ブログ版清見糺鑑賞 3 ピエタ
かりん鎌倉支部 鹿取未放
15 ミケランジェロ八十九年の未完成〈ピエタ〉おぼぼしされば逢いたし
「かりん」94年8月号
処刑されたキリストをマリアが抱いて嘆く〈ピエタ〉の彫像を、ミケランジェ ロは四体残している。
① サン・ピエトロのピエタ(バチカン市国、サン・ピエトロ寺院) 23~25歳
② ドゥオーモのピエタ(フィレンツェ、ドゥオーモ博物館) 75歳着手未完成
③ パレストリーナのピエタ(フィレンツェ、アカデミー美術館) 80歳着手未完成
④ ロンダニーニのピエタ(ミラノ、スフォルツェスコ城) 84~89歳 未完成
①は克明で崇高、完成された美を宿している。②③④はいづれも未完成だが、 後年にいくに従って荒削りになっている。最後のロンダニーニのピエタの、特に腰から上の部分など古代遺跡から掘り出されたばかりの石の塊のような印象さえ受ける。その最後のピエタをミケランジェロは自分の墓を飾るためにと死の数日前まで掘っていたそうである。
15の歌と同時期に作者は
歌うならぽるのちっくな恋の歌 ロンダニーニの〈ピエタ〉あたたか
とも詠っている。八十九歳の最後のピエタの未完成でおぼおぼとしたところに作者はエロスを抱え込んだ存在の暖かさのようなものを感じ、①の完成された美とはまた別の芸術の力を感じて評価しているのだろう。15番歌はそのピエタ像の図録(だろう、たぶん)を見ているとしきりに本物の像に逢いたくなったというのだろうか。それとも「逢う」という字を使っていることや上記引用の歌などからすると逢いたいのは恋しい女だろうか。いずれにしろ四句切れのあとの「逢いたし」に痛切な希求の思いが滲んでいる。
*ある本によると、ミケランジェロは晩年右の手が不自由だったそうで、④の像の荒削り
であるのは手のせいだとも考えられる。(〇八年記)
かりん鎌倉支部 鹿取未放
15 ミケランジェロ八十九年の未完成〈ピエタ〉おぼぼしされば逢いたし
「かりん」94年8月号
処刑されたキリストをマリアが抱いて嘆く〈ピエタ〉の彫像を、ミケランジェ ロは四体残している。
① サン・ピエトロのピエタ(バチカン市国、サン・ピエトロ寺院) 23~25歳
② ドゥオーモのピエタ(フィレンツェ、ドゥオーモ博物館) 75歳着手未完成
③ パレストリーナのピエタ(フィレンツェ、アカデミー美術館) 80歳着手未完成
④ ロンダニーニのピエタ(ミラノ、スフォルツェスコ城) 84~89歳 未完成
①は克明で崇高、完成された美を宿している。②③④はいづれも未完成だが、 後年にいくに従って荒削りになっている。最後のロンダニーニのピエタの、特に腰から上の部分など古代遺跡から掘り出されたばかりの石の塊のような印象さえ受ける。その最後のピエタをミケランジェロは自分の墓を飾るためにと死の数日前まで掘っていたそうである。
15の歌と同時期に作者は
歌うならぽるのちっくな恋の歌 ロンダニーニの〈ピエタ〉あたたか
とも詠っている。八十九歳の最後のピエタの未完成でおぼおぼとしたところに作者はエロスを抱え込んだ存在の暖かさのようなものを感じ、①の完成された美とはまた別の芸術の力を感じて評価しているのだろう。15番歌はそのピエタ像の図録(だろう、たぶん)を見ているとしきりに本物の像に逢いたくなったというのだろうか。それとも「逢う」という字を使っていることや上記引用の歌などからすると逢いたいのは恋しい女だろうか。いずれにしろ四句切れのあとの「逢いたし」に痛切な希求の思いが滲んでいる。
*ある本によると、ミケランジェロは晩年右の手が不自由だったそうで、④の像の荒削り
であるのは手のせいだとも考えられる。(〇八年記)
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