かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 134

2023-10-26 17:51:49 | 短歌の鑑賞
 2023年版 渡辺松男研究 16  2014年6月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:曽我 亮子   司会と記録:鹿取 未放
               

134 この木ときどきたいくつそうにうつむきてぬるぬるの根を地中から出す
  
           (紙上意見)
 樹ではなく、「この木たいくつそうに」といっているところから、路からよくみかける木なのだろう。さらに「うつむきて」とあるので、低木のそれなりに年数を経た木が、地表へ根をはりだしているのだろう。たぶん雨に濡れて根がぬるぬると湿っているのだろうが、タコの足のように生き生きしている。(鈴木)


          (当日発言)      
★上がり根というか土から浮いている根っこのことだと思います。退屈だから根が地中から遊びに 
 出てきた。(慧子)
★ガジュマルなんかは地中から出てるけど、ぬるぬるではないわね。それにこの歌では時々根っこ
 を出すというのだから常時出ているガジュマルの根っこなどとは違うと思います。「ときどき~
 出す」だから動作ですね。この一連、植物が題材ですが、みな動きがある歌です。私はこのぬる
 ぬるは情念というか存在の根っ子つまり生の根源的なものをさしているように思います。この木
 って言ってますけど、木でもあり、〈われ〉でもあるのでしょう。存在の退屈とか、生きてる根
 拠のむなしさとか、それでも何か探りたいとか、この根はそういう哲学的なものだと思います。 
 サルトルの「嘔吐」とか朔太郎の詩とかいろんな関連を考えました。ただ、そういう重い主題を
 余裕を持ってうたっているところが面白いと思います。ユーモアというか、よい意味での幼児性
 というか。(鹿取)


      (まとめ)
 この歌からサルトルの「嘔吐」を連想したり存在の根源を問題にしていると考えるのは、あながち飛躍しすぎではないと思う。「宙宇のきのこ」一連には神の存在を問う歌があり、「サルトルも遠き過去となりたり」や「存在をむきだしにせよ」のフレーズをもつ歌などがあるからである。
 もちろん「サルトルも遠き過去となりたり」とあるように時代は実存主義をはるかに忘れ去ったようだし、作者自身も通り過ぎた思想をそのまま歌に詠み込むことはないだろう。だから「嘔吐」のロカンタンがマロニエの木の根っこを見て感じたような、存在を根底から覆されるような転換はこの歌にはない。もう転換は経験ずみだからだ。でも、主人公ロカンタンが意識の転換後に書く「そして怪物染みた軟かい無秩序の塊が――恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」(白井浩司訳「嘔吐」)と「ぬるぬるの根」にはいくらか共通項があるように思われる。「嘔吐」から離れても、この「ぬるぬるの根」は、人間の内臓のようでもあり、どろどろした魂の核のようでもある。
 また、朔太郎との関連もありそうな気がする。去年かりんで「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を書いたら、当の渡辺さんから「朔太郎は好きではないが、アンチというほど嫌いではないです」というメールが届いた。もちろんアンチは言葉の綾で朔太郎に対する渡辺さんの距離はそういう感じだろうとは思っていた。その後、お互い朔太郎のどんな詩が好きかやりとりがあったが、渡辺さんは朔太郎をよく読みこまれていることが分かった。サルトルの哲学的な考察と朔太郎の自意識は次元が違うが、別の階層にしろ作者の精神生活のいずれかに、どちらも奥深く仕舞われているのかもしれない。
 萩原朔太郎の詩二編を次にあげる。
 
光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/  根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶる繊毛が生え、/かすかにふるえ。   「竹」
  冬至のころの、/さびしい病気の地面から、/ほそい青竹の根が生えそめ、/生えそめ、/そ  れがじつにあはれふかくみえ、/けぶれるごとくに視え、/じつにじつにあはれぶかげに視え。  地面の底のくらやみに、/さみしい病人の顔があらはれ。  「竹とその哀傷―月に吠える―」
  
 作者の樹木に対する親しみは、もちろん朔太郎を識る以前からのものだろう。だから根っこがうたわれようが朔太郎の直接影響では全くないが、それこそ遠く離れた地下茎のようなものでかすかに繋がっているようにも思える。朔太郎の根は繊細で病的な暗い自意識そのもののようだが、渡辺の根っこはぬるぬるしていながら明るい。少しぼーとした木が自分のぬるぬるの根っこを眺めている図は想像するだけで楽しい。渡辺の歌は朔太郎よりずっとダイナミックで、ユーモアもあり、何よりも世界にむかって開かれているようだ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 372 中欧②

2023-10-25 09:59:15 | 短歌の鑑賞
 2023年度版馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


372 夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人

       (レポート)
 「はるかな」と形容しているのは、過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような視線だ。「虹」があたかもそれを象徴し、時そのものとして流るる「ドナウ川」にかかる。そしてそれを「ひとり見る人」がいる。いずれにせよ取材によったのではなかろうに断定でとおしていることに違和感がないのは、作者の力のゆえであろう。馬場あき子の『太鼓の空間』あとがきより引く。(慧子)
  「日常の視線の中にも縦の時間をみることによってその存在を納得しようとする方
  向をもっていたように思います。それはもう私の癖といってもいいように身につい
  てしまったものの一つですが、この時間空間に漂遊する時が一番私にとっては豊か
  な思いがあります。」 


        (当日発言)
★「虹をひとり見る人」は371番歌「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知
 るハンガリー動乱も夢」同様、作者の力量で作り出した人物。プロのやり方。
   (鈴木)
★レポーターの言う「過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信してい
 るような視線だ」というところは反対。人々の気持ちは歳月が経っても癒されきれて
 いないだろう。(崎尾)
★生々しい傷は歳月によって薄れているだろう。(鈴木)
★確かに生々しい傷は薄れているのだろう。それが虹で表現されている。しかし「ハン
 ガリー動乱」で夫を亡くした老女はその傷を死ぬまで抱えて生きるのだ。三・一一で
 子供や親兄弟を失った人も同じだと思う。また鈴木さんのいうように実在しない人物
 を詩の力で登場させたと考える方が歌として深くなるかもしれない。あるいはドナウ
 川の岸に老女はいたかもしれないが、虹は創作かもしれない。371番歌(ケンピン
 スキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢)その老女と作者は言葉
 の問題から意思の疎通は難しいから、おそらく関係を持たず、したがって「夫をなく
 せし市街戦」は作者の想像だろう。そういう独断が詩を生み出しているとも言える。
 レポーターもいうように馬場の独断・断定の歌には秀歌が多い。また馬場自身萩原朔
 太郎の「独断でさえないものが詩であろうか」という旨の言葉をよく引用している。
     (鹿取)
   沙羅の枝に蛇脱ぎし衣ひそとして一夜をとめとなりゆきしもの
                   『青椿抄』馬場あき子
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馬場あき子の外国詠 371 中欧②

2023-10-24 17:36:36 | 短歌の鑑賞
 2023年度版馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


371 ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢

   (当日発言)
★自分の感じを言うのではなく、ある人物を登場させて代詠のように詠うやり方。この
 人物は実際にいなかったかもしれない。(鈴木)
★老女が知っているのは「ハンガリー動乱」であろう。舞台は豪華なケンピンスキーホ
 テル、旅の一夜生演奏されているのだろうリストを聴いている。老女の記憶の中には
 生々とあるハンガリー動乱も、もう夢の彼方のように遠くなってしまったということ
 だろうか。あるいは旅人としてホテルに身を置いて陶然としてリストを聴いていると
 歴史として知っている「ハンガリー動乱」も夢のように感じられる、ということだろ
 うか。(鹿取)


 (後日意見)(2013年11月)
 鈴木さんの発言にあるように、この老女は実際にはいなかったのかもしれない。言葉の問題を考えると近くに座った老女が作者に問わず語りにハンガリー動乱のことを語ったと考えるには無理がある。そうすると広島とか沖縄でやっているような老人が体験談を語る会か。これも公会堂とか体育館とかなら分かるが、背景にリストが流れる優雅なホテルにはそぐわない。やはりこういう老女の存在を設定しているのかもしれない。
 おそらく老女(架空でもよいが)は、どんなに時間が流れてもハンガリー動乱を生々と覚えているのだろう。昨日のことのように覚えていながら、世の中においては遠い夢になってしまったことを老女は自覚しているのだろう。作者はその老女のぼうぼうとした思いに寄り添っているのだ。
 この老女は生きているが能のシテである。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 370 中欧②

2023-10-23 15:00:52 | 短歌の鑑賞
 2023年度版馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


370 動脈のごとく貫けるドナウ川の薔薇都市の重き疲れ夕映ゆ

        (レポート)
 「ドナウ川」はドイツ、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、セルビア・モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアを流れて、ヨーロッパ東南部をまさしく「動脈のごとく貫ける」川だ。「薔薇都市」とは美しいイメージが立ち上がるが、ブダペストを指す。
 薔薇の重なる花びらの「重き」と都市の物語の語りつくせないほどの「重き」をかさね合わせ、それは「疲れ」へと言葉に無理のない流れがあり、「夕映ゆ」に「薔薇都市の重き疲れ」は慰撫されてみえたのであろう。(慧子)


        (当日発言)
★「重き疲れ」を出すために上から言葉を使ってきている。(鈴木)
★8、5、6、8、7と韻律がたどたどしていて読みにくい。それが「重き疲れ」 と
 マッチしているともいえる。「薔薇都市」はそう呼ばれているということだが、
 「貫ける」「薔薇都市」と並べられると、がぜんエロティックな印象を受ける。そ
 れもけだるい気分に一役買っているのだろう。(鹿取)


      (まとめ)
 上の句の言葉は硬く8音、5音と韻律を乱ししているが、イメージ的にはエロティックな感じで下の句に繋がっていく。それは漢字表記の薔薇という字に負うところが大きい。そして歌は、そういうイメージを負う都市そのものに疲れを見いだしている。それは華やかな過去を持ちながら疲弊しているブダペストの街の感想であり、ハンガリーの国の姿でもあるのだろう。薔薇都市の名称をつけられた表層は美しい街が、重い疲れごと夕映えている。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 369 中欧②

2023-10-22 10:32:06 | 短歌の鑑賞
 2023年度版馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


369 ドナウ川のひと日の風景にすぎざるをあひ群れて撮すわが身かなしも

      (当日発言)
★「ドナウ川」は他の川でも取り替え可能。(鈴木)
★自分がドナウ川を見た時は、台風の後だったせいか汚なかった。しかし他の川と違い
 有名だし、ここには四季折々の風景の変化がある。だから取り替え可能ではない、ド
 ナウ川としての説得力があるのではないか。(N・K)
★どこに立ってドナウ川を見ているのかが分からない。スイスのロイス川の歌でも、ど
 こから見ているか分からなかった。(藤本)
★確かに有名な川は世界にいくつもあって、「ドナウ川」はボルガ川にもアムール川に
 も置き換え可能に見える。この川でないといけないことを説得力あるようにどうして
 出すかは難しい。それで「去来抄」に〈行く春を近江の人と惜しみけり〉という句に
 ついての問答があるのを思い出した。「去来抄」では①実景である ②歌枕であると
 いう点で「行く春」を「行く歳」に、「近江」を「丹波」に置き換えはできないとい
 う話だったが、この歌ではどうだろうか。(鹿取)


         (まとめ)       
 当日の議論はここまでだったが、件の「去来抄」の部分を引用しておく。

  行春を近江の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰く、尚白が難に近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有るべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ都におとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真なるかなと申す。先師曰く、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦び給ひけり。

 芭蕉の質問に対して去来は、琵琶湖の湖水が朦朧として春を惜しむのにぴったりだ、実感があると答える。それに芭蕉が付け足して言う。昔の文人達も都の春に劣らず近江の春を愛したのだと。去来ははたと納得して、歌枕としての近江に思い至る。先人達が多く歌ってきた近江だからこそ、この情が浮かんできたのだと。さて、ドナウ川はどうであろうか。(鹿取)

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