2025年度版 渡辺松男研究45(2017年1月実施)
『寒気氾濫』(1997年) 【冬桜】P151~
参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
372 空中はひかりなるかや一葉の樹から離れて地までの間
(レポート)
これは後の377番歌(ひとひとりおもえば見ゆる冬木立ひかりは幹に枝に纏わる)の一首と呼応する歌の様におもう。樹からはなれて地に着くまでの空中を作者はふと「ひかりなるかや」と詠嘆する。このときの「ひかり」とは、この歌集『寒気氾濫』で作者がよく詠われている、魂や霊やみえないものを讃えての表現だろうと思った。はらはらと舞いながら散る葉は、現実から遊離し見えないもの達と交流している印象を得た。(真帆)
(当日発言)
★「ひかりなるかや」ですが、これは「ひかりなるかなや」のことですか?「ひかりなるかなや」なら分かるんですが。この部分、調べがいいですね。レポートの見えないものと交流しているという意見も充分くみ取れます。(慧子)
★「ひかりなるかや」は「ひかり」名詞、「なる」断定の助動詞、「か」詠嘆の終助詞、または疑問の係助詞、「や」詠嘆の終助詞ですね。「か」を詠嘆の終助詞と取れば「ひかりなんだなあ」、「か」を疑問の係助詞ととれば「ひかりなんだろうかなあ」、後者の疑問のほうがいいかなあ。ところで、詠嘆で解釈する場合、詠嘆の終助詞には「か」「かな」どちらもあるので、「ひかりなるかや」も「ひかりなるかなや」も文法的には同じ意味です。「かな」を使うと8音で冗漫になるけど「か」だと7音できっぱりと爽やかな印象ですね。 (鹿取)
★事実は銀杏の葉がきらきらと光りながら落ちていくということなんだけど、そう言わないで「空中はひかりなるかや」と言っている。地面に着くまでの時間をスローモーションで見せているところが、慧子さんも言ったように松男さんの詠み方の上手いところ。スローモーションが時空の広がりを思わせて、レポーターの「見えないもの達と交流する」読みも生まれてくる。味わいぶかい歌になっている。(鈴木)
★まあ、この歌、一葉といっているだけで銀杏かどうかは分からないですね。人間にとっては一瞬だけど、こう詠われると葉っぱは地面に着くまでに濃密な時間があって、なるほどいろんなものと交流しているんだなと思わせられますね。(鹿取)
(まとめ)
与謝野晶子の歌に「きんいろのちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に」という非常に視覚的で鮮やかな歌がありますが、あれをスローモーションにして、まつおさんらしくやはり存在というものを思わせる歌。(鹿取)
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