かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 60

2023-06-17 10:00:51 | 短歌の鑑賞
  2023年版渡辺松男研究⑧(13年9月)
     【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子、鹿取未放  
      司会と記録:鹿取 未放


60 白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり

     (当日意見)
★次の歌「敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ」との関係
 で、おそらくこの連作は沖縄へ行った時のことを詠っているようだ。そうするとこ
 の歌の背景が分かる。白き兵というと私などは傷痍軍人の姿を思い浮かべてしま
 う。敗残兵という感じなのでしょうか。あるいは白兵というのも考えられるが、お
 そらく白兵的なものではなくて、やっぱり後の歌につながるような敗走の兵なので
 はないかと思うけど。ひかりと絡み合わせているのも、沖縄の風景と併せてでてき
 ているんだろうなと思います。(鈴木)
★「ひかりの向こうがわ」というのは、どんなふうに捉えられますか?渡辺さん、向
 こう側というのをよく使うんだけど。この歌では浜辺だか背の低い草原の中だか
 を、ずーと白い服の兵が歩いていって、そのうち地平線の向こうに隠れて視野から
 見えなくなる、そんな状態を詠っているのでしょうか。もうちょっと哲学的な光の
 向こう側なんでしょうか。(鹿取)
★私は哲学的な光の向こう側だと思います。(高村)
★そのことを分かりやすく説明すると、どういうことなんでしょうか。(鹿取)
★光の向こう側なんてなかなか思いつかないと思うんですね。光の当たっているとこ
 ろは分かるけど、その向こうはなかなか想像できない。(高村)
★すると計測できるような普通の距離ではないんですね。(鹿取)
★渡辺さんの歌い方には、こういうのよくありますよね。少し先の頁にある〈空間へ
 踏みいりて出られなくなりし一世(ひとよ)にてあらん紙を切る音〉などもそうで
 す。空間を一つの箱みたいに考えていて、そんなかに閉じこめられて出られなくな
 っていて、紙を切る音がしますよと言っているのと、光の向こう側へ行くというの
 と、同じような感じ。(鈴木)
★前にもありましたよね、葱の匂いと共に空間が閉じられるというような意味の歌。
  (鹿取)


      (追記)
 「川向こうへ銀杏しきりに散りぬれどむこうがわとはいかなる時間」(かりん、1993年2月号・歌集未収録)など「向こうがわ」を扱った歌は初期の頃から幾首かある。この歌は志向の分かりやすい歌なのであげてみた。
 次に引用するのは大井学さんのインタビューに答えたもので、『泡宇宙の蛙』の編集で考慮したことを述べている部分。第二歌集についてだが、渡辺さんの歌について、「向こう側」について大いに参考になる。(73番歌「ネクロポリスは月のかたちの石に満ち人寿三万歳のわれは行く」なども、次に言う「自己同一的実体的作歌主体」の枠をはみ出した歌なのだろう。)

   『寒気氾濫』は無意識に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思い
   ました(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の
   蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としてい
   る作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの
   不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意
   味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを
   包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、これらのことはいつも
   こちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なこと
   でした。             (「かりん」2010年11月号)


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