渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
196 単独者とはいかなる毒か帽深く被れる者はふりむかぬなり
(レポート)
ただ一人だけであることを実践する人。そのような人は「いかなる毒か」と問いかけている。その場の状況に応じて自然と物事を決めてゆく状況依存を良しとしてきた日本社会ではこのような人は「毒」ではなくむしろ薬だと言っているように思う。下の句から「単独者」の意志の堅固さが感じ取れる。(崎尾)
(意見)
★一つ置いた歌に「深帽のキェルケゴール」があるし、一般にはキェルケゴールを〈単独者〉と呼んだ
りしていますから、この歌はキェルケゴールを念頭において詠んでいるのだと思います。(鹿取)
★キェルケゴールということではなく単独者の在り方をイメージして一連は詠んでいる。単独者は
相対的でなく絶対的な存在。だから他から制約を受けたりする存在ではない。確かに日本の社会
はレポーターのいうように動いてきた訳で、その中で単独者とはどういう毒なのかなあと思いめ
ぐらせ、読者に問いかけている。その答えを崎尾さんが出してきた訳でそういう場面もありかな
あと。(鈴木)
★いや、この単独者はキェルケゴールのことを言っているので、一般の独りでいる人をイメージし
ているのではない。(曽我)
★「独・毒」と韻を踏んでいて、それがあまり気持ちよくないですね。作者はわざとそうしている
のでしょう。独りであることは集団にとっては毒なんですね。だから往々にして煙たがられ排除
される。そんな単独者が帽子を深く被って振り向かずに集団から去っていく。でもそういう人が
全く新しい創造行為をするとかしてきた訳で、毒ってそういうふうに集団に一石を投じる存在で
す。穿った言い方をすれば「単独者」は結果的に崎尾さんのいうような「薬」になるわけです。
単独者に作者はシンパシィを持っているのですね。(鹿取)
★帽子を深く被るというのは関わりを持たないことの象徴ですね。それが関わり合いで成り立って
いる社会の中では毒になるんじゃないかと言われているわけですよ。(鈴木)
(まとめ)
改めて「単独者」を調べてみると、キェルケゴールの用語で「自由な実存として生きる本来的な人間のあり方、真のキリスト者のあり方を意味する。」(広辞苑)とある。「単独者」とは神の前にただ一人向き合う者だとすると、他者との人間関係よりも、神との関係に重点を置いている概念のようだ。他者に背を向けてたった独り神と真向かうべく去ってゆく単独者の厳しい精神のありようを描いている歌なのだろう。(鹿取)
(後日意見)
キルケゴール=単独者にとって、神は個としての実存的苦悩、孤独と直接向き合う、絶対的存在であり、十九世紀初めの集団に埋没し、国教会の儀式や牧師を媒介にして神と向き合う他の信者からは毒、すなわち毒を振りまくものと、背教者のように見られていた。帽子を深く被り、他者との関わりを拒み、ひたすら神に救いを求め、時代を超えて、孤高に毅然と歩んでゆく。彼は自身の思想は次世代で理解されることを予感していた。後ほど神を捨てたニーチェ、ハイデガー、サルトルといった実存主義者たちが彼を始祖として、その歩みをたどるのである。(石井)
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
196 単独者とはいかなる毒か帽深く被れる者はふりむかぬなり
(レポート)
ただ一人だけであることを実践する人。そのような人は「いかなる毒か」と問いかけている。その場の状況に応じて自然と物事を決めてゆく状況依存を良しとしてきた日本社会ではこのような人は「毒」ではなくむしろ薬だと言っているように思う。下の句から「単独者」の意志の堅固さが感じ取れる。(崎尾)
(意見)
★一つ置いた歌に「深帽のキェルケゴール」があるし、一般にはキェルケゴールを〈単独者〉と呼んだ
りしていますから、この歌はキェルケゴールを念頭において詠んでいるのだと思います。(鹿取)
★キェルケゴールということではなく単独者の在り方をイメージして一連は詠んでいる。単独者は
相対的でなく絶対的な存在。だから他から制約を受けたりする存在ではない。確かに日本の社会
はレポーターのいうように動いてきた訳で、その中で単独者とはどういう毒なのかなあと思いめ
ぐらせ、読者に問いかけている。その答えを崎尾さんが出してきた訳でそういう場面もありかな
あと。(鈴木)
★いや、この単独者はキェルケゴールのことを言っているので、一般の独りでいる人をイメージし
ているのではない。(曽我)
★「独・毒」と韻を踏んでいて、それがあまり気持ちよくないですね。作者はわざとそうしている
のでしょう。独りであることは集団にとっては毒なんですね。だから往々にして煙たがられ排除
される。そんな単独者が帽子を深く被って振り向かずに集団から去っていく。でもそういう人が
全く新しい創造行為をするとかしてきた訳で、毒ってそういうふうに集団に一石を投じる存在で
す。穿った言い方をすれば「単独者」は結果的に崎尾さんのいうような「薬」になるわけです。
単独者に作者はシンパシィを持っているのですね。(鹿取)
★帽子を深く被るというのは関わりを持たないことの象徴ですね。それが関わり合いで成り立って
いる社会の中では毒になるんじゃないかと言われているわけですよ。(鈴木)
(まとめ)
改めて「単独者」を調べてみると、キェルケゴールの用語で「自由な実存として生きる本来的な人間のあり方、真のキリスト者のあり方を意味する。」(広辞苑)とある。「単独者」とは神の前にただ一人向き合う者だとすると、他者との人間関係よりも、神との関係に重点を置いている概念のようだ。他者に背を向けてたった独り神と真向かうべく去ってゆく単独者の厳しい精神のありようを描いている歌なのだろう。(鹿取)
(後日意見)
キルケゴール=単独者にとって、神は個としての実存的苦悩、孤独と直接向き合う、絶対的存在であり、十九世紀初めの集団に埋没し、国教会の儀式や牧師を媒介にして神と向き合う他の信者からは毒、すなわち毒を振りまくものと、背教者のように見られていた。帽子を深く被り、他者との関わりを拒み、ひたすら神に救いを求め、時代を超えて、孤高に毅然と歩んでゆく。彼は自身の思想は次世代で理解されることを予感していた。後ほど神を捨てたニーチェ、ハイデガー、サルトルといった実存主義者たちが彼を始祖として、その歩みをたどるのである。(石井)
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