かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 52 中欧 380

2022-06-14 11:03:15 | 短歌の鑑賞
  22年度版 馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
       【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
          渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


380 ドナウ川に青きさざなみすでになく老キャプテンの眼も白濁す

       (レポート)
 上句は、夕暮れになって、昼に見た青いさざ波が消え、黒くうねっているから、と読めないこともない。しかし、下句との関係から、川自体がすでに濁りを帯びてきている、と読むのが自然だ。老いた船長は、ドナウ川とともに永くこの仕事をつづけてきたのだろう。ドナウ川を永く見続けてきた眼は、川と同じようにすでにその青さを失い、白内障のような濁りを生じている。上句の「青きさざなみすでになく」が下句へ自然にかかってゆくところが巧みである。(鈴木)


      (当日発言)
★ハンガリーの熱い心がなくなったことを老キャップテンに仮託している。(曽我)
★上の句は序詞のような働き。下の句の方が作者が言いたかったこと。青春性を失った老キ
 ャプテンを歌っている。(慧子)
★曽我さんの意見に賛成です。上の句は「ドナウ川のさざなみ」を下敷きにしている。
   (鹿取)


     (まとめ)
 「ドナウ川のさざ波」は、イヴァノヴィッチ作曲のワルツ。1889年のパリ万博で演奏されて世界的に有名になった。しかし往時の川の美しさはなくなり、船長の眼も覇気をなくして濁っている。ハンガリーの熱い心がなくなったという曽我さんのような読みがよいのだろう。とするとまた歌が重くなるが、前の歌(ドナウ川クルーズもややに夕暮れてハンガリー舞曲奏でられたり)の「ハンガリー舞曲」も単なる旅情を表す記号ではなくなってくる。やはり、そういう音楽が民衆の心を絡め取って日常性へ埋没させ、アンガージュマンとか覇気とかいうものを結果的には奪っているということかもしれない。最後に船長の歌を置いたからには、一連の中心だったサルトルの思想(376番歌 ハンガリー動乱より十年の日本にサルトルは鑿(のみ)のごとく冴えゐつ)がここまで及んでいるということだろう。というか、そういうことを言いたい為にハンガリーの旅行詠の中にわざわざサルトルの歌を持ち込んだのではなかろうか。この一連のテーマはサルトルの「鑿」なのだろう。(鹿取)


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