彼女は、記者会見で、言った通り、コンビニのアルバイトを、続けることにしたのだ。
彼には、彼女の心理が、全く、わからなかった。
しかし、ともかく、コンビニのアルバイトを、続けている以上、彼女は、記者会見で言ったように、コンビニでのアルバイトは、彼女にとって、すでに生活の一部となっていて、コンビニで真剣に働くことに生き甲斐を感じているのだろう。
彼は、彼女の心理が、全く、理解できなかった。
しかし、彼は、かなり、残念だった。
彼女は、きっと、執筆が、忙しくなり、おそらく、コンビニを、辞めているだろうと、思っていたからである。
彼女が、辞めていてくれれば、彼は、アパートのすぐ近くの、セブンイレブン湘南台店を利用することが出来るからである。
彼は、彼女の、精神構造が、全くわからなかった。
しかし、ともかく、彼女が、セブンイレブン湘南台店で働いている以上、そこのコンビニを、利用することは出来ない。
しかし、彼女の、屈託のない、笑顔を見ていると、心を込めて、今までの、非礼を、わびれば、彼女は、怒りそうもないようにも、見えた。
彼女の、今までと、変わらぬ、穏やかで、おとなしそうな、態度を見ていると、彼女が、彼を見ても、「あなた。今まで、よくも、さんざん、私をバカにしてくれたわね。私は、芥川賞を受賞した、売れっ子の、超人気作家なのよ」などと、彼にイヤミを言うようには、とても、思えなかった。
そもそも、彼が、彼女に、暴言を吐いた時には、彼女は、すでに彼女は、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、センス・オブ・ジェンダー賞少子化対策特別賞受賞、を受賞していて、毎日、旺盛な、執筆活動をしていたのである。もう、これだけで、十分、過ぎるほどに、世間で、作家的地位を確立している。
それなのに、彼が、彼女を、口汚く、愚弄しても、彼女は、「申し訳ありませんでした」、と、心から、謝っていたのである。
また、彼女は、芥川賞を獲るまでは、じっと、我慢して、芥川賞を受賞して、テレビで記者会見をしてから、彼に、「私は芥川賞を受賞した、超一流の、売れっ子作家なのよ」と、自慢して、さんざん、バカにした、彼を、見下してやろう、という、ような、復讐の計画を、密かに、たくらんでいた、とも、思えない。
一体、彼女の精神構造は、どうなっているのだろう?
ともかく、彼にとっても、この、コンビニは、便利なので、今まで通り、使いたい。
そもそも、コンビニとは、convenient store (便利な店)という意味だから、当たり前である。
彼は、彼女に、今までの、非礼を、謝罪したいと、思うと同時に、(それは、彼女に、心から謝罪すれば、彼女は、彼を許してくれそうに思えたからである)、彼女と、もう一度、会って、彼女の精神構造を知りたい、という、気持ちが、起こってきた。
しかし、彼は、すぐには、彼女に、会う気には、なれなかった。
なにしろ、彼は、「神様を冒涜しつづけて」、きたのだから。
その、落とし前は、絶対、つけねばならない、という強い自責の念が、彼を、激しく叱咤した。
「しかし、彼女に対する、謝罪の、落とし前、は、どのように、つけたら、いいのだろう?」
と、彼は悩んだ。
しばし、考えているうちに、彼は、落とし前、の、方法を思いついた。
それで、彼は、急いで、小田急線に乗って、新宿に、行った。
そして、四時間くらいして、また、湘南台に、もどってきた。
彼は、いったん、アパートにもどってから、コンビニに行ってみた。
彼女は、夜勤もしている、こともあるのである。
コンビニの外から、彼は、そっと、中を見た。
彼女は、いた。
彼女一人である。
彼は、ゴクリと、唾を飲み込み、高鳴る心臓の鼓動を、抑えようと、勤めながら、そーと、コンビニのドアを開けた。
「いらっしゃいませー」
彼女は、いつもの、愛想のいい、挨拶の言葉を言った。
もっとも、彼女が、愛想がいいのも、コンビニの、マニュアルにある、「お客様には、笑顔で、元気よく、挨拶する」、という規則を守っているのに、過ぎないのだろうが。
彼は、彼女と、視線が合うと、茹蛸のように、顔が真っ赤になった。
彼は、いきなり、彼女の前に、行き、立っている、彼女の前で、土下座した。
「古倉様。今までの、無礼極まりのない、発言の数々、態度、まことに、申し訳ありませんでしたー。心より、おわび致します」
そう叫んで、彼は、頭を床に擦りつけた。
「申し訳ありませんでしたー」
彼は、10回、謝罪の発言を繰り返した。
そして、10回、謝罪した後は、ずっと、体をブルブル震わせながら、土下座し続けた。
それは、あたかも、かけがえのない、一人娘を、車で、はねて、死亡させてしまった、男が、その両親に、謝罪する時の態度と、全く同じだった。
「あ、あの。お客様。一体、どうなされたんですか?」
いつまでも、土下座して、平身低頭している、彼に、彼女の声が、かかった。
彼は、おそるおそる、そっと、顔を上げた。
彼の目からは、ボロボロと、大粒の涙が、流れていた。
彼の顔は、あたかも、15ラウンド戦った後の、ボクサーのように、見るも無残に、腫れ上がっていた。
顔中、青アザだらけだった。
「あっ。お客様。顔が、ひどく、腫れ上がっていますが、どうなされたんですか?」
彼女が、聞いた。
「古倉様。私は、あなた様に、話しかけても、よろしいのでしょうか?」
彼が聞いた。
「え、ええ。一体、どうなされたんですか?」
彼女は、淡々とした口調で言った。
彼は、涙を流しながら、語り出した。
「ふ、古倉様。7月19日の、テレビのニュースで、あなた様が、芥川賞を受賞なされた、ことを知りました。あなた様が、数々の、文学賞を受賞なされた、文学創作、一途に、一心に、精進して、生きてこられた、気高い、お方様とは、つゆにも、知りませんでした。私は、あなた様が、そのような、ご高名で、志の高い、高貴な方であるとは、知りませんでした。今までの、無礼極まりのない、発言の数々、態度を、今、心より、おわび申し上げます」
そう、彼は、泣きながら、言った。
「い、いえ。私。別に、気にしていません。それより、その顔のアザは、どうなされたんですか?」
彼女は、淡々とした口調で言った。
「はい。おそれながら申し上げます」
彼の口調は、テレビの時代劇で、家臣が殿様に物申す時の口調になっていた。
「私めは、あなた様が、芥川賞を獲るほどに、文学一途に、精進し、努力して生きてこられた、高貴な方とは、つゆほども知らず、あなた様に、さんざん、無礼な、ことを、言ってきました。この罪は、どんなに、つぐなっても、つぐない切れない、大罪でございます。そこで、私は、浅はかな頭で、どうしたら、私の犯した罪をつぐなえるか、を、考えました。できれば、あなた様に、気のすむまで、殴っていただきたいと思いました。しかし、あなた様の、海よりも、山よりも、御寛大な御性格では、それを、あなた様に、願い出ても、あなた様は、とても、それを、引き受けて下さらない、と思いました。しかも、あなた様は、腕力のない女性でございます。そこで、私は、今日、新宿に行って参りました。そして、新宿のスタジオ、アルタの前で、『殴られ屋。一回、千円で、日頃のストレス発散のため、思い切り殴って下さい』と、プラカードを、首にかけて、立っておりました。そして、10人の、屈強の男に、力一杯、殴って頂きました。これによって、あなた様に対する、非礼の、罰の一部としたかったのです。しかし、私が受けるべき罰は、あくまで、あなた様が、お決めになることです。どうぞ、なんなりと、あなた様の気が晴れる罰を、私に、下して下さい」
彼は、涙に咽びながら、そう言った。
「お客様。そんな、無茶なことをされたんですか。そんなことを、されては、私の方が、心が痛みます。さぞ、痛かったでしょう。お怪我はありませんか?」
彼女は、淡々と言った。
「ああ。寛大な、お言葉を有難うごさいます。顔は、多少、腫れていますが、大した怪我など、ありません。私は、あなた様と違い、頭は、愚鈍ですが、肉体のタフさだけには、自信があります」
と、彼は言った。
「でも、お客様。私が小説を書いているからといって、どうして、そんなに、私に、対して、卑屈な態度に、なるのですか?」
彼女は、首を傾げて聞いた。
「古倉様。お言葉を返すようで恐縮ですが。何事でもそうですが、どんな芸事でも、一つの道に、価値を認め、精進する者ならば、その道を、はるかに究めた上の人を、下の者が、尊敬するのは、当然のことではないでしょうか?」
彼は言った。
「では、あなたも、小説を書くのですか?」
彼女が聞いた。
「はっ、はい。私は、あなた様と違い、優れた、価値のある文学作品など書けません。文学賞など、獲ったことは、ありませんし、また、おそらく、一生、獲れないと確信しています。愚鈍で非力な私ですが、私も、小説を書いて、ネットに出しています」
と、彼は言った。
「本当ですか。お客様も小説を書いているとは、思ってもいませんでした。よろしかったら、読ませて頂けないでしょうか?」
と、彼女は言った。
「それは、身に余る光栄です。私は、浅野浩二、というペンネームを、使って、ホームページに、小説を出しています。拙い小説ばかりですが、よろしければ、ご覧ください」
と、彼は言った。
「じゃあ、ぜひ、読ませて頂きます。浅野浩二さん、ですね。どんな小説かしら。楽しみだわー」
と、彼女は言った。
「古倉様。楽しみ、などと、言われると、読んで、内容の、つまらなさに、失望した時に、申し訳なく、恥ずかしく、心苦しいです。古倉様も、芥川賞をお獲りになり、執筆活動が、ますます、忙しくなるでしょうから、執筆中に、書きあぐねた時に、息抜きのため、気が向いたら、ご覧ください。原稿用紙で、10枚ていどの、ショートショートも、あります。ストーリーは、単純ですが、読みやすさには、心がけて、書いておりますので、読んで、肩が凝ることは、ないと、それだけは、自信があります」
と、彼は言った。
「わかりました。でも、楽しみです。お客様が、どんな小説を書いているのか、と、思うと・・・」
と、彼女は言った。
「あ、あの。古倉様・・・」
「はい。何でしょうか?」
「私の、今までの、非礼を謝罪したいのですが、私がすべき罰を、教えていただけないでしょうか?」
彼は聞いた。
「罰も何も、お客様には、何の恨みもありません」
彼女は、淡々とした口調で言った。
「で、では。私の、今までの、非礼を許して下さるのですか?」
「許すもなにも、お客様には、恨みどころか、心から、感謝しています」
「ええー。それは、一体、どうしてですか?」
「だって、お客様が、私に、マニュアルに書いてあることしか、言えないのか、と、言って下さったから、私は、コンビニ人間、という、小説を書いてみようと、思いついたんです。それが、芥川賞になったのですから、私が、芥川賞を獲れたのは、お客様の、おかげ、でもあるんです」
「そうだったんですか。そうわかると、私も、救われます。有難うございます」
そう言って、彼は、随喜の涙を流した。
その時。
コンビニのドアが、ギイーと、開いた。
客が三人、入って来た。
「お客様。すみません。仕事しなくてはならないので・・・」
と、彼女は、小さな声で言って、レジにもどった。
「いらっしゃいませー」
彼女は、急いで、コンビニ店員にもどって、大きな声で、客に会釈した。
三人とも、タトゥーをした、ガラの悪い男たった。
「おい。ねーちゃん。そこの、そこの、マルボロ、二箱、くれねーか」
と、一人が、不愛想に言った。
(群像新人文学賞や、野間文芸新人賞や、三島由紀夫賞や、はては、芥川賞を獲って、Wikipedia にまで、名前が、載っている、高名な文学者に、なんたる口の利き方だ)
と、彼に、憤りが起こった。
他の二人の客は、週間マンガの、立ち読みを始めた。
彼は、咄嗟に、客達に、
(おい。お前たち。この、お方をどなた、だと思っているんだ。畏れ多くも、芥川賞を受賞した・・・)
と、言って、立ち読みしている二人を、注意したい、衝動が、起こったが、彼は、グッ、と我慢した。
それは、単行本「コンビニ人間」の、P54に、書いてある、
「人間は、皆、変なものには、土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている」
という、一文と、P115に、書いてある、
「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ」
という、一文が、思い浮かんだからである。
新約聖書でも、マタイ伝7章1節に、
「Do not judge, or you too will be judged」
(人を裁いてはいけません、そうしないと、あなたが神に裁かれますよ)
と、書いてある。
それは、今まで、古倉さんを、覇気のない人間だと、その人の一部だけを見て、決めつけて、その人の全てが、解ったかのように、心の内に、非難していた、彼の反省の、思いからであった。
彼女は、コンビニの仕事が、終われば、どうせ、ごろ寝して、テレビか、スマートフォンの、アプリか、を、やっているだけだろう、と、思ってしまっていた、彼の反省からであった。
そして、彼自身も、医学部時代、無口で、内気で、友達がいなく、同級生達から、さんざん、「あいつは、得体の知れないヤツだ。何か、悪いことを考えているヤツだ」と、そういう目で、見続けられてきた、こととも、同じだった。
彼は、他人に、どう思われようと、気にしない、開き直り、を、方針としていた。
(他人が、どう思おうが、かってにしろ。オレはオレだ)
と、彼は、自分を、人に、良く見せようとも、悪く見せようとも、全く思わなかった。
それが、強さ、だと、彼は、思っていて、他人の、自分に対する、評価だの、陰口だの、には、動じなかった。むしろ、誤解されることに、誤解する人間の、頭の程度の、低さを、心の中で、笑っていた。誤解され、偏見の目で見られることが、彼の、誇りでさえあった。
それと、同じように、立ち読みしている二人だって、どういう人間かは、わからない。
高い志を持っているのかも、しれない。
人を、その人の、見かけの、一部で、勝手に、決めつけては、いけない、ということが、「コンビニ人間」を読んでから、彼の信念になっていた。
そんなことが、一瞬のうちに、疾風のように、彼の頭を擦過していった。
彼は、そっと、コンビニを出た。
そして、アパートに入って、床に就いた。
「人を、その人の、見かけの、一部から、勝手に、決めつけては、いけない」
というのは、以前から、彼のモットーだった。
自分は、他人から、誤解され、悪く見られようと、そんなことは、気にしない。しかし、他人は、そういう、先入観で、見ては、いけないと、思っていた、つもりだったのに、まんまと、彼女を、そういう、先入観、で、決めつけていた、自分を、彼は、恥じた。
その原因を、彼は、歳をとるにつれて、自分の頭が、固くなったからだとは、思っていなかった。彼女の性格が、つかみどころが無く、そのため、イライラしていたのが、原因だと思った。
ともかく、その夜は、彼女に謝ったので、リラックスして眠れた。
夜中に、怖い夢を見ることもなかった。
数日が、経った。
もう、彼女の出てくる怖い夢をみることもなくなった。
しかし、その数日間は、彼は、古倉さんのいる、コンビニには、行かなかった。
なぜかというと、古倉さんは、まず、ネットで、「浅野浩二」で、検索して、彼の小説を、読んでくれているだろうから。出来るだけ、日にちをかければ、多くの小説を、読んでくれるだろう。
彼の、小説は、原稿用紙換算にして、短いのでは、10枚から、長いのでは、400枚と、全く、バラバラだった。
原稿用紙の換算枚数は、各小説に、書いていなかったが、小説のタイトルを、クリックして、下に、スクロールすれば、どのくらいの長さかは、わかる。
青空文庫でも、そうして、小説の長さは、わかる。
彼女が、今、自分の、書いた小説を、読んでくれているのではないか、と思うと、彼は、緊張しっぱなしだった。
一週間、経った。
もう、怖い夢は、見ることはなかった。
彼は、古倉さんのいる、コンビニに、行ってみた。
「いらっしゃいませー」
彼女は、雑貨の棚を清掃しているところだった。
ドアの開く音で、反射的に、挨拶の言葉を発したのだ。
振り返って、客が、彼であることを、見ると、彼女は、ニッコリと、笑った。
店には、彼女と、彼しかいない。
「こ、こんにちは」
彼は、照れくさそうに、挨拶した。
「こんにちは。浅野さん」
彼女は、パタパタと、小走りで、彼の方にやって来た。
「小説、読ませていただきました。ブログも、かなり読みました。浅野さん、って、精神科医で、スポーツも、色々、やるんですね。すごいですね」
彼女は、無邪気そうに、そう言った。
「い、いえ。一応、僕は、医師ですが、これは、謙遜ではなく、本当に、たいした医師では、ありません。スポーツは、健康のために、やっているだけです」
と、照れながら言った。
「あ、あの。古倉さん。もし、よろしければ、いつか、喫茶店か、どこかで、ゆっくりと、お話ししたいです。古倉さんの、小説も、ほとんど、読みました。古倉さんの小説に対する、僕の感想も、ぜひ、話したくて・・・」
と、彼は、言った。
「わかりました。今日、の5時に、仕事が、終わりますので、その後、お話ししませんか」
「ありがとうございます」
「話し合う場所ですが・・・。もし、よろしければ、浅野さんの、アパート、というのは、ダメでしょうか?」
「いいんですか。身に余る光栄です」
「うわー。嬉しいわ」
彼女は、飛び跳ねて喜んだ。
「僕も嬉しいです。決して、襲いかかったりしません。から、安心して下さい」
「ええ。言われるまでもなく。心配していません。浅野さんは、プラトニックな性格ですから。小説を、読んでいて、ひしひしと、それを感じました」
彼は、喜んで、アパートにもどった。
幸い、彼のアパートの部屋は、つい、最近、大掃除して、きれいだった。
彼は、面倒くさがりで、年間、4回、ほどしか、アパートを掃除しないが、いったん、掃除し出すと、部屋の隅々まで、完璧に掃除しないと、気が済まない、という潔癖症でもあった。
彼は、古倉さんが、来るのが、待ち遠しかった。
芥川賞を、とった、天下の、売れっ子、職業作家が、来るのだ。
彼は、古倉恵子さんと、何を話そうかと思ったが、ともかく、彼女の、作品の数々についての、感想を話そうと思った。
彼女は、芥川賞をとった、職業作家であり、彼は、趣味で書いている、アマチュアである。
実力的には、天と地、ほどの差がある。
しかし、芥川賞をとったプロの職業作家でも、自分の身近で接していた、思いもよらぬ人が、小説を書いている、となると、その驚き、と、好奇心から、どんな小説を書いているのか、ちょっと読んでみたくなるのは、自然な感情である。
彼女は、記者会見での、対応にしても、ネットでの、彼女の記事にしても、あまりにも、人が良すぎる、と、思っていた。
芥川賞を獲って、文壇的地位を確立すると、原稿の執筆依頼が殺到する。
また、文壇的地位を確立すると、他の人が、書いて、出版された本の、帯に、コメントの、依頼も、頼まれる。
帯に、「芥川賞受賞作家の、古倉恵子さんも、絶賛」とか、書かれると、本の、売れ行き、も、よくなるのである。
そのため、時間がないのに、他人の出版した本まで、読まなくてはならなくなる、こともある。
他人の本の、解説も、頼まれたりする。
連載小説の依頼を頼まれたりもする。
本人は、気分が乗らなくても、また、小説の構想が、無くても、書かないわけには、いきにくい。
作家的地位を確立すると、何かと、忙しくなるのだ。
まあ、良く言えば、仕事が、増えて、収入が安定する、とも、言えるだろうが。
しかし、創作意欲が、旺盛で、自分の書きたいものを書きたい、と思っている、作家にとっては、迷惑だろう。
また、芥川賞に限らず、権威のある、文学賞を獲ると、出版社の方から、小説執筆の依頼が、来る。
しかし、実際のところは、文学賞を、とると、それを越えられる、作品は、書けず、文学賞でとった、一作で、終わってしまう、一作作家の方が、圧倒的に多いのである。
しかし、彼女は、中学生の時から、小説を書いてきて、いくつもの、文学賞を獲っている、創作意欲が旺盛な、本物の小説家なのだ。
そんなことを、思いながら、彼は、古倉さんが来るのを待っていた。
古倉さんは、彼のアパートを知っている。
なぜなら、彼のアパートと、コンビニは、とても近く、(だから、古倉さんのいる、コンビニを利用しているのだが)、以前、彼が、アパートから出てきたところを、仕事が終わって、帰る途中の、古倉さんに、見られてしまったことが、あるからだ。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
彼は、玄関の戸を開けた。
古倉さんが、立っていた。
「やあ。古倉さん。来て下さって、ありがとうございます」
彼は、ペコペコ頭を下げて、言った。
「こんばんは。山野さん」
彼女も嬉しそうな表情だった。
「どうぞ、お入り下さい」
彼は、玄関の前に立っている彼女を招き入れた。
「では。お邪魔します」
そう言って、彼女は、彼のアパートに入っていった。
彼の、アパートの玄関には、テニスのラケット、と、野球のグローブが、無造作に置いてあった。
それが、目についたのだろう。
「山野さん、って、テニスをするんですか?」
彼女が聞いた。
「ええ。健康のため。足腰を鍛えるために、やっています」
「試合とかは、しないんですか?」
彼女が聞いた。
「ええ。たまには、やりますよ。去年は、テニススクールのコーチに勧められて、ウィンブルドンという試合に出て、ノバル・ジョコビッチ、という、かなり強いヤツに、勝って、優勝しました」
と、彼は言った。
「ウィンブルドンとか、なんとかジョコビッチ、とか、私。全然、知らないんです。私、スポーツのこと、全然、知らないので・・・」
と、彼女が言った。
「いやー。スポーツなんて、くだらないですよ。ですが、適度な運動は健康にいいので、僕は、やっているんです」
「古倉さん。芥川賞、受賞、おめでとうございます。それと、あなたを、覇気のない人間などと、失敬なことを言ったことを、心よりお詫びします」
彼は、改まって、再度、謝罪した。
「有難うございます。でも、私。本当に、気にしていないので、そのことは、もう、言わないで下さい」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、本当に、救われます」
彼は、話したいことが、いっぱいあった。
だが、やはり、彼女の小説に対する、感想を一番、言いたかった。
それで、
「では、まず、僕の方から、古倉さんの小説に対する、感想を言っても、よろしいでしょうか?」
と、聞いた。
「ええ」
と、彼女は、自然に答えた。
なので、彼は、話し始めた。
「古倉さん。あなたの小説を読んで、まず頭に浮かんだのは、太宰治です。太宰治は、子供の時、自分が、みなと、違う考え方をする人間であり、自分が、異端児であることを、隠そうと、学生時代は、道化を装いますね。そして、大学在学中に、偽らない自分の子供時代の心境を述べた、(晩年)の、諸作品によって、文壇から絶賛されますね。あなたも、子供の頃から、一般の子供と、考え方が違う自分を、一般の子供のように、演じる、処世術で、波風たてず、友達と、つき合って、生きてきましたね。しかし、あなたは、太宰治とも、違う。太宰は、性格が弱く、苦悩しつづけて、生きてきましたが、あなたは、冷静に、自分や他人、つまり人間を、観察し、小説の中で、普通と言われる人間社会の中に、変わっている、と言われる人間を登場させ、色々な、お話しを作っていきますね。感情を、入れず、淡々と。あなたは、苦悩する、ということがない。というか、苦悩する、ような境遇に生まれなかったし、生来の感覚があっさりしているように見受けられます。それを武器となって、他人の評価なんか、が、気にならない。それで、堂々と、小説を書いている、ように、見受けられます。多数派が支配している社会に、少数派の人間の、心の理解を求めているのでもなく、自分の意見を主張しているのでもない。あたかも、善人と悪人がいるから、お話しが作れるように、多数派と少数派がいるから、お話しが作れる、ので、それを、楽しんでいるように、見えます」
「え、ええ。まあ、そうです。ところで、山野さんは、どういう心境で小説を書いているのか、教えて下さい」
彼には、彼女の心理が、全く、わからなかった。
しかし、ともかく、コンビニのアルバイトを、続けている以上、彼女は、記者会見で言ったように、コンビニでのアルバイトは、彼女にとって、すでに生活の一部となっていて、コンビニで真剣に働くことに生き甲斐を感じているのだろう。
彼は、彼女の心理が、全く、理解できなかった。
しかし、彼は、かなり、残念だった。
彼女は、きっと、執筆が、忙しくなり、おそらく、コンビニを、辞めているだろうと、思っていたからである。
彼女が、辞めていてくれれば、彼は、アパートのすぐ近くの、セブンイレブン湘南台店を利用することが出来るからである。
彼は、彼女の、精神構造が、全くわからなかった。
しかし、ともかく、彼女が、セブンイレブン湘南台店で働いている以上、そこのコンビニを、利用することは出来ない。
しかし、彼女の、屈託のない、笑顔を見ていると、心を込めて、今までの、非礼を、わびれば、彼女は、怒りそうもないようにも、見えた。
彼女の、今までと、変わらぬ、穏やかで、おとなしそうな、態度を見ていると、彼女が、彼を見ても、「あなた。今まで、よくも、さんざん、私をバカにしてくれたわね。私は、芥川賞を受賞した、売れっ子の、超人気作家なのよ」などと、彼にイヤミを言うようには、とても、思えなかった。
そもそも、彼が、彼女に、暴言を吐いた時には、彼女は、すでに彼女は、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、センス・オブ・ジェンダー賞少子化対策特別賞受賞、を受賞していて、毎日、旺盛な、執筆活動をしていたのである。もう、これだけで、十分、過ぎるほどに、世間で、作家的地位を確立している。
それなのに、彼が、彼女を、口汚く、愚弄しても、彼女は、「申し訳ありませんでした」、と、心から、謝っていたのである。
また、彼女は、芥川賞を獲るまでは、じっと、我慢して、芥川賞を受賞して、テレビで記者会見をしてから、彼に、「私は芥川賞を受賞した、超一流の、売れっ子作家なのよ」と、自慢して、さんざん、バカにした、彼を、見下してやろう、という、ような、復讐の計画を、密かに、たくらんでいた、とも、思えない。
一体、彼女の精神構造は、どうなっているのだろう?
ともかく、彼にとっても、この、コンビニは、便利なので、今まで通り、使いたい。
そもそも、コンビニとは、convenient store (便利な店)という意味だから、当たり前である。
彼は、彼女に、今までの、非礼を、謝罪したいと、思うと同時に、(それは、彼女に、心から謝罪すれば、彼女は、彼を許してくれそうに思えたからである)、彼女と、もう一度、会って、彼女の精神構造を知りたい、という、気持ちが、起こってきた。
しかし、彼は、すぐには、彼女に、会う気には、なれなかった。
なにしろ、彼は、「神様を冒涜しつづけて」、きたのだから。
その、落とし前は、絶対、つけねばならない、という強い自責の念が、彼を、激しく叱咤した。
「しかし、彼女に対する、謝罪の、落とし前、は、どのように、つけたら、いいのだろう?」
と、彼は悩んだ。
しばし、考えているうちに、彼は、落とし前、の、方法を思いついた。
それで、彼は、急いで、小田急線に乗って、新宿に、行った。
そして、四時間くらいして、また、湘南台に、もどってきた。
彼は、いったん、アパートにもどってから、コンビニに行ってみた。
彼女は、夜勤もしている、こともあるのである。
コンビニの外から、彼は、そっと、中を見た。
彼女は、いた。
彼女一人である。
彼は、ゴクリと、唾を飲み込み、高鳴る心臓の鼓動を、抑えようと、勤めながら、そーと、コンビニのドアを開けた。
「いらっしゃいませー」
彼女は、いつもの、愛想のいい、挨拶の言葉を言った。
もっとも、彼女が、愛想がいいのも、コンビニの、マニュアルにある、「お客様には、笑顔で、元気よく、挨拶する」、という規則を守っているのに、過ぎないのだろうが。
彼は、彼女と、視線が合うと、茹蛸のように、顔が真っ赤になった。
彼は、いきなり、彼女の前に、行き、立っている、彼女の前で、土下座した。
「古倉様。今までの、無礼極まりのない、発言の数々、態度、まことに、申し訳ありませんでしたー。心より、おわび致します」
そう叫んで、彼は、頭を床に擦りつけた。
「申し訳ありませんでしたー」
彼は、10回、謝罪の発言を繰り返した。
そして、10回、謝罪した後は、ずっと、体をブルブル震わせながら、土下座し続けた。
それは、あたかも、かけがえのない、一人娘を、車で、はねて、死亡させてしまった、男が、その両親に、謝罪する時の態度と、全く同じだった。
「あ、あの。お客様。一体、どうなされたんですか?」
いつまでも、土下座して、平身低頭している、彼に、彼女の声が、かかった。
彼は、おそるおそる、そっと、顔を上げた。
彼の目からは、ボロボロと、大粒の涙が、流れていた。
彼の顔は、あたかも、15ラウンド戦った後の、ボクサーのように、見るも無残に、腫れ上がっていた。
顔中、青アザだらけだった。
「あっ。お客様。顔が、ひどく、腫れ上がっていますが、どうなされたんですか?」
彼女が、聞いた。
「古倉様。私は、あなた様に、話しかけても、よろしいのでしょうか?」
彼が聞いた。
「え、ええ。一体、どうなされたんですか?」
彼女は、淡々とした口調で言った。
彼は、涙を流しながら、語り出した。
「ふ、古倉様。7月19日の、テレビのニュースで、あなた様が、芥川賞を受賞なされた、ことを知りました。あなた様が、数々の、文学賞を受賞なされた、文学創作、一途に、一心に、精進して、生きてこられた、気高い、お方様とは、つゆにも、知りませんでした。私は、あなた様が、そのような、ご高名で、志の高い、高貴な方であるとは、知りませんでした。今までの、無礼極まりのない、発言の数々、態度を、今、心より、おわび申し上げます」
そう、彼は、泣きながら、言った。
「い、いえ。私。別に、気にしていません。それより、その顔のアザは、どうなされたんですか?」
彼女は、淡々とした口調で言った。
「はい。おそれながら申し上げます」
彼の口調は、テレビの時代劇で、家臣が殿様に物申す時の口調になっていた。
「私めは、あなた様が、芥川賞を獲るほどに、文学一途に、精進し、努力して生きてこられた、高貴な方とは、つゆほども知らず、あなた様に、さんざん、無礼な、ことを、言ってきました。この罪は、どんなに、つぐなっても、つぐない切れない、大罪でございます。そこで、私は、浅はかな頭で、どうしたら、私の犯した罪をつぐなえるか、を、考えました。できれば、あなた様に、気のすむまで、殴っていただきたいと思いました。しかし、あなた様の、海よりも、山よりも、御寛大な御性格では、それを、あなた様に、願い出ても、あなた様は、とても、それを、引き受けて下さらない、と思いました。しかも、あなた様は、腕力のない女性でございます。そこで、私は、今日、新宿に行って参りました。そして、新宿のスタジオ、アルタの前で、『殴られ屋。一回、千円で、日頃のストレス発散のため、思い切り殴って下さい』と、プラカードを、首にかけて、立っておりました。そして、10人の、屈強の男に、力一杯、殴って頂きました。これによって、あなた様に対する、非礼の、罰の一部としたかったのです。しかし、私が受けるべき罰は、あくまで、あなた様が、お決めになることです。どうぞ、なんなりと、あなた様の気が晴れる罰を、私に、下して下さい」
彼は、涙に咽びながら、そう言った。
「お客様。そんな、無茶なことをされたんですか。そんなことを、されては、私の方が、心が痛みます。さぞ、痛かったでしょう。お怪我はありませんか?」
彼女は、淡々と言った。
「ああ。寛大な、お言葉を有難うごさいます。顔は、多少、腫れていますが、大した怪我など、ありません。私は、あなた様と違い、頭は、愚鈍ですが、肉体のタフさだけには、自信があります」
と、彼は言った。
「でも、お客様。私が小説を書いているからといって、どうして、そんなに、私に、対して、卑屈な態度に、なるのですか?」
彼女は、首を傾げて聞いた。
「古倉様。お言葉を返すようで恐縮ですが。何事でもそうですが、どんな芸事でも、一つの道に、価値を認め、精進する者ならば、その道を、はるかに究めた上の人を、下の者が、尊敬するのは、当然のことではないでしょうか?」
彼は言った。
「では、あなたも、小説を書くのですか?」
彼女が聞いた。
「はっ、はい。私は、あなた様と違い、優れた、価値のある文学作品など書けません。文学賞など、獲ったことは、ありませんし、また、おそらく、一生、獲れないと確信しています。愚鈍で非力な私ですが、私も、小説を書いて、ネットに出しています」
と、彼は言った。
「本当ですか。お客様も小説を書いているとは、思ってもいませんでした。よろしかったら、読ませて頂けないでしょうか?」
と、彼女は言った。
「それは、身に余る光栄です。私は、浅野浩二、というペンネームを、使って、ホームページに、小説を出しています。拙い小説ばかりですが、よろしければ、ご覧ください」
と、彼は言った。
「じゃあ、ぜひ、読ませて頂きます。浅野浩二さん、ですね。どんな小説かしら。楽しみだわー」
と、彼女は言った。
「古倉様。楽しみ、などと、言われると、読んで、内容の、つまらなさに、失望した時に、申し訳なく、恥ずかしく、心苦しいです。古倉様も、芥川賞をお獲りになり、執筆活動が、ますます、忙しくなるでしょうから、執筆中に、書きあぐねた時に、息抜きのため、気が向いたら、ご覧ください。原稿用紙で、10枚ていどの、ショートショートも、あります。ストーリーは、単純ですが、読みやすさには、心がけて、書いておりますので、読んで、肩が凝ることは、ないと、それだけは、自信があります」
と、彼は言った。
「わかりました。でも、楽しみです。お客様が、どんな小説を書いているのか、と、思うと・・・」
と、彼女は言った。
「あ、あの。古倉様・・・」
「はい。何でしょうか?」
「私の、今までの、非礼を謝罪したいのですが、私がすべき罰を、教えていただけないでしょうか?」
彼は聞いた。
「罰も何も、お客様には、何の恨みもありません」
彼女は、淡々とした口調で言った。
「で、では。私の、今までの、非礼を許して下さるのですか?」
「許すもなにも、お客様には、恨みどころか、心から、感謝しています」
「ええー。それは、一体、どうしてですか?」
「だって、お客様が、私に、マニュアルに書いてあることしか、言えないのか、と、言って下さったから、私は、コンビニ人間、という、小説を書いてみようと、思いついたんです。それが、芥川賞になったのですから、私が、芥川賞を獲れたのは、お客様の、おかげ、でもあるんです」
「そうだったんですか。そうわかると、私も、救われます。有難うございます」
そう言って、彼は、随喜の涙を流した。
その時。
コンビニのドアが、ギイーと、開いた。
客が三人、入って来た。
「お客様。すみません。仕事しなくてはならないので・・・」
と、彼女は、小さな声で言って、レジにもどった。
「いらっしゃいませー」
彼女は、急いで、コンビニ店員にもどって、大きな声で、客に会釈した。
三人とも、タトゥーをした、ガラの悪い男たった。
「おい。ねーちゃん。そこの、そこの、マルボロ、二箱、くれねーか」
と、一人が、不愛想に言った。
(群像新人文学賞や、野間文芸新人賞や、三島由紀夫賞や、はては、芥川賞を獲って、Wikipedia にまで、名前が、載っている、高名な文学者に、なんたる口の利き方だ)
と、彼に、憤りが起こった。
他の二人の客は、週間マンガの、立ち読みを始めた。
彼は、咄嗟に、客達に、
(おい。お前たち。この、お方をどなた、だと思っているんだ。畏れ多くも、芥川賞を受賞した・・・)
と、言って、立ち読みしている二人を、注意したい、衝動が、起こったが、彼は、グッ、と我慢した。
それは、単行本「コンビニ人間」の、P54に、書いてある、
「人間は、皆、変なものには、土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている」
という、一文と、P115に、書いてある、
「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ」
という、一文が、思い浮かんだからである。
新約聖書でも、マタイ伝7章1節に、
「Do not judge, or you too will be judged」
(人を裁いてはいけません、そうしないと、あなたが神に裁かれますよ)
と、書いてある。
それは、今まで、古倉さんを、覇気のない人間だと、その人の一部だけを見て、決めつけて、その人の全てが、解ったかのように、心の内に、非難していた、彼の反省の、思いからであった。
彼女は、コンビニの仕事が、終われば、どうせ、ごろ寝して、テレビか、スマートフォンの、アプリか、を、やっているだけだろう、と、思ってしまっていた、彼の反省からであった。
そして、彼自身も、医学部時代、無口で、内気で、友達がいなく、同級生達から、さんざん、「あいつは、得体の知れないヤツだ。何か、悪いことを考えているヤツだ」と、そういう目で、見続けられてきた、こととも、同じだった。
彼は、他人に、どう思われようと、気にしない、開き直り、を、方針としていた。
(他人が、どう思おうが、かってにしろ。オレはオレだ)
と、彼は、自分を、人に、良く見せようとも、悪く見せようとも、全く思わなかった。
それが、強さ、だと、彼は、思っていて、他人の、自分に対する、評価だの、陰口だの、には、動じなかった。むしろ、誤解されることに、誤解する人間の、頭の程度の、低さを、心の中で、笑っていた。誤解され、偏見の目で見られることが、彼の、誇りでさえあった。
それと、同じように、立ち読みしている二人だって、どういう人間かは、わからない。
高い志を持っているのかも、しれない。
人を、その人の、見かけの、一部で、勝手に、決めつけては、いけない、ということが、「コンビニ人間」を読んでから、彼の信念になっていた。
そんなことが、一瞬のうちに、疾風のように、彼の頭を擦過していった。
彼は、そっと、コンビニを出た。
そして、アパートに入って、床に就いた。
「人を、その人の、見かけの、一部から、勝手に、決めつけては、いけない」
というのは、以前から、彼のモットーだった。
自分は、他人から、誤解され、悪く見られようと、そんなことは、気にしない。しかし、他人は、そういう、先入観で、見ては、いけないと、思っていた、つもりだったのに、まんまと、彼女を、そういう、先入観、で、決めつけていた、自分を、彼は、恥じた。
その原因を、彼は、歳をとるにつれて、自分の頭が、固くなったからだとは、思っていなかった。彼女の性格が、つかみどころが無く、そのため、イライラしていたのが、原因だと思った。
ともかく、その夜は、彼女に謝ったので、リラックスして眠れた。
夜中に、怖い夢を見ることもなかった。
数日が、経った。
もう、彼女の出てくる怖い夢をみることもなくなった。
しかし、その数日間は、彼は、古倉さんのいる、コンビニには、行かなかった。
なぜかというと、古倉さんは、まず、ネットで、「浅野浩二」で、検索して、彼の小説を、読んでくれているだろうから。出来るだけ、日にちをかければ、多くの小説を、読んでくれるだろう。
彼の、小説は、原稿用紙換算にして、短いのでは、10枚から、長いのでは、400枚と、全く、バラバラだった。
原稿用紙の換算枚数は、各小説に、書いていなかったが、小説のタイトルを、クリックして、下に、スクロールすれば、どのくらいの長さかは、わかる。
青空文庫でも、そうして、小説の長さは、わかる。
彼女が、今、自分の、書いた小説を、読んでくれているのではないか、と思うと、彼は、緊張しっぱなしだった。
一週間、経った。
もう、怖い夢は、見ることはなかった。
彼は、古倉さんのいる、コンビニに、行ってみた。
「いらっしゃいませー」
彼女は、雑貨の棚を清掃しているところだった。
ドアの開く音で、反射的に、挨拶の言葉を発したのだ。
振り返って、客が、彼であることを、見ると、彼女は、ニッコリと、笑った。
店には、彼女と、彼しかいない。
「こ、こんにちは」
彼は、照れくさそうに、挨拶した。
「こんにちは。浅野さん」
彼女は、パタパタと、小走りで、彼の方にやって来た。
「小説、読ませていただきました。ブログも、かなり読みました。浅野さん、って、精神科医で、スポーツも、色々、やるんですね。すごいですね」
彼女は、無邪気そうに、そう言った。
「い、いえ。一応、僕は、医師ですが、これは、謙遜ではなく、本当に、たいした医師では、ありません。スポーツは、健康のために、やっているだけです」
と、照れながら言った。
「あ、あの。古倉さん。もし、よろしければ、いつか、喫茶店か、どこかで、ゆっくりと、お話ししたいです。古倉さんの、小説も、ほとんど、読みました。古倉さんの小説に対する、僕の感想も、ぜひ、話したくて・・・」
と、彼は、言った。
「わかりました。今日、の5時に、仕事が、終わりますので、その後、お話ししませんか」
「ありがとうございます」
「話し合う場所ですが・・・。もし、よろしければ、浅野さんの、アパート、というのは、ダメでしょうか?」
「いいんですか。身に余る光栄です」
「うわー。嬉しいわ」
彼女は、飛び跳ねて喜んだ。
「僕も嬉しいです。決して、襲いかかったりしません。から、安心して下さい」
「ええ。言われるまでもなく。心配していません。浅野さんは、プラトニックな性格ですから。小説を、読んでいて、ひしひしと、それを感じました」
彼は、喜んで、アパートにもどった。
幸い、彼のアパートの部屋は、つい、最近、大掃除して、きれいだった。
彼は、面倒くさがりで、年間、4回、ほどしか、アパートを掃除しないが、いったん、掃除し出すと、部屋の隅々まで、完璧に掃除しないと、気が済まない、という潔癖症でもあった。
彼は、古倉さんが、来るのが、待ち遠しかった。
芥川賞を、とった、天下の、売れっ子、職業作家が、来るのだ。
彼は、古倉恵子さんと、何を話そうかと思ったが、ともかく、彼女の、作品の数々についての、感想を話そうと思った。
彼女は、芥川賞をとった、職業作家であり、彼は、趣味で書いている、アマチュアである。
実力的には、天と地、ほどの差がある。
しかし、芥川賞をとったプロの職業作家でも、自分の身近で接していた、思いもよらぬ人が、小説を書いている、となると、その驚き、と、好奇心から、どんな小説を書いているのか、ちょっと読んでみたくなるのは、自然な感情である。
彼女は、記者会見での、対応にしても、ネットでの、彼女の記事にしても、あまりにも、人が良すぎる、と、思っていた。
芥川賞を獲って、文壇的地位を確立すると、原稿の執筆依頼が殺到する。
また、文壇的地位を確立すると、他の人が、書いて、出版された本の、帯に、コメントの、依頼も、頼まれる。
帯に、「芥川賞受賞作家の、古倉恵子さんも、絶賛」とか、書かれると、本の、売れ行き、も、よくなるのである。
そのため、時間がないのに、他人の出版した本まで、読まなくてはならなくなる、こともある。
他人の本の、解説も、頼まれたりする。
連載小説の依頼を頼まれたりもする。
本人は、気分が乗らなくても、また、小説の構想が、無くても、書かないわけには、いきにくい。
作家的地位を確立すると、何かと、忙しくなるのだ。
まあ、良く言えば、仕事が、増えて、収入が安定する、とも、言えるだろうが。
しかし、創作意欲が、旺盛で、自分の書きたいものを書きたい、と思っている、作家にとっては、迷惑だろう。
また、芥川賞に限らず、権威のある、文学賞を獲ると、出版社の方から、小説執筆の依頼が、来る。
しかし、実際のところは、文学賞を、とると、それを越えられる、作品は、書けず、文学賞でとった、一作で、終わってしまう、一作作家の方が、圧倒的に多いのである。
しかし、彼女は、中学生の時から、小説を書いてきて、いくつもの、文学賞を獲っている、創作意欲が旺盛な、本物の小説家なのだ。
そんなことを、思いながら、彼は、古倉さんが来るのを待っていた。
古倉さんは、彼のアパートを知っている。
なぜなら、彼のアパートと、コンビニは、とても近く、(だから、古倉さんのいる、コンビニを利用しているのだが)、以前、彼が、アパートから出てきたところを、仕事が終わって、帰る途中の、古倉さんに、見られてしまったことが、あるからだ。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
彼は、玄関の戸を開けた。
古倉さんが、立っていた。
「やあ。古倉さん。来て下さって、ありがとうございます」
彼は、ペコペコ頭を下げて、言った。
「こんばんは。山野さん」
彼女も嬉しそうな表情だった。
「どうぞ、お入り下さい」
彼は、玄関の前に立っている彼女を招き入れた。
「では。お邪魔します」
そう言って、彼女は、彼のアパートに入っていった。
彼の、アパートの玄関には、テニスのラケット、と、野球のグローブが、無造作に置いてあった。
それが、目についたのだろう。
「山野さん、って、テニスをするんですか?」
彼女が聞いた。
「ええ。健康のため。足腰を鍛えるために、やっています」
「試合とかは、しないんですか?」
彼女が聞いた。
「ええ。たまには、やりますよ。去年は、テニススクールのコーチに勧められて、ウィンブルドンという試合に出て、ノバル・ジョコビッチ、という、かなり強いヤツに、勝って、優勝しました」
と、彼は言った。
「ウィンブルドンとか、なんとかジョコビッチ、とか、私。全然、知らないんです。私、スポーツのこと、全然、知らないので・・・」
と、彼女が言った。
「いやー。スポーツなんて、くだらないですよ。ですが、適度な運動は健康にいいので、僕は、やっているんです」
「古倉さん。芥川賞、受賞、おめでとうございます。それと、あなたを、覇気のない人間などと、失敬なことを言ったことを、心よりお詫びします」
彼は、改まって、再度、謝罪した。
「有難うございます。でも、私。本当に、気にしていないので、そのことは、もう、言わないで下さい」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、本当に、救われます」
彼は、話したいことが、いっぱいあった。
だが、やはり、彼女の小説に対する、感想を一番、言いたかった。
それで、
「では、まず、僕の方から、古倉さんの小説に対する、感想を言っても、よろしいでしょうか?」
と、聞いた。
「ええ」
と、彼女は、自然に答えた。
なので、彼は、話し始めた。
「古倉さん。あなたの小説を読んで、まず頭に浮かんだのは、太宰治です。太宰治は、子供の時、自分が、みなと、違う考え方をする人間であり、自分が、異端児であることを、隠そうと、学生時代は、道化を装いますね。そして、大学在学中に、偽らない自分の子供時代の心境を述べた、(晩年)の、諸作品によって、文壇から絶賛されますね。あなたも、子供の頃から、一般の子供と、考え方が違う自分を、一般の子供のように、演じる、処世術で、波風たてず、友達と、つき合って、生きてきましたね。しかし、あなたは、太宰治とも、違う。太宰は、性格が弱く、苦悩しつづけて、生きてきましたが、あなたは、冷静に、自分や他人、つまり人間を、観察し、小説の中で、普通と言われる人間社会の中に、変わっている、と言われる人間を登場させ、色々な、お話しを作っていきますね。感情を、入れず、淡々と。あなたは、苦悩する、ということがない。というか、苦悩する、ような境遇に生まれなかったし、生来の感覚があっさりしているように見受けられます。それを武器となって、他人の評価なんか、が、気にならない。それで、堂々と、小説を書いている、ように、見受けられます。多数派が支配している社会に、少数派の人間の、心の理解を求めているのでもなく、自分の意見を主張しているのでもない。あたかも、善人と悪人がいるから、お話しが作れるように、多数派と少数派がいるから、お話しが作れる、ので、それを、楽しんでいるように、見えます」
「え、ええ。まあ、そうです。ところで、山野さんは、どういう心境で小説を書いているのか、教えて下さい」