渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)
【半眼】P148~
参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
369 ちぢまりえぬ距離など思いあいながら半眼となる夕暮れの樹々
(レポート)
夕暮れになると私達は家に帰ったり、恋人と会ったりするものだが、樹と樹はちぢまりえぬ距離のまま思いあいながら半眼となると詠う。かなわないことを秘めていて夕暮れの頃の樹には崇高さがたちあがる。(慧子)
(当日意見)
★「半眼となる」が効いている一首。366番の歌「君に電話をしようかどうかためらうに夕
日は落ちるとき加速せり」と似ていて、主語のすり替えのテクニックがあると思った。この
歌は半眼となったのは本当は景色で、夕暮れ時で闇になってしまう前の薄暗闇を半眼と言っ
ている。だから主語は本当は町なんじゃないか。樹に目があって樹全体が少し眠りに入って
いくような状態だと感じられるところが不思議で巧みと思いました。(真帆)
★それだと、主語のすり替えというより、風景である町も樹も半眼になるという捉え方ですよね。
私はうたってあるとおりに樹には目があって、それが夕暮れになると半眼になるというように解
釈しました。歌集の前の方に樹に目があるという歌がありましたが、ああ、これですね、13
頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」。樹と樹というのは動けない
わけで、だから自分から距離をちぢめてくっつくことは出来ないけど、いろいろ感じてはいるの
でしょう。隣にある樹が心地よいとか、あの樹のお蔭で陽が当たらないから邪魔だなあとか感じ
ているはずですよね。細胞同士だって分化の過程で君が肺になるなら、僕は心臓になるよとか感
応し合っているらしいですから。松男さんの歌を読む時、「吹けばかまきりの子は飛びちりあな
たはりありずむのめがねをかけているだけ」(『〈空き部屋〉』)の歌がいつも思い浮かびます。
だから私は書いてあるとおりに読もうと思っています。でも歌の読み方は自由ですから、いろんな
解釈があっていいとは思います。(鹿取)
★河野裕子さんに木には耳があるという歌がありましたね。(慧子)
★レポーターは崇高ということを言っておられますが、仏像のよううな、悟りのようなことを感じ
られたのでしょうか?(真帆)
★はい、それを感じたと同時に、夕暮れと半眼をもっとよくみて鑑賞して、夕暮れの薄闇の力をレ
ポートに書き込むべきだったなあと思っています。だけど、半眼って仏像によく使いますよね。
その感じって夕方に通うものがありますよね。でも、半眼って仏教だけに限らないですよね。
(慧子)
(後日意見)
当日意見の慧子発言にある河野裕子の「木には耳があるという歌」とは「捨てばちになりてしまへず 眸(め)のしづかな耳のよい木がわが庭にあり」のことだろうか。これは眸も耳もありますね。また、当日意見の中で引用した13頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の他にも松男さんには木に目がある歌が何首かある。これも既に鑑賞した「木を嚙みてわれ遁走すおもむろに木は薄き目を開けて見ていん」もその1首だし、『蝶』のこの歌も鑑賞した。「木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず」。
「樹に目があると誰に告げまし」の歌は、樹に目があると誰に告げようか、誰に告げてもきっと信じてはもらえないだろうなという気分。「樹に目がある」ということは日常的には誰にでも納得してもらえることではないので、「誰に告げまし」となっている。この歌の鑑賞の時、私も少しとまどった発言をしているが、月夜の美しさにうっとりと目を閉じてゆく樹の様子を素直に感じ取ればよかった。(鹿取)
※「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の鑑賞は、下記のURLから 御覧になれます。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=eb50007a4e35863d5b1334900ffeb557&p=136&disp=10
【半眼】P148~
参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
369 ちぢまりえぬ距離など思いあいながら半眼となる夕暮れの樹々
(レポート)
夕暮れになると私達は家に帰ったり、恋人と会ったりするものだが、樹と樹はちぢまりえぬ距離のまま思いあいながら半眼となると詠う。かなわないことを秘めていて夕暮れの頃の樹には崇高さがたちあがる。(慧子)
(当日意見)
★「半眼となる」が効いている一首。366番の歌「君に電話をしようかどうかためらうに夕
日は落ちるとき加速せり」と似ていて、主語のすり替えのテクニックがあると思った。この
歌は半眼となったのは本当は景色で、夕暮れ時で闇になってしまう前の薄暗闇を半眼と言っ
ている。だから主語は本当は町なんじゃないか。樹に目があって樹全体が少し眠りに入って
いくような状態だと感じられるところが不思議で巧みと思いました。(真帆)
★それだと、主語のすり替えというより、風景である町も樹も半眼になるという捉え方ですよね。
私はうたってあるとおりに樹には目があって、それが夕暮れになると半眼になるというように解
釈しました。歌集の前の方に樹に目があるという歌がありましたが、ああ、これですね、13
頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」。樹と樹というのは動けない
わけで、だから自分から距離をちぢめてくっつくことは出来ないけど、いろいろ感じてはいるの
でしょう。隣にある樹が心地よいとか、あの樹のお蔭で陽が当たらないから邪魔だなあとか感じ
ているはずですよね。細胞同士だって分化の過程で君が肺になるなら、僕は心臓になるよとか感
応し合っているらしいですから。松男さんの歌を読む時、「吹けばかまきりの子は飛びちりあな
たはりありずむのめがねをかけているだけ」(『〈空き部屋〉』)の歌がいつも思い浮かびます。
だから私は書いてあるとおりに読もうと思っています。でも歌の読み方は自由ですから、いろんな
解釈があっていいとは思います。(鹿取)
★河野裕子さんに木には耳があるという歌がありましたね。(慧子)
★レポーターは崇高ということを言っておられますが、仏像のよううな、悟りのようなことを感じ
られたのでしょうか?(真帆)
★はい、それを感じたと同時に、夕暮れと半眼をもっとよくみて鑑賞して、夕暮れの薄闇の力をレ
ポートに書き込むべきだったなあと思っています。だけど、半眼って仏像によく使いますよね。
その感じって夕方に通うものがありますよね。でも、半眼って仏教だけに限らないですよね。
(慧子)
(後日意見)
当日意見の慧子発言にある河野裕子の「木には耳があるという歌」とは「捨てばちになりてしまへず 眸(め)のしづかな耳のよい木がわが庭にあり」のことだろうか。これは眸も耳もありますね。また、当日意見の中で引用した13頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の他にも松男さんには木に目がある歌が何首かある。これも既に鑑賞した「木を嚙みてわれ遁走すおもむろに木は薄き目を開けて見ていん」もその1首だし、『蝶』のこの歌も鑑賞した。「木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず」。
「樹に目があると誰に告げまし」の歌は、樹に目があると誰に告げようか、誰に告げてもきっと信じてはもらえないだろうなという気分。「樹に目がある」ということは日常的には誰にでも納得してもらえることではないので、「誰に告げまし」となっている。この歌の鑑賞の時、私も少しとまどった発言をしているが、月夜の美しさにうっとりと目を閉じてゆく樹の様子を素直に感じ取ればよかった。(鹿取)
※「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の鑑賞は、下記のURLから 御覧になれます。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=eb50007a4e35863d5b1334900ffeb557&p=136&disp=10
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