するのは、SMだけでした。子供の頃は、みんな、SM的なことに、興奮すると思います。男は、女の裸を見たい。女に、エッチな悪戯をしたい、と思っています。しかし、男である自分は、女に、裸を見られたくない。まさに、SM的です。しかし、実際は、小学生、や、中学生では、女生徒は、性に目覚めてはいても、大人の性行為は受け入れらない。男子生徒が、一人の女生徒を、取り囲んで、裸にして、エッチなことをすれば、女生徒にとっては、それは、つらい、いじめ、であって、泣いてしまう、だけでしょう。男子生徒は、先生にも注意されますから、そんなことは、出来ません。つまり、そういう、エッチなことは、男の子の、夢想にとどまる、だけです。谷崎潤一郎の、(少年)、のような、小説は、実際には、行われるはずは、ありません。あれは、完全なフィクションです。しかし、高校生、そして、大学生になってくると、女も、胸が膨らんできて、また、性にも、目覚めてきます。なので、SMプレイを、する、女の大学生も、出て来ます。しかし、男は、何といっても、セックスというものに、目覚めます。そして、男も女も裸になって、抱き合い、そして、本番をしたくなります。SMは、消えていくか、ペッティングの一部となっていきます。しかし、本番は、人間を生む行為ですから、そして、出来ちゃった結婚、などのように、妊娠してしまうことも、あるわけですから。僕は、本番、という行為が生理的に嫌いなのです。男と女の体が、完全に、つながる。これの方が、ノーマルだと僕も思います。しかし、僕は、人間なんて、幸せな人生が送れる、という保証がない限り、産まれて来ない方が、良いと思っていますから、基本的に、生殖行為に嫌悪感を感じるんです。幼稚園児では、男女は、異性を、友達として、見ています。しかし、小学生も、学年が上になってくると、そして、中学生になると、異性として、意識し始めます。恥じらいます。それは、かわいい。しかし、高校生になると、女も、性を知り、男と平気で、手をつなぐようになる。恥じらいが、なくなる。それが、ノーマルなのでしょうが、僕には、それを見るのが、つらいのです。だから、僕の、理想的な、男女関係は、中学生の、恥じらいのある男女関係、です」
「なるほど。わかりました。では、次に、胃腸病のことについて教えて下さい」
「ええ」
「山野さんは、小説では、自分の病気のことを、ほとんど、書いていませんが、ブログでは、自分の消化器病のことを、結構、書いていますよね。ところで、過敏性腸症候群、って、どういう病気なんですか?ホームページでも、(過敏性腸症候群)と、題した文章がありますが、読んでみましたが、いまだに、わからなくて・・・」
「そういうふうに、聞いてくれる、だけでも、すごく癒されます」
「どうしてですか?」
「だって、世間の人は、親でも、そうですが、過敏性腸症候群、の辛さを訴えても、誰も、理解しようとしてくれませんから・・・。理解しようとしてくれる人は、過敏性腸症候群、に苦しんでいる人だけです。世間の人は、自分を無にして、相手の話を聞こうとは、決して、しません。自分の人生経験から、説教するのが、好きな人ばかりです。コンビニ人間、で、書いてあるように、土足で相手の心に踏み込むのが好きな人ばかりです。病気の、辛さを訴えても、祖父は、(オレも胃腸が悪くなったことがあるよ。しかし、オレは、こうして乗り切ったよ)と得々と自慢げに説教しますし、両親に言っても、(野菜はとっているのか)、とか、食事の注意ばかりです。しかし、そのくせ、世間の人間は、自分の苦しみは、訴えて、自分に対する理解は、必死になって、他人に、求めています。理解してくれないと、怒り狂います。自分の苦しみは理解されたいが、他人の苦しみは、自分の経験から、説教したがる。全く自分勝手だな、と、思います。それは、病気に限らず、全てのことで言えます。僕は、前から、そういう世間の人間の、身勝手さに気づいていましたから、人に理解なんか求める、というバカバカしい行為は、とっくの昔に、捨てています。病気や、自分の苦しさは、自分の努力で、治すものだと、思っています。つまり、自力本願です。そして、僕は、色々なことを試してみて、過敏性腸症候群、は、食事ではなく、運動が、一番、効果があると、わかり、健康のために、運動しているのです。ブログでは、自分の病気である、過敏性腸症候群、のことも、書いていますが。本当は、自分の病気のことは、書きたくないのですが。僕にとって、ブログは、書きたい事を、好き勝手に書いていますが、病気の考察の、記録でも、あるんです。今日は、調子が良かったが、それは、どうしてか、ということを、書くことで考えているんです」
「なるほど。そうだったんですか」
「たとえば。パラリンピックや、身体障害者の人を見ると、まず、見た目で、可哀想だな、辛いだろうな、と思ってしまいます。それは健常者に対する引け目だけでなく、ちょっと、想像力を働かして考えれば、片手の無い人は、歯を磨くのも大変だろうな、とか、トイレで用を足すのも大変だろうな、とか、障害によって起こる、二次的な、日常生活の、様々な、不便を想像してしまいます。しかし、障害者の人の表情を見ていると、結構、明るい人の方が多い。障害者の人が、日常生活で、どんなことが、辛くて、どんなことは、それ程でもない、のかは、他人には、わかりません。わかっているのは、障害者本人だけです。だから、障害者の人の、苦しみを、過剰に考えて、可哀想に思ってしまったり、逆に、想像しても思いつけないような意外なことで、苦痛になっている、ことも、あるはずです。ですから、他人の苦しみを、理解しようとする行為は、不潔だと、僕は思っています。一番、理解に近づくためには、相手に直接会って、相手の口から、話しを聞くことだと思います。それなら、ある程度、相手を理解できると思います。文章では、感情までは、伝えにくいですから」
「私も、そう思います」
「しかし、世間の人間は、どうしても、喋らずには、いられない。人を自分の先入観で、評価せずには、いられない。なので、人と、喋り合う。そして、お互いに、誤解し合って、お互いに、自分の主張を、言い合って、生きている。しかし、デリケートな性格の人は、他人に理解されたとも思わないし、他人を理解したいとも思わない。だから、人と話せなくなって、無口になってしまうんです。そして、無口だと、変人だと、言われるのです。アメリカ人は、喋ることが美徳です。喋らないでいると、あいつは、何も考えていないバカだ、と思われます。しかし、日本には、以心伝心、とか、沈黙は金、とか、謙譲の美徳、とか、の精神が昔はありました。今では、アメリカナイズされて、それらは美徳ではなくなってしまいましたが」
そう言って、彼は、一呼吸、おいて、さらに、話しを続けた。
「ちなみに、古倉さんは、ハンバーガーショップとか、牛丼家の店員、とかでは、ダメなんですか?」
「ええ。もちろん、私も、マクドルドや、吉野家で、働いたことも、あります。コンビニ同様、好きです。しかし、あれらは、早い、美味い、安い、を、売りにしていて、実際そうですが、流れ作業的です。しかし、コンビニは、何でも屋で、一つの、小さな、世界を感じるんです。食料もあれば、本もあれば、日用品もあります。人間の生活を感じるんです。商品は、売れてくれるのを待っている、私の、かわいい子供のような感覚なんです。努力、気配り、に、よって、お客様に喜んでいただけるし、お客様に、気配りできる余地がありますし、私の、努力によって、店の売り上げが、上がったり、する余地があります。それが、面白いのです。私も、いくつか、アルバイトをしましたが、コンビニ店員が、一番、私の相性に合っているな、と感じているんです」
「抱きつかれると、何も言わない、というのは、どうしてですか?普通、コンビニ店員が男に抱きつかれたら、最低でも、小さな声で、やめて下さい、と言うものですよ」
「それは、抱きついてくる、お客さんの、意図がわからないからです。単に、性欲が目当てなのか、あるいは、私を好きになってくれて、でも告白できず、心の中で、苦しい思いをしつづけて、ついに我慢できなくなって、そっと私の腰を、触れてしまった、というのかも、しれないじゃないですか。そういう人って、ロマンチストじゃないですか。私の、やめて下さい、の一言で、その人が、傷ついて、しまうのは、可哀想ですし、せっかくの、常連の、お客さんだったら、なおさら、お得意さんも、失ってしまいますし、その人の、純情な心も傷ついてしまうじゃないですか。だから、抱きついてくる意図が、わかるまで、声は出さない方針にしているんです」
「なら、僕も、あなたに、後ろから、そっと、腰を触れておけば、よかった」
彼は、ふざけて、そんなことを言った。
彼女は、ふふふ、と、笑った。
「ところで、古倉さんは、コンビニで、働いた日にしか、創作意欲が沸かず、小説が書けず、コンビニで働かない日は、創作意欲が、沸かないため、小説が書けず、それで、編集の担当の人から、コンビニで働く日を、増やすように、言われている、と、ネットに、書いてありましたが、あれは、本当なんですか?」
「ええ。本当です」
「そうですか。それは、ちょっと変わっていますね」
と彼は言った。
「山野さんの、創作意欲は、どうなんですか?」
「僕も、仕事をした日に、小説の、インスピレーションが、起こる、ということは、なぜかは、わかりませんが、よくあります。しかし、小説の、大まかな構想が、思い浮かんでしまえば、もう、しめたもので、あとは、働かなくても、インスピレーションで、起こった、小説の、構想を、文章にしていく、だけです。だから、働かなくても、小説は書けます」
「そうですか」
「僕が思うのに。古倉さんは、非常に、デリケートで、繊細で、でも、おとなしくて、体つきも、性格も華奢で、ガンガン、小説を、書く馬力が、ないように、思えます。なので、緊張感がないと、小説を書く、馬力が起こらないように、見受けられます。コンビニで、働くと、古倉さんに、緊張感という、強い刺激が、加えられるために、それで、精神が、活発になって、小説を書きたい、という、意欲が、起こる、ように、見受けられるんです。つまり、スポーツで言えば、ドーピング、です。働くことで、ノルアドリンが分泌されて、小説を書く意欲が、高まっているように思われます。どうでしょうか?」
「ええ。そうです」
と、彼女は言った。
「山野さんは、精神科医だから、異常な、精神の患者さんを、たくさん、見てきたから、異常な性格の、私を見ても、驚かないんですね」
「それは、違います」
「どう、違うんですか?」
「僕は、精神科医になりたくて、精神科を選んだのでは、決して、ありません。僕は、医学部を卒業した時、健康状態が、ガタガタで、外科はもちろん、内科も、とても、勤まる、体調ではありませんでした。それで、一番、体力的に、楽、と言われている、精神科を選んだのにすぎないのです」
「そうだったんですか」
「世間の人は、精神科医というと、人間の心を、精神分析する、医者、と、思っていますが、それは、全く、違います。昔の、フロイトの頃の時代は、神経症、つまり、ノイローゼ、の患者に、対して、精神分析も、行われていましたが、今の精神科医は、違います。精神科は、心理学ではなく、薬理学なんです。統合失調症の患者の薬の知識が、ほとんど、全てです。人間の心理に、興味のない人、や、苦手な人でも、つまり、誰でも、精神科医には、なれます。でも、そんなことを、ムキになって、世間に訴える気もありませんし、誤解している人には、どうぞ、精神科医を、好きなように、見て下さい、と、僕は、開き直った、態度でいます」
「そうなのですか」
「ええ。そうです。むしろ、医者、特に、精神科医、は、かえって、人の心に鈍感になってしまいます。これは、職業病です」
「それは、どうしてですか?」
「人の心を読む、という職業は、一体、どういう仕事でしょうか。たとえば、その一つは商売です。商売で、相手との、取り引き、契約、を成立させるには、相手との、虚々実々の、駆け引き、が必要になります。相手は、どういう性格だろうか、とか、どう言えば、相手は、どう感じるだろうか、とか、相手の心理を探ろうとしなれれば、なりません。また。商品を開発する技術者は、世間の人間が何を求めているか、ということを、細心の注意で、たえず、読もうとしなければ、売れる商品は、作れません。また、スポーツでもそうです。プロ野球でなくても、大学野球でも、高校野球でも、バッターは、ピッチャーが、次に、どんな球を投げてくるだろうか、と、ピッチャーの心理を読まなくては、なりません。つまり、相手と対等な仕事では、相手の心理を読まなければなりません。しかし、医者はどうでしょうか。医者と患者との、関係は、対等ではありません。医者の方は、先生、と呼ばれますが、患者は、先生とは、呼ばれません。つまり、医者の方が、上で、患者の方は、下、という、上下関係です。患者は、医者に対して、強気な態度には、出れません。特に、精神科では、そうです。精神科の、個人クリニックに行く人は、悩みや、精神的な病気で、毎日がつらく、助けて欲しくて、藁にもすがる、思いで、精神科クリニックに行きます。精神科医は、患者にアドバイスしますが、その、アドバイスに対して、患者は、医師に対して(それは違うんじゃないですか)とは、言えません。精神病院の、精神科医と患者の関係も、同じです。精神科医が、患者の問題点を、一方的に説教するだけで、その逆はありません。人から説教されず、一方的に、人に説教はがりして、自分で、ものを考えないでいると、精神が、どんどん、鈍化していきます。精神科医に限らず、社会的地位が上になって、権力や権威を持つと、人間は、どんどん、ダメになっていきます。スポーツでも、そうです。監督とか、コーチは、権威があります。なので、コーチに物申すことは出来ません。(こうしてみたい)、などと、自分の考えを言うことなど、もってのほかです。ひたすら、コーチの言うことを聞く、イエスマン、になるしかないのです。コーチは、一方的に、アドバイスというか、説教するだけです。だから、コーチも、どんどん、ダメになっていきます。古倉さん。あなたも、(マウス)という小説の中で、小学校のクラスの中の友達グループにも、いくつも、上下関係があって、下の、(おとなしい女子)、のグループは、上の、権力を持った(明るい活発な女子)、の、グループ、の心理を知り、それに合わせるよう、演じなくては平和な学校生活は送れない、と、書いているでは、ないですか。そして、あなた、つまり、田中律、は、(真面目でおとなしい女子)の三人組のグループの一員ではないですか」
「な、なるほど。そ、そうですね。でも、山野さんは、思索が深いですね。それは、どうしてですか?」
「それは、僕が、医師である、以前に、患者で、あるからです。あまり、自分の病気自慢のようなことは、言いたくないのですが。僕は、小学校の半分の三年間を、親と離れて、喘息の施設で過ごしました。僕には、普通の人間が持っている、集団帰属本能、というものが、ありません。なので、友達も一人もいません。喘息=内向的=ものを考える。という、図式が、僕には、見事に当てはまるのです。古倉恵子さん。あなたも、普通の、元気で溢れている、人間と違って、元気のエネルギーが、少ないですね。あなたの、小説を読んで、それを、つくづく感じました。元気のエネルギーが少なく、デリケートだと、人とのつきあいが疲れる=孤独を好む=内向的になる=ものを考える=空想にふける。という、傾向になります。そういう点で、僕は、あなたと、同類の人間だと思っています」
時計を見ると、もう、9時だった。
「古倉恵子さん。本当のことを、言います。僕は、あなたになら、殺されてもいいです。ただ、今は、僕は、まだまだ、小説を書きたい。し、書きたい小説があります。だから、僕が、体力が無くなって、小説が全く、書けなくなったら、僕は、あなたの手にかかって、殺されたい。医学の進歩の皮肉で、安楽死を望む人は、これから、もっと、増えていくでしょう。(殺人出産)で、殺される人は、憎い人ではなく、(死)を希望する人なら、いいのではないでしょうか?」
彼女は、ニコッと、笑った。
「山野さん。これからも、時々、お話ししても、いいですか?」
「ええ。僕は構いませんし、光栄ですが。あなたには、文学を語り合える友達が、たくさん、いるじゃないですか?」
「ええ。確かにいます。でも、彼女たちは、私のことを、クレージー、と、言うんです。彼女らは、元気があり余っていて、キャピキャピ、一刻たりとも、休むことなく、喋りつづけるんです。彼女たちも、やはり、常識的な人間です。そして私を、変わり者、と、見ているんです。なので、私は、彼女たちにも、変わり者、と、見られないよう、世間の普通、の基準のマニュアルの教科書で、対応しているんです。本心は、言えません。そうしないと、私。友達がいなくなっちゃいますから。ですが。山野さんは、根っから、おとなしくて、無口で、私を、変人と見ていません。だから、山野さんと、話していても、疲れないんです」
「そうですか。そう言って、もらえると、嬉しいです」
そんなことを話して、彼女は、彼のアパートを出ていった。
翌日からは、彼は、また、セブンイレブン湘南台店で、コンビニ弁当を買うようになった。
古倉さんは、コンビニで働いている。
というか、働きながら、小説を書いている。
彼も、古倉さんに、「努力」、という点で、負けないように、頑張って小説を書いている。
平成28年10月9日(日)擱筆