小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

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牧師との対話

2008-04-14 03:45:55 | Weblog
牧師との対話
ある内向的な少年がいた。彼の両親はプロテスタントのクリスチャンだった。そして、親には、あるアメリカ人のカトリックの牧師との付き合いがあった。彼はキリスト教になど興味が無かった。クリスチャンとは、「キリストのような人」という事であるが、親は全然、キリストのような人、には見えなかった。彼は勿論、洗礼などというものを受ける気は毛頭なかった。牧師は、彼に洗礼を受け、教会に行く事をすすめたが、少年にとってはうざったい、だけだった。そもそも彼は洗礼だの、入信だのという事を嫌っていた。
教会では、聖餐式の時、洗礼を受けた人だけが、ほんの小さいものだが、葡萄酒と一切れのパンを食べれた。洗礼を受けていない人は、食べられなかった。何か、その光景は差別的でイヤだった。洗礼を受けた人達は、立ち上がって一切れのパンと葡萄酒を食べた。彼らは、その一時だけ、自分達は敬虔なクリスチャンのように装っているのが、彼には偽善に見えて嫌悪を感じた。事実、親は教会から帰った晩には、もう他人への口汚い会話しかしない。
その点、カトリックのアメリカ人の牧師は、日常生活でも、聖書の教えを守っていた。言動一致という点で彼はその牧師を尊敬していた。
ただ、あまりにも洗礼を受ける事を進めるので、それがウザかった。

ある晩、牧師が家に来た。少年は、どうしても観たいテレビがあるのに、牧師の説教を聞かされるのは、うんざりした。少年は、堂々と、
「あなたの説教より、観たいテレビがあるんです」
と言った。牧師は少年を不謹慎だと思ったらしく、くどくど説教しだした。
それで、少年は非常にキリスト教で疑問に思っている事を、聞いた。
「キリスト教では、悔い改めれば、救われる、と言いますね。悔い改めない人はゲヘナに落ちると」
牧師は、「そうです」と言った。
「では、こういう場合には、どうなるんでしょう」
と言って、少年は、話し出した。
「あるクリスチャンでない人がいたとしますね。その人が交通事故で死んだとしますね。その人は悔い改めないまま死んだから、救われないことになりますね。しかし、もしその人が交通事故にあわず、もっと長生きすれば、その人はある機会にキリスト教に目覚め、悔い改め、洗礼を受けることになったかもしれない。その場合、彼は救われることになりますよね。交通事故というのは不慮の事で、その人に罪はない。こういう人は、いったい救われるのですか、救われないのですか」
牧師は黙ってしまった。
おかげで少年は観たいテレビを観ることが出来た。
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