22年改訂版 渡辺松男研究2の12(2018年6月実施)
【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
87 畦に座り口あけているおばあちゃん 満州は日の沈む方角
(A)(……)時代から忘れられた田んぼの畦道に取り残されたおばあちゃんの視線を辿っ
て見える満州という歴史の彼方の地。夕日のイメージに導かれた満州はおばあちゃん
の記憶のなかで過去の栄光の地として蘇り惜しまれている。人の心にしまわれた記憶
の理不尽なのであり、歴史的理解とのズレや溝がおばあちゃんの存在とともに痛まし
く浮かび上がる。(川野里子)
(C)(……)満州の地平線に沈む夕日はとてつもなく大きく赤いと聞くが、おばあち
ゃんが畦に座り口をあけて見ているのは、飢えと寒さに耐えて這々の体で引き揚げて
きた満州なのであろうか。あるいは満州で戦死した夫や兄弟を痛恨の思いで悼んでい
るのであろうか。この一連で渡辺松男のおののきの目は時代へも戦争へも届いている
のだが、彼の意識を占めているのは過去の戦争や引き揚げなど社会的な事象への関心
や反省ばかりではない。それはこの一連がおばあちゃんへの呼びかけの体裁をとりつ
つ、実は自己確認としてのモノローグの呟きに近いことがよく示している。そこに立
ち現れてくるのは、ダイアローグでありながら、そのおばあちゃんの痛切な思いにど
うにも擦り寄りがたくある自己の全き他者性であろう。言い換えれば人間の全き個別
性でもあろう。(鹿取)
(レポート)
おばあちゃんはどしりと座って口をあけて何かをずっとぼんやり回想しているようだ。下の句におばあちゃんの満州がある。戦争など語らず「日の沈む方角」というだけで、(戦時下の満州での日々を回想しながら)夕陽を浴びているおばあちゃんが浮かぶ。(真帆)
(当日意見)
★川野さんは現代から取り残されたおばあちゃんというアプローチで迫っている。それで満
州は過去の栄光の地と捉えられる。私が満州を戦争の悲惨な記憶と捉えているのと対照的
で面白く思いました。確かに、戦前満州で優雅な暮らしを営んだ日本人はたくさんいまし
たものね。ところで、茂吉じゃないけど、この一連は赤のイメージで繋がっていますね。
タバコとか満州の日とか、後には火星も出てくるし。85番歌「おばあちゃんタバコをふ
かすおばあちゃん紅梅よりずっと遠くを見ている」は赤という色から選ばれた紅梅かなあ
と思っていましたが。まあ、次には黒内障が出てきますけど。それにしても紅梅の頃、畦
に座るって寒いでしょうね。(鹿取)
(後日意見)(2022年5月)
ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢
馬場あき子『世紀』(2001年刊)【中欧を行く】より
夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人
87番歌を鑑賞するとき、87番歌発表より後に作られた馬場のこれらの歌が念頭にあった。特に後者の歌が87番歌と重なった。「ドナウ川の虹をひとり見る人」は、実際そういう人がいたかもしれないが、おそらく創作だろう。同様に87番歌の「畦に座り口あけているおばあちゃん」も馬場の歌同様の創作だろうと思っていた。そして作中の老女がハンガリー動乱や市街戦を思い返しているように、87番歌のおばあちゃんも満州で苦労し引き上げてきたイメージだった。
ところで最近、次のような歌を読んだので、自分の中で少しだけ87番歌の鑑賞を修正した。
福松こんど満州などにゆきしゆゑ財を一切失くして帰る
渡辺松男「福松の出奔」(「かりん」22年5月号)
財のなきのつぽ 福松に背負はれて孫の松男の見てゐた世界
この歌に従うと、福松の妻は出てこないが、孫がいるから妻もいたであろうし、その妻は福松と共に満州に行ったと考えるのが自然だろう。故に、目の前に祖母あるいは見知らぬおばあさんがいるかどうかは別にして、満州帰りの祖母の存在がこの下の句には明らかに投影しているのであろう。また、この祖母の存在が一連の発想の大本にあったのかもしれない。(鹿取)
※馬場あき子の2首の解説は、下記URLからご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/david10752414/e/8878561b008181909fc45f66ee047191
https://blog.goo.ne.jp/david10752414/e/a4d8e33fe9dc9ea749fb08896a499d7c
【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
87 畦に座り口あけているおばあちゃん 満州は日の沈む方角
(A)(……)時代から忘れられた田んぼの畦道に取り残されたおばあちゃんの視線を辿っ
て見える満州という歴史の彼方の地。夕日のイメージに導かれた満州はおばあちゃん
の記憶のなかで過去の栄光の地として蘇り惜しまれている。人の心にしまわれた記憶
の理不尽なのであり、歴史的理解とのズレや溝がおばあちゃんの存在とともに痛まし
く浮かび上がる。(川野里子)
(C)(……)満州の地平線に沈む夕日はとてつもなく大きく赤いと聞くが、おばあち
ゃんが畦に座り口をあけて見ているのは、飢えと寒さに耐えて這々の体で引き揚げて
きた満州なのであろうか。あるいは満州で戦死した夫や兄弟を痛恨の思いで悼んでい
るのであろうか。この一連で渡辺松男のおののきの目は時代へも戦争へも届いている
のだが、彼の意識を占めているのは過去の戦争や引き揚げなど社会的な事象への関心
や反省ばかりではない。それはこの一連がおばあちゃんへの呼びかけの体裁をとりつ
つ、実は自己確認としてのモノローグの呟きに近いことがよく示している。そこに立
ち現れてくるのは、ダイアローグでありながら、そのおばあちゃんの痛切な思いにど
うにも擦り寄りがたくある自己の全き他者性であろう。言い換えれば人間の全き個別
性でもあろう。(鹿取)
(レポート)
おばあちゃんはどしりと座って口をあけて何かをずっとぼんやり回想しているようだ。下の句におばあちゃんの満州がある。戦争など語らず「日の沈む方角」というだけで、(戦時下の満州での日々を回想しながら)夕陽を浴びているおばあちゃんが浮かぶ。(真帆)
(当日意見)
★川野さんは現代から取り残されたおばあちゃんというアプローチで迫っている。それで満
州は過去の栄光の地と捉えられる。私が満州を戦争の悲惨な記憶と捉えているのと対照的
で面白く思いました。確かに、戦前満州で優雅な暮らしを営んだ日本人はたくさんいまし
たものね。ところで、茂吉じゃないけど、この一連は赤のイメージで繋がっていますね。
タバコとか満州の日とか、後には火星も出てくるし。85番歌「おばあちゃんタバコをふ
かすおばあちゃん紅梅よりずっと遠くを見ている」は赤という色から選ばれた紅梅かなあ
と思っていましたが。まあ、次には黒内障が出てきますけど。それにしても紅梅の頃、畦
に座るって寒いでしょうね。(鹿取)
(後日意見)(2022年5月)
ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢
馬場あき子『世紀』(2001年刊)【中欧を行く】より
夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人
87番歌を鑑賞するとき、87番歌発表より後に作られた馬場のこれらの歌が念頭にあった。特に後者の歌が87番歌と重なった。「ドナウ川の虹をひとり見る人」は、実際そういう人がいたかもしれないが、おそらく創作だろう。同様に87番歌の「畦に座り口あけているおばあちゃん」も馬場の歌同様の創作だろうと思っていた。そして作中の老女がハンガリー動乱や市街戦を思い返しているように、87番歌のおばあちゃんも満州で苦労し引き上げてきたイメージだった。
ところで最近、次のような歌を読んだので、自分の中で少しだけ87番歌の鑑賞を修正した。
福松こんど満州などにゆきしゆゑ財を一切失くして帰る
渡辺松男「福松の出奔」(「かりん」22年5月号)
財のなきのつぽ 福松に背負はれて孫の松男の見てゐた世界
この歌に従うと、福松の妻は出てこないが、孫がいるから妻もいたであろうし、その妻は福松と共に満州に行ったと考えるのが自然だろう。故に、目の前に祖母あるいは見知らぬおばあさんがいるかどうかは別にして、満州帰りの祖母の存在がこの下の句には明らかに投影しているのであろう。また、この祖母の存在が一連の発想の大本にあったのかもしれない。(鹿取)
※馬場あき子の2首の解説は、下記URLからご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/david10752414/e/8878561b008181909fc45f66ee047191
https://blog.goo.ne.jp/david10752414/e/a4d8e33fe9dc9ea749fb08896a499d7c
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