2023年版 渡辺松男研究 17 2014年6月
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)62頁~
参加者:泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
145 ダンコウバイの黄葉の表裏陽のなかにサルトルも遠き過去となりたり
(レポート)
ダンコウバイの葉の表面には、黄色の毛があるが早期に脱落し無毛になる。裏面には白色の毛があり比較的遅くまで残る。これによって葉の表裏には色彩的な違いが生じるのだが、秋になって陽に照らされると、黄葉一色になり、その違いは見えない。サルトルによれば、ダンコウバイが自分の本質的なあり方として葉の表裏の違いを選択したのなら、その違いは残らねばならない。ところが、外的な状況(季節)によって黄葉一色にされてしまったのである。サルトルは「実存は、状況に依存し拘束される」(メルロ=ポンティ)ことを考慮していなかったのである。作者が今、「ダンコウバイの黄葉の表裏陽のなかに」みているのは、そうしたサルトルに対する感慨ではないだろうか。
※サルトルの主張は、日本でも60年代の政治闘争において、特に「象牙の塔」的存在である 知識階級に支持されるものとなったが、その後政治状況が変わったこともあり、本歌集がまとめ られた90年代頃には、下火になっている。同時代のメルロ=ポンティが、サルトルの頭で考えた合理性とは異なるタイプのロジックを身体が持っていることを分析し、自転車走行のように身体図式(状況変化に応じて身体の各部位を調整し統合する)を介して、身体は状況の変化に対応してゆく、自由とは、サルトルのような無条件なものではなく、一定の状況に依存し拘束されたものである、と主張する。(鈴木)
(当日発言)
★頭で考えたサルトルに対して、メルロ=ポンティは身体的な考えを取り入れたんだけ
ど、今の社会はサルトルとメルロ=ポンティ両方の考えを持ちながら動いているのか
なと思うけど。(鈴木)
★私、大学時代、メルロ=ポンティがちんぷんかんぷん分からなかったのですが。この
歌、葉の表裏の違いにそんなに意味をみているのでしょうか?私はもっと単純に抒情
的に理解していました。一世を風靡したサルトルの思想が今や忘れ去られて遠い過去
の人になってしまった。自分もある時期かなり真剣にサルトルを学んだが、今はその
思想が自分の中に切実に残っているわけでもない。真っ黄色に色づいたダンコウバイ
の葉っぱが、ちょっとてのひらに似ている大きさですけど、ひらひらと表裏を見せな
がら陽の中に照っている。理屈で解釈しすぎると歌をつまらなくしてしまう気 がしま
す。(鹿取)
★渡辺さんはサルトルからはもともと遠かった人じゃないか。イケイケドンドンの人じ
ゃないから。 (鈴木)
★そうすると、サルトルに心酔した馬場あき子はイケイケドンドンのひとということに
なりますね。渡辺さんがサルトルが遠くなったという感慨を持つのは、かなり近しか
ったからこそ、と私は思います。(鹿取)
(後日意見)(2021年1月)
サルトル(1905年生)とメルロポンティ(1908年生)は師範学校時代に出会い、30代の頃、一緒に雑誌を出したりしていたが、戦後、マルクスに幻滅したメルロポンティはサルトルとも決別した。メルロポンティは61年に病没したが、サルトルは80年まで生きた。(思想が時代によって止揚されていくのは当然だろうが)レポートは思想的にはメルロポンティの現象学の方が長持ちしているという解釈だろうか?
とはいえ、この145番歌や一連の歌にはメルロポンティも現象学も登場せず、サルトルの思想に弱点があったこと、あるいはサルトルの思想がメルロポンティ達の現象学に乗り越えられたことに対する作者の感慨と解釈するレポートは深読みに過ぎるだろう。(鹿取)
(後日意見)(2021年1月)
新緑の季節には表裏の色の違いが目立っていたダンコウバイの葉は、秋になった今、黄葉一色となって陽に照り映えている、この季節のうつろいに、ありのまま順応するダンコウバイの美しい姿をじっと眺めていると、あの一時代を風靡し、私も関心をよせたサルトルの思想は、今や忘れ去られ、はるか昔のことだったという懐旧の念が湧いてくる。
鈴木氏のレポートで違和感を覚えるのは、ダンコウバイの本質は葉の表裏の色の違いと、と捉えていることです。これはダンコウバイのひとつの特徴であって、本質ではありません。本質は季節のうつろいに順応し、己を変化させるダンコウバイのありのままの姿です。又「サルトルは「実存は、状況に依存し拘束される」(メルロ=ポンティ)ことを考慮していなかったのである。」と述べられますが、唐突にメルロ=ポンティの思想を持ち出し、そして「考慮していなかった」とすなわち、サルトルはメルロ=ポンティによって乗り越えられるべきだという論述は理解に苦しみます。
サルトルは「実存」を、メルロ=ポンティは「身体」(状況)を第一義とした哲学者です。それぞれの思想に優劣はなく、観点の相違があるだけです。むしろ作者は自然の営みに比して、そのような思想のはやりすたりを揶揄しているのではないでしょうか。(S・I)
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)62頁~
参加者:泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
145 ダンコウバイの黄葉の表裏陽のなかにサルトルも遠き過去となりたり
(レポート)
ダンコウバイの葉の表面には、黄色の毛があるが早期に脱落し無毛になる。裏面には白色の毛があり比較的遅くまで残る。これによって葉の表裏には色彩的な違いが生じるのだが、秋になって陽に照らされると、黄葉一色になり、その違いは見えない。サルトルによれば、ダンコウバイが自分の本質的なあり方として葉の表裏の違いを選択したのなら、その違いは残らねばならない。ところが、外的な状況(季節)によって黄葉一色にされてしまったのである。サルトルは「実存は、状況に依存し拘束される」(メルロ=ポンティ)ことを考慮していなかったのである。作者が今、「ダンコウバイの黄葉の表裏陽のなかに」みているのは、そうしたサルトルに対する感慨ではないだろうか。
※サルトルの主張は、日本でも60年代の政治闘争において、特に「象牙の塔」的存在である 知識階級に支持されるものとなったが、その後政治状況が変わったこともあり、本歌集がまとめ られた90年代頃には、下火になっている。同時代のメルロ=ポンティが、サルトルの頭で考えた合理性とは異なるタイプのロジックを身体が持っていることを分析し、自転車走行のように身体図式(状況変化に応じて身体の各部位を調整し統合する)を介して、身体は状況の変化に対応してゆく、自由とは、サルトルのような無条件なものではなく、一定の状況に依存し拘束されたものである、と主張する。(鈴木)
(当日発言)
★頭で考えたサルトルに対して、メルロ=ポンティは身体的な考えを取り入れたんだけ
ど、今の社会はサルトルとメルロ=ポンティ両方の考えを持ちながら動いているのか
なと思うけど。(鈴木)
★私、大学時代、メルロ=ポンティがちんぷんかんぷん分からなかったのですが。この
歌、葉の表裏の違いにそんなに意味をみているのでしょうか?私はもっと単純に抒情
的に理解していました。一世を風靡したサルトルの思想が今や忘れ去られて遠い過去
の人になってしまった。自分もある時期かなり真剣にサルトルを学んだが、今はその
思想が自分の中に切実に残っているわけでもない。真っ黄色に色づいたダンコウバイ
の葉っぱが、ちょっとてのひらに似ている大きさですけど、ひらひらと表裏を見せな
がら陽の中に照っている。理屈で解釈しすぎると歌をつまらなくしてしまう気 がしま
す。(鹿取)
★渡辺さんはサルトルからはもともと遠かった人じゃないか。イケイケドンドンの人じ
ゃないから。 (鈴木)
★そうすると、サルトルに心酔した馬場あき子はイケイケドンドンのひとということに
なりますね。渡辺さんがサルトルが遠くなったという感慨を持つのは、かなり近しか
ったからこそ、と私は思います。(鹿取)
(後日意見)(2021年1月)
サルトル(1905年生)とメルロポンティ(1908年生)は師範学校時代に出会い、30代の頃、一緒に雑誌を出したりしていたが、戦後、マルクスに幻滅したメルロポンティはサルトルとも決別した。メルロポンティは61年に病没したが、サルトルは80年まで生きた。(思想が時代によって止揚されていくのは当然だろうが)レポートは思想的にはメルロポンティの現象学の方が長持ちしているという解釈だろうか?
とはいえ、この145番歌や一連の歌にはメルロポンティも現象学も登場せず、サルトルの思想に弱点があったこと、あるいはサルトルの思想がメルロポンティ達の現象学に乗り越えられたことに対する作者の感慨と解釈するレポートは深読みに過ぎるだろう。(鹿取)
(後日意見)(2021年1月)
新緑の季節には表裏の色の違いが目立っていたダンコウバイの葉は、秋になった今、黄葉一色となって陽に照り映えている、この季節のうつろいに、ありのまま順応するダンコウバイの美しい姿をじっと眺めていると、あの一時代を風靡し、私も関心をよせたサルトルの思想は、今や忘れ去られ、はるか昔のことだったという懐旧の念が湧いてくる。
鈴木氏のレポートで違和感を覚えるのは、ダンコウバイの本質は葉の表裏の色の違いと、と捉えていることです。これはダンコウバイのひとつの特徴であって、本質ではありません。本質は季節のうつろいに順応し、己を変化させるダンコウバイのありのままの姿です。又「サルトルは「実存は、状況に依存し拘束される」(メルロ=ポンティ)ことを考慮していなかったのである。」と述べられますが、唐突にメルロ=ポンティの思想を持ち出し、そして「考慮していなかった」とすなわち、サルトルはメルロ=ポンティによって乗り越えられるべきだという論述は理解に苦しみます。
サルトルは「実存」を、メルロ=ポンティは「身体」(状況)を第一義とした哲学者です。それぞれの思想に優劣はなく、観点の相違があるだけです。むしろ作者は自然の営みに比して、そのような思想のはやりすたりを揶揄しているのではないでしょうか。(S・I)
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