かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

追加版 馬場あき子の外国詠 26

2019-01-10 18:44:40 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放

      ◆後日意見部分を追加しました。
    

 26 日本人の味がする手を舐めてゐし山羊を叱れり遊牧少年

     (まとめ)
 「日本人の味がする手」には意表をつかれる。山羊は現地人だ日本人だ西洋人だと、かぎ分けて舐めているのではないだろうが、確かにそれぞれ味は違うだろう。食べ物によっても労働の種類によっても手の味は違ってくるであろうが、「日本人の味がする手」と言われると何か秘密を覗いたような気もする。山羊を叱った遊牧少年も、そんな秘密の臭いを感じ取ったのだろうか。レポーターがいうように「埋めがたい距離」がどうしようもなく存在する。そんな言い難い感じを、下の句では事実だけを描写して読者に伝えようとしている。(鹿取)
 

      (レポート)
 16番歌(ベルベル族の少年は砂漠に手を広げ友よと言ひてなよるならずや)で少年を詠んでいるが、この歌では山羊がいて、少年がいる。上の句では作者が山羊に近寄り山羊に触れている。手を山羊になめさせている作者がいる。その山羊を少年が叱ったというのである。手を介在しながら作者と少年の距離、日本人(東洋人)とサハラの先住民であるベルベル族の少年、その埋めがたい距離をかいまみたのであろうか。結句の「遊牧少年」と名詞止めでうたったところにこの歌の眼目があり、山羊を通して、その少年をじっと見つめている、よく見ている作者がいる。(藤本)


     (後日意見)(2019年1月追記)
 「短歌」2019年1月号の馬場あき子とアーサー・ビナードの対談にこの歌が採り上げられていた。ビナードさんは国家と個人の問題に繋がる歌として挙げている。対談を抜粋させていただく。

 馬場:山羊が日本人の手を舐めているのを少年が「止めろ、止めろ」と言って舐めさせない。
 馬場:私の手も舐めさせたけど、友達もみんな可愛いから舐めさせた。それを少年が怒るんです。
    汚い手を舐めるんじゃないって(笑)。
 馬場:少年その人がね、ある種の拒否感を感じたのね。嫌なものを舐めさせているという。
 馬場:(略)やはり、日本人の悪しき何かを絶えず持っている。私個人の習性かもしれませんけ
    どね。そうすると、日本人の味がする嫌な手だと思うわけね。

 馬場の発言にある、苦い微妙な思いというのは歌にそこはかとなく滲んでいるような気がする。長くなるのでビナードさんの国家の枠や民族、アイデンティティーに関する発言は割愛した。興味深い説なので、ぜひ「短歌」1月号でお読みください。(鹿取)
     



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