デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

足袋御殿

2023-10-26 01:41:33 | ふるさと 行田市

 

足袋御殿

 


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(salon22.jpg)

Subj:あの足袋御殿はでた?

From: sayuri@hotmail.com
To: denman@coolmail
Date: 2011年10月16日 16:22:25


こんにちは。。。
久しぶりに実家に帰って
のんびりと癒されていますか?


(inaka02.jpg)

デンマンさんとご一緒にいただいた「田舎っぺきのこ汁うどん」はメチャ美味しかったですよ。
手打ちなのですね。
“こし”があって、なかなか噛み応えのある手打ちウドンでした。
いつか子供を連れて、また食べてみようと思います。


(udon100.jpg)

「行田のグルメ20」に選ばれただけのことはありますね。


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「きんぴら」は栃木の「きんぴら」とは違って、とても大きく切ってあるのでビックリしました。
埼玉県では、あのように大きな「きんぴら」を食べるのですか?

水城公園ではゆっくりとお話ができて気分がすっきりとしました。
今まで気づきませんでしたけれど、
「ホテイアオイ」の花がたくさん咲いていたのには驚きました。


(suijo32.jpg)


(suijo22.jpg)

「ホテイアオイ」の花

ところで次の記事を読みました。


(yamagoy3.jpg)

『タリアセン夫人と再会』

(2011年10月13日)


デンマンさんは私のメールをそのまま記事の中で使ってしまうのですね。
それってぇ、かなりムカつくのですよ。
名前や地名がすぐにでるんだから。。。
んもお~~。

。。。と書いても、またこのメールも記事の中で使うのでしょうね。
半ば諦めていますが、ほどほどにしてください。
私の堪忍袋がブチ切れないうちに止めてくださいね。(苦笑)


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水城公園から見た「足袋御殿」は昭和の古い時代を垣間(かいま)見せているようでした。
「足袋御殿」のオリジナルの建物の写真はネット上で公開されていますか?

また水城公園でのんびりとお会いしたいですよ。
そのうち電話します。
では。。。

小百合より


(sayuri15.gif)


 




(foolw.gif)

Subj:小百合さん、おはよう!

ゆったりとした気分で

コーヒーを飲みながら

「足袋御殿」の応接室に居る

気分に浸ってね。

きゃはははは。。。



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(saisai7.jpg)

From: denman@infoseek.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 2011年10月18日
(火曜日)午前10時39分


アイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズを調べてみましたか?
日本ではあまり人気がないようで
このコーヒー豆を売っている店は極めてまれです。


(coffee90.jpg)

10日ほど前にYAHOO!で検索した時にゲットした Irish Cream Coffee Beans の画像は10月16日に画像検索した時には見つけることができませんでした。

今日調べてみたら次の画像が見つかりました。


(irish009.jpg)

『ハワイ島のコナ地区から生まれた

世界の名品コナコーヒー』
より

バンクーバーで売っているアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズと比べると約2倍の値段ですよ!

それにしても小百合さんがアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズにハマっているのはちょっと不思議な気がします。
やっぱりカナダの思い出と強く結びついているのだろうね。

僕にとってはとりわけ印象に残るコーヒーではないけれど、
小百合さんが選んだコーヒー豆ということだけが記憶に残っていますよ。

しいて言えば、甘いコーヒー豆の香りが強烈で、
この香りを嗅ぐと小百合さんを思い出すようにになりました。
きゃはははは。。。

僕にとってアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズは小百合コーヒー・ビーンズになりましたよ。

「足袋御殿」をじっくりと調べてみました。
今では御殿は懐石料亭になっています。



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足袋御殿で食べる国産黒毛和牛懐石
昭和の初め、足袋の産地として栄えた行田。
その行田に”足袋御殿”と呼ばれた邸宅があります。
彩々亭はその足袋御殿を懐石料亭として生かしたもの。
洋館と日本家屋からなる和洋折衷造りは、何か懐かしさの漂う落ちついた雰囲気です。


(saisai6.jpg)

昭和天皇がご覧になられた庭園を眺めながら、国産黒毛和牛の、そして、季節の懐石料理をお楽しみください。
きっと普段の喧騒さを忘れて料理を堪能し、往時のゆっくりした時の流れもお楽しみいただけます。




『彩々亭ご紹介』より


「足袋御殿」の建物と歴史も調べてみましたよ。



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水城公園と南大通りの間にある懐石料亭「彩々亭」。
南大通りの入り口正面から。


(saisai5.jpg)

上の写真は、水城公園の散策路からの様子です。
元々は、足袋製造業者であった新井八郎氏が大正14年に現在地(佐間)に工場を建設するとともに、昭和元年頃に写真のようにモダンな緑色の洋風瓦が特徴的なスクラッチタイル貼りの外壁を持つ2階建ての事務所兼住宅を建設し、その後西側に3階建ての離れ等を増築したと言われています。

往時には政財界で活躍した八郎氏の迎賓館的な役割を果たし、昭和天皇をはじめとする多くの名士が訪れており、「足袋御殿」と称されていました。
歴史あるこの建物は、平成19年に国の「登録有形文化財」に登録されています。




『行田市内の見所』より


調べた限りでは、あの建物は建てられたまま改築されたということが書いてない。
おそらく僕の記憶違いだとしか思えない。

しかし,僕の記憶の中にある建物は、もっと荘厳な石造りの建物で、印象的には国会議事堂のような厳(いかめ)しい感じを与えたものでした。
小学生の目にはそのように見えた。

現在建っているようなちゃちな物とは大違いでした。

それにしても小百合さんがどうして「足袋御殿」にこだわるのか?

小百合さんとの思い出を手繰(たぐ)り寄せながら考えてみて判りましたよ。


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あの軽井沢タリアセンの中に建っている「睡鳩荘」に小百合さんはこだわりを見せたけれど、ちょうど同じような気持ちで「足袋御殿」に強く惹かれるのだろうね。

心の中に軽井沢タリアセン夫人としての上流志向があるのかもね?
きゃはははは。。。

では、今日もアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズをドリップして、ゆったりとした気分でコーヒーを飲みながら「足袋御殿」の応接室に居る気分に浸ってね。


(zenifry3.gif)

明日も、また会えるといいね。
今度は「さきたま古墳公園」で“ゼリーフライ”でも食べましょう。
じゃあね。


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私が「足袋御殿」にこだわるのは軽井沢タリアセンにある「睡鳩荘」にこだわるのと同じだとデンマンさんは考えているのですか?


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その通りですよ。。。いわゆる「昭和の上流社会」を覗いてみたいという気持ちが小百合さんにはあるのではありませんか?

そうかしら。。。?

だから小百合さんは無意識のうちに「軽井沢タリアセン」に惹かれるのですよ。

 


軽井沢タリアセン

 



 



デンマンさんとご一緒に出かけた時には閉まっていましたわね。


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 レストラン 湖水



小百合さんは、このレストランを知っていたのですか?

私は軽井沢タリアセンには子供をつれて何度か行ったことがありましたから知っていますわ。


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 睡鳩荘(すいきゅうそう)





小百合さんと一緒に行った時には睡鳩荘(すいきゅうそう)を見て、それからレストラン・ソネットへ行ったのですよね。


(taliesin10.jpg)

 レストラン ソネット

(1階がレストランで2階は「深沢虹子・野の花美術館」)


(cheesecake6.jpg)


(coffee3.gif)



そうでしたわ。 チーズケーキをいただきながらコーヒーを飲んだのでしたわね。



そうでした。 寒い日で、園内には数えるほどの人しか居なかった。 「レストラン湖水」 が閉まっていたのも納得がゆきましたよう。 確か11月の寒い日で、季節外れだったのですよね。

でも、またいつか行く機会があると思いますわ。

じゃあ、来年の秋に、小百合さんと一緒にブイヤベースを食べましょう。


(bouilla.jpg)



ブイヤベースはないと思いますわ。 うふふふふ。。。



マジで。。。?

デンマンさんは、何かといえばブイヤベースですわね? 他に気のきいた料理の名前を覚えてないのですか?

もちろん、他にも料理の名前ぐらい覚えていますよう。。。でもねぇ、ブイヤベースの響きが、なんとなく格調高くありませんか?

そうでしょうか?




『しんみりした曲ですね』より
(2010年12月27日)


 



こうして読み返してみると、小百合さんには「昭和の上流社会」を覗いてみたいという気持ちがあると僕には思えるのですよ。



私自身はそのような事を考えたこともありませんけれど。。。

そういうものですよ。。。自分では分からないものです。

。。。で、デンマンさんは現在の懐石料亭「彩々亭」の建物は改築されたものだと思うのですか?

そうですよ。。。僕の記憶の中にある建物は現在建っている建物とは全く違っているのですよ。

何十年かの間にデンマンさんの記憶が変化してしまったのではありませんか?

う~ん。。。確かに、その可能性がないわけじゃないけれど、現在の建物のと僕の記憶の中の建物を比べてみると、なんだか狐に鼻をつままれた感じですよ。

でも、どうしてそれほど印象深く昔の建物がデンマンさんの思い出の中に強く残っているのですか?

あのねぇ~、それには訳がある。。。

どのような。。。?

僕は小学校5年生と6年生の時、理科クラブでプランクトンの研究をしていたのですよ。

マジで。。。?

毎朝、職員会議が行われる自習時間に水城公園へ出かけて採集ネットでプランクトンを集めた。

 


忍沼のプランクトンの研究


(plankt2.jpg)



その当時の小学校の僕の担任の先生が志保田先生だった。この先生は理科クラブの部長だった。それで、僕も理科クラブに入っていた。


(manila05b.jpg)

何を研究したのですか?

今でもあるけれど行田市の水城公園に忍沼があるのですよう。


(oshi1.jpg)



この忍城は1988年(昭和63年)に本丸跡に再建されたものですよう。僕が小学生の頃は、この城が建っている場所はグラウンドになっていて少年野球の会場になっていた。忍沼は、昔は城を巡る外堀だったところです。そこへ毎朝、先生が職員会議をしている自習時間に、同じクラブのメンバーの二人と3人でプランクトンを取りに行ったものですよう。



それで、そのプランクトンをどうするのですか?

放課後、理科実験室で顕微鏡で覗いてプランクトンが泳いでいる様子を写生するのですよう。そうやって研究した訳ですよう。

何か賞でももらったのですか?

もらいましたよう。当時、オリンパスが理科の全国コンクールをやっていたのですよう。

オリンパスってあのカメラのオリンパスですか?

そうですよう。オリンパスは顕微鏡も作っていたのですよう。多分、その関係で理科のコンクールを開いていたのでしょうね。

それで、入選したのですか?

そうですよう。3人(山田君、松本君、それに僕)で取り組んだ「忍沼のプランクトンの研究」が優秀賞に選ばれて、カメラ3台と顕微鏡3台をもらったものですよう。

一人それぞれ1台づつもらったのですか?

カメラと顕微鏡は学校に寄付ですよう。その代わり、当時の田高校長先生から水銀の寒暖計をもらいましたよう。

それで、その事と工学部と関係があるのですか?

志保田先生の話で電子頭脳というのが面白かった。僕が小学校5年生の頃は電子計算機と言わずに電子頭脳と呼ぶ人の方が多かった。とにかく、その電子頭脳が東京の丸ビルぐらい大きい、と志保田先生が言ったのですよう。

それで、デンマンさんは電子計算機の道へ進んだ訳ですか?

そうなのですよう。




『光さす庭 (2008年6月20日)』より




これってぇ、マジですか?



もちろん真面目な話ですよ。 嘘や“でまかせ”ではありません。 当時は、今のようにきれいな公園になっていなかった。 葦(アシ)が茂る広大な沼地だった。 その沼地の向こうに石造りの「足袋御殿」が聳(そび)え立っているように見えたものですよ。 子供の目には国会議事堂のような尊厳な建物に見えたものです。

それだけのことですか?

いや、それだけじゃない! 小学校を卒業して行田中学に入学した。 それで僕は1年2組に入ったのですよ。 そのクラス50人の中に新井久代さんという名前の頭の良い可愛い女の子が居た。


(etsuko2.jpg)



この女の子が足袋御殿と関係あるのですか?



ありますよ。。。大有りですよ。 その久代さんは「足袋御殿」に住んでいたのですよ。

あらっ。。。「足袋御殿」のお嬢様だったのですか?

そうなのですよ。

デンマンさんは、小学生の時には久代さんのことを知らなかったのですか?

僕は中央小学校だった。 久代さんは南小学校だったのですよ。 だから小学生の頃、僕は彼女に一度も会ったことがない。

。。。で、中学1年生の頃に新井久代さんの住んでいる「足袋御殿」に遊びに行ったことがあるのですか?

小百合さんも、そう考えるでしょう? でもねぇ、残念ながら一度も彼女の住んでいる「足袋御殿」に遊びに行ったことがないのですよ。 今から考えると本当に残念なことをしました。 僕がクラスの委員長で彼女がクラスの副委員長というようなこともあった。 それなのに僕は純情可憐な男の子だったから久代さんの家に遊びに行きたいなんてとても言い出せなかった。

信じられませんわ。 デンマンさんならば、何が何でも押しかけてゆきそうじゃありませんか!

だから、当時の僕は気の小さい控(ひか)えめな少年だったのですよ。

信じられませんわ。

人間は年とともに変わるものなのですよ。

そうでしょうか。。。?




(初出:2011-10-18)



【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
小学生時代のデンマンさんは気の小さい控(ひか)えめな少年だったと、あなたは信じることができますか?
あたくしには想像もつきませんわ。(微笑)

確かに、時と共に、性格は多少は変わってゆくと思いますけれど、“三つ子の魂百までも”と申しますわ。
性格は極端には変わらないものでござ~♪~ます。

あなたの小学生時代を思い浮かべてくださいまし。
現在のあなた自身と性格が変わっていますか?
それほど変わってないでしょう?

ええっ。。。あたくしですか。。。?

考えて見れが、ずいぶんと性格が変わりましたわ。

どうしてかってぇ~。。。?

だってぇ、あたくしはビートルズの熱烈なファンなのでござ~♪~ますわ。
ビートルズの影響だと思うのですわ。


(beat44.jpg)

“キャ~ 素敵ィ~♪~”


(bmania22.jpg)


(bmania03.jpg)

お分かりでしょう!?
ビートルズのファンは熱烈なのですわ。
だから、性格までも変わってしまうのですわ。
うふふふふふ。。。

 



 

でも、日本も含めて世界中にビートルズの熱狂的な嵐が吹き荒れたのは、あたくしが生まれる以前のことでしたわ。
ところが何度も何度も、あたくしはビートルズの夢を見るのでござ~♪~ますう。
軽井沢の万平ホテルに行くと
ジョンレノンとあたくしがカフェテラスで会うような気が、マジでするのでござ~♪~ますう。



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滞在中のジョン・レノンは朝9時半ごろ、

このカフェテラスに下りてきたのですよ。

わたしたちに「おはようございます」と

日本語であいさつしたものですわ。

いつも庭に面した一番奥の席にすわって、

他のお客様には背を向けるような格好で

腰掛けていました。

ジョン・レノンのお気に入りは

ローヤルミルクティーでしたわ。


(karuman62.jpg)

『幸福の谷』より
(2008年4月6日)


あたくしは万平ホテルのカフェテラスでマジでジョン・レノンとローヤルミルクティーをいただいている記憶が鮮明に甦ることがあるのでござ~♪~ますゥ。
あなたは信じられないでしょう?
あたくしだって信じられないのですから。。。
おほほほほほ。。。

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあ、また。。。


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(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』


(hara16.jpg)

『銀幕の愛』


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『パリの空の下で』

『愛の進化論』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』


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『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』




(june10b.jpg)

こんにちは。ジューンです。

あなたは軽井沢に出かけたことがありますか?

私はデンマンさんとご一緒に

一度だけ訪れたことがあります。


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この湖は“Swan Lake”という

英語名がついているのですわ。

昔、宣教師の方が軽井沢に

別荘を持っていたのですって、

その家族の人たちが名づけたらしいのですわ。

10月でしたが、紅葉が見ごろになっていました。

 

軽井沢・雲場池の紅葉



 

まだ冬景色には程遠かったのですけれど、

湖にしては小さなその池のほとりに立ったら、

どこからともなく白鳥が飛んできそうな

感じがしましたわ。


(swan0023.jpg)

そう言えば、バンクーバーの

クイーン・エリザベス・シアターで

デンマンさんとご一緒に

バレー『白鳥の湖』を見たことがありましたわ。

 



 

あの時のチャイコフスキーの曲が

聞こえてきたものですわ。

それで、私はいつになく

感傷的になったことを覚えています。

ところで、日本に帰省してから

デンマンさんが小百合さんのことで

次のような記事を書いています。

時間があったら覗いてみてください。

『白鳥はどこに?(2011年10月8日)』

『思い出の軽井沢(2011年10月7日)』

『日本は汚染される(2011年10月4日)』

『おばんざい(2011年10月4日)』

『バーナビーと小百合さん(2011年10月3日)』

『杜の都で食べる PART 1(2011年10月2日)』

『杜の都で食べる PART 2(2011年10月2日)』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



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(byebye.gif)
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足袋で御殿が建つ

2023-09-03 01:30:07 | ふるさと 行田市

 

足袋で御殿が建つ

 


(tabi10.jpg)


(saisai6.jpg)


(salon22.jpg)

 




(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。また行田市の足袋御殿を取り上げるのですかァ~? ちょっとばかり くどいのではありませんかァ~?


(kato3.gif)

でもねぇ~、足袋御殿に興味を持っているネット市民がけっこういるのですよ。。。

どうして、足袋御殿に興味を持っているネット市民がけっこういるということが判るのですかァ~?

あのねぇ~、僕はツイッターで去年から足袋御殿のことで何度か呟いたのですよ。。。

 


(tw23-04-25.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『足袋御殿』


 



これは4月25日にツイッターで "足袋御殿" と入れて検索した結果です。。。



あらっ。。。2022年の10月21日に初めて足袋御殿のことで呟いたのですかァ~?

そうです。。。

つまり、上のツイートを見て『足袋御殿』を読んだネット市民がいたのですかァ~?

そうなのです。。。次のリストを見てください。。。

 


(liv23-04-19.jpg)


『拡大する』

『足袋御殿』


 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で4月20日の午前1時29分から午前2時48分までのアクセス者の記録です。。。赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。



あらっ。。。4月20日の午前2時37分に短縮URL からやって来て 足袋御殿 を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうです。。。実は、コネチカット州のブルームフィールド町に住んでいる尾関美千代(おぜき みちよ)さんが読んだのですよ。。。

 


(ip8187.jpg)



 



美千代さんはブルームフィールド町で何をしているのですか?



隣町のハートフォードにあるトリニティ大学で英文学を勉強しているのです。。。

 


(trinity90.jpg)



 



美千代さんは留学しているのですか?



そうです。。。実は、美千代さんは行田市で生まれて育ったのですよ。。。

デンマンさんはお会いしたこがあるのですか?

行田に帰省した時に一度だけ会ったことがあります。。。お母さんが僕の再従妹(ハトコ)なのですよ。。。僕の親類には真由美ちゃんを始めとして海外に留学したり、移住したり、駐在している人がいる。。。そういうわけで美千代さんも小さい頃から海外に出てゆく夢を持っていたのです。。。

美千代さんが住んでいるブルームフィールド町というのは、あまり聞かない名前ですけれど大きな町なのですか?

いや。。。人口は22,000人ほどですよ。。。大学がある州都のハートフォード市の郊外の町ですよ。。。いわばベッドタウンです。。。

美千代さんは、どういうわけで『足袋御殿』を読んだのですか?

次のツイートを見たのです。。。

 


(tw23-04-25x.jpg)


『実際のツイート』


 



この写真は元足袋御殿の住人の新井久代さんです。。。行田市が全国の足袋生産の8割を製造していた頃、当時の戸主の新井八郎さんは足袋業界の重鎮だった。。。久代さんは彼の孫なのですよ。。。美千代さんのお母さんは久代さんと中学時代の同級生で「足袋御殿」にも何度も遊びに行ったというのです。。。



新井久代さんは、美千代さんのお母さんと親友だったのですか?

そういうことです。。。で、当時の写真がアルバムに貼ってあって、その写真をお母さんの話を聞きながら美千代さんは何度か見たことがあると言うのですよ。。。

それで美千代さんはツイートに見覚えの写真が出てきたので、リンクをクリックして『足袋御殿』の記事を読んだと言うのですかァ?

そうです。。。

偶然にしては、ちょっと出来すぎているのではありませんか?

あれっ。。。小百合さんは信じることができないのですかァ~?

だってぇ~、デンマンさんも中学時代に新井久代さんと同級生だと言ったじゃありませんかァ~!

そうですよ。。。偶然は重なるものなんですよ。。。昔の人は言いました。。。「真実は小説より奇成り」と。。。




初出: 2023年4月28日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

貴方はデンマンさんのお話を信じることができますかァ~?

もし、作り話だとしたら、随分と手の混んだお話でござ~ますわァ~。。。

ええっ。。。「そんなことは どうでもいいから、もっと楽しい話をしろ!」

貴方は、そのような命令口調で あたくしにご命令なさるのでござ~ますかァ~!?

分かりましたわァ。。。

あたくしは菓子パンは大好きなのですわァ~。。。

京都でもあたくしのお気に入りの店は「まるき製パン所」でござ~ますわァ~。。。

 



 

人気のパンはすぐに売れきれてしまいます。。。

あなたも京都にやって来るときには、是非試してくださいませぇ~。。。

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、さらに そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのでござ~♬~ますかァ?

いけ好かないお方。。。

わかりましたわ。。。

では、デンマンさんが暮らしているバンクーバーに一度も行ったことがない人のためにバンクーバーを紹介するクリップを貼り出しますわ。

ジックリとご覧になってくださいませぇ~♬~。

 


(stanley50.jpg)


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世界で最も住みやすい街バンクーバー






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(wetsuit3.jpg)


(gastown20.jpg)

 

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。

 


(hand.gif)


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手作り弁当@船着き場

2023-08-04 00:56:56 | ふるさと 行田市
 

手作り弁当@船着き場

 


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Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


(bento02.jpg)

小百合さんが連れてきたトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。 
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。


行田船着き場跡


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(funa09.jpg)

(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斉藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


(funa05.jpg)

この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


(funa07.jpg)


(funa06.jpg)


(funa08.jpg)

 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


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英照皇太后


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昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


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省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。


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なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


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(coffee90.jpg)

ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


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デンマンさん。。。 またプライベートなメールを持ち出してきて、こうして記事を書くのですか?


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いけませんか?

だってぇ~、私たちのプライベートな事を記事にしてブログに出しても、このような事を読まされたネット市民の皆様は間違いなく白けますわァ~。

いや。。。 決してそのようなことはありませんよ。。。 行田市の歴史は日本の歴史でもあるのです。。。 なぜなら、英照皇太后と昭憲皇后が行田にやって来て、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。。。 上に貼り出した写真を見ただけでも、ネット市民の皆様はすごい人が行田にやって来たのだと知ってビックリしていますよ。

そうでしょうか?

だってぇ~、小百合さんだって自分が生まれ育った館林に英照皇太后と昭憲皇后がやって来たなんて知らなかったでしょう?

知りませんでしたわ。

だから、こうして記事に書くことも意味があるのですよ。。。 僕は、何もプライベートな事を書いてネット市民の皆様を白けさせるつもりはないのですよ。

でも、白けて、途中で他のブログへ飛んでしまったネット市民の皆様もきっと居ると思いますわ。

だから、そういう人は飛んでしまってもいいのですよ。。。 日本もカナダも自由主義の社会ですからね。。。 白けたい人は白けてもいいのです。。。 でもねぇ~、この記事には知られざる日本の歴史が詰まっているのですよ。

そうでしょうか?

だってぇ~、館林の「つつじヶ岡」だけじゃなくて、田山花袋の『田舎教師』に出て来る斉藤医院も出てくるのですよ。。。 この斉藤先生の孫は、僕が子供の頃のホームドクターだったのですよ。

デンマンさんは、この事が言いたかったのですか?

いや、違いますよ。。。 弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。。。 さらに、晒し首にした遺体を大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったというのです。

要するに、この事が言いたかったのですか?

違いますよ。。。 その大長寺で僕と小百合さんが何度となく 白いテーブルでアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだのですよ。


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だから、そういう事を書くとネット市民の皆様が白けるのですわ。



小百合さんは、ちょっとばかりプライベートな事に拘(こだわ)り過ぎるのですよ。。。 この記事を読んでいるネット市民の皆様の中には 井戸端会議に顔を出すような噂好きなおばさんだってたくさん居るのですよ。

その証拠でもあるのですか?

ありますよ。。。 ちょっと次のリストを見てください。

 

海外からのアクセス

 


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分かるでしょう!? 日本語がわかる122ヵ国の世界のネット市民の皆様が僕のブログを読んでいるのです。 小百合さんが最近どうしているだろうか? “小百合物語”を読み続けている読者の中には、その事が気にかかっている噂好きのおばさんたちも居るのですよ。



それで行田からバンクーバーに戻ったばかりのデンマンさんは、早々 この記事を書いたのですか?

その通りですよ。。。 いかませんか?




初出: 2015年12月3日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたも少しは日本の歴史を勉強したつもりになりましたか?

世界には 結構 日本語が理解できる たくさんのネット市民の皆様が居るのですわねぇ~。
上のリストを見て、あなたも そう思うでしょう?

話は、変わりますけれど、デンマンさんは“黒いオルフェ”がメチャ好きなのでござ~ますう。。。

だから、あたくしも、この曲に合わせて踊ってしまったのですわ。
うふふふふふ。。。


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『衝撃の角度』

 

ところで、小百合さんがどうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

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『くだらない物』

『漢字で体操』

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忍藩の下級武士

2023-07-26 01:44:50 | ふるさと 行田市
 

忍藩の下級武士

 


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デンマンさんのご祖先は忍藩の下級武士だったのでござ~ますかァ~?


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違いますよ.。。僕の遠い祖先は百済からやってきた騎馬隊士ですよ。。。663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍と戦った上級騎馬隊士だったのです。。。卑弥子さんは忘れてしまったのですかァ~?

 


デンマンの祖先は百済からやって来た


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僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


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それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


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。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?



そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


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バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


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この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


(deerlak3.jpg)


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この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?



そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


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これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。

 



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こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.


つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。



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『軽井沢夫人@日本王国』より
(2014年3月28日)


 



家系図も残ってないのに、どういうわけでご先祖が百済からやってきた騎馬隊士だと信じているのでござ~ますかァ~?



あのねぇ~、現在の天皇は神武天皇から数えて126代も続いていることになっている。。。卑弥子さんだって、そう信じているんでしょう?。。。でも、神武天皇は神話の中の人物で実在したとは言えない。 この事は歴史研究者の常識になっている!

だったら、デンマんさんのご先祖が百済からやってきたというのも、神話のようなものなのですわねぇ~。。。

いや。。。神話じゃありません。。。昔から、そう言い伝えられてきたのです。。。

神話も、昔から、そう言い伝えられてきたものでござ~ますわァ~。。。

つまり、卑弥子さんは僕の言うことが信じられないのですねぇ~?

そんなことより、デンマんさんのご先祖が百済からやって来た上級騎馬隊士だとしたら、どういうわけで忍藩の下級武士を取り上げたのですかァ~?

つい最近、たまたま次の動画を観たのですよ。。。

 


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石城日記

 


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『石城日記』(せきじょうにっき)は、忍藩下級武士である尾崎石城が文久元年(1861年)から翌2年(1862年)までの178日間(幕末)の日常を記した絵日記。
全7巻。

江戸時代に武家の日常を記したものとして、元禄期の名古屋藩下級武士の『鸚鵡籠中日記』や幕末期の桑名藩下級武士の生活を記録した『桑名日記』があり、幕末から明治期にかけての生活の変化を女性視点から記した『小梅日記』があるが、具体的な暮らしの様子まではうかがえるものではなく、その点、絵日記形式の『石城日記』は、自宅・友人宅・寺や料亭など、様々な暮らしぶりが描かれている。

 

石城の経緯

通称は隼之助で、石城は字である。
雅号に㐮山・貞幹・華頂・永慶がある(華頂は庄内藩の名山花頂山、㐮山は中国唐山の地名から)。

石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、尾崎家の養子となった

忍藩では、御馬廻役で百石の中級武士だったが、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じたため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となった 。

上書の内容は不明だが、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、尊王攘夷に近い心情だったとも捉えられている。
加えて、忍藩が水戸藩とは対立する親藩であったことから、共鳴するような家臣の動きには抑圧的だった。

石城は多くの随筆と詩を書き、軸物絵、屏風絵、襖絵なども描く、文才と画才に優れていた。
中には友人知人の依頼もあり、行灯絵も描いている。
これらの仕事と読み書きの手習いによって禄を下げられながらも生計を立てていた。

このころ、妹夫婦(妹は邦子、夫は進、下級武士)の家に同居するが独身であり、尾崎家を追い出されたともみられている。
石城が33歳時に、絵日記を書く。

 

絵日記からわかる幕末の様子

茶漬けを好んで食し、6月20日の記録では、朝食・午飯・夕食の三食とも茶漬けと記されている。

鎧櫃(甲冑や武具を納めた箱)は玄関近くの壁や棚に置くのが武家の習慣であったが、永い太平の世になったことで床の間に置かれている様子がたびたび描かれている。

当時の炬燵の様子が描かれている。

皇女和宮が中山道を通る際の護衛の準備につき、各武家が忙しい中、武装を手作りしていた様子を記し、石城自身、鎖を鉢巻に縫う様子を描いている(この他、腹巻や鎖帷子も作られている様子が描かれ、軽装とわかる)。

長徳寺の篤雲和尚(別名:泰流軒)が、居合術・棒術・太刀・長刀・柔術を教えており、石城は居合を学んでいる様子が描かれている(石城が正座で、和尚が立ったまま上段に構えている)。

石城は占筮もでき、筮竹を用いて、僧侶の使いを占う様子が描かれている。

酔った石城の鞘から小柄が落ち、小指に刺さるといった武家らしかぬ失態も描いている他、酔ったために落ちてずぶ濡れになり、(武家ゆえに)人目を気にして顔を隠して井戸へ行くなど、酒にまつわる失敗がたびたび描かれている。

 

備考

文久元年6月15日条に、江戸を「江都」と表記している他、17日条では、鰹節を「松魚ふし」と記述している。

3月26日条、昨年から売却してきた書物が408冊にもなることが記されており、膨大な資料を有していたことがわかる。
中国古典や和歌書、『足軽十ヶ条私解 一巻』『武門故実 一巻』、切腹の書一巻など軍事関係書も見られる。

『石城日記』は、慶應義塾大学文学部古文書室に所蔵されており、同所のホームページより日記の閲覧が可能になっている。
(デンマン注:閲覧しようとしたが、現在、検索しても出てこない!)

2014年(平成26年)に国立公文書館で開催された特別展「『江戸のレシピ』-美食から救荒食まで-」には絵日記の画像パネル14点が展示された。




出典:「石城日記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。もしかして、この動画の主人公の尾崎石城はデンマンさんのご親戚ではござ~ませんかァ~?



いや、この尾崎石城は、僕の先祖とは何の関わりもありません。。。上の説明にも書いてあるでしょう! 石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、忍藩・尾崎家の養子となったのですよ。。。

つまり、次男以下に生まれると、家督を継いだ長男に小遣いをもらいながら一生を部屋住みとして厄介者の生活を送るか、他家に養子に出されるかの どちらかだったのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことですよ。。。

つまり、石城さんは、ゆくゆくは尾崎家の長女と結婚することになるはずだったのですわねぇ~。。。

そうです。。。でも、良いことばかりは続かない。。。売却してきた書物が408冊もあったということから判るように、石城さんは勉強家だった。。。それだけじゃない、行動家でもあった。。。今で言うならば、左翼の活動家のようなものですよ。。。時代の行く末を見抜いていた。。。もし脱藩して京都に出向いていたら、坂本龍馬や桂小五郎と出会って、歴史の舞台に登場していたかもしれないのですよ。。。でも、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じた。。。そのため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となってしまった。。。

それで、やがて蟄居がとけると養父や家族に恨まれて尾崎家から追い出されてしまったのでござ~ますかァ~?

そうです。。。上書したところで、藩政を変えることはできないのですよ。。。

なぜで ござ~ますかァ~?

あのねぇ~、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、(石城は まず間違いなく)尊王攘夷に近い心情だったのですよ。。。でも当時の忍藩は水戸藩の尊王派とは対立する親藩であったから、当然、石城は罰として蟄居となり、十人扶持の下級武士となってしまったのですよ。。。

忍藩は、それほど江戸幕府に忠実だったのでござ~ますかァ~?

そうなのです。。。とにかく、あの歴史的に有名な鳥居強右衛門の子孫が家老だった。。。

 



鳥居 強右衛門

 


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鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)は、戦国時代の日本の足軽。奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。

鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。

現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。

奥平氏はもともと今川氏や織田氏、松平氏(徳川氏)と所属先を転々とした国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。

ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。

奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。
5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。

しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。

そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。

しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。

この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。
14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。

翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。
当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。

この時、上記の様に信長の援軍3万が岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍3万8,000は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。

これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。
16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。

ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。
烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

武田方に捕まった鳥居強右衛門は、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と報せるよう強いられたが、面従腹背してまんまと城に近付き、「間もなく援軍が来る」との事実を報せて味方を鼓舞した。

強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。

そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。

こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。
強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。

しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。
これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。

しかし、この強右衛門の決死の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。

援軍の総大将であった信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

 

子孫

強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。
強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。

家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。

その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けている。

また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は忍藩で厚遇された
強右衛門の家系は現在も存続している。

 

逸話

強右衛門の死については「斬られて死んだ」「磔にされた」の2種類が伝わっているが、一般には「磔にされた」とする逸話が有名であり、磔にされている強右衛門の姿を描いた旗指物の絵が現在に伝わっている。

強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』で、『三河物語』がこれに次ぐが、それ以前の『信長公記』などには件についての記述は全く見られない。また、上記の死以外にも、『甫庵信長記』と『三河物語』では内容に異なる部分がある。

強右衛門が長篠城を脱出する際、鈴木 金七郎 重政(すずき きんしちろう しげまさ)という名の足軽が同行、または第二の使者として続いたとする説もある。

『総見記』『常山紀談』『長篠日記』には、金七郎が強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった旨が記されている。
新城市所在の禅源寺の古文書にも同様の記述があり、川路村(現・新城市川路)にも同様の伝承がある。

『四戦紀聞』『武徳大成記』には強右衛門の後を追う形で金七郎が派遣されたことが記されている。
しかし、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の奥平家系図の記載や『三河物語』には金七郎についての記述は見られない。

また、強右衛門と共に金七郎が使者になったとする上記の各資料においても、援軍要請の役目を果たした後に長篠城へ向かって引き返したのは強右衛門だけで、金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかったとされている。

強右衛門は死を覚悟で長篠城を脱出する際、「我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士(もののふ)の道」という辞世の句を残したと伝えられる。

主君を助けるためには自分の命を犠牲にすることもいとわない武士道の理想を象徴する和歌とされているが、この和歌の原文が記されている『甫庵信長記』は、強右衛門の死から50年近くも後の江戸時代初期に書かれたものであり、この和歌が実際に強右衛門本人の作であるという保証はない。

旧説では、強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという「武田家」の家臣・落合左平次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという。

これを描き直した物が現存している。
しかし、近年の研究によって落合はその時点では「徳川家」の家臣で、家康の本隊に所属していたため、強右衛門の最後を見届けることは不可能であり、この旧説は創作である可能性が高い。

強右衛門の主家である奥平家では、家運を高めたこの戦を後に「開運戦」と呼び、家康の縁者となった貞昌は岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を獲得した。

強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為は高く評価され、明治から太平洋戦争時までの国定教科書でも紹介されていた

JR東海飯田線の鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名である。
また、強右衛門の妻の故郷である作手村(新城市作手)の甘泉寺には、織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が今でも残っている。




出典:「鳥居強右衛門」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



初代の鳥居強右衛門の血を受け継いでいる13代目の鳥居商次が忍藩の家老になっているのですよ。。。命を賭して主君(と徳川家)への忠義を尽くさねがならない。。。徳川家に逆らうわけにはゆかない。。。当然、尊王攘夷を唱(とな)える尾崎石城は蟄居を命じられ、下級武士に身分を落とされてしまったのですよ。。。



。。。で、その後どうなったのですか?

尾崎家を追い出された石城は妹夫婦を頼って居候(いそうろう)の身になった。。。でも、「人間万事塞翁が馬」と昔の人が言ったように、尊王攘夷を唱えた石城にも運が向いてきた

 



尾崎石城

文政12年(1829年) - 明治9年(1876年)1月26日

 


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尾崎 石城(おざき せきじょう)は幕末期の忍藩士。石城は字。通称は準之助(はやのすけ)、舒之助。
名は貞幹(さだみき)。他に永慶(えいけい)、永春(えいしゅん)、華頂(かちょう)、襄山(じょうざん)などの画号を持つ。
『石城日記』の著者として知られる。

『忍の行田』(石島薇山著、行田時報社、昭和2年)の「忍藩の人物」に9番目に記された「尾崎隼之助」によれば、

庄内藩士浅井勝右衛門の次男として生まれたのち、忍藩士の尾崎家隼之助勝義の養子となる。
性格は磊落不羈で、読書を好む。酒が好きで、興に乗れば5、6樽を空けた。

御馬廻役(100石)を勤めるが、安政4年(1857年)に上書し藩政を論じたため蟄居となり十人扶持の身分に落とされた。

明治維新の際に、岸嘉右衛門らと共に大いに忍藩のために尽力。
その才識が認められ、明治元年に設立された藩校「培根堂(さいこんどう)」の教頭に任ぜられる。

廃藩置県のあと、明治政府に登用されて宮城県大主典に任ぜられる。
明治9年に、任地にて病没。




出典:「尾崎石城」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



佐幕か尊王か? つまり、徳川家に忠誠を誓うか? それとも徳川家を打倒するか? この激動の時代に時代を見極めていた石城は、岸嘉右衛門らと共に大いに藩政を動かして、新政府側に着くように重役たちに働きかけた。



その働きが認められて、明治元年に設立された藩校「培根堂(さいこんどう)」の教頭に抜擢されたのでござ~ますかァ~?

そうです。。。やはり、石城の時代を見る目は確かだったのですよ。。。だから、明治新政府も石城を認めて中央政府に呼び寄せた。。。

その後、石城は明治政府に登用されて 宮城県大主典(だいさかん)に任ぜられてますけれど、これは、どういうお仕事をする役職なのですか?

ちょっと次の人物の略歴を見てください。。。

 



鈴木大亮

 


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明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。

以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。

1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。

以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。…




出典:「鈴木大亮」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



十二等出仕というのは、軍隊ならば二等兵から始めるように、最下位のレベルから仕事を始めるということです。。。でも、石城の場合には少主典、主典、権大主典を飛び越えて大主典に任じられたということですよ。。。



3階級を飛び越えたということでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。次は、権少書記官になるわけです。。。つまり、宮城県役所の書記の仕事をしたわけなのですよ。。。47歳で亡くなってなかれば、局長になり、やがて知事になっていたかもしれないのです。。。

今ならば働き盛りで亡くなってしまったわけですわねぇ~。。。

そうです。。。動画にもあるように、極めて粗食な生活をしており、大酒飲みでしたからねぇ~。。。おそらく、肝臓をやられて、肝硬変か肝炎、肝臓癌で亡くなったんでしょう!?

惜しい人だったのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。やはり、粗食で、大酒飲みはいけないのですよ。。。

デンマンさんも粗食で大酒飲みでござ~ますかァ~?

いや、、、僕は良食で、酒は一滴も飲めません。。。僕は長生きしますよ。。。うへへへへへへ。。。




初出: 2023年5月25日


 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

貴方は、粗食で大酒飲みですか?

それとも、デンマンさんのように良食で、酒は一滴も飲まないのですかァ~?

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 





 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

ためになる関連記事




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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(zurose2.jpg)


『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


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『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』


(annasalleh.jpg)

『生パンツカテゴリー』

『大衆文学』

『車中も亦臭し』

『聖徳太子の母親』

『笑える電報』

『忠臣蔵のウソ』

『天照大神@マレーシア』

『エロ@韓国』

『レオタード姿@女子大』

『美人と接吻』

『パンツに下痢』

『阿仏尼』

『楊貴妃@満州』

『ズロースを探して』

『四睡図』




『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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盛り上がる@馬車道

2023-07-25 04:59:36 | ふるさと 行田市
 

盛り上がる@馬車道

 


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Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


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小百合さんが連れてきたトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。 
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。


行田船着き場跡


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(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斉藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


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この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


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 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


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英照皇太后


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昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


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省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。


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なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


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ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


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『手作り弁当@船着き場』より
(2015年12月3日)





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デンマンさん。。。 どうして私が明治時代の女学生が着ていた和服と袴で登場するのですか?


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小百合さんと僕は行田船着き場跡で手つくりの弁当を食べた翌日、久しぶりに旧吹上町の『馬車道』レストランで食事をして小保方晴子の話で盛り上がったのですよ。


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STAP細胞事件


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 (略) 週刊誌等の理解しがたいゴシップネタですから、私自身は無視していても、いろいろな意味で私自身の研究展開にマイナスに働くこともあるでしょう。
正直、この津波のようなドリフト状態を生み出すエネルギーが、いつまでどのように続くのか私には見当もつきませんが、今は、調査に協力し、またできる範囲で通常の自分の研究を、ラボメンバーを励ましながら胸を張って進めるしか、私のできることはありません。 (略)

(デンマン注: 後に自殺した笹井芳樹氏から著者の須田桃子さんへのメール)


疑義発覚後の目まぐるしい展開と連日の関連取材で、疲労がたまっていたせいもあるかもしれない。
私はメールを読みながら、涙があふれてくるのを抑えられなかった。
無性に悲しくなったのだ。

論文には深刻な過誤があり、STAP研究の信頼性はもはや崩れている。
この状況で、なおかつ「研究者人生への挽回できないかもしれない打撃」を認識していながら、なぜ笹井氏は、STAP細胞への「確信」をこうまで主張し続けるのだろうか……。
私には、笹井氏が出口のない密室に自らを閉じ込めてしまったように思えてならなかった。

 (中略)

笹井氏は、小保方氏の「研究者としての資質」についてはこう語った。


豊かな発想力があり、これはと思ったときの集中力は非常に高い。
それは採用時の全員が一致するところで、私は今もそう思っている。
同時にとレーニングが足りなかったところ、科学者として非常に早いうちに身につけていなかった部分が多々あることが、論文発表後に明らかになった。
例えばデータ管理で、結果的に取り違えをするようなある種のずさんさがあったと思う。
両極端が一人の中にある。
私が一番、アドバイザーとして、あるいはシニアの研究者として自戒というか後悔しているのは、私や理研の研究者仲間が一生懸命、彼女の強いところを伸ばしたと思うが、弱い部分を慮って、そこを強化してあげる、若い研究者はそういうところがあるということを認識した上で、背伸びさせるだけではなく、足元をきちっと固めてあげることができなかったことは、自分の足りなかったところでは、と非常に辛く思っている。


一部で報道された小保方氏との「不適切な関係」は否定した。

 (中略)

思えば私のSTAP取材は、1月の記者会見に「『絶対に』来るべきです」という笹井氏からの誘いのメールで始まった。
それ以後に受け取ったメールは約40通。

最後の1通の日付は7月14日だった。
査読資料に関する質問への回答で、「論文を撤回してしまったあとは、何を言ってももはや仕方ないと思います」と結ばれていた。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




135-136ページ、191ページ、341ページ
『捏造の科学者』
著者: 須田桃子
2014年12月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋




笹井正樹氏は2014年8月5日の朝に先端医療センター内で首をつっているのが見つかったそうですけれど、本当に惜しい人を日本はなくしてしまったものですわ。 それはそうと、小保方さんは一時、“時の人”として騒がれましたけれど、最近はどうなさっているのでしょうか?



僕も、そのことが気になっていたのでネットで調べてみたのですよ。。。 そしたら次のサイトに出くわしたのです。。。 興味のある所だけ抜き出したので小百合さんもじっくりと読んでみてください。


STAP細胞論文問題で

大きく注目された理化学研究所の

小保方晴子さんの最新情報です。



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◆小保方氏、STAP論文掲載費60万円を返還
STAP(スタップ)細胞の論文不正問題で、理化学研究所は7日、4件の不正があったと認定した小保方晴子・元研究員から、論文掲載費約60万円の返還を受けたと発表した。

理研によると、返還されたのは昨年(2014年)1月に英科学誌ネイチャーに掲載され、その後、撤回されたSTAP細胞論文2本の掲載料。
今月初めに弁護士から返還すると連絡があり、6日付で理研の口座に入金が確認された。

小保方氏からは連絡はないという。
理研は3月、研究不正防止の規定に基づき、英科学誌ネイチャーに論文2本を掲載する手続きでかかった費用の返還を小保方氏に求めた。
論文は昨年1月に掲載されたが、不正判明で約半年後に撤回された。

理研は小保方氏に約2年間で約4600万円の研究費を支給。
さらに、不正調査などに約8360万円をかけたが、小保方氏の研究全体が不正だったわけではないなどとして、返還請求の対象は論文掲載費だけにとどめた。

小保方氏の代理人をつとめる三木秀夫弁護士は「理研の調査結果に納得はしていませんが、係争にかかる負担の大きさを考えて、これ以上の係争を避ける判断をいたしました」というコメントを発表した。

さらに、返還がこのタイミングになった理由について、三木弁護士は次のように説明し、理研への不満を明らかにした。
「そもそも今回は組織として論文の投稿が決めたわけなのに、理研は一番若い研究者に全責任を押し付けて支払いを求めていました。そのような請求に応じることで、『今後の前例をつくるようなことは避けるべき』との意見も多く寄せられていたこともあり、対応に慎重になっていました」

60万円はあくまでもネイチャー誌関連の費用にすぎず、疑惑発覚後もSTAP細胞関連では膨大な費用がかかっている。
報道によると、STAP細胞が存在するかどうかの再実験関連でも法律家への相談費2820万円、検証実験費1560万円などを含め、不正の調査や実験にかけた金額は計8360万円に上る。

「彼女を迎え入れた際、壁をムーミンの図柄にするなど部屋の模様替えに1000万円もかけるなど、一研究員に対する処遇とは思えない。
彼女から返還されたカネも理研に戻るだけで、税金で好き放題してきた理研の責任は問われない。
理研は関連費用全額を国庫に戻すべきだ」(神戸市の医療関係者)など組織の体質を巡る批判はいまだに根強い。

一連の問題で理研は「STAP細胞由来とされた細胞や組織は既存の万能細胞・ES細胞(胚性幹細胞)からできていた」と結論づけ、既に退職していた小保方氏は懲戒解雇相当、と判断された。
理研は刑事告訴も検討したが、「ES細胞を故意に混入させたことを証明できない」として見送っている。

◆理研の元研究者が提出した告発状を兵庫県警が受理

STAP(スタップ)細胞論文を発表した理化学研究所元研究員、小保方(おぼかた)晴子氏(31)が所属していた研究室から、何者かが胚性幹細胞(ES細胞)を盗んだとする告発状を兵庫県警が受理したことが15日、捜査関係者への取材で分かった。

理研の元研究員の男性が窃盗罪で告発し、14日付で受理された。
県警は関係者から事情を聴き経緯を調べる。

元研究者によると、告発状では、小保方氏がSTAP論文共著者の若山照彦氏=現・山梨大教授=の理研研究室に在籍していた2011年4月以降、何者かが研究室からES細胞を盗んだ、としている。
理研の調査委員会は昨年、STAP細胞はES細胞が混入したものだと「ほぼ断定できる」との見解を示している。
県警によると、理研側から被害届は出ておらず、関係者に事情を聴くなどして慎重に調べる。

告発状によると、昨年4月、STAP細胞の論文不正に関する理研の調査が行われた際、小保方氏が使用していた冷蔵庫から、小保方氏がかつて所属していた研究室の研究員が作ったES細胞が見つかった。
何者かが、このES細胞を盗んだ疑いがあるとしている。

理研の調査委員会は昨年(2014年)12月、STAP細胞はES細胞が混入したものとほぼ断定。
小保方氏側は、故意や過失による混入を否定している。

小保方氏の代理人を務める三木秀夫弁護士は「小保方氏に関しては疑義を受けるような点はない」とコメントした。

◆小保方晴子氏の現状を知人が証言 気力なく引きこもり状態?

表舞台から姿を消した小保方晴子氏。
理化学研究所時代と変わらず今も神戸市内のマンションに住んでいるようだ。

体調も精神状態も優れず、部屋に引きこもっている。
千葉県の実家に移る気力もないようです。
親御さんが時折様子を見に来ているようですが……」(小保方氏の知人)

こう聞くと悲劇のヒロインだが、客観的に見て彼女への処分は甘々だ。


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(出典: writerzlab.com)

STAP細胞研究のため支給された研究費は4600万円、不正が指摘されてからの調査・検証費用は8360万円に上る。
にもかかわらず、理研が小保方氏に返還請求したのは論文投稿費のわずか60万円だ。
血税を浪費しておきながら、説明責任すら果たさない幕引きである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『NAVER まとめ』より




なるほどォ~。。。 マスコミがずいぶん騒ぎましたけれど、現在は体調も精神状態も優れず、部屋に引きこもっているのですわねぇ~。。。



あれだけ大きな問題になったのだから、相当 精神的に落ち込んだのでしょう。

。。。で、やっぱり男女関係で悩んだ挙句、笹井正樹氏は2014年8月5日の朝に先端医療センター内で首をつったのでしょうか?

あのねぇ~、確かに、そのように考える人もいるのですよ。。。 でもねぇ、僕は、そうじゃないと思うのです。 ちょっと次のやり取りを読んでみてください。


NEWS まとめもりー


(netsuzo4.jpg)

『拡大する』

7: キチンシンク(家)@\(^o^)/ 2014/08/12(火) 22:00:43.62 ID:oEx+wvIF0.net

小保方と楽しい出張を55回もできたんだから本望だろ




22: スパイダージャーマン(東日本)@\(^o^)/ 2014/08/12(火) 22:12:33.42 ID:1fwlTm/C0.net

>>7
ほんこれ。
5回ぐらい俺にも分けて欲しい。




71: アイアンクロー(大阪府)@\(^o^)/ 2014/08/12(火) 23:58:28.39 ID:PzIENwHg0.net

>>22
逆に考えるのだ。
よくもまあ55回も。
君を含めて常人は相手があれなら5回で十分飽きるよ。
惜しまれる人は違うなと感心した。


税金使ったことが後ろめたかったんだろうな。
予算を獲得するのがうまい人は、税金をうまく使う天才なのだな。
策士策にオボ(小保)れるなり。




8: 毒霧(WiMAX)@\(^o^)/ 2014/08/12(火) 22:01:56.38 ID:TobRj+eG0.net

生きていれば今後明らかになる不名誉な事実、死ぬ事で有耶無耶になり、オボちゃんも守った。

仮にオボちゃんであれば、捏造の真相究明は止まらなかった。

自殺が最高最速最良の問題解決手段になった事を恥じるべきだは。




195. 名無しさん@NEWSまとめもりー2014年08月16日 00:44

※31
>不当と表現しているのは以下の2点でしょ。
>精神的に崩壊してもなんら不思議じゃないと思うな。

 〇小保方さんとは男女の関係ではないのに、あたかも男女の関係があったものと
  意図的にミスリードを誘うような報道がされていたこと


事実ではないと否定すればいいだけ、一度もそうしたことはしていない。

デンマン注: 上の本の中に書いてあるように笹井氏は記者会見で否定している。

 〇STAP細胞は存在するのに、的外れな議論ばかりで存在しないものと扱われていること

存在する根拠を出しなさい。
世界中の科学者が科学的に疑義を申し立てているのは無視かよ

最近はマスゴミのせいにして問題の本質を逸らして悪いことした人を擁護する俺かっこいいっていうジンケン屋が流行なのか?




201. 名無しさん@NEWSまとめもりー2014年08月16日 01:24

>>195
同感です。小保方のSTAP細胞の捏造について、異議があるのならさっさと証拠なり、しっかりと説明責任を果たせば良かった。
笹井さんも不倫も、公費流用も、全くの事実無根なら、さっさと名誉毀損で訴えたり、証拠をあげるなり、反論して堂々としてれば良かった。
やましいところがあったから小保方も笹井さんも説明責任と証拠提出責任をちゃんと果たせなかった。

実験に失敗したら小保方が真っ先に処分や責任追求を受けるのは当然だろう。
そして、笹井さんの研究者としての人生も非常に厳しいものになるのは明らか。

おまけに処分を連帯して受けるとともに、不適切な関係がまたクローズアップして家族は大打撃を受ける。

笹井さんにとっては、小保方の捏造だとわかっていたから、実験は失敗に終わると確信して、
それによる自分自身の最悪な結末も確信してたから、
実験結果も見ずに自ら命を断ったのだろう。

擁護派は、日本中、世界中の科学者の意見やSTAP細胞についての批判に全く反論や意見なんか言ってませんから。
最初から科学に関わろうとしないで、信じるか信じないの宗教レベルに過ぎません。

小保方は200回以上成功したにも関わらず今まで、客観的なまともな証拠やサンプルらしいもの出したでしょうか?笑。
それにも関わらず、小保方の言うことを信じるのは、非科学的、宗教レベルか工作員レベルに決まってますよね!
国民の大半は皆さん同じ意見なんで大丈夫だと思います。
まともな意見共感しましたよ!


(netsuzo5.png)




「NEWS まとめもりー」より




この“STAP細胞事件”の全貌をよく知らない人は、マスコミが興味本位に取り上げた“同伴出張”を“不倫旅行”と考えているのですよ。。。 つまり、“下衆のかんぐり”です。



記者会見で笹井氏が男女関係を否定したことを、マスコミは報道しなかったのかもしれませんわァ。。。

僕は日本のテレビも新聞も見てないので、実際にはどうだったのか知らないけれど、上のやり取りを見ていると、そうとしか考えられない。。。もう一度次の箇所を読んでみてください。



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195. 名無しさん@NEWSまとめもりー2014年08月16日 00:44

※31
>不当と表現しているのは以下の2点でしょ。
>精神的に崩壊してもなんら不思議じゃないと思うな。

 〇小保方さんとは男女の関係ではないのに、あたかも男女の関係があったものと
  意図的にミスリードを誘うような報道がされていたこと


事実ではないと否定すればいいだけ、一度もそうしたことはしていない。

デンマン注: 上の本の中に書いてあるように笹井氏は記者会見で否定している。

 〇STAP細胞は存在するのに、的外れな議論ばかりで存在しないものと扱われていること

存在する根拠を出しなさい。
世界中の科学者が科学的に疑義を申し立てているのは無視かよ

最近はマスゴミのせいにして問題の本質を逸らして悪いことした人を擁護する俺かっこいいっていうジンケン屋が流行なのか?




デンマンさんは、二人の間に マジで男女関係はなかったと信じているのですかァ~?



あのねぇ~、僕は、須田さんの本を読むまでは“STAP細胞事件”について 詳しい事は何も知らなかったわけですよ。。。 だから、先入観がなかった。。。 著者の須田さんと笹井芳樹氏とのメールのやり取りを読む限り、笹井氏と小保方さんの間に男女関係があったなどとは考えられない。。。 だから、上の“下衆のかんぐり”を読んだ時には、日本人が低俗化したのではないか!?。。。と思ったほどですよ。

でも。。。、でも。。。、そういう事だって考えられるでしょう?

あれっ。。。 小百合さんは、二人が出張という名目で不倫旅行していたと言うのですかァ~?

だから。。。、そういう可能性だってあると思うのですわァ。

でもねぇ~、記者会見では、笹井氏がきっぱりと否定しているのですよ!。。。

どうして、その事実をマスコミは報道しなかったのでしょうか?

だから、マスコミは二人の間に不倫関係があると匂わせておいた方が新聞の購読者数が上昇するし、テレビの視聴率も上がると思って わざと報道を控えたのですよう!

そうでしょうか?

あのねぇ~、もしもですよ。。。 二人の間に男女関係があったら、日本のことだから、笹井さんは一人で自殺しないで小保方さんと心中するのですよ。

そうでしょうか?

やだなあああァ~。。。 日本には心中という伝統があるじゃありませんかァ!


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つまり。。。、つまり。。。、二人の間に男女関係があったなら、二人は心中していたとデンマンさんは考えるのですかァ~?



だってぇ、そうでしょう!? 55回も不倫旅行をしていたとしたら、小保方さんは笹井さんの後を追ってあの世へ逝くのですよ!。。。 それが日本の伝統じゃありませんかア!

デンマンさん!。。。 そういう事を言うと小保方さんにプレッシャーをかけることになりますわア!

小百合さんが二人の間に男女の関係があると言うから、僕は日本の伝統を持ち出してきたまでですよ!

でも、小保方さんに自殺を促すようなことを言ってはいけませんわ。

だから、小保方さんが生きているという事は二人の間に男女関係がなかった証拠なのです!

でも。。。、でも。。。、それはデンマンさんの単なる推測だと思いますわ。

つまり、何が何でも、小百合さんは低俗化した日本人の見本のように、二人の間に男女の関係があったという“下衆のかんぐり”を支持するのですか?

いいえ。。。 そう言う訳ではありません。。。 ただ、人間は弱いものですから、そういう関係になっても仕方がないと。。。

だから、そういうことを“下衆のかんぐり”と言うのですよ! んもおおおァ~。。。

デンマンさん!。。。 ここで また盛り上がらなくてもいいのですわ。。。 で、どういうわけで“馬車道”をタイトルに書き込んだのですか?

あのねぇ~、実は、明治時代に行田にも馬車鉄道が走っていたのですよ。


行田馬車鉄道


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日本鉄道株式会社が、上野熊谷間に汽車を走らせたのは、明治16年7月28日、その時の駅は上野、王子、赤羽、浦和、上尾、鴻巣、熊谷だけ。
更に高崎まで開通したのは明治17年6月25日。
桶川、吹上駅の開通は、明治18年3月1日、大宮駅は3月16日である。
一日三往復、時速30キロの善光号が、四輪50人定員の岡蒸気が走ることになった。
上野熊谷間2時間12分であった。

一日三往復がだんだん増えていき、行田足袋が年産50万足(明治18年)から、150万足(25年)、220万足(30年)と増加し、東京をはじめ各地から商用で出入りする人が多くなり、吹上から行田の5キロの道は、荷物を持つ人には遠かった。
その頃になって、行田人は、鉄道を吹上げに追いやった不便さを後悔した。
だから「行田人は封建的で、岩槻と同じように頑迷だった」という口碑がまことしやかに語り継がれ、80年後、国鉄行田駅開通への悲願となったと、行田人は考えている。

史家としての私は、行田人が果たして、鉄道は稲が穫れなくなるとか、他国者が入って来るからといって、前谷耕地を通るわけだった鉄道を吹上に追いやる程、頑迷であったろうかという疑問を持って、古文書等を随分探しまわった。
しかし、不思議な事に、何らの記録の片鱗すらないばかりか、誰が反対したか、具体的な集団の口碑さえなく、ただ“行田人が追いやった”というばかりである。

 (中略)

行田人が封建で頑迷だったから、鉄道を追いやったという事実はない。
むしろ、鉄道が吹上に行ってしまったので、日本鉄道の大株主の橋本喜助氏を通じて、何とか行田へ近くする運動をしたらしい。
ただ重役だけへの運動で、実際の技師等に働きかけなかったので実現しなかったのは甚だ残念であったと、要路にあたっていた人から聞いた話を大澤専蔵が『落葉集』に書いてある。

明治31年、忍馬車鉄道株式会社を設立し、行田下町から吹上駅までレールを敷いて、馬車鉄道によって乗客を運ぶことにした。
下町から本町、新町、天満、大町、駒形、前谷、鎌塚、吹上、吹上駅を定員18名の一頭引四輪馬車が一日12往復走ったのである。


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全線開通は明治34年6月であった。
料金は片道五銭。
しかし、馬と馭者と車掌等の人件費はまかないきれず改組して貨物を取り扱い、大正10年頃から、レールを取りはずし、トテ馬車となり、自動車を入れ、行田自動車株式会社となったのは大正12年で、昭和15年頃統合されて、歴史を閉じた。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




15-17ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




知りませんでしたわ。。。 馬車鉄道の跡地の近くに「馬車道」レストランが3つもあるのは、行田の馬車鉄道を懐かしんでオーナーが名づけたのでしょうか?



そうかもしれませんよ。

行田船着き場跡でお弁当を食べたのも、行田馬車鉄道の終点の馬車道レストランでカルボナーラを食べたのも、なんだか明治時代に戻ったような気がしますわ。

だから、馬車道レストランのウェイトレスも小百合さんのように明治時代の女学生が着ていた和服と袴で登場したのですよ。


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初出: 2015年12月7日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
デンマンさんと小百合さんがカルボナーラを食べたということを聞いたら
急にお腹がすいてきましたわ。

あたくしも何かを作って食べようと思いますわ。
あたくしの好物は 具のたくさん入った“あんかけ焼きそば”でござ~♪~ますう。
あなたのために、作り方を教えますわねぇ。


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どうですか? 美味しそうでしょう?

でも、あたくしは これだけでは満足できませんのよう。
デザートに“たいやき”をいただくのでざ~♪~ますわよう。
うふふふふふふ。。。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。


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あなたも 好きなものを“たいやき”に詰めてみませんか?

では、あなたのために あたくしが育った地元の京都の“たいやき”をお見せしますわね。
うふふふふふ。。。



お腹がすいてきて、“たいやき”が食べたくなってきたでしょう?
でも、この記事を最後まで読んでから、近くの“たいやき屋さん”に走ってくださいね。

ところで、小百合さんがどうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

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行田物語 古代蓮

2023-07-20 02:03:31 | ふるさと 行田市
 

行田物語 古代蓮

 


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デンマンさん。。。 今日は古代蓮の行田物語ですかァ~。。。


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そうです。。。 いけませんか?

別にかまいませんけれど、もう古代蓮のお話しは出尽くしたのではありませんかァ~?

確かに、千年以上の眠りから覚めて芽を出し きれいな蓮の花を咲かせた古代蓮の話は、今更 特に珍しい話題じゃないけれど、人によっては「古代蓮」と聞いて さまざまな思い出があるものですよ。。。

それで、今日はその懐かしい思い出話というわけですか?

そういうことです。。。 実は、ごく最近 多佳子・叔母から手紙を受け取ったのですよ。。。 ちょっと読んでみてください。

 



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デンマンさん 元気にしてますか?
この前と言ってもいつ頃かはっきりしませんが「帰省」を“キショウ”と読んでいました。
ちょっと信じられないような誤読かもしれません。

今でも一呼吸して脳に指令を出さないと間違えます。
いろいろな意味で30~40代頃が私の脳内物質が活発化していて、こんな間違いはなく“キセイ”と正確に読んでいました。

近頃、認知力が問われる中、最初にインプットされた“キショウ”が優先して また一呼吸する始末。
これって認知症の走りなのでしょうか。

この7月17日、朝日新聞、朝刊に行田市の記事がありました。

 


天声人語

 

いつからかハスは神秘的な音を立てて咲くものと思い込んでいた。

石川啄木に



 


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しづけき朝に

 

音立てて

 

白き蓮の

 

花さきぬ

 

 


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…という断定調の詩がある。

博物学者 南方熊楠(みなみかた くまぐす)も、ハスの開く音を聞きに出る習俗について論考を残した。

「本当に音がしますか、何時ごろ鳴りますか、という問い合わせをいただく。 でも私ら職員は一度も聞いたことがありません」。

埼玉県行田市にある公園「古代蓮の里」で働く山子(やまね)学さん(47)は話す。
実際に聞くのは「花が散って葉に落ちたときのドサッという音」。
風情の乏しい音らしい。

山子さんの実感によれば、ハスの名所とレンコンの産地はあまり重ならない。
花で名高い地のレンコンは食感がいまひとつ。
レンコン産地で花の群舞を見る機会も多くないという。

天が二物を与えなかったのは人だけではないようだ。

行田市では1973年、ゴミ焼却場の建設地で桃色の大輪が見つかった。
埼玉大の研究者らが調べ、推定1400~3千年前の地層に眠っていた種子が掘削で目を覚ましたと推定した。

主産業の足袋作りが下り坂にあった市は1995年、ハスを核にした公園を開く。
「ふるさと創生」をうたって全国の市町村に交付された1億円をいかした。
街はにぎわいを取り戻す。

ふるさと創生と聞くと金塊や純金のこけしが浮かぶ。
盗まれたり売られたり、哀れな結末も見た。
ばらまき政治の見本のごとく語られることが多いけれど、
将来を見すえて種をまいた自治体も少なからずあったようである。

2017-07-17


 

いまの この辺りは、デンマンさんの知る行田市ではないかもしれませんが、長い国外生活の中で多少なりとも望郷の思いがあるのではと推察し、あるいは逆にかき立ててしまうかも知れませんが 書き出してみました。

私の家は、ここ鴻巣から目と鼻の先、望郷なんて響きのよい思い入れはありませんが、それでもあの旧南河原村(現在行田市に編入)犬塚地区の夢を時々見ます。

デンマンさんの場合、いくらテクノ時代といっても、行田は万里の彼方。
感傷的にならずとも夢は見るのでは?

フロイトのような夢哲学は私には難しすぎますが、1年ほど前NHKラジオで草柳大蔵氏の著書の紹介がありました。
夢は無意識の中の意識であるというようなことを聴いたことがあります。
そのうち読んでみよう…がまだ実現していません。

この夏は世界中あちこちで異常気象らしいですが、カナダはいかがですか?
熊谷気象管区の表示によると、ここ2週間 35℃のラインを行ったりきたり。
よほどの気力がないと負けそうです。

それにしてもデンマンさんの母親の芳江さんは偉い!
犬塚の両親も今から振り返ってみれば、良くぞ長寿を全(まっと)うしたと思います。
私にはとても長寿の自信がありません。

ところで、冒頭に戻って「帰省」を改めて辞書で引いてみました。
「父母の安否をたずねて故郷に帰ること」
それならば帰郷という言葉もありますよね。

今、日本では政界がおもしろい。
山崎豊子さんが生存していたならば、すごいドキュメンタリードラマが編纂されていたかもしれません。

新聞の記事に触発されて まとまりのないことを書きましたが あしからず。

また視力が弱くなり書く文字に かすみがかかり乱字で申し訳ありません。
時間があったら、メールで返事を書いてください。
待ってます。

 

かしこ。

2017年7月24日


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九条多佳子


 



多佳子・叔母さんは デンマンさんにとっては“お姉さん”のような人なのですわねぇ~。。。



そうなのです。。。 僕の母親の一番下の妹で。。。 20歳も年が離れていたので、まるで母親と娘のように親しくしていました。。。 僕と叔母とは6歳しか年が離れていないのですよ。。。 僕が生まれて間もない頃、お袋が実家の田植えの手伝いに行ったら、7歳の叔母が小さな僕を見て どうしても僕をおぶるんだと言ったらしのですよ。。。

それで、デンマンさんを背中に おぶったのですか?

ちょっと危なげだったけれど、どうしてもと言って聞かないので、仕方なく お袋が おんぶさせたというのです。。。

 


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それ以来、デンマンさんは実のお姉さんのように親しく付き合っているのですか?



そういうことです。。。

私も、一度だけ多佳子・叔母さんを遠くから見たことがありましたけれど。。。

そういうことがありました。。。 小百合さんが運転する車で鴻巣市の叔母の家まで行ったのですよ。。。 でも、小百合さんは、どういうわけか 「ちょっと今日は遠慮しておきますわ」と言って、会わなかった。。。

デンマンさんが、急に行こうと言い出したので、私には心の準備ができてませんでしたから。。。

そういうものですか?

それで、叔母さんに返信のメールを出したのですか?

メールを書いて送信しました。。。 読んでみてください。。。 

 


健康だけは充分に気をつけながら

ルンルン気分で過ごしてます。。。:-)



(foolw.gif)


From: denman654@gmail.com
To: takako987@yahoo.co.jp
Date: Sat., Aug. 5, 2017 5:17 PM


 

8月3日にメールボックスを開けたら多佳子さんからの手紙が届いてました。
毎日、毎日メールボックスを開けているわけでないので、
消印を見ると7月24日なので
バンクーバーの郵便屋さんが配達したのは7月31日頃だったかもしれません。

異常気象のことが書いてありましたが、確かに最近、バンクーバーも異常気象の影響を受けてます。
8月4日の無料タウン情報紙を見たら、
1958年以来の最悪の山火事件数を記録したそうです。。。

自然発火もありますが、たいていタバコの火の不始末が多いのですよ。
でも、260箇所で山火事が起こっているのだから、
異常気象で 乾燥によるものが多いのでしょう。。。

BC州だけで 4,910平方キロメートル焼けたそうです。。。
70キロの正方形の山林が焼けたということだから、すごいですよ。。。

 


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その影響で、煙がバンクーバーの上空にやって来て、太陽がうっすらと赤紫色をしているのですよ。。。
日中の最高気温は26度から28度だけれど、ムッとするような熱気が感じられます。。。
それでも、日本の夏よりはまだマシです。。。

埼玉県北部の熊谷市あたりでは35度前後の気温ですか!?
学生服を着て夏休み前の7月中旬に熊高(県立熊谷高等学校)に通っていた当時の あの暑苦しさを思い出します。

鴻巣市でも熊谷市とほとんど変わらない気温でしょう!
熱射病などにならずに健康に暮らしてください。。。

5,6年前でしたか、パリの気温がべらぼうに上昇して、
熱射病により老人がバタバタ死んだニュースがありました。

高齢者になると、体温調節機能も衰えるのでしょうか?
多佳子さんには、そのようなことがないように祈ってます!

「天声人語」を読みました。
「古代蓮の里」へは軽井沢タリアセン夫人の小百合さんと一緒に3度ほど訪ねたことがあります。

いつも訪れるのは10月から11月にかけてですから、
蓮の花は咲いてません。
時期が外れているので参観者も少なく、
地元野菜や工芸品の直売店も閑散としていました。

まだ展望台には登ったことがありません。
無料じゃないのですよ。。。
時期外れに行ったら、面白いところじゃありません!

それでも「古代蓮の里」のことでは、いくつかブログの記事を書いてます。

 






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『古代蓮と軽井沢タリアセン夫人』

 

ところで、4月29日にメールの最後に次のように書きました。

 


人生は、マジで儚いものだと つくづく思うこのごろです。。。
だからこそ、自分の思い、気持ちというものをしっかりと持って生きてゆく、と言う事しかないでしょう!

多佳子さんも悔いが残らないように 自分の心に忠実に暮らしてください。。。
お互いに、30年、40年も生きられる人生ではありません。

今年の秋は、そういう意味からも多佳子さんのために うれしい“プレゼント”を用意したいと思います。
体調が悪いと この“プレゼント”は楽しめないと思いますので
くれぐれも体調を整えながら 元気で過ごしてください。。。

葬式の疲れを できるだけ早く取りさってください。
では、今年の秋に またお目にかかるのを楽しみにしています。




『行田物語 母の懐』より
(2017年6月14日)


 

このプレゼントはモノではありません。
サービスです。。。

初めに考えたのは、フランスのレイモン・ルフェーブル楽団の東京公演で 生の映画音楽を多佳子さんと一緒に聴こうと計画しました。
しかし、レイモン・ルフェーブルは2008年6月27日に亡くなってるのですよ。
楽団が解散してなくて2017の秋に東京公演があるとしても、無理だということが分かりました。

 


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かつて多佳子さんにも話しましたけれど、小用が近くなっているのですよ。。。
1時間半で膀胱が一杯になるようです。。。
2時間は持ちません。
演奏途中で席を立つのはエチケット違反ですから、演奏会は無理ですよねぇ~。。。

では、他に何が。。。?
かつて加代ちゃんと「とらや」の娘と3人で港を遠望する丘の上に立っていた品川プリンスホテルでフランス料理のフルコースを食べたことがあります。。。

どういわけか、あの広いレストランに客が3人だけで、ウェーターとウェイトレスが入れ替わり立ち代り給仕をするので、
まるでイギリス王室のプリンスが、ガールフレンド二人を接待しているような気分になりました。 (微笑)
7万円でした。
今なら少なくとも2倍はするでしょう!
しかし、旨かったという印象はありません。。。

そういうわけで、多佳子さんの憧れのホテルのレストランでフランス料理のフルコースというのはどうでしょうか?
たとえば、帝国ホテルとか?

 


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あるいはスカイツリーのタワーのてっぺんのホテルで

夜景を見ながらフレンチ料理か?

あるいはイタリアン料理を食べるとか?

 


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はたまた、室内四重奏楽団が

イタリアの作曲家・アントニオ・ヴィヴァルディ

によって作曲された、ヴァイオリン協奏曲「四季」の演奏を

聴きながらフルコースを食べるとか。。。(モナリザの微笑)

 


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とにかく、多佳子さんが主客なので、僕が考え企画しても、多佳子さんにとって当てが外れてしまったら意味がないので、
今年の秋までに、多佳子さん自身が自分のために、最高の企画を考えてください。。。

では、よる年波にもめげずに、健康管理に万全を期して元気に過ごしてください。。。
秋には、お互いに元気で再会しましょう。

 

デンマンより


(denman01.gif)


 



あらっ。。。 私のことまで書き込んだのですわねぇ~。。。



いけませんか?

『古代蓮と軽井沢タリアセン夫人』には、どのようなことを書いたのですか?

読んでみてください。。。

 




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Subj:ハッピー、バレンタイン!


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日本時間: 2014年2月14日(金)午前9時9分
Date: Thurs. 13/02/2014 16:09
(バンクーバー時間)
Pacific Standard Time
From: sayuri@hotmail.com
To: denman@coolmail.jp
CC: barclay1720@aol.com


デンマンさん、お元気ですか?
早いものですね。
去年の10月にお会いしたと思っていたら、もうバレンタインですね!

“ルート66の奇跡”でデンマンさんは死ぬほど驚いたようですが
ちょっとオーバーですよ。


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『ルート66の奇跡』

でも、デンマンさんのおかげで
日本では手に入らないアイリッシュ・クリーム・フレーバーの待望のコーヒーがいただけて
懐かしいバンクーバーを思い出しながら
香りと味を充分に楽しみましたわァ。


(gog30609b.gif)
 
デンマンさんが滞在した1ヶ月は
“光陰矢のごとし”
なんだか アッという間に過ぎてしまったような気がします。

「さきたま古墳公園」でのピクニックが昨日のように
思い出されます。

私が「ツナ缶のLemon味も忘れずに!」とメールに書いたので
デンマンさんが わざわざlemon-pepper味のツナ缶を
日本へ持ち帰ってくれました。
ありがとう!


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10月16日の水曜日は、とっても天気がよくて
まさに秋晴れの行楽日和でした。
デンマンさんが lemon-pepper 味のツナをのせた“カナペ”を作ったのには驚かされましたよ。


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私も ウキウキして白ワインなどを持ち出して
“とっても美味しいわァ! 素敵だわァ~!”なんちゃってぇ~。。。 
うふふふふふ。。。

。。。というわけで、お返しと言っては何ですけれど、
デンマンさんのためにバレンタインの小包を
船便で送りました。

ちょっと遅れるかもしれませんけど
近いうちにお手元に届くと思います。

\(*^_^*)/

では。。。




『失われたバレンタイン』より
(2014年3月23日)


 



でも、これは「古代蓮の里」ではなく「さきたま古墳公園」のことではありませんかァ!



このあとで すぐに「古代蓮の里」が出てきます。 

 



件名:おはよう!昨日はお袋を見舞った後で、

叔母と「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。

きゃはははは。。。♪┌(・。・)┘♪



(foolw.gif)

日付: Sun, 01 Nov 2009 12:32:49 +0900
差出人: "denman@coolmail.jp"
宛先: "sayuri@hotmail.com"
CC: "barclay1720@aol.com"


10月30日の金曜日は盛りだくさんの一日になりました。
僕の実家の近くにある「とんでん」で食べた“茶蕎麦”はメチャうまかった。
10年ほど前に親父がまだ生きていた頃、両親と一緒に食べた茶蕎麦の味でした。


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本当に懐かしかった。
小百合さんは伝統的な昔ながらの蕎麦を食べたけれど、今度は、ぜひ僕の好物の茶蕎麦を食べて行田の思い出を懐かしんでね。

蕎麦を食べてから「古代蓮の里公園」へ行って直売店で行田市で取れるいろいろな野菜やお土産物を見たけれど、改めて行田の豊かさを感じましたよう。

“ふるさとは遠くにありて思うもの”

うん、うん、うん。。。室生犀星の言葉だけれど、
こうして故郷にやって来ると改めて故郷の豊かさに気づきます。
小百合さんと一緒に古代蓮の神秘的な花を見ながら語り合えたら、さらに幸せな気分に浸ることができたかもしれません。
残念ながら古代蓮の花は咲いてなかった。
8月だけでなく、秋にも咲く古代蓮を作れないものか?


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(lotus102.jpg)

もし、秋に古代蓮が咲いているなら、
今度は古代蓮を見ながら“Hよりも感じるハグ”をして
再会を喜び合いたいものです。

\(^ヮ^)/ ギャハハハハ。。。

「古代蓮の里公園」でのんびりと散策した後で「水城公園」へ行きました。
まさか小百合さんがまた“とうもろこし”を焼いてくれるとは思いませんでした。
簡易コンロを持ってきて、刷毛(はけ)でタレを塗りながら旨そうに焼けた“とうもろこし”は小百合さんの真心の味がしました。
マジで。。。!

 

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。


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公民館の前の池の端(はた)で、何も知らない人が見たらホームレスのカップルが貧しい夕食を取っているように見えたかもしれません。
ちょうで池に住む一匹のガチョウのために近所で暮らす30代の女性が餌をやりにやって来ていました。
パンの耳とレタスをガチョウにあげていたけれど、とうもろこしの焼ける旨い匂いがガチョウの食欲をそそるのか?小百合さんがコンロでとうもろこしを焼いている池の端(はた)に寄ってくるのでした。


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“チョウ助”も、とうもろこしが食べたいの?”

その女性はそんなことを冗談で笑いながら言っていたけれど、小百合さんが答えて言いました。

“このガチョウは、とうもろこしを食べませんよね(笑)”


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そうなんだよね。10月16日に小百合さんが初めて水城公園にやって来た時、Pure Whiteのとうもろこしを僕に焼いてくれたけれど、その前に、生のとうもろこしを COB からとって僕は“チョウ助”に食べさせようとしたのでした。
でも、食べなかった。
たぶん、量が少なかったのでガチョウには良く見えなかったのかも?

水城公園で黄色い“とうもろこし”を食べてから小百合さんと一緒にイオン(eaon)モールへ行きました。
“シナモンメルツが食べたいわ。”
小百合さんは、かなりこだわっているようでした。
僕は、別に食べたいとは思わなかったけれど。。。

でも、モールの中にあるマクドナルドの店でのんびりと語り合うことができました。
カナダで食べるシナモンメルツとは形や感じがちょっと違うんだよね。
ほんの少しだけシナモンメルツを小百合さんが食べさせてくれたけれど、
味はシナモンロールとあまり変わらなかった。



小百合さんによると、サワークリームに砂糖を混ぜてあるらしい。
そう言われて味わってみると、確かにサワークリームのすっぱさが舌に感じられたような。。。
でも、言われなければ分からないすっぱさでした。

マクドナルドでコーヒーを飲んだ後で小百合さんと一緒にお袋を見舞いに行田中央総合病院へ行きました。
小百合さんと再会してお袋も喜んでいましたよう。
小百合さん、ありがとう!
お袋は、小百合さんと再会して元気をもらったようでした。

昨日(10月31日)は、叔母と一緒にお袋を見舞いました。
その後で「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。
小百合さんも手打ち蕎麦にこだわっているけれど、叔母も蕎麦にはかなりのこだわりを持っています。


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それで、10月30日に小百合さんと一緒に見つけた手打ち蕎麦の「つるや」に行ったのですよう。
蕎麦屋らしい昔ながらのインテリアに、日本に居る事を実感させられました。

「つるや」のあとで行田中央総合病院の近くのBelc の敷地内にある Mos Burger でコーヒーとコロッケを食べながら2時間ほど粘(ねば)って積もる話をしたのでした。

ところで、昨日、行田観光協会のフライマップには出ていないゼリーフライの店を見つけました。
お袋を見舞いに小百合さんと行田中央総合病院へ行ったけれど、まだ小百合さんの記憶にあると思います。
国道125号線からそれて病院の駐車場へ行く、その道の角。
つまり、駐車場の前の道に進入する角のすぐ近くの肉屋さんでゼリーフライを作っていますよ。
一枚60円です。
買って食べなかったけれど、多分、衣(ころも)にはパン粉が入っているかも?
今度、行田へ行く機会があったら食べてみたらいいよ。

大体書き終わったので、これから「ネットカフェ・ミルミル」で牡蠣フライカレーを食べ、その後でウィンナコーヒーを飲みながらブログの記事を書きます。
記事のタイトルは「心のぬくもりを感じさせる医療」
小百合さんと再会した幸せを噛み締めながら。。。


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ヽ(´ー`)ノ きゃはははは。。。

ありがとう。

じゃあね。

(V__/)
(+'.'+)
(")_(")







『タリアセン夫人と再会』より
(2011年10月13日)


 



でも、古代蓮のことについては、特に詳しく書いてないではありませんかァ~!



このあと卑弥子さんが出てきて詳しく「古代蓮」のことを話すのですよ。。。

 


行田は古代ハスの

ふるさとです



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おほほほほ。。。。

今日は、もう、始めから

現れてしまいましたわぁ~、

あなたにお会いしたかったので

ござ~♪~ますわよゥ。

懐かしい京都もよいですけれど、

デンマンさんが生まれ育った

行田にも行きたいのですわよ。

ええっ?どうしてかって?

それはね、デンマンさんは

もちろんですけれど、

あたくしにとって行田とは

切っても切れない縁が

あるのでござ~♪~ますのよ。

どうしてだか、お分かりになりますか?

行田は古代ハスの

ふるさとなのでござ~♪~ますのよ。


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きれいでしょう?

あたくしの初恋の花でござ~♪~ますのよ。

ええっ?どういうわけかってぇ。。。?

実は、八ツ橋を売るお店に、

かわゆい男の子が居たのでござ~♪~ますのよ。

おほほほほほ。。。

その男の子にあたくしが

恋をしたのでござ~♪~ますわ。

ええっ?その話しはすでに聞いたって。。。?

だから、あたくしがその男の子に

きれいなハスのお花を手渡したのですわよ。

ええっ?なぜかって。。。?

あたくしの愛の告白のつもりでしたのよ!

うふふふふふふ。。。。

そういうわけで今日は古代ハスの

お話をしようと思ったのでござ~♪~ますのよ。

どうか、しばらくの間付き合ってくださいませませ。。。

うししししし。。。。



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行田市の“天然記念物”に指定されている行田蓮(古代蓮)は
原始的な形態を持つ1400年から3000年前の蓮なんですってよ。
この古代蓮が発見された行田市の小針と言う地区は、
なんとデンマンさんが生まれ育ったところから歩いて30分ぐらいの所にあるんですって。

今から約2000年前、この古代蓮の里一帯は、
たくさんの水生植物が茂る湿地帯だったそうです。
そのとき咲いていた蓮の実が地中深くもぐり、
ふたたびあたたかい陽射しをあびる日まで長い長い眠りについたのですね。

1971年(昭和46年)、行田市では小針地区に新しい焼却場施設を建設するために造成工事を始めたのです。
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、
地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。

1973年(昭和48年)、池の水面に
多くの丸い葉が浮いているのが発見されたのです。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、
長い眠りから覚めた古代蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。

ハスの種子は殻が硬く発芽させにくいのですよね。
でも、そういうわけで、条件が良ければかなり長期間保存が効くのです。
だから、2000年前の地層から発見されたハスの種子が、
発芽することもあるのですわ。
ハスの種が、いかに長寿であるかが実に良く分かるエピソードですよね。

行田市ではその後、小針地区に“古代蓮の里”を立ち上げました。
“古代蓮”をシンボルとする公園です。
古代蓮の自生する付近に憩いの場として、
子どもからお年寄りまで楽しめる公園になっていますよ。
ホームページは次のリンクをクリックしてみてくださいね。

■ 『古代蓮の里 ホームページ』

では、ここで万葉集の中の蓮を詠んだ歌を紹介します。
ちょっと面白い歌ですよ。

 

原文: 勝間田之 池者我知 蓮無 然言君之 鬚無如之

作者: 女性だけれど名前は不明です。

よみ: 勝間田(かつまた)の、池は我れ知る、蓮(はちす)なし、
  しか言ふ君が、鬚(ひげ)なきごとし
 


意味: 勝間田の池は、私も知っていますよ。
  でも、蓮(はす)はありませんわ。
  そのようにおっしゃるあなた様に
  ひげがないのと同じように。うふふふふ。。。

新田部皇子(にいたべのみこ)が勝間田の池に咲く蓮の花を見て感動したのですね。
その事をこの歌の作者である女性に語ったわけです。
それを聞いて、その女性が戯(たわむ)れに詠んだ歌なのですわ。


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外出先で美しいハス(=美人)でも目にしてきたのでしょう、
。。。と皇子の話を聞いた女性がからかったわけなのですよね。
蓮の字は「恋」に通じることから、
この歌には他にもいろいろ恋情にかかわる諸説があるようですわ。

蓮は、スイレン科、熱帯産、多年草の水生植物で、
花托(花の中心部:実がなる)が蜂の巣の形に似ていることから、
「はちす」と呼ばれていたのです。

仏教との関わりもあり、その巨大な花は極楽浄土に咲くとされ、
そのイメージは仏像の台座に使われています。

ところで、現在各地で栽培されているハスは、
仏教の本家インドの原産なんですよ。
縄文末期に日本に渡来していたことがわかっています。

あなたも、懐かしいふるさとの花を探しに
久しぶりにふるさとに戻ってみては。。。?


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『卑弥子さんと古代ハス』より
(2009年7月22日)


 


どうですか? ここまで読んできて小百合さんも「古代蓮の里」が懐かしくなったでしょう?



そうですわねぇ~。。。 卑弥子さんの学識豊かな説明を読んで 改めて“古代蓮”の素晴らしさを認識しましたわァ~。。。 デンマンさんも たまには秋ではなく 古代蓮が咲き誇っている頃に帰省してはいかがですか?

そうですねぇ~。。。 考えておきます。。。




初出: 2017年8月10日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~~

小百合さんに褒められて あたくしも満足いたしましたわァ。。。

あなたもお暇と金銭的な余裕があったら、

「古代蓮の里」へ足を運んでくださいねぇ~。。。

そして千年以上の眠りから覚めた神秘的に美しい「古代蓮」をご覧になってくださいまし。。。


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いかがでしたかァ~。。。?

あなたも、なんだか急に出かけたくなったでしょう!?

ところで、小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれているのですわァ。

なぜ。。。?

ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)



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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』



(godiva05.jpg)

■ 
『二人の母親』

■ 『アダルトダメよ』

■ 『月の男』

■ 『アダルト駄目』

■ 『ホロドモール』

■ 『ワンダフルライフ』

■ 『上原良司の自由主義』

■ 『季節外れのハロウィーン』

■ 『アダルトと成人』

■ 『やらしい夢』


(fragran11.jpg)

■ 『ハロウィーンと火祭り』

■ 『火祭り』

■ 『火祭りのあとで』

■ 『人気の外人ヌード』

■ 『ひごずいきの装着』

■ 『軽井沢夫人@韓国』

■ 『トランプ悪大統領』

■ 『トランプ大統領@注目』

■ 『味もめん再び』




(bare02b.gif)

こんにちは。ジューンです。

「上を向いて歩こう」がアメリカで人気が出るきっかけは

何だったのでしょうか?

通説によると、1963年の春、

アメリカ西海岸のローカルラジオ局のDJが、

異国情緒を味わってもらおうと、たまたま手元にあった

日本の曲をオンエアーしたところ、

リスナーからリクエストが殺到したために

人気に火がついたと言われています。

果たして、その話はどこまで本当なのでしょうか?

アメリカで「上を向いて歩こう」をシングルとして

最初に発売したレコード会社はキャピトルです。

同じ時期にキャピトルはイギリスの親会社であるEMIが

ビートルズのシングルを出すようにと要請してきたのです。

ところがアメリカでは人気が出ないと断っているのですね。

では、いったい誰が「上を向いて歩こう」をシングルとして

発売したのでしょうか?

その発売を決定した人の名前が

デンマンさんが描いた次のチャートに出ています。


(qchan90.gif)

デイブ・デクスター・ジュニアさんなのです。

「A&Rマン」と言われていた人で、

売れる可能性のあるアーティストを発掘し、契約を結び、

制作を担当する仕事をしていた人です。

ローカルラジオ局のDJからある日電話がかかってきて

「上を向いて歩こう」が人気が出ていると聞いて、

さっそく自分でも聞いてみたそうです。


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九ちゃんが日本語で歌っているので

詞の内容は理解できなかったけれど、

これならイケそうだと直感して売り出すことに決めたそうです。

つまり、ビートルズの曲はヒットしないと蹴ったけれど、

九ちゃんの「上を向いて歩こう」は直感的に

ヒットすると思ったのだそうです。

ところで、デンマンさんが小百合さんの記事をまとめて

次のサイトを立ち上げました。

時間があったら下のリンクをクリックして覗いてみてくださいね。

『夢とロマンを持って前向きに生きる

小百合さんの物語』


では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。



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(byebye.gif)
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中将湯と華宵御殿

2023-06-14 02:51:13 | ふるさと 行田市
 

中将湯と華宵御殿

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで中将湯と華宵御殿というタイトルにしたのですか?


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面白いと思いませんかァ~。。。

中将湯も華宵御殿も初めて耳にする言葉ですわァ。。。 華宵御殿の中に中将湯というお風呂場があるのですか?

いや。。。 華宵御殿の中に中将湯という風呂場はありません。。。

じゃあ、どういうわけで上のようなタイトルにしたのですか?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 


小美術館のひととき


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イギリスの美術専門紙が発表した、2009年に世界で開かれた美術展の1日あたりの入場者数は、上位4位まで日本だったそうだ。

1位「国宝阿修羅展」(東京国立博物館 1日平均16,000人)
2位「正倉院展」(奈良国立博物館)
3位「皇室の名宝/日本美の華」(東京国立博物館)
4位「ルーヴル美術館展/17世紀ヨーロッパ絵画」(国立西洋美術館)

日本人の美術展好きが証明されたとある。

たいへん結構なことだ。
ダイナミックなスポーツや音楽、演劇などに比べ、美しいものをただ見るだけの美術館は投資対効果(ヤボですが)が低いと思うがこの人気だ。
私もよく出かける。
美術好きの人は平和を好むのだろう、そういう人々が大勢いることに人への信頼や安心感をおぼえる。
一方、伝える記事では「みんなが見ているものを自分も見たいという横並び意識もあるか」とある。

海外著名美術館の引っ越し展や、何年に一度もない国宝の公開もいいが、私は小さな美術館の常設展も好きだ。(略)

広大な東京大学の13ある門のひとつ、弥生門すぐ前の「弥生美術館」は挿絵の美術館だ。(略)

弥生美術館を作った鹿野琢見氏は宮城県の農家の一人息子に生まれ、刻苦勉励のすえ小学校代用教員から東北帝大に学び弁護士となった。

幼き日に魅了された高畠華宵の絵「さらば故郷!」の、志を立て郷関を出る少年にわが身を重ねていたが、昭和40年、華宵が兵庫県の老人ホームに逼塞しているのを知り、東京に招いて逗留させ、ファンと「華宵会」を作り、上野松坂屋で「高畠華宵展」を開き再評価にむすびつけた。

 


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41年、華宵は東大病院で鹿野氏に看取られ逝去。
作品群を預けられた氏は作品集刊行に全力を注ぎ、ついに自宅を華宵作品を常設して挿絵文化を展示研究する美術館に建て替えた。
私はこのことを報じた古い新聞記事を大切に持っている。

華宵に心酔するひと彼のみならず。
私も幼き日より華宵描く凛々しい少年、気高い乙女にいかにあこがれたことか。
それは今でも全く変わらない。

これは初恋だ。
弥生美術館にゆけば変わらぬ姿のままの初恋の人に会える。

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




44-47ページ 『太田和彦の東京散歩、そして居酒屋』
著者: 太田和彦
2016年4月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 河出書房新社


 



でも、上の小文には どこにも中将湯も華宵御殿も出てないではありませんか!



あのねぇ~、僕は2009年に世界で開かれた美術展の1日あたりの入場者数は、上位4位まで日本だったそうだという個所に興味をそそられて上の小文を読み始めたのですよ。。。 実は僕も美術には関心がある。。。 僕は特にヌードを描くのが趣味なんですよう。。。

 


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あらっ。。。 上の2つともデンマンさんが描いたものだとは知りませんでしたわァ~。。。



あのねぇ~、白黒のデッサンは僕が描いたものだけれど、すぐ上のビキニのお姉さんは、僕が描いたものではありません。。。 アメブロのファシスト管理人がカットするかもしれないので、僕がビキニを穿かせただけです。。。

実際には、どなたが書いたものなのですか?

アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel 1823年9月28日 - 1889年1月23日)というフランスの画家が描いたものです。。。 もちろん、オリジナルはビキニを穿いてません。。。

高畠華宵という画家もヌードをたくさん描いているのですか?

いや。。。 ヌードと言っても次の程度です。。。

 


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でもねぇ~、学生時代に習作でヌードをたくさん描いていると思いますよ。。。



。。。で、デンマンさんも、高畠華宵の絵に影響を受けたのですか?

実は、上の文章を読むまで、僕は高畠華宵という画家のことを知らなかったのですよう。。。 で、ウィキペディアで調べたら次のように書いてあった。


高畠華宵

(たかばたけ かしょう)


 

1888年4月6日 - 1966年7月31日

大正から昭和初期に活躍した、日本の画家である。
本名は、高畠幸吉。
愛媛県宇和島市裡町生まれ。
京都市立美術工芸学校日本画科卒業。
宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

 

栄光の日々

上京して生活苦の中、1911年に「華宵」の名で描いた津村順天堂の「中将湯」広告画が一躍有名になる。


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アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、そのモダンさは時代の注目を集めた。

その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、
婦人雑誌などに挿絵として描いた独特の美少年・美少女の絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶスター画家となった。

鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。


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華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到した。
極端な例では、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するという事件も起こった。

一方高い人気を背景に、画料は華宵の言い値で決まっていたとされ、高騰に歯止めをかけようと1925年に交渉に訪れた『少年倶楽部』の加藤謙一らに対しては、寄稿の取りやめで応じたという。

しかし戦争色が色濃くなってきたこともあり、絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動を停止。
一般大衆の間ではその爆発的人気は永続せず、戦後華々しいカムバックとはいかなかった。
1960年代に再評価を受けるまではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。

それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。
漫画家の丸尾末広も華宵の画風に影響を受けていることがよく知られている。

 

失意の戦後と幸せな晩年

戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも経済的・健康的にうまくいかず帰国するなど失意の日々を過ごし、子供向けの怪盗ルパンシリーズや童話などの挿絵仕事を細々と続けながらも全盛期とは比べ物にならないほど注目されない人生を送っていた。

晩年はかつて絶縁した実家の兄を頼るほど生活に困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。

しかし幼少の頃華宵の絵(とくに「さらば故郷!」)に感動した弁護士・鹿野琢見が華宵の現在を伝える記事を偶然雑誌で読み、本人と文通を開始した。
その後 華宵は「新・さらば故郷!」と題した水彩画を新たに描き、鹿野に贈っている。


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高畑(左)と鹿野 『定年時代』より

 

鹿野らの奮闘やかつて華宵の絵に熱狂した世代の要望により首都圏で回顧展が開催され、人気が爆発的に再燃した。
その人気の隆盛を見届けた直後の1966年7月31日に、東京にて鹿野と、かつて画料問題で対立した加藤謙一に見守られて生涯を閉じた。

 

弥生美術館 (東京都文京区)

3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。
竹久夢二美術館が併設され、これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。




出典: 「高畠華宵」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



中将湯(ちゅうじょうとう)というのは、津村順天堂の薬のことですか?



そうなのです。。。 僕も知らなかった。。。 


中将湯


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津村順天堂は大和国(現在の奈良県)に生まれた初代津村重舎が上京し、日本橋に漢方薬局を開いたのが始まり。
津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に改良され、創業と同時に、婦人保健薬「中将湯」を発売する。
その他にも1907年(明治40年)に胃腸薬「ヘルプ」を発売する。

1900年(明治33年)、中将湯を精製する過程で出るくずを従業員が持ち帰り風呂に入れたところ、夏のあせもが消え、冬には体がよく温まるという経験をヒントに、「くすり湯中将湯」を発売する。
さらにこれを改良・研究の結果を得て「バスクリン」となる。




出典: 「ツムラ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



でも。。。、でも。。。、写真の「華宵御殿」は“御殿”という感じよりも、なんだか“工場の裏庭”という感じがしますわねぇ~。。。 うふふふふふ。。。



確かに、言われてみれば、そんな感じですよねぇ~。。。

。。。で、どういうわけで、この記事の最初にお風呂屋さんの写真を貼り出したのですか?

小百合さんは見覚えがないですか?

ありませんわァ~。。。 初めて見る写真ですわァ~。。。

実は、小百合さんも写真の建物を見たことがあったのですよ。。。

どこで。。。?

行田ですよう。。。 去年の秋、僕が行田市に帰省したときですよ。。。 「さきたま古墳公園」へ行く途中、僕が子供の頃に通っていた銭湯を小百合さんが見たいというので、ちょっとばかり寄り道して 「中将湯」という銭湯を見に行ったのです。。。


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そしたら、ドアに貼紙がしてあって、「2017年8月31日を最後に営業を停止いたします」と書いてあったのですよう。。。



思い出しましたわ。。。


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2006年12月には、田山花袋の「田舎教師」にも出てくる歴史のある 上の写真の銭湯「柳の湯」も廃湯になっった。。。 行田には、もう銭湯はすべて無くなってしまったかもしれません。。。



つまり、華宵御殿を見ているうちに、廃湯になった「中将湯」を思い出したというわけですか?

いや。。。 そればかりじゃないのですよう。。。 僕は子供の頃に「どういうわけで“中将湯”という名前にしたのか?」 その風呂屋のおじいさんが陸軍中将だったのか? そんなわけないだろう? 僕は名前の由来を知りたかったけれど、誰も知っている人がいなかった。

。。。で、その名前の由来が分かったのですか?

分かりましたよ。。。 夏のあせもが消え、冬には体がよく温まるという経験をヒントに、「くすり湯中将湯」を発売すると書いてあるでしょう! 僕は知らなかったけれど、かつて高畠華宵が有名だったぐらいに、「くすり湯中将湯」も有名だったのですよう。。。

その薬の名前にあやかって「中将湯」浴場という名前にしたというのですか?

それ以外に考えられないでしょう!? たぶん、その当時、「中将湯」銭湯は、その薬を入れていたに違いない。。。




初出: 2018年8月19日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~~

なんだか もっともらしいオチにしていますが、実際はどうだったのでしょうか?

 

ところで、小百合さんが なぜ「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれているのか?

ご存知でござ~♪~ましょうか?

なぜ。。。?

実は簡単な事なのですわよう。

 


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小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。

 


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

 

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



 

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事




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『センスあるランジェリー』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』



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■ 『伽哩夫人』

■ 『年賀状@富岡』

■ 『愛のジェローだよ』

■ 『愛の果実』

■ 『桜を想いながら』

■ 『去年の秋の食欲』

■ 『パンツとブラと餃子』

■ 『軽井沢タリアセン夫人@バンクーバー』

■ 『釜めし@バレンタイン』

■ 『タリアセン夫人と洋画』

■ 『ロマン@尾瀬ヶ原』

■ 『タリアセン夫人の夢』

■ 『夢の素遺伝子』

■ 『さけ茶づけ@バレンタイン』


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■ 『コンピエーニュから』

■ 『焼きそば@バレンタイン』

■ 『思い出のバレンタイン』

■ 『酒巻ミステリー』

■ 『縄文人と弥生人は惹かれあう?』

■ 『バレンタインを探して』

■ 『ラビオリ物語』

■ 『キャドバリーチョコ』

■ 『ジュネーブの休日』

■ 『定禅寺ジャズ』

■ 『いしぶみ』

■ 『軽井沢夫人@雲場池』

■ 『イタリアの空の下』

■ 『トロントの空の下』

■ 『チンチン@ロブソン』

■ 『バレンタイン@スイス』

■ 『熟女4人5脚@神戸』



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こんにちは。ジューンです。

日本のハーブティーは、なんといっても桜湯だそうですけれど、


(sakurate.jpg)

カナダ、アメリカ、イギリスではハーブティーとして

ローズティーが好まれています。

普通、ローズヒップティーと呼ばれます。

ローズヒップ(rose hip)とは

バラ科バラ属の植物の果実。

つまり、バラの実です。

ローズヒップ生産のため、バラの特定品種、

特にRosa canina(ドッグ・ローズ)が栽培されています。

ハイビスカスとブレンドしたハーブティとして飲用されることもあります。

また、ローズヒップオイルは食用油として、

ジャム、ジェリー、マーマレードにも用いられるほか、

スキンケアにも用いられます。

こんなエピソードがありました。

第二次世界大戦中、

イギリスはドイツ海軍Uボートの海上封鎖により

オレンジの輸入がストップしたのです。

ビタミンCの補給ができなくなったのです。

それで、英国の学童たちは生垣に生えている

ローズヒップの採集を命じられました。

ローズヒップティーにして飲んで

ビタミンCを補給したのですって。。。


(rosehip.jpg)

なんだか信じられないようなお話ですよね。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



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忍藩の下級武士

2023-05-25 03:25:43 | ふるさと 行田市
 

忍藩の下級武士

 


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デンマンさんのご祖先は忍藩の下級武士だったのでござ〜ますかァ〜?


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違いますよ.。。僕の遠い祖先は百済からやってきた騎馬隊士ですよ。。。663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍と戦った上級騎馬隊士だったのです。。。卑弥子さんは忘れてしまったのですかァ〜?

 


デンマンの祖先は百済からやって来た


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僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


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それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


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。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?



そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


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バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


(burnamap3.gif)

この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


(deerlak3.jpg)


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この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?



そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


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これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。

 



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こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.


つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。



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『軽井沢夫人@日本王国』より
(2014年3月28日)


 



家系図も残ってないのに、どういうわけでご先祖が百済からやってきた騎馬隊士だと信じているのでござ〜ますかァ〜?



あのねぇ〜、現在の天皇は神武天皇から数えて126代も続いていることになっている。。。卑弥子さんだって、そう信じているんでしょう?。。。でも、神武天皇は神話の中の人物で実在したとは言えない。 この事は歴史研究者の常識になっている!

だったら、デンマんさんのご先祖が百済からやってきたというのも、神話のようなものなのですわねぇ〜。。。

いや。。。神話じゃありません。。。昔から、そう言い伝えられてきたのです。。。

神話も、昔から、そう言い伝えられてきたものでござ〜ますわァ〜。。。

つまり、卑弥子さんは僕の言うことが信じられないのですねぇ〜?

そんなことより、デンマんさんのご先祖が百済からやって来た上級騎馬隊士だとしたら、どういうわけで忍藩の下級武士を取り上げたのですかァ〜?

つい最近、たまたま次の動画を観たのですよ。。。

 


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石城日記

 


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『石城日記』(せきじょうにっき)は、忍藩下級武士である尾崎石城が文久元年(1861年)から翌2年(1862年)までの178日間(幕末)の日常を記した絵日記。
全7巻。

江戸時代に武家の日常を記したものとして、元禄期の名古屋藩下級武士の『鸚鵡籠中日記』や幕末期の桑名藩下級武士の生活を記録した『桑名日記』があり、幕末から明治期にかけての生活の変化を女性視点から記した『小梅日記』があるが、具体的な暮らしの様子まではうかがえるものではなく、その点、絵日記形式の『石城日記』は、自宅・友人宅・寺や料亭など、様々な暮らしぶりが描かれている。

 

石城の経緯

通称は隼之助で、石城は字である。
雅号に㐮山・貞幹・華頂・永慶がある(華頂は庄内藩の名山花頂山、㐮山は中国唐山の地名から)。

石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、尾崎家の養子となった

忍藩では、御馬廻役で百石の中級武士だったが、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じたため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となった 。

上書の内容は不明だが、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、尊王攘夷に近い心情だったとも捉えられている。
加えて、忍藩が水戸藩とは対立する親藩であったことから、共鳴するような家臣の動きには抑圧的だった。

石城は多くの随筆と詩を書き、軸物絵、屏風絵、襖絵なども描く、文才と画才に優れていた。
中には友人知人の依頼もあり、行灯絵も描いている。
これらの仕事と読み書きの手習いによって禄を下げられながらも生計を立てていた。

このころ、妹夫婦(妹は邦子、夫は進、下級武士)の家に同居するが独身であり、尾崎家を追い出されたともみられている。
石城が33歳時に、絵日記を書く。

 

絵日記からわかる幕末の様子

茶漬けを好んで食し、6月20日の記録では、朝食・午飯・夕食の三食とも茶漬けと記されている。

鎧櫃(甲冑や武具を納めた箱)は玄関近くの壁や棚に置くのが武家の習慣であったが、永い太平の世になったことで床の間に置かれている様子がたびたび描かれている。

当時の炬燵の様子が描かれている。

皇女和宮が中山道を通る際の護衛の準備につき、各武家が忙しい中、武装を手作りしていた様子を記し、石城自身、鎖を鉢巻に縫う様子を描いている(この他、腹巻や鎖帷子も作られている様子が描かれ、軽装とわかる)。

長徳寺の篤雲和尚(別名:泰流軒)が、居合術・棒術・太刀・長刀・柔術を教えており、石城は居合を学んでいる様子が描かれている(石城が正座で、和尚が立ったまま上段に構えている)。

石城は占筮もでき、筮竹を用いて、僧侶の使いを占う様子が描かれている。

酔った石城の鞘から小柄が落ち、小指に刺さるといった武家らしかぬ失態も描いている他、酔ったために落ちてずぶ濡れになり、(武家ゆえに)人目を気にして顔を隠して井戸へ行くなど、酒にまつわる失敗がたびたび描かれている。

 

備考

文久元年6月15日条に、江戸を「江都」と表記している他、17日条では、鰹節を「松魚ふし」と記述している。

3月26日条、昨年から売却してきた書物が408冊にもなることが記されており、膨大な資料を有していたことがわかる。
中国古典や和歌書、『足軽十ヶ条私解 一巻』『武門故実 一巻』、切腹の書一巻など軍事関係書も見られる。

『石城日記』は、慶應義塾大学文学部古文書室に所蔵されており、同所のホームページより日記の閲覧が可能になっている。
(デンマン注:閲覧しようとしたが、現在、検索しても出てこない!)

2014年(平成26年)に国立公文書館で開催された特別展「『江戸のレシピ』-美食から救荒食まで-」には絵日記の画像パネル14点が展示された。




出典:「石城日記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。もしかして、この動画の主人公の尾崎石城はデンマンさんのご親戚ではござ〜ませんかァ〜?



いや、この尾崎石城は、僕の先祖とは何の関わりもありません。。。上の説明にも書いてあるでしょう! 石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、忍藩・尾崎家の養子となったのですよ。。。

つまり、次男以下に生まれると、家督を継いだ長男に小遣いをもらいながら一生を部屋住みとして厄介者の生活を送るか、他家に養子に出されるかの どちらかだったのでござ〜ますわねぇ〜。。。

そういうことですよ。。。

つまり、石城さんは、ゆくゆくは尾崎家の長女と結婚することになるはずだったのですわねぇ〜。。。

そうです。。。でも、良いことばかりは続かない。。。売却してきた書物が408冊もあったということから判るように、石城さんは勉強家だった。。。それだけじゃない、行動家でもあった。。。今で言うならば、左翼の活動家のようなものですよ。。。時代の行く末を見抜いていた。。。もし脱藩して京都に出向いていたら、坂本龍馬や桂小五郎と出会って、歴史の舞台に登場していたかもしれないのですよ。。。でも、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じた。。。そのため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となってしまった。。。

それで、やがて蟄居がとけると養父や家族に恨まれて尾崎家から追い出されてしまったのでござ〜ますかァ〜?

そうです。。。上書したところで、藩政を変えることはできないのですよ。。。

なぜで ござ〜ますかァ〜?

あのねぇ〜、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、(石城は まず間違いなく)尊王攘夷に近い心情だったのですよ。。。でも当時の忍藩は水戸藩の尊王派とは対立する親藩であったから、当然、石城は罰として蟄居となり、十人扶持の下級武士となってしまったのですよ。。。

忍藩は、それほど江戸幕府に忠実だったのでござ〜ますかァ〜?

そうなのです。。。とにかく、あの歴史的に有名な鳥居強右衛門の子孫が家老だった。。。

 



鳥居 強右衛門

 


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鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)は、戦国時代の日本の足軽。奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。

鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。

現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。

奥平氏はもともと今川氏や織田氏、松平氏(徳川氏)と所属先を転々とした国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。

ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。

奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。
5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。

しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。

そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。

しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。

この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。
14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。

翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。
当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。

この時、上記の様に信長の援軍3万が岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍3万8,000は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。

これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。
16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。

ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。
烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

武田方に捕まった鳥居強右衛門は、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と報せるよう強いられたが、面従腹背してまんまと城に近付き、「間もなく援軍が来る」との事実を報せて味方を鼓舞した。

強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。

そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。

こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。
強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。

しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。
これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。

しかし、この強右衛門の決死の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。

援軍の総大将であった信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

 

子孫

強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。
強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。

家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。

その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けている。

また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は忍藩で厚遇された
強右衛門の家系は現在も存続している。

 

逸話

強右衛門の死については「斬られて死んだ」「磔にされた」の2種類が伝わっているが、一般には「磔にされた」とする逸話が有名であり、磔にされている強右衛門の姿を描いた旗指物の絵が現在に伝わっている。

強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』で、『三河物語』がこれに次ぐが、それ以前の『信長公記』などには件についての記述は全く見られない。また、上記の死以外にも、『甫庵信長記』と『三河物語』では内容に異なる部分がある。

強右衛門が長篠城を脱出する際、鈴木 金七郎 重政(すずき きんしちろう しげまさ)という名の足軽が同行、または第二の使者として続いたとする説もある。

『総見記』『常山紀談』『長篠日記』には、金七郎が強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった旨が記されている。
新城市所在の禅源寺の古文書にも同様の記述があり、川路村(現・新城市川路)にも同様の伝承がある。

『四戦紀聞』『武徳大成記』には強右衛門の後を追う形で金七郎が派遣されたことが記されている。
しかし、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の奥平家系図の記載や『三河物語』には金七郎についての記述は見られない。

また、強右衛門と共に金七郎が使者になったとする上記の各資料においても、援軍要請の役目を果たした後に長篠城へ向かって引き返したのは強右衛門だけで、金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかったとされている。

強右衛門は死を覚悟で長篠城を脱出する際、「我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士(もののふ)の道」という辞世の句を残したと伝えられる。

主君を助けるためには自分の命を犠牲にすることもいとわない武士道の理想を象徴する和歌とされているが、この和歌の原文が記されている『甫庵信長記』は、強右衛門の死から50年近くも後の江戸時代初期に書かれたものであり、この和歌が実際に強右衛門本人の作であるという保証はない。

旧説では、強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという「武田家」の家臣・落合左平次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという。

これを描き直した物が現存している。
しかし、近年の研究によって落合はその時点では「徳川家」の家臣で、家康の本隊に所属していたため、強右衛門の最後を見届けることは不可能であり、この旧説は創作である可能性が高い。

強右衛門の主家である奥平家では、家運を高めたこの戦を後に「開運戦」と呼び、家康の縁者となった貞昌は岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を獲得した。

強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為は高く評価され、明治から太平洋戦争時までの国定教科書でも紹介されていた

JR東海飯田線の鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名である。
また、強右衛門の妻の故郷である作手村(新城市作手)の甘泉寺には、織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が今でも残っている。




出典:「鳥居強右衛門」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



初代の鳥居強右衛門の血を受け継いでいる13代目の鳥居商次が忍藩の家老になっているのですよ。。。命を賭して主君(と徳川家)への忠義を尽くさねがならない。。。徳川家に逆らうわけにはゆかない。。。当然、尊王攘夷を唱(とな)える尾崎石城は蟄居を命じられ、下級武士に身分を落とされてしまったのですよ。。。



。。。で、その後どうなったのですか?

尾崎家を追い出された石城は妹夫婦を頼って居候(いそうろう)の身になった。。。でも、「人間万事塞翁が馬」と昔の人が言ったように、尊王攘夷を唱えた石城にも運が向いてきた

 



尾崎石城

文政12年(1829年) - 明治9年(1876年)1月26日

 


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尾崎 石城(おざき せきじょう)は幕末期の忍藩士。石城は字。通称は準之助(はやのすけ)、舒之助。
名は貞幹(さだみき)。他に永慶(えいけい)、永春(えいしゅん)、華頂(かちょう)、襄山(じょうざん)などの画号を持つ。
『石城日記』の著者として知られる。

『忍の行田』(石島薇山著、行田時報社、昭和2年)の「忍藩の人物」に9番目に記された「尾崎隼之助」によれば、

庄内藩士浅井勝右衛門の次男として生まれたのち、忍藩士の尾崎家隼之助勝義の養子となる。
性格は磊落不羈で、読書を好む。酒が好きで、興に乗れば5、6樽を空けた。

御馬廻役(100石)を勤めるが、安政4年(1857年)に上書し藩政を論じたため蟄居となり十人扶持の身分に落とされた。

明治維新の際に、岸嘉右衛門らと共に大いに忍藩のために尽力。
その才識が認められ、明治元年に設立された藩校「培根堂(さいこんどう)」の教頭に任ぜられる。

廃藩置県のあと、明治政府に登用されて宮城県大主典に任ぜられる。
明治9年に、任地にて病没。




出典:「尾崎石城」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



佐幕か尊王か? つまり、徳川家に忠誠を誓うか? それとも徳川家を打倒するか? この激動の時代に時代を見極めていた石城は、岸嘉右衛門らと共に大いに藩政を動かして、新政府側に着くように重役たちに働きかけた。



その働きが認められて、明治元年に設立された藩校「培根堂(さいこんどう)」の教頭に抜擢されたのでござ〜ますかァ〜?

そうです。。。やはり、石城の時代を見る目は確かだったのですよ。。。だから、明治新政府も石城を認めて中央政府に呼び寄せた。。。

その後、石城は明治政府に登用されて 宮城県大主典(だいさかん)に任ぜられてますけれど、これは、どういうお仕事をする役職なのですか?

ちょっと次の人物の略歴を見てください。。。

 



鈴木大亮

 


(suzuki60.jpg)

 

明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。

以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。

1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。

以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。…




出典:「鈴木大亮」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



十二等出仕というのは、軍隊ならば二等兵から始めるように、最下位のレベルから仕事を始めるということです。。。でも、石城の場合には少主典、主典、権大主典を飛び越えて大主典に任じられたということですよ。。。



3階級を飛び越えたということでござ〜ますわねぇ〜。。。

そういうことです。。。次は、権少書記官になるわけです。。。つまり、宮城県役所の書記の仕事をしたわけなのですよ。。。47歳で亡くなってなかれば、局長になり、やがて知事になっていたかもしれないのです。。。

今ならば働き盛りで亡くなってしまったわけですわねぇ〜。。。

そうです。。。動画にもあるように、極めて粗食な生活をしており、大酒飲みでしたからねぇ〜。。。おそらく、肝臓をやられて、肝硬変か肝炎、肝臓癌で亡くなったんでしょう!?

惜しい人だったのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。やはり、粗食で、大酒飲みはいけないのですよ。。。

デンマンさんも粗食で大酒飲みでござ〜ますかァ〜?

いや、、、僕は良食で、酒は一滴も飲めません。。。僕は長生きしますよ。。。うへへへへへへ。。。


 


(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(june500.jpg)

 

ですってぇ〜。。。

貴方は、粗食で大酒飲みですか?

それとも、デンマンさんのように良食で、酒は一滴も飲まないのですかァ〜?

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で あたくしに御命令するのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 





 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ〜。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。





(costa04b.jpg)

『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』


(annasalleh.jpg)

『生パンツカテゴリー』

『大衆文学』

『車中も亦臭し』

『聖徳太子の母親』

『笑える電報』

『忠臣蔵のウソ』

『天照大神@マレーシア』

『エロ@韓国』

『レオタード姿@女子大』

『美人と接吻』

『パンツに下痢』

『阿仏尼』

『楊貴妃@満州』

『ズロースを探して』

『四睡図』




『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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コイ、鯉、恋がいっぱい!

2023-05-11 01:35:09 | ふるさと 行田市
 

コイ、鯉、恋がいっぱい!

 


(luv655.png)


(koi003.jpg)


(sayuri82.jpg)




(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。、なんだかロマンチックなタイトルを書きましたけれど、どういう風の吹き回しなのですか?


(kato3.gif)

あのねぇ~。。。小百合さんも無意識のうちにロマンチックな気分に浸(ひた)っていたと思うのですよ。。。

どうして、また そのように思ったのですか?

あのねぇ~、小百合さんが以前書いた次の手紙を読んでみてください。

 



(sayuri2.gif)

 

前略

バレンタインデーに

間に合うように

送ります。

でも、もしかすると

間に合わないかも…

デンマンさんと一緒に食べた

長崎ちゃんぽん。


「柚子こしょう」も入れました。

行田の「とんでん」で

茶そば
が旨いと言っていた

デンマンさん。

面倒でも5分で茹で上がるので

食べてみてね。

それに今回も

「麺職人」を入れましたよ。

それから、心躍る甘酸っぱさの

フルーティMINTIA!



(mintia10.jpg)

最近、私はカバンに入れて

持ち歩いてます。

デンマンさんの

迷惑そうな顔が

思い浮かびます。


(bouncy.gif)

でも、1年に一度ぐらいは

女の子の気持ちになって

ルンルン気分で

スキップしながら

舐めてみてください。


うふふふふ。。。

うららかな春のバンクーバーの

街を歩きながら。。。

また、フードストアに向かう

買いものついでに。。。

それから、思いつくままに

チョコレート、即席うどん

山菜そばを入れました。

日本の味を懐かしみながら

食べてみてくださいね。 

では。。。

早々


(sayuri15.gif)

小百合より

2011年2月3日




『愛とロマンの小包』より
(2011年2月20日)

(kitty2.jpg)

 



あらっ。。。 2011年に、このような手紙を書いたのですわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 小百合さんは僕が出したメールを覚えていたのですよ。。。それで、茶そばをバレンタインの小包の中に入れてくれたのです。。。

 



件名:おはよう!昨日はお袋を見舞った後で、

叔母と「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。

きゃはははは。。。♪┌(・。・)┘♪




日付: Sun, 01 Nov 2009 12:32:49 +0900
差出人: "denman@coolmail.jp"
宛先: "sayuri@hotmail.com"
CC: "barclay1720@aol.com"


10月30日の金曜日は盛りだくさんの一日になりました。
僕の実家の近くにある「とんでん」で食べた“茶蕎麦”はメチャうまかった。
10年ほど前に親父がまだ生きていた頃、両親と一緒に食べた茶蕎麦の味でした。


(soba12.jpg)

本当に懐かしかった。
小百合さんは伝統的な昔ながらの蕎麦を食べたけれど、今度は、ぜひ僕の好物の茶蕎麦を食べて行田の思い出を懐かしんでね


蕎麦を食べてから「古代蓮の里公園」へ行って直売店で行田市で取れるいろいろな野菜やお土産物を見たけれど、改めて行田の豊かさを感じましたよう。

“ふるさとは遠くにありて思うもの”

うん、うん、うん。。。室生犀星の言葉だけれど、
こうして故郷にやって来ると改めて故郷の豊かさに気づきます。
小百合さんと一緒に古代蓮の神秘的な花を見ながら語り合えたら、さらに幸せな気分に浸ることができたかもしれません。
残念ながら古代蓮の花は咲いてなかった。
8月だけでなく、秋にも咲く古代蓮を作れないものか?


(lotus10.jpg)


(lotus12.jpg)

もし、秋に古代蓮が咲いているなら、
今度は古代蓮を見ながら“Hよりも感じるハグ”をして
再会を喜び合いたいものです。

\(^ヮ^)/ ギャハハハハ。。。

「古代蓮の里公園」でのんびりと散策した後で「水城公園」へ行きました。
まさか小百合さんがまた“とうもろこし”を焼いてくれるとは思いませんでした。
簡易コンロを持ってきて、刷毛(はけ)でタレを塗りながら旨そうに焼けた“とうもろこし”は小百合さんの真心の味がしました。
マジで。。。!

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。


(suijo32.jpg)


(suijo15.gif)

公民館の前の池の端(はた)で、何も知らない人が見たらホームレスのカップルが貧しい夕食を取っているように見えたかもしれません。
ちょうで池に住む一匹のガチョウのために近所で暮らす30代の女性が餌をやりにやって来ていました。
パンの耳とレタスをガチョウにあげていたけれど、とうもろこしの焼ける旨い匂いがガチョウの食欲をそそるのか?小百合さんがコンロでとうもろこしを焼いている池の端(はた)に寄ってくるのでした。


(goose10.jpg)

“チョウ助”も、とうもろこしが食べたいの?”

その女性はそんなことを冗談で笑いながら言っていたけれど、小百合さんが答えて言いました。

“このガチョウは、とうもろこしを食べませんよね(笑)”


(corn10.jpg)

そうなんだよね。10月16日に小百合さんが初めて水城公園にやって来た時、Pure Whiteのとうもろこしを僕に焼いてくれたけれど、その前に、生のとうもろこしを COB からとって僕は“チョウ助”に食べさせようとしたのでした。
でも、食べなかった。
たぶん、量が少なかったのでガチョウには良く見えなかったのかも?

水城公園で黄色い“とうもろこし”を食べてから小百合さんと一緒にイオン(eaon)モールへ行きました。
“シナモンメルツが食べたいわ。”
小百合さんは、かなりこだわっているようでした。
僕は、別に食べたいとは思わなかったけれど。。。

でも、モールの中にあるマクドナルドの店でのんびりと語り合うことができました。
カナダで食べるシナモンメルツとは形や感じがちょっと違うんだよね。
ほんの少しだけシナモンメルツを小百合さんが食べさせてくれたけれど、
味はシナモンロールとあまり変わらなかった。


(cinamon2.jpg)

小百合さんによると、サワークリームに砂糖を混ぜてあるらしい。
そう言われて味わってみると、確かにサワークリームのすっぱさが舌に感じられたような。。。
でも、言われなければ分からないすっぱさでした。

マクドナルドでコーヒーを飲んだ後で小百合さんと一緒にお袋を見舞いに行田中央総合病院へ行きました。
小百合さんと再会してお袋も喜んでいましたよう。
小百合さん、ありがとう!
お袋は、小百合さんと再会して元気をもらったようでした。

昨日(10月31日)は、叔母と一緒にお袋を見舞いました。
その後で「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。
小百合さんも手打ち蕎麦にこだわっているけれど、叔母も蕎麦にはかなりのこだわりを持っています。


(soba10.jpg)

それで、10月30日に小百合さんと一緒に見つけた手打ち蕎麦の「つるや」に行ったのですよう。
蕎麦屋らしい昔ながらのインテリアに、日本に居る事を実感させられました。

「つるや」のあとで行田中央総合病院の近くのBelc の敷地内にある Mos Burger でコーヒーとコロッケを食べながら2時間ほど粘(ねば)って積もる話をしたのでした。

ところで、昨日、行田観光協会のフライマップには出ていないゼリーフライの店を見つけました。
お袋を見舞いに小百合さんと行田中央総合病院へ行ったけれど、まだ小百合さんの記憶にあると思います。
国道125号線からそれて病院の駐車場へ行く、その道の角。
つまり、駐車場の前の道に進入する角のすぐ近くの肉屋さんでゼリーフライを作っていますよ。
一枚60円です。
買って食べなかったけれど、多分、衣(ころも)にはパン粉が入っているかも?
今度、行田へ行く機会があったら食べてみたらいいよ。

大体書き終わったので、これから「ネットカフェ・ミルミル」で牡蠣フライカレーを食べ、その後でウィンナコーヒーを飲みながらブログの記事を書きます。
記事のタイトルは「心のぬくもりを感じさせる医療」
小百合さんと再会した幸せを噛み締めながら。。。


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ヽ(´ー`)ノ きゃはははは。。。

ありがとう。

じゃあね。

(V__/)
(+'.'+)
(")_(")



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『心のぬくもりを感じさせる医療』より
(2009年11月2日)


 



でも。。。、でも。。。、上のメールにはガチョウの“チョウ助”は出てますけれど、鯉は どこにも出てませんよねぇ~。。。 



あれっ。。。、やだなあああァ~。。。 小百合さんは もう忘れてしまったのですかア~!?

私が何を忘れた、と言うのですかァ~?

ちょっと次の地図を見てください。。。

 


(gmap2016.png)

『拡大する』

 



昨日の10月24日、僕と小百合さんで 久しぶりに「とんでん行田店」へ行って、ルンルン気分で食事をしたのですよ。。。(モナリザの微笑)。。。そのあとで、県道ルート66に沿って散歩しながら 緑の丸で囲んだ Belc へコーヒーを飲みに行ったのです。。。



確かに、そうでしたわァ。。。

その時、忍川(おしかわ)にかかる赤丸で囲んだ勝鬨橋(かちどきばし)を渡ったのですよ。。。 覚えているでしょう!?。。。 僕は子供の頃から見慣れた川だったので、別に水面を見ようともしなかった。。。 それよりも、早くコーヒーを飲みたかった。

私は、何気なく水面が気になったのですわ。。。

どうして。。。?

あらっ。。。 デンマンさんこそ 忘れているではありませんかァ!

僕が何を忘れていると言うのですか?

去年のことですわ。。。 デンマンさんは次のように書いていました。

 




(foolw.gif)

Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


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小百合さんが連れてきた三男のトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。 
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。

 


行田船着き場跡


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(funa09.jpg)

 

(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斎藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


(funa05.jpg)

この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


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(funa06.jpg)


(funa08.jpg)

 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


(eisho02.jpg)

英照皇太后


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昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


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省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。


(tutuji91.jpg)

なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


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ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


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『手作り弁当@船着き場』より
(2015年12月3日)


 



デンマンさんが去年の12月に投稿した 上の記事の中で赤字にした箇所に注目してくださいなァ。。。



うん、うん、うん。。。、そう言われてみれば、小百合さんが連れてきた三男のトモユキ君が釣りをしたのですよねぇ。。。 それで。。。、つまり、小百合さんはトモユキ君の釣り場を探していたのですか?

いけませんか? うふふふふふ。。。

いや。。。 別に、釣り場を探そうが。。。小百合さんの水遊びの場所を探そうが。。。、僕は、どちらでもいいのだけれど、驚いたことに、30センチ以上もある大きな鯉が群れを成すように12匹も泳いでいたことですよ。。。

 


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あのねぇ~、僕はこれまでに、あんな大きな鯉を忍川で見たことがないのですよ。。。 子供の頃ウナギが取れたのを覚えているけれど、15センチ以上の鯉を見たことがない。。。 僕は、マジで驚きましたよ。。。



あらっ。。。 そうだったのですかァ~?。。。。で、“恋”はどこにころがっていたのですかァ? (苦笑)

やだなあああァ~。。。 僕に言わせないでくださいよゥ。。。

 


(funa09b.jpg)

 


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真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


 



こうして恋心に目覚めながら、小百合さんの手作りの弁当をルンルン気分で食べたのを 僕はしみじみと思い出したのですよ。。。




初出: 2016年10月25日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~♪~。。。

あたくしも、今年こそは 心のこもった手作りのお弁当を食べていただける殿方を探すつにもりでござ~♪~ますわァ~。。。

あたくしのお得意は“たまご麺”なのですわァ~。。。

では、その作り方を あなたにも教えますわねぇ~。。。


(eggnoodle5.jpg)




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。。。で、このようにしていただいたのでござ~ますわァ~。。。

とっても。。。、とっても、おいしかったのですわァ~。。。

でも、あたくしは、“たまご麺”だけでは物足りないのです。

それで、このあとで、具のたくさん入った“あんかけ焼きそば”をいただいたのでした。

あなたのために、作り方を教えますわねぇ~。。。


(joe306.jpg)



どうですか? 美味しそうでしょう?

でも、あたくしは これだけでは、まだ満足できませんのよォ~。。。

デザートに“たいやき”をいただくのでざ~♪~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。


(taiyaki5.jpg)

あなたも 好きなものを“たいやき”に詰めてみませんか?

お腹がすいてきたでしょう!?

でも、この記事を最後まで読んでから台所に走ってくださいね。

ところで、小百合さんがどうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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■ 『さらに軽井沢ブーム』

■ 『バンクーバーの生活』

■ 『別れの朝に』

■ 『思い出の天の川』

■ 『隠し子』

■ 『ウィーンの空』

■ 『ハルヴァ@軽井沢』

『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

■ 『二人の母親』

■ 『アダルトダメよ』

■ 『月の男』

■ 『アダルト駄目』

■ 『ホロドモール』

■ 『ワンダフルライフ』

■ 『上原良司の自由主義』

■ 『季節外れのハロウィーン』

■ 『アダルトと成人』

■ 『やらしい夢』




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恋がいっぱい

2023-05-04 02:35:38 | ふるさと 行田市

 

恋がいっぱい

 


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デンマンさん。。。年甲斐もなく恋にハマっているのですかァ〜?


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いくつになっても恋する人がいるということは幸せなことですよ。。。

でも、夫婦になってからも そんな事言っていたら家庭崩壊のもとではありませんか?

だから、夫婦がお互いに恋をするのですよ。。。

そういう事が可能でしょうか?

可能にするのですよ。。。

この記事を読んでいる人はきっとバカバカしいことだと思いますわよ。。。

でも、中にはそういうバカバカしい夫婦も居ますよ。。。

それは、冗談や建前で、そういう事を言っているだけですわァ。。。

そう言えば、小百合さんは12年間も連れ添っきたのに離婚してしまったのですねぇ〜。。。

私の個人的なことは持ち出さないでくださいなァ〜。。。(苦笑)

でも、安心してください。。。小百合さんは僕の恋い焦がれている人ですから。。。(微笑)

そういう事を言うと、この記事を読んでいるネット市民の皆さんは白けてしまいますわ。。。この事を言うために、この記事を書き始めたのですか?

もちろん、そればかりではありません。。。ちょっと次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『コイ、鯉、恋がいっぱい!』

『愛のコリーダを訳すには』

『キセルする?』


 



この上のリストは GOO の「デンマンのブログ」のバンクーバー時間で2023年4月25日の午前6時10分から午後12時10分までの6時間のアクセス解析のリストです。。。アクセスされたページ の1番の赤枠で囲んだ箇所に注目してください。。。



あらっ。。。6時間の間に コイ、鯉、恋がいっぱい! が延べ 13人のネット市民の皆様に読まれたのですわねぇ〜。。。

そうです。。。

つまり、GOOGLEで検索して記事を見つけたのですかァ〜?

まず間違いありません。。。

いったい、どのように検索して記事を見つけたのですか?

次の検索結果を見てください。。。

 


(koi23-04-30.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『コイ、鯉、恋がいっぱい!』


 



"コイ、鯉、恋" と入れて検索すると 10,200件もヒットするのですよ。。。トップから4番目に コイ、鯉、恋がいっぱい! が出てくるのです。。。



いったいどなたが読んだのですか?

さいたま市に住んでいる小日向史代(こひな ふみよ)さんが『コイ、鯉、恋がいっぱい!』を読んだ13人の内の一人ですよ。。。

 


(ip15353a.jpg)



 



上の写真は史代さんがハワイで撮ったものですかァ〜?



そうです。。。史代さんはサーフィンにハマっているのですよ。。。

 


(surfin30.gif)


(surfin31.gif)

 



どういうわけで "コイ、鯉、恋" と入れて検索したのですかァ〜?



あのねぇ〜、史代さんは、僕のブログの常連さんですよ。。。現在、さいたま市に住んでいるけれど、実家は行田市にある。。。大学の史学の授業で「郷土史」についてレポートを書くことになり、それでかつて行田市の事が書いてある僕の記事を読んだことがあるのを思い出した。。。はっきりとタイトルを思い出すことができなかったけれど、うろ覚えで "コイ、鯉、恋" と入れて検索したのですよ。。。

そうしたら、かつて読んだ記事が検索結果に出てきたというわけですか?

そうです。。。

行田市のことが書いてあるのですか?

書いてあります。。。小百合さんも、もう一度読んでみてください。。。

 




(foolw.gif)

Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


(bento02.jpg)


(funa09b.jpg)

小百合さんが連れてきた三男のトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。 
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。

 


行田船着き場跡


(funa03.jpg)


(funa09.jpg)

 

(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斎藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


(funa05.jpg)

この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


(funa07.jpg)


(funa06.jpg)


(funa08.jpg)

 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町(しもまち)を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


(eisho02.jpg)

英照皇太后


(shoken02.jpg)

昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡公園」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


(daibuts85.jpg)

省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡公園」へ行ったのですよ。


(tutuji91.jpg)

なんと、その船着き場跡で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡公園」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


(daibuts8.jpg)


(coffee90.jpg)

ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


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『コイ、鯉、恋がいっぱい!』より
(2016年10月25日)


 



この上の部分を読んで小日向史代(こひな ふみよ)さんはレポートを書くための参考になるものをゲットしたのですか?



もちろんです。。。明治19年5月10日、英照皇太后と昭憲皇后が、館林の「つつじヶ岡公園」に行啓されたのですよ。。。当時の忍町(おしまち)の橋本喜助宅で着替えて、下町(しもまち)地区の船着き場から船に乗って利根川に向かったのです。。。史代さんは、この事でレポートを書こうと思ったのですよ。。。

昭憲皇后というお方は明治天皇のお妃(きさき)ですかァ〜?

そうです。。。

英照皇太后というお方は明治天皇のお母さんですか?

そうです。。。でも、実の母ではないのですよ。。。

 



英照皇太后

 


(eisho20.jpg)

 

英照皇太后(1834年1月11日〈天保5年12月13日〉 - 1897年〈明治30年〉1月11日)は、孝明天皇の女御。明治天皇の嫡母(実母ではない)として皇太后に冊立された。
旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。

父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山。
九条道孝の実姉、貞明皇后の伯母にあたる。
その為、昭和天皇から見れば、義理の曾祖母であり血縁上の大伯母。

上皇からみれば義理の高祖母、血縁上の曾祖伯母ともなる。
名は初め「基君(のりきみ)」

山城国愛宕郡下鴨村(現:京都市左京区下鴨)の南大路家で誕生し、弘化2年(1845年)9月14日、12歳の時に、3歳年上の東宮・統仁親王(のちの孝明天皇)の妃となる。

結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(1848年)12月7日に従三位に叙され、同月15日に入内して女御宣下を被る。

孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年)5月7日、夙子は正三位・准三宮に上る

嘉永3年(1850年)に第一皇女・順子内親王(1850年 - 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮(1858年 - 1859年)を出産。

いずれも夭折したため、万延元年(1860年)7月10日、勅令により中山慶子所生の第二皇子・祐宮睦仁親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称した

33歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、明治天皇即位後の慶応4年(1868年)3月18日、皇太后に冊立。
皇后を経ずして皇太后となった

東京奠都後、明治5年(1872年)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874年)に赤坂御用地に移る。

明治30年(1897年)1月11日、崩御。享年64(満62歳没)。
1月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。
同年に大喪の記録として和装本『英照皇太后大喪記事』、『英照皇太后之御盛徳』、『英照皇太后陛下御大葬写真帖』が出されている。

御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明天皇と同所である。

なお、京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867年)造営されたものである。

 

人物

孝明天皇の影響からか能を好み、明治11年(1878年)には青山御所に能舞台が建てられている。
明治14年(1881年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだった。

皇太后からの注文は時に本職の能楽師をすらたじろがせるほど「渋い」もので、当時名人と併称された梅若実と宝生九郎の2人にそれぞれ同じ曲を舞わせ、その芸の違いを楽しんだこともあった。




出典: 「英照皇太后」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



幕府が反対してすぐには皇后になれなかったのですわねぇ〜。。。どうして反対したのでしょうか?



さしたる理由はないのですよ。。。皇室の思い通りにはさせないという警告ですよ。。。つまり、すでに貧弱になりつつある幕府の権力を見せつけたのです。。。そうやって皇室を牽制(けんせい)したのです。。。

。。。で、「恋はいっぱい」というタイトルにしたのは どういうわけですかァ〜?

だから、この英照皇太后が、当時の忍町の「船着き場」から船に乗って利根川に向かった。。その船着き場の跡で、小百合さんが真心を込めて作ってくれた弁当を僕が食べたのです。。。その時、川には鯉が沢山泳いでいました。。。

 


(koi002)

 



それで「恋がいっぱい」というタイトルにしたのですよ。。。(微笑) 小百合さんは不満なのですかァ〜?



これを読んでいるネット市民の皆さんは白けると思いますわァ〜。。。



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【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。

貴方もふるさとの郷土史を調べてみてくださいまし。。。

意外にも知らないことがたくさん出てくるかもしれません。。。

ええっ。。。「そんなことは どうでもいいから、もっと楽しい話をしろ!」

貴方は、そのような命令口調で あたくしにご命令なさるのでござ〜ますかァ〜!?

分かりましたわァ。。。

あたくしは菓子パンは大好きなのですわァ〜。。。

京都でもあたくしのお気に入りの店は「まるき製パン所」でござ〜ますわァ〜。。。

 



 

人気のパンはすぐに売れきれてしまいます。。。

あなたも京都にやって来るときには、是非試してくださいませぇ〜。。。

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、さらに そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのでござ~♬~ますかァ?

いけ好かないお方。。。

わかりましたわ。。。

では、デンマンさんが暮らしているバンクーバーに一度も行ったことがない人のためにバンクーバーを紹介するクリップを貼り出しますわ。

ジックリとご覧になってくださいませぇ~♬~。

 


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世界で最も住みやすい街バンクーバー






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ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。

 


(hand.gif)


メチャ面白い、

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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

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■ 『足袋で御殿が建つ』




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足袋で御殿が建つ

2023-04-28 03:03:16 | ふるさと 行田市

 

足袋で御殿が建つ

 


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(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。また行田市の足袋御殿を取り上げるのですかァ〜? ちょっとばかり くどいのではありませんかァ〜?


(kato3.gif)

でもねぇ〜、足袋御殿に興味を持っているネット市民がけっこういるのですよ。。。

どうして、足袋御殿に興味を持っているネット市民がけっこういるということが判るのですかァ〜?

あのねぇ〜、僕はツイッターで去年から足袋御殿のことで何度か呟いたのですよ。。。

 


(tw23-04-25.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『足袋御殿』


 



これは4月25日にツイッターで "足袋御殿" と入れて検索した結果です。。。



あらっ。。。2022年の10月21日に初めて足袋御殿のことで呟いたのですかァ〜?

そうです。。。

つまり、上のツイートを見て『足袋御殿』を読んだネット市民がいたのですかァ〜?

そうなのです。。。次のリストを見てください。。。

 


(liv23-04-19.jpg)


『拡大する』

『足袋御殿』


 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で4月20日の午前1時29分から午前2時48分までのアクセス者の記録です。。。赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。



あらっ。。。4月20日の午前2時37分に短縮URL からやって来て 足袋御殿 を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうです。。。実は、コネチカット州のブルームフィールド町に住んでいる尾関美千代(おぜき みちよ)さんが読んだのですよ。。。

 


(ip8187.jpg)



 



美千代さんはブルームフィールド町で何をしているのですか?



隣町のハートフォードにあるトリニティ大学で英文学を勉強しているのです。。。

 


(trinity90.jpg)



 



美千代さんは留学しているのですか?



そうです。。。実は、美千代さんは行田市で生まれて育ったのですよ。。。

デンマンさんはお会いしたこがあるのですか?

行田に帰省した時に一度だけ会ったことがあります。。。お母さんが僕の再従妹(ハトコ)なのですよ。。。僕の親類には真由美ちゃんを始めとして海外に留学したり、移住したり、駐在している人がいる。。。そういうわけで美千代さんも小さい頃から海外に出てゆく夢を持っていたのです。。。

美千代さんが住んでいるブルームフィールド町というのは、あまり聞かない名前ですけれど大きな町なのですか?

いや。。。人口は22,000人ほどですよ。。。大学がある州都のハートフォード市の郊外の町ですよ。。。いわばベッドタウンです。。。

美千代さんは、どういうわけで『足袋御殿』を読んだのですか?

次のツイートを見たのです。。。

 


(tw23-04-25x.jpg)


『実際のツイート』


 



この写真は元足袋御殿の住人の新井久代さんです。。。行田市が全国の足袋生産の8割を製造していた頃、当時の戸主の新井八郎さんは足袋業界の重鎮だった。。。久代さんは彼の孫なのですよ。。。美千代さんのお母さんは久代さんと中学時代の同級生で「足袋御殿」にも何度も遊びに行ったというのです。。。



新井久代さんは、美千代さんのお母さんと親友だったのですか?

そういうことです。。。で、当時の写真がアルバムに貼ってあって、その写真をお母さんの話を聞きながら美千代さんは何度か見たことがあると言うのですよ。。。

それで美千代さんはツイートに見覚えの写真が出てきたので、リンクをクリックして『足袋御殿』の記事を読んだと言うのですかァ?

そうです。。。

偶然にしては、ちょっと出来すぎているのではありませんか?

あれっ。。。小百合さんは信じることができないのですかァ〜?

だってぇ〜、デンマンさんも中学時代に新井久代さんと同級生だと言ったじゃありませんかァ〜!

そうですよ。。。偶然は重なるものなんですよ。。。昔の人は言いました。。。「真実は小説より奇成り」と。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。

貴方はデンマンさんのお話を信じることができますかァ〜?

もし、作り話だとしたら、随分と手の混んだお話でござ〜ますわァ〜。。。

ええっ。。。「そんなことは どうでもいいから、もっと楽しい話をしろ!」

貴方は、そのような命令口調で あたくしにご命令なさるのでござ〜ますかァ〜!?

分かりましたわァ。。。

あたくしは菓子パンは大好きなのですわァ〜。。。

京都でもあたくしのお気に入りの店は「まるき製パン所」でござ〜ますわァ〜。。。

 



 

人気のパンはすぐに売れきれてしまいます。。。

あなたも京都にやって来るときには、是非試してくださいませぇ〜。。。

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、さらに そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのでござ~♬~ますかァ?

いけ好かないお方。。。

わかりましたわ。。。

では、デンマンさんが暮らしているバンクーバーに一度も行ったことがない人のためにバンクーバーを紹介するクリップを貼り出しますわ。

ジックリとご覧になってくださいませぇ~♬~。

 


(stanley50.jpg)


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世界で最も住みやすい街バンクーバー






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ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。

 


(hand.gif)


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愛しの山河

2022-11-02 01:35:18 | ふるさと 行田市


愛しの山河

 


(maruhaka53.jpg)


(oshi1.jpg)

 





件名:連休楽しんでますか?

きゃはははは。。。




Date: Thu, May 5, 2011 12:33 pm.
Pacific Daylight Saving Time
日本時間: 5月6日(金曜日)午前4時13分
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
CC: barclay1720@aol.com


小百合さん元気ですか?
バンクーバーも春めいてきましたよ。
でも、残念ながら、今日は小雨です。
春雨じゃ、ぬれてゆこうですよ。
きゃはははは。。。

小百合さんは連休でルンルン気分ですか?
軽井沢で森林浴ですか?
それとも栃木の山小屋でコケの手入れでもしていますか?
伊豆の海辺をそぞろ歩いていますか?
もしかすると横浜の「港の見える丘」から太平洋を挟んでバンクーバーのイングリッシュ・ベイを幻視しているのかも。。。?
うしししし。。。

いづれにしても連休を大いに楽しんでね。
たまには行田の「さきたま古墳公園」へ行って、小百合さんと一緒に生八ツ橋を食べながらローズティーを飲んだ、あの休息パビリオンでのんびりと半日過ごしたら?
腹が減ったら道路を隔てた向かいにある「田舎っぺ」の店に入って僕の分まで「きのこ汁うどん」をたらふく食べてね。


(inaka02.jpg)

それに、すぐそばにゼリーフライを売ってる「さかもと」もあるから、小百合さんも退屈しませんよ。


(sakamoto2.jpg)

でも、もう桜はすっかり散っているかもね。

バンクーバーは遅咲きの桜がまだ咲いていますよ。
日本は連休でもカナダはいつもの週と変わりがありません。
ただ、春めいてきたので気分的にはルンルンです。

春はやってきたけれど、特に旅行をしたいという気分にはなりません。
ブログの記事を書くのに疲れると、マンネリを打ち破るために日本映画のDVDを図書館で借りて観ていますよ。
昨日(5月4日)は「シルヴィーとネット革命」の下書きを書き終えてから黒澤明監督作品“DERSU UZALA”(1974年制作)を観ました。

 


(derusu1.jpg)

 

15年ほど前に初めて観た時には、つまらない映画だと思って印象的に残ったシーンは、全く一つとして無かったのだけれど1975年のアカデミー賞外国部門で賞をもらっているほどだから、僕が見逃している所があるに違いないと思って改めて観る気になったのですよ。
大学時代にロシア語を習ったけれど、ほとんど忘れてしまって、英語の字幕を見ないと内容が分からなかった。
でも、今回は感動する部分がありました。
この映画は高齢化社会向けの映画だよね。
ある程度年をとらないと映画の良さがじっくりと理解できないと思うね。
若者向きの映画じゃない!

5月3日の晩には「憂国と英語」を投稿した後で、黒澤明の脚本を基にして作った熊井啓監督の『海は見ていた』を観ました。
原作は山本周五郎の「何の花か香る」と「つゆのひぬま」です。

 


(sea02.jpg)

 

10年ほど前、僕は山本周五郎作品にハマッていた時期があってUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)のアジア図書館に通って全集をすべて読みまくりました。
映画を観ながら原作を思い出して懐かしく観ることができましたよ。

今日(5月5日)は、さっきDVDの棚を見たら市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』が目に付いたので借りることにしました。
東京オリンピックは1964年なんだよね。
小百合さんが生まれたのはその翌年。
それを思うと世代の差を感じますよ。
きゃはははは。。。

 


(olympic3.jpg)

 

でも、気持ちだけは小百合さんとの世代の差を感じませんよ。
つまり、小百合さんも僕も若いということですよ!
そう言う訳だから、小百合さんも軽井沢タリアセン夫人として、この5月の連休をルンルン気分で楽しく過ごしてね。

時間があったら次の記事を読んでみてね。
小百合さんへのメールを使ってますよ。

 




『運命を天に任せて』

(2011年5月2日)


 

タグ: マグニチュード, 福島原子力発電所, 運命を天に任せて, 自然災害, 自然災害被災者, 震源地, 被災者救援, 大地震, 大津波, 津波

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じゃあね。








どうですか、小百合さん。。。「さきたま古墳公園」をそぞろ歩いた頃が懐かしくありませんか?



そうですわねぇ。。。

なんだか懐かしくなさそうですね?

いえ。。。とっても懐かしいですわ。

マジで懐かしいのなら、もっとルンルン気分で喜んでくださいよ。

手放しで喜べない事がいろいろとあって。。。でも、こうして改めて「さきたま古墳公園」の写真を見ると本当に懐かしくなってきますわ。 「さかもと」で買って食べたゼリーフライの味が思い出されてきましたわ。

 







 



また出かけてみたいですわ。



出かけてくださいよ。 僕は休憩パビリオンで小百合さんが入れてくれたローズティーを飲みながら生八ツ橋を食べたことをまるで昨日のように思い出すのですよ。

 







 



そうですわね。。。私ものんびりとローズティーでも飲みながら生八ツ橋を食べたいですわ。



小百合さんは栃木に居るのだから、出かける気になればいつでも「さきたま古墳公園」に行けるでしょう?

でも、子供が学校で問題を起こして「さきたま古墳公園」へ行く気分ではないのですわ。

あのねぇ~、子供の世界で子供はいろいろと悩んでいるのだから、小百合さんまでが子供と一緒に悩んでも仕方がないのですよう。

そうでしょうか?

そういう時には母親はおおらかな気持ちで子供を温かく見守るのですよ。 子供が母親の笑顔を見てホッとするような、そんな場を作ってやることですよ。 家に帰ってきて母親の笑顔を見ると子供はホッとして安心できる。 家に帰って来た時ぐらい子供は学校での嫌な事を忘れたいのですよ。 小百合さんにだって、そんな子供の頃があったでしょう?

確かに、言われてみればそうかもしれないけれど、うちの子供は手に負えないのですわ。

あのねぇ~、母親がそう思ってしまってはダメですよ。 先生や友達がダメな奴だ!と思っていても、小百合さんだけは常に子供の味方をしてやらないと。。。そうでないと、子供がホッと一息つく場所がまったく無くなってしまうでしょう。 子供をますます追い込む結果になってしまいますよ。

でも、子供の味方になるということは甘やかすことになりますわ。

でもね、子供が孤立してしまって、さらに母親がガミガミ小言を言ったら子供はますますひねくれてしまいますよ。 最悪、自殺に追い込んでしまうかもしれませんよ。

そうでしょうか?

だからねぇ、悪い事を言わないから、そういう時には小百合さんが自分の気持ちを静めるのですよ。 冷静になって子供を温かく見守るつもりになるのですよ。

でもねぇ~。。。なかなか、そのような温かな気持ちになれないのですわ。

そういう時には映画でも見るのですよ。

Dersu Uzala のような映画ですか?

いや、Dersu Uzalaは高齢化社会向けの映画だから小百合さんにとっては、あまり参考にならないと思いますよ。

じゃあ、東京オリンピックの映画ですか?

いや。。。1964年の記録映画を見てもあまり参考にはならないでしょうね。

だったら、『海は見ていた』ですか?

そうですね。。。上の3つの映画の中では『海は見ていた』が一番小百合さんにとって癒しになる映画だと僕は思いますよ。

どういうお話なのですか?

次のような話なのですよ。

 


『海は見ていた』

 



 

あらすじ

江戸・深川の岡場所にある日、一人の若い侍(吉岡秀隆)が逃げ込んでくる。
刃傷沙汰を起し追っ手に追われているという。自らの居室にかくまった娼婦のお新(遠野凪子)は、その後も何かとお新の元に通う侍に恋をするが、若侍はただ居心地がいいから通っていただけで恋心など毛頭ない事を知り打ちひしがれる。
やがて、貧困ゆえに過酷な人生を歩んできた町人・良介(永瀬正敏)と再び恋に落ちるが、ある嵐の夜、置屋で度々問題を起していた客が娼婦の姉さん分である菊乃(清水美砂)をめぐって暴れだす。
そこに居合わせた良介は人の良さから止めようとして問題を起した男と激しく揉み合い殺してしまう。
誰の目にも非は問題の男にあることは明白であったが、役人の処罰は必至であり、既に将来を約束するお新と良介は一転、悲劇へと突き落とされてしまう。
しかし、折からの豪雨が激しさを増し、海から溢れた水がついには岡場所全体を飲み込んでしまう。
お新・菊乃・良介はそれぞれ避難するが、見渡す限り水没した町の景色は、まるで、過酷な人生を歩んできた二人を海が見守っていたかのごとく、事件の証拠を全て隠してしまうのであった。

エピソード

•元々黒澤明監督により撮影される予定であったが、ラストの洪水のシーンで莫大なコストがかかることが原因で、製作に至らなかった作品である。
後年、遺志を継いだ熊井監督の手で、黒澤の本来の意図よりは縮小した形だが、東宝の砧撮影所の撮影用大型プールを使い撮影が実現した。
黒澤はお新=宮沢りえ、菊乃=原田美枝子のキャスティングで撮影するつもりであり、二人には脚本も渡されていた。
なお房之助=吉岡秀隆は黒澤の意向通りの配役である。

•脚本の前半と後半のエピソードのつながりに問題があると指摘(黒澤久雄)されたため、黒澤は脚本をさらに改稿するつもりだったが、製作実現の目途が立たなかったためにそのままになっていた。
そのためもあり、クレジットには明記されてないが熊井啓が脚本に自ら手を入れている。

•黒澤が全編ラブストーリーで構成される作品を執筆したのは大変珍しく、映画の予告編では「最後に黒澤が撮りたかったのはラブストーリーであった」とセンセーショナルに紹介した。

•建物のセットや衣装、小物、髪結方法まで徹底的にリアリティを追求し、また江戸の粋といった時代風俗も丹念に描いた作品であり、ストーリーだけでなく映像の美しさや歴史考察の上でも完成度が高い作品といえる。




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



岡場所の映画ですか?



確かに娼婦の話なんだけれど、黒澤監督が脚本を書いて映画にしようとしたほどの作品だから、ただの娼婦の物語ではないのですよ。 山本周五郎さんが書いた原作を僕は読んでいたから、どのように映画にしたのだろうかと興味津々(しんしん)で観ました。 ほぼ原作通りでしたよ。 いい映画でした。

。。。で、私が見ても参考になるのですか?

もちろんですよ。

どのようなところがですか?

あのねぇ~、上のあらすじの中には書いてないけれど、僕が考えさせられたのはヒロインの「お新」ではなく「菊乃」の生き方ですよ。

菊乃さんってぇ、どういう女性なのですか?

姉御肌(あねごはだ)でしっかり者ですよ。 ただし、あまりにも不幸な人生を経てきたので現実の世界を認めることができない。 つまり、その点で三島由紀夫の生き方と共通するところがある。

でも、三島さんは、あまりにも不幸な人生を経てきたわけではないでしょう?

確かに表面的には不幸ではないかもしれないけれど精神的には極めて不幸な人生でしたよ。

どう言う訳で。。。?

つまり、三島さんにとって現実の人生は終戦の時に終わってしまった。 少なくとも三島さんはそう信じ込んでいた。

 


三島由紀夫の世界

 



 

三島由紀夫の遺作となった小説『豊饒の海』第一巻『春の雪』は、作者が美智子妃への思いをもとに、想像力の赴くままに書き上げた私小説である。
その結末は破天荒で、これが戦前ならば不敬罪に当たることを、作者は百も承知で書き進めた。 そしてその頃、生涯の計画として、人の意表を衝く「死に場所」を求めていた三島は、その完成の日こそ己れの自決の日であると、秘かに心に決めていた。

 



 

その執筆と併行して彼が組織した「楯の会」は、“左翼革命”が起こるであろう日、自衛隊を先導して、硝煙けむる二重橋を渡り、火傷するほど熱い握り飯を捧げ持って、意中の人に献上するための私兵であった。
ところが、三島の期待に反した“左翼革命”は、待てども起こらなかった。
昭和43年、44年と学生デモ隊は警察機動隊の力で徹底的に鎮圧され、自衛隊の出動は見送られ、憲法改正の機会も見失われて、ついに「楯の会」は栄えある出陣の場を失ってしまったのである。
三島由紀夫が自由に生きた時代、それは昭和20年8月15日、敗戦の日で終わった。

 


次郎 …女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映っているのが僕らの住んでいる世界、そんなこと、みんな知ってらあ。

 ただ言葉で知っておいでなだけでございますよ。

次郎 うそだ。 僕はみんな知っちゃったんだよ、だから僕の人生は終わったのさ。

(『邯鄲(かんたん)』昭和25年)


三島は、現人神(あらひとがみ)が「人間天皇」となった昭和の御代(みよ)を怒り、呪った。
大正10年(1921)11月25日は皇太子裕仁が大正天皇の摂政に就任し、事実上、昭和の御代が始まった日であるが、三島はこの11月25日という日を決行の日に選び、自衛隊に突入したのではないかと考えられる。

 (中略)

現代において、何かを創造するには、歴史感覚の欠如や社会性への無視は許されないが、三島が生涯にわたって愛読した『葉隠』には、ある種の時代錯誤を感じないではいられない。 この書は、真の武士道とはほど遠く、三島の人生誤算の大きな原因となったのではあるまいか。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)




280 - 283ページ
『三島あるいは優雅なる復讐』
2010年8月26日 第1刷発行
著者: 高橋英郎
発行所: 株式会社 飛鳥新社

『アナクロニズム』に掲載
(2011年3月27日)


 



三島さんは現実の世界に失望して生きるために「今一つの世界」を創造したのですよ。

 


今一つの世界

 



 

ここにもし、それらのものとは全く違った、また目新しい、「今一つの世界」があって、魔法使いの呪文か何かで、パッと、それがわれわれの目の前に現れたなら、そして、たとえば竜宮へ行った浦島太郎のように、その世界で生活することができたなら、われわれはまあどんなに楽しく生甲斐のあることでしょう。

でも、われわれは浦島太郎にはなれっこない。そんな「今一つの世界」なんてあるはずもなく、そこへ住むなんて思いもよらぬことだ。われわれはやっぱり、このきまりきった、面白くもない日常茶飯事を繰り返して行くほかに生き方はないのだ、とおっしゃるのですか。だって「今一つの世界」を求めるわれわれの欲望の烈しさは、どうして、そんなことをいってあきらめていられるものではないのですよ。

ご覧なさい。子供がどんなにお伽話をすくか、青年がどんなに冒険談をすくか、それから大人のお伽話、冒険談は、たとえばお茶屋の二階、歌い女、幇間(ほうかん)。それぞれ種類は違っても、われわれは一生涯、何か日常茶飯事以上のもの、「今一つの世界」を求めないではいられぬのです。お芝居にしろ、音楽にしろ、絵画にしろ、小説にしろ、それらはみな見方によっては、人間の「今一つの世界」への憧憬から生まれたものではありませんか。

暑中には避暑をする。それは何も暑さを避けるためばかりではないのです。われわれはここでも「今一つの世界」を求めている。飽き果てた家庭を離れて、別の世界へ行きたがっているのです。

もろもろの科学にしても、やっぱり人間のこの欲望の現われではないでしょうか。例えば天文学者は星の世界に憧れているのです。歴史家は遠い昔の別世界に思いを寄せているのです。動物や植物の学問はもちろん、生命のない鉱物にだって、薬品にだって、やっぱり「今一つの世界」を見出すことができないでしょうか。

古来のユートピア作者達が、それを夢見ていたことは申すまでもありません。さらにまた宗教ですらも、天上の楽園と言う「今一つの世界」に憧れているではありませんか。

ある型に属する小説家は、誰しも同じ思いでしょうが、わたしもまた、わたしの拙い文字によって、わたし自身の「今一つの世界」を創造することを、一生の願いとするものでございます。



江戸川乱歩(左)と三島由紀夫




(130 - 132ページ)
江戸川乱歩全集 第30巻 「わが夢と真実」
光文社文庫 2005年6月20日 初版1刷発行

『上流夫人 (2008年8月30日)』に掲載


 



三島さんにとっての「今一つの世界」が『葉隠』の世界ですか?



そうですよ。 その「今一つの世界」を三島さんは自分で映画にしたのですよ。 それが『憂国』です。

 


(yukoku00.jpg)


(yukoku07.jpg)


(yukoku01.jpg)

 



。。。で、『海は見ていた』の菊乃さんは、三島さんのように「今一つの世界」を作り上げたのですか?



そうなのですよ。

菊乃さんの「今一つの世界」ってどういうものなのですか?

菊乃さんは貧しい農家に生まれ育って惨めな生活を送り、結局、女郎屋に売り飛ばされてしまった。 もう生きる希望も張り合いもない。 でも、死にたくはない。 しかし、現実の世界で女郎として生きてゆくにはあまりにも自分が惨め過ぎる。

それで菊乃さんは、どのような「今一つの世界」を作り上げたのですか?

旗本の武家屋敷に生まれて結婚し、子供ができた。 でも夫の不始末によってお家が取り潰されてしまった。 しかたなく子供は里子に出して菊乃さんは借金を返すために女郎に身を落として働くことになった。

それが菊乃さんの作り出した「今一つの世界」なのですか?

そうなのですよ。 お新さんにも、同僚の女郎にも、女郎屋の女将(おかみ)さんにも、それが自分の生い立ちだと告げていた。

そういう「今一つの世界」を信じなければ、菊乃さんには生きる張り合いがなかったのですか?

そうなのですよ。

最後の最後。。。ラストの洪水のシーンで、お新さんと菊乃さんは屋根の上で助けを待つのだけれど、もう死ぬのを覚悟した菊乃さんは本当の事をお新さんに打ち明けるのですよ。 やがて良介さんがお新さんを探しに小船でやってくる。 しかし、あいにく小船には二人しか乗れないのです。 菊乃さんは、はお新さんと良介さんを見送りながら「ああ、これでさっぱりしたわ!」。。。そう言って一人で死んでゆくのです。

なんだか、悲しいお話ですわ。。。で、その結末が今の私にとって参考になるのですか?

そうですよ。 小百合さんの子供は学校で問題を起こしても、やがては一人で生きてゆく。 どう考えたって、お新さんや菊乃さんよりも小百合さんの子供の方がずっとよい境遇なのですよ。 つまりねぇ、小百合さんが子供のことで必要以上に心配するのは意味のないことですよ。 それよりも小百合さん自身の人生を考えた方が、子供にとっても小百合さんにとってもベターなのですよう。。。僕は、メールを書いた後で小百合さんの事を考えながら、そう思ったのですよ。




初出: 2011年5月8日



【卑弥子の独り言】



 

ですってぇ~。。。
こうなったら、あたくしも絶対に『海は見ていた』をDVDを借りて観ますわよう。
あなたも観たくなったでしょう?

でもねぇ、娼婦の話よりも、あたくしはビートルズの方が、ずっと興味があるのですわ。
とにかく、あたくしはビートルズの熱烈なファンなのでござ~♪~ますもの。。。
うふふふふふ。。。



“キャ~ 素敵ィ~♪~”

またビートルズの事を持ち出してきたので、あなたは“んもお~~ またかよ!”と思っているのでしょう?





でもねぇ、日本も含めて世界中にビートルズの熱狂的な嵐が吹き荒れたのは、あたくしが生まれる以前のことでしたわ。

こうして、たびたびビートルズの事を持ち出したら、
あなたにとっても、面白くもなんともないでしょうね!?

ところが何度も何度も、あたくしはビートルズの夢を見るのでござ~♪~ますわ。
軽井沢の万平ホテルに行くと
ジョンレノンとあたくしがカフェテラスで会うような気が、マジでするのでござ~♪~ますう。




滞在中のジョン・レノンは朝9時半ごろ、

このカフェテラスに下りてきたのですよ。

わたしたちに「おはようございます」と

日本語であいさつしたものですわ。

いつも庭に面した一番奥の席にすわって、

他のお客様には背を向けるような格好で

腰掛けていました。

ジョン・レノンのお気に入りは

ローヤルミルクティーでしたわ。



『幸福の谷』より
(2008年4月6日)


あたくしは万平ホテルのカフェテラスでマジでジョン・レノンとローヤルミルクティーをいただいている記憶が鮮明に甦ることがあるのでござ~♪~ますわ。
あなたは信じられないでしょう?
あたくしだって信じられないのですから。。。
おほほほほほ。。。

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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『アナクロニズム(2011年3月27日)』





こんにちは。ジューンです。

わたしhは、おばさんパンツを穿かせられて

何度となくデンマンさんのブログに

登場していますけれど、

すべてコラージュですわ。



これもコラージュです。

実物のわたしは、もう少し

太っているのですわ。

うふふふふふ。。。

写真を撮ってお見せできるような

スタイルではありません。

減量してスマートになったら、

実物のわたしをお見せできると思います。

期待しないで待っててくださいね。

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてくださいね。



『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ






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タリアセン夫人と再会

2022-10-30 01:37:12 | ふるさと 行田市

 

タリアセン夫人と再会

 


(yamagoy3.jpg)

 




(salon22.jpg)

Subj:ゆっくりとお話ができて

楽しかったです


From: sayuri@hotmail.com
To: denman@coolmail
Date: Wed, 12 Oct 2011 22:16:41 +0900


こんばんは。。。
今日は久しぶりにゆっくりとお話できました。
ありがとう。

本当に良いお天気でした。
このところ良いお天気が続いているので気分が爽快です。
デンマンさんにいただいたIrish Cream Coffee Beansを飲みながらバーナビーの山の家を懐かしみました。


(coffee90.jpg)

ところで9月7日にいただいたメールを最後に、その後メールをいただいてません。
デンマンさんの事ですから他にもメールを送信したのだと思います。
どうなっているのでしょうか?
10月にも送ったよね?

また明後日お会いしたいと思います。
朝、電話しますね。
では。。。

小百合より


(sayuri15.gif)

 




Subj:小百合さん、おはよう!

きのうは油蝉が鳴いて

呆れましたよ!

きゃはははは。。。



(semi100.jpg)



From: denman@infoseek.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Thu, Oct 13, 2011 10:53 am


Infoseekのメールシステムがリニューアルしたので、うまく送信ができなくなってしまったのですよ。

それでAOLのメールシステムを使って送信したのだけれど、これも、うまく送ってくれなかったようです。

このメールはINFOSEEKの旧システムで送ってます。

昨日は小百合さんと会えて十分に楽しみましたよ。
9月30日、館林では時間的なゆとりがなかったのでガストでも、なんとなくせわしい気持ちでダベッたので、なかなか落ち着けなかったようですよね。

昨日は盛りだくさんな1日だったけれど、小百合さんが気分的に落ち着いていたようで、僕ものんびりとできました。


(daibuts85.jpg)


(azuma101.jpg)

大長寺の大仏様の前でHよりも感じるハグをしてから東屋(あずまや)でダベッていたら油蝉が飛んできて鳴いたのには驚きましたよ。
ロマンチックというよりも呆れましたよ!
10月12日なのに、夏の気分になって蝉が飛んできたようです。(爆笑)

確かに昨日は10月にしては暑かった。
実家に4時に戻った時には汗ばむほどの陽気でした。23度。
でも、油蝉が鳴くほど暑くはなかった。


(kane100.jpg)

「かねつき堂」のゼリーフライは久しぶりに食べてうまかったですよ。
水城公園で小百合さんがIrish Cream Coffee Beansで入れてくれたコーヒーを飲みながら食べたので一味うまかったのでしょうね。
それにしてもガチョウの“チョウ助”が居ませんでした。
僕がバンクーバーで暮らしている1年の間に、可哀想にも一人で寂しく亡くなってしまったのでしょう?!


(cinamon2.jpg)

小百合さんが久しぶりにマクドでシナモンロールが食べたいと言ったので行田イオン(eaon)モールに行ったのだけれどマクドナルドが無くなっていたんだよね。
行田市内は寂れる一方ですよ。
どうしてもお客さんが郊外のショッピングモールへ行ってしまうんだよね。たぶん。。。

そう言う訳で17号バイパスのケーヨーD2吹上店へ行きました。


(d2fukiage.gif)

敷地の南東の隅にマクドナルドがあった。
でも、シナモンロールは、もうやってないとのこと。。。
NHKの「おはよう日本」では、最近、キッシュが日本で流行っているというようなことを言っていたけれど、
ガストにもマクドでもキッシュは置いてない。


キッシュ(仏語 Quiche)


(quiche.jpg)

キッシュは、卵とクリームを使って作るフランス、アルザス・ロレーヌ地方の郷土料理。

パイ生地・タルト生地で作った器の中に、卵、生クリーム、ひき肉やアスパラガスなど野菜を加えて熟成したグリュイエールチーズなどをたっぷりのせオーブンで焼き上げる。
ロレーヌ風キッシュ(キッシュ・ロレーヌ)では、クリームとベーコンを加える。
ナッツ類を加える場合もある。
生地ごと三角形に切って皿に出す。
地中海沿岸の地域でも一般的な料理である。
語源はドイツ語のKuchen(クーヘン)である。




出典: フリー百科事典
ウィキペディア(Wikipedia)』


 


(nugget01.jpg)

仕方なく、マックナギットを頼んでコーヒーを飲みながら一緒につまみました。

“マクドでコーヒーのお代わりなんてできないわよ!”
と小百合さんはいつも言っていたけれど、D2のそばのマクドでもコーヒーのお代わりが無料でできました。
きゃはははは。。。


(inaka02.jpg)

明日も、また会えるといいね。
今度は「さきたま古墳公園」で“田舎っぺうどん”を食べましょう。
じゃあね。


(denman01.gif)






10月12日に油蝉がやって来てジージー鳴き始めたのには呆れましたよ。 まさか、突然変異のセミではないと思うのだけれど。。。




私も驚きましたわ。 9月初旬ならば分かりますけれど10月の中旬になってセミの声を聞くなんて初めてでしたわ。

今年の日本は異変続きだからセミまでが異変をきたしているようですよ。

まさか。。。?

でもねぇ~、なんだか最近、日本は災害続きですよ。 台風12に続いて15号。。。それに東日本大震災、そして福島原発事故。。。セミも10月に鳴きたくなるくらい異変が続いているのですよ。

タイでも台風の影響でずいぶんと水が溢れて、アユタヤでもバンコクでも街が水浸しになっているようですわね。

そうですよ。。。これも地球温暖化のせいでしょう。

でも、地震は地球温暖化とは関係ないでしょう!?

いや。。。関係あるかも知れませんよ。。。地球が温まると地殻活動も、たぶん活発になるのですよ。 それで地震が起こる可能性が増えるのですよ。

そうかしら。。。?

ガチョウの“チョウ助”も、災害続きの日本に住むのが嫌になってあの世に行ってしまったのですよ。

まさか・・・?

とにかく、可哀想でした。 小百合さんも“チョウ助”のことを覚えているでしょう?

もちろんですわ。

 



件名:おはよう!昨日はお袋を見舞った後で、

叔母と「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。

きゃはははは。。。♪┌(・。・)┘♪



(foolw.gif)

日付: Sun, 01 Nov 2009 12:32:49 +0900
差出人: "denman@coolmail.jp"
宛先: "sayuri@hotmail.com"
CC: "barclay1720@aol.com"


10月30日の金曜日は盛りだくさんの一日になりました。
僕の実家の近くにある「とんでん」で食べた“茶蕎麦”はメチャうまかった。
10年ほど前に親父がまだ生きていた頃、両親と一緒に食べた茶蕎麦の味でした。


(soba12.jpg)

本当に懐かしかった。
小百合さんは伝統的な昔ながらの蕎麦を食べたけれど、今度は、ぜひ僕の好物の茶蕎麦を食べて行田の思い出を懐かしんでね。

蕎麦を食べてから「古代蓮の里公園」へ行って直売店で行田市で取れるいろいろな野菜やお土産物を見たけれど、改めて行田の豊かさを感じましたよう。

“ふるさとは遠くにありて思うもの”

うん、うん、うん。。。室生犀星の言葉だけれど、
こうして故郷にやって来ると改めて故郷の豊かさに気づきます。
小百合さんと一緒に古代蓮の神秘的な花を見ながら語り合えたら、さらに幸せな気分に浸ることができたかもしれません。
残念ながら古代蓮の花は咲いてなかった。
8月だけでなく、秋にも咲く古代蓮を作れないものか?


(lotus101.jpg)


(lotus102.jpg)

もし、秋に古代蓮が咲いているなら、
今度は古代蓮を見ながら“Hよりも感じるハグ”をして
再会を喜び合いたいものです。


\(^ヮ^)/ ギャハハハハ。。。

「古代蓮の里公園」でのんびりと散策した後で「水城公園」へ行きました。
まさか小百合さんがまた“とうもろこし”を焼いてくれるとは思いませんでした。
簡易コンロを持ってきて、刷毛(はけ)でタレを塗りながら旨そうに焼けた“とうもろこし”は小百合さんの真心の味がしました。
マジで。。。!

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。


(suijo32.jpg)


(suijo15.gif)

公民館の前の池の端(はた)で、何も知らない人が見たらホームレスのカップルが貧しい夕食を取っているように見えたかもしれません。
ちょうで池に住む一匹のガチョウのために近所で暮らす30代の女性が餌をやりにやって来ていました。
パンの耳とレタスをガチョウにあげていたけれど、とうもろこしの焼ける旨い匂いがガチョウの食欲をそそるのか?小百合さんがコンロでとうもろこしを焼いている池の端(はた)に寄ってくるのでした。


(goose10.jpg)

“チョウ助”も、とうもろこしが食べたいの?”

その女性はそんなことを冗談で笑いながら言っていたけれど、小百合さんが答えて言いました。

“このガチョウは、とうもろこしを食べませんよね(笑)”


(corn10.jpg)

そうなんだよね。10月16日に小百合さんが初めて水城公園にやって来た時、Pure Whiteのとうもろこしを僕に焼いてくれたけれど、その前に、生のとうもろこしを COB からとって僕は“チョウ助”に食べさせようとしたのでした。
でも、食べなかった。
たぶん、量が少なかったのでガチョウには良く見えなかったのかも?

水城公園で黄色い“とうもろこし”を食べてから小百合さんと一緒にイオン(eaon)モールへ行きました。
“シナモンメルツが食べたいわ。”
小百合さんは、かなりこだわっているようでした。
僕は、別に食べたいとは思わなかったけれど。。。

でも、モールの中にあるマクドナルドの店でのんびりと語り合うことができました。
カナダで食べるシナモンメルツとは形や感じがちょっと違うんだよね。
ほんの少しだけシナモンメルツを小百合さんが食べさせてくれたけれど、
味はシナモンロールとあまり変わらなかった。



小百合さんによると、サワークリームに砂糖を混ぜてあるらしい。
そう言われて味わってみると、確かにサワークリームのすっぱさが舌に感じられたような。。。
でも、言われなければ分からないすっぱさでした。

マクドナルドでコーヒーを飲んだ後で小百合さんと一緒にお袋を見舞いに行田中央総合病院へ行きました。
小百合さんと再会してお袋も喜んでいましたよう。
小百合さん、ありがとう!
お袋は、小百合さんと再会して元気をもらったようでした。

昨日(10月31日)は、叔母と一緒にお袋を見舞いました。
その後で「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。
小百合さんも手打ち蕎麦にこだわっているけれど、叔母も蕎麦にはかなりのこだわりを持っています。


(soba10.jpg)

それで、10月30日に小百合さんと一緒に見つけた手打ち蕎麦の「つるや」に行ったのですよう。
蕎麦屋らしい昔ながらのインテリアに、日本に居る事を実感させられました。

「つるや」のあとで行田中央総合病院の近くのBelc の敷地内にある Mos Burger でコーヒーとコロッケを食べながら2時間ほど粘(ねば)って積もる話をしたのでした。

ところで、昨日、行田観光協会のフライマップには出ていないゼリーフライの店を見つけました。
お袋を見舞いに小百合さんと行田中央総合病院へ行ったけれど、まだ小百合さんの記憶にあると思います。
国道125号線からそれて病院の駐車場へ行く、その道の角。
つまり、駐車場の前の道に進入する角のすぐ近くの肉屋さんでゼリーフライを作っていますよ。
一枚60円です。
買って食べなかったけれど、多分、衣(ころも)にはパン粉が入っているかも?
今度、行田へ行く機会があったら食べてみたらいいよ。

大体書き終わったので、これから「ネットカフェ・ミルミル」で牡蠣フライカレーを食べ、その後でウィンナコーヒーを飲みながらブログの記事を書きます。
記事のタイトルは「心のぬくもりを感じさせる医療」
小百合さんと再会した幸せを噛み締めながら。。。


(daibuts85.jpg)

ヽ(´ー`)ノ きゃはははは。。。

ありがとう。

じゃあね。

(V__/)
(+'.'+)
(")_(")







『心のぬくもりを感じさせる医療』より
(2009年11月2日)


 


(sayuri55.gif)

デンマンさんは次のように書いてましたわね。

今度は古代蓮を見ながら

“Hよりも感じるハグ”をして

再会を喜び合いたいものです。


 


(kato3.gif)

確かに、このように書きました。

それでデンマンさんはハグにこだわるのですか?

いけませんか?

だってぇ、デンマンさんのハグは、まるでプロレスの胴締めのように肋骨をギュッと締め付けるのですわ。

まさか。。。?

私はいつも死ぬかと思うほど呼吸困難に陥ってしまうのですわ。

それは、ちょっとオーバーではありませんか?

とにかく、いつ会ってもハグをっするのは、いったいどういうつもりなのですか?

やだなあああァ~、小百合さんが「ハグは素敵ですね」と言ったからですよ!

私がですか?

そうですよ!。。。もう忘れてしまったのですか?

そのような事を言ったかしら?

言いましたよ。。。次の写真を見ながら小百合さんはしみじみと言ったのですよゥ。。。

 


(bearhug00.jpg)

 



つまり、白熊の真似をしてデンマンさんは私に会うとベアハグをするのですか?



いや。。。ちがいますよ!。。。白熊が人間のハグを真似したのですよ!

とにかく、デンマンさんのハグは肋骨が折れると思うほど締め付けが激しいのですわ。

まさか。。。?

だってぇ~、今年も肋骨の1本がボキッと音をたてましたわ。。。肋骨が折れたと私は思いましたわ。

あのねぇ~、僕はプロレスラーじゃありませんよ。 小百合さんの肋骨が折れるほど強烈なベアハグをしませんよ。

でもとにかく、肋骨がボキッと音を出すようなハグだけは止めていただけませんか!?

だから、それ程に僕は小百合さんとの再会を喜んだわけですよ。

でも、肋骨が折れるのが心配ですわ。

分かりました。 今度は白鳥を優しく抱きしめるようなハグをしますよ。 うししししし。。。




初出: 2011年10月13日



【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
どうして、あたくしにもデンマンさんは強烈なベアハグをしてくださらないのかしら。。。?
肋骨の1本や2本、折れてもよいから激烈なベアハグをして欲しいものですわ。

ええっ。。。マジかってぇ。。。?

マジですわよ。
私は強烈なものが好きなのですわよ。

どうしてかってぇ~。。。?

だってぇ、あたくしはビートルズの熱烈なファンなのでござ~♪~ますわ。


(beat44.jpg)

“キャ~ 素敵ィ~♪~”


(bmania22.jpg)


(bmania03.jpg)

お分かりでしょう!?
ビートルズのファンは熱烈なのですわ。
だから、なまぬるいベアハグなど屁のツッパリにもならないのですわ。
うふふふふふ。。。

 



 

でも、日本も含めて世界中にビートルズの熱狂的な嵐が吹き荒れたのは、あたくしが生まれる以前のことでしたわ。
ところが何度も何度も、あたくしはビートルズの夢を見るのでござ~♪~ますう。
軽井沢の万平ホテルに行くと
ジョンレノンとあたくしがカフェテラスで会うような気が、マジでするのでござ~♪~ますう。

 



(karuman52.jpg)

滞在中のジョン・レノンは朝9時半ごろ、

このカフェテラスに下りてきたのですよ。

わたしたちに「おはようございます」と

日本語であいさつしたものですわ。

いつも庭に面した一番奥の席にすわって、

他のお客様には背を向けるような格好で

腰掛けていました。

ジョン・レノンのお気に入りは

ローヤルミルクティーでしたわ。


(karuman62.jpg)

『幸福の谷』より
(2008年4月6日)


 

あたくしは万平ホテルのカフェテラスでマジでジョン・レノンとローヤルミルクティーをいただいている記憶が鮮明に甦ることがあるのでござ~♪~ますゥ。
あなたは信じられないでしょう?
あたくしだって信じられないのですから。。。
おほほほほほ。。。

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあ、また。。。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


■ 『今すぐに役立つホットな情報』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)

『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『愛の進化論』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』




(bare02b.gif)

こんにちは。ジューンです。

タリアセン夫人と言うのは小百合さんのことです。

どうしてタリアセン夫人なの?

小百合さんは軽井沢に別荘を持っていて

よく軽井沢タリアセンに出かけるのですって…。

それでデンマンさんが小百合さんのことを

軽井沢タリアセン夫人と呼ぶようになったのです。

あなたは軽井沢に出かけたことがありますか?

私はデンマンさんとご一緒に

一度だけ訪れたことがあります。


(karuswan.jpg)

この湖は“Swan Lake”という

英語名がついているのですわ。

昔、宣教師の方が軽井沢に

別荘を持っていたのですって、

その家族の人たちが名づけたらしいのですわ。

10月でしたが、紅葉が見ごろになっていました。


軽井沢・雲場池の紅葉




まだ冬景色には程遠かったのですけれど、

湖にしては小さなその池のほとりに立ったら、

どこからともなく白鳥が飛んできそうな

感じがしましたわ。


(swan0023.jpg)

そう言えば、バンクーバーの

クイーン・エリザベス・シアターで

デンマンさんとご一緒に

バレー『白鳥の湖』を見たことがありましたわ。

 



 

あの時のチャイコフスキーの曲が

聞こえてきたものですわ。

それで、私はいつになく

感傷的になったことを覚えています。

ところで、日本に帰省してから

デンマンさんが小百合さんのことで

次のような記事を書いています。

時間があったら覗いてみてください。

『白鳥はどこに?(2011年10月8日)』

『思い出の軽井沢(2011年10月7日)』

『日本は汚染される(2011年10月4日)』

『おばんざい(2011年10月4日)』

『バーナビーと小百合さん(2011年10月3日)』

『杜の都で食べる PART 1(2011年10月2日)』

『杜の都で食べる PART 2(2011年10月2日)』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



(renge500.jpg)


(byebye.gif)
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足袋御殿

2022-10-22 01:31:54 | ふるさと 行田市
 

足袋御殿

 


(saisai6.jpg)


(tabi10.jpg)


(saisai3.jpg)




(salon22.jpg)

Subj:あの足袋御殿はでた?

From: sayuri@hotmail.com
To: denman@coolmail
Date: 2011年10月16日 16:22:25


こんにちは。。。
久しぶりに実家に帰って
のんびりと癒されていますか?


(inaka02.jpg)

デンマンさんとご一緒にいただいた「田舎っぺきのこ汁うどん」はメチャ美味しかったですよ。
手打ちなのですね。
“こし”があって、なかなか噛み応えのある手打ちウドンでした。
いつか子供を連れて、また食べてみようと思います。


(udon100.jpg)

「行田のグルメ20」に選ばれただけのことはありますね。


(udon101.jpg)

「きんぴら」は栃木の「きんぴら」とは違って、とても大きく切ってあるのでビックリしました。
埼玉県では、あのように大きな「きんぴら」を食べるのですか?

水城公園ではゆっくりとお話ができて気分がすっきりとしました。
今まで気づきませんでしたけれど、
「ホテイアオイ」の花がたくさん咲いていたのには驚きました。


(suijo32.jpg)


(suijo22.jpg)

「ホテイアオイ」の花

ところで次の記事を読みました。


(yamagoy3.jpg)

『タリアセン夫人と再会』

(2011年10月13日)


デンマンさんは私のメールをそのまま記事の中で使ってしまうのですね。
それってぇ、かなりムカつくのですよ。
名前や地名がすぐにでるんだから。。。
んもお~~。

。。。と書いても、またこのメールも記事の中で使うのでしょうね。
半ば諦めていますが、ほどほどにしてください。
私の堪忍袋がブチ切れないうちに止めてくださいね。(苦笑)


(saisai2.jpg)


(saisai5.jpg)

水城公園から見た「足袋御殿」は昭和の古い時代を垣間(かいま)見せているようでした。
「足袋御殿」のオリジナルの建物の写真はネット上で公開されていますか?

また水城公園でのんびりとお会いしたいですよ。
そのうち電話します。
では。。。

小百合より


(sayuri15.gif)


 




(foolw.gif)

Subj:小百合さん、おはよう!

ゆったりとした気分で

コーヒーを飲みながら

「足袋御殿」の応接室に居る

気分に浸ってね。

きゃはははは。。。



(coffee3.gif)


(saisai7.jpg)

From: denman@infoseek.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 2011年10月18日
(火曜日)午前10時39分


アイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズを調べてみましたか?
日本ではあまり人気がないようで
このコーヒー豆を売っている店は極めてまれです。


(coffee90.jpg)

10日ほど前にYAHOO!で検索した時にゲットした Irish Cream Coffee Beans の画像は10月16日に画像検索した時には見つけることができませんでした。

今日調べてみたら次の画像が見つかりました。


(irish009.jpg)

『ハワイ島のコナ地区から生まれた

世界の名品コナコーヒー』
より

バンクーバーで売っているアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズと比べると約2倍の値段ですよ!

それにしても小百合さんがアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズにハマっているのはちょっと不思議な気がします。
やっぱりカナダの思い出と強く結びついているのだろうね。

僕にとってはとりわけ印象に残るコーヒーではないけれど、
小百合さんが選んだコーヒー豆ということだけが記憶に残っていますよ。

しいて言えば、甘いコーヒー豆の香りが強烈で、
この香りを嗅ぐと小百合さんを思い出すようにになりました。
きゃはははは。。。

僕にとってアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズは小百合コーヒー・ビーンズになりましたよ。

「足袋御殿」をじっくりと調べてみました。
今では御殿は懐石料亭になっています。



(saisai10.jpg)


(saisai9.jpg)

足袋御殿で食べる国産黒毛和牛懐石
昭和の初め、足袋の産地として栄えた行田。
その行田に”足袋御殿”と呼ばれた邸宅があります。
彩々亭はその足袋御殿を懐石料亭として生かしたもの。
洋館と日本家屋からなる和洋折衷造りは、何か懐かしさの漂う落ちついた雰囲気です。


(saisai6.jpg)

昭和天皇がご覧になられた庭園を眺めながら、国産黒毛和牛の、そして、季節の懐石料理をお楽しみください。
きっと普段の喧騒さを忘れて料理を堪能し、往時のゆっくりした時の流れもお楽しみいただけます。




『彩々亭ご紹介』より


「足袋御殿」の建物と歴史も調べてみましたよ。



(saisai3.jpg)

水城公園と南大通りの間にある懐石料亭「彩々亭」。
南大通りの入り口正面から。


(saisai5.jpg)

上の写真は、水城公園の散策路からの様子です。
元々は、足袋製造業者であった新井八郎氏が大正14年に現在地(佐間)に工場を建設するとともに、昭和元年頃に写真のようにモダンな緑色の洋風瓦が特徴的なスクラッチタイル貼りの外壁を持つ2階建ての事務所兼住宅を建設し、その後西側に3階建ての離れ等を増築したと言われています。

往時には政財界で活躍した八郎氏の迎賓館的な役割を果たし、昭和天皇をはじめとする多くの名士が訪れており、「足袋御殿」と称されていました。
歴史あるこの建物は、平成19年に国の「登録有形文化財」に登録されています。




『行田市内の見所』より


調べた限りでは、あの建物は建てられたまま改築されたということが書いてない。
おそらく僕の記憶違いだとしか思えない。

しかし,僕の記憶の中にある建物は、もっと荘厳な石造りの建物で、印象的には国会議事堂のような厳(いかめ)しい感じを与えたものでした。
小学生の目にはそのように見えた。

現在建っているようなちゃちな物とは大違いでした。

それにしても小百合さんがどうして「足袋御殿」にこだわるのか?

小百合さんとの思い出を手繰(たぐ)り寄せながら考えてみて判りましたよ。


(asabuki32.jpg)

あの軽井沢タリアセンの中に建っている「睡鳩荘」に小百合さんはこだわりを見せたけれど、ちょうど同じような気持ちで「足袋御殿」に強く惹かれるのだろうね。

心の中に軽井沢タリアセン夫人としての上流志向があるのかもね?
きゃはははは。。。

では、今日もアイリッシュ クリーム コーヒー ビーンズをドリップして、ゆったりとした気分でコーヒーを飲みながら「足袋御殿」の応接室に居る気分に浸ってね。


(zenifry3.gif)

明日も、また会えるといいね。
今度は「さきたま古墳公園」で“ゼリーフライ”でも食べましょう。
じゃあね。


(denman01.gif)




(sayuri55.gif)

私が「足袋御殿」にこだわるのは軽井沢タリアセンにある「睡鳩荘」にこだわるのと同じだとデンマンさんは考えているのですか?


(kato3.gif)

その通りですよ。。。いわゆる「昭和の上流社会」を覗いてみたいという気持ちが小百合さんにはあるのではありませんか?

そうかしら。。。?

だから小百合さんは無意識のうちに「軽井沢タリアセン」に惹かれるのですよ。

 


軽井沢タリアセン

 



 



デンマンさんとご一緒に出かけた時には閉まっていましたわね。


(taliesin20.jpg)

 レストラン 湖水



小百合さんは、このレストランを知っていたのですか?

私は軽井沢タリアセンには子供をつれて何度か行ったことがありましたから知っていますわ。


(taliesin2.gif)


(asabuki32.jpg)

 睡鳩荘(すいきゅうそう)





小百合さんと一緒に行った時には睡鳩荘(すいきゅうそう)を見て、それからレストラン・ソネットへ行ったのですよね。


(taliesin10.jpg)

 レストラン ソネット

(1階がレストランで2階は「深沢虹子・野の花美術館」)


(cheesecake6.jpg)


(coffee3.gif)



そうでしたわ。 チーズケーキをいただきながらコーヒーを飲んだのでしたわね。



そうでした。 寒い日で、園内には数えるほどの人しか居なかった。 「レストラン湖水」 が閉まっていたのも納得がゆきましたよう。 確か11月の寒い日で、季節外れだったのですよね。

でも、またいつか行く機会があると思いますわ。

じゃあ、来年の秋に、小百合さんと一緒にブイヤベースを食べましょう。


(bouilla.jpg)



ブイヤベースはないと思いますわ。 うふふふふ。。。



マジで。。。?

デンマンさんは、何かといえばブイヤベースですわね? 他に気のきいた料理の名前を覚えてないのですか?

もちろん、他にも料理の名前ぐらい覚えていますよう。。。でもねぇ、ブイヤベースの響きが、なんとなく格調高くありませんか?

そうでしょうか?




『しんみりした曲ですね』より
(2010年12月27日)


 



こうして読み返してみると、小百合さんには「昭和の上流社会」を覗いてみたいという気持ちがあると僕には思えるのですよ。



私自身はそのような事を考えたこともありませんけれど。。。

そういうものですよ。。。自分では分からないものです。

。。。で、デンマンさんは現在の懐石料亭「彩々亭」の建物は改築されたものだと思うのですか?

そうですよ。。。僕の記憶の中にある建物は現在建っている建物とは全く違っているのですよ。

何十年かの間にデンマンさんの記憶が変化してしまったのではありませんか?

う~ん。。。確かに、その可能性がないわけじゃないけれど、現在の建物のと僕の記憶の中の建物を比べてみると、なんだか狐に鼻をつままれた感じですよ。

でも、どうしてそれほど印象深く昔の建物がデンマンさんの思い出の中に強く残っているのですか?

あのねぇ~、それには訳がある。。。

どのような。。。?

僕は小学校5年生と6年生の時、理科クラブでプランクトンの研究をしていたのですよ。

マジで。。。?

毎朝、職員会議が行われる自習時間に水城公園へ出かけて採集ネットでプランクトンを集めた。

 


忍沼のプランクトンの研究


(plankt2.jpg)



その当時の小学校の僕の担任の先生が志保田先生だった。この先生は理科クラブの部長だった。それで、僕も理科クラブに入っていた。


(manila05b.jpg)

何を研究したのですか?

今でもあるけれど行田市の水城公園に忍沼があるのですよう。


(oshi1.jpg)



この忍城は1988年(昭和63年)に本丸跡に再建されたものですよう。僕が小学生の頃は、この城が建っている場所はグラウンドになっていて少年野球の会場になっていた。忍沼は、昔は城を巡る外堀だったところです。そこへ毎朝、先生が職員会議をしている自習時間に、同じクラブのメンバーの二人と3人でプランクトンを取りに行ったものですよう。



それで、そのプランクトンをどうするのですか?

放課後、理科実験室で顕微鏡で覗いてプランクトンが泳いでいる様子を写生するのですよう。そうやって研究した訳ですよう。

何か賞でももらったのですか?

もらいましたよう。当時、オリンパスが理科の全国コンクールをやっていたのですよう。

オリンパスってあのカメラのオリンパスですか?

そうですよう。オリンパスは顕微鏡も作っていたのですよう。多分、その関係で理科のコンクールを開いていたのでしょうね。

それで、入選したのですか?

そうですよう。3人(山田君、松本君、それに僕)で取り組んだ「忍沼のプランクトンの研究」が優秀賞に選ばれて、カメラ3台と顕微鏡3台をもらったものですよう。

一人それぞれ1台づつもらったのですか?

カメラと顕微鏡は学校に寄付ですよう。その代わり、当時の田高校長先生から水銀の寒暖計をもらいましたよう。

それで、その事と工学部と関係があるのですか?

志保田先生の話で電子頭脳というのが面白かった。僕が小学校5年生の頃は電子計算機と言わずに電子頭脳と呼ぶ人の方が多かった。とにかく、その電子頭脳が東京の丸ビルぐらい大きい、と志保田先生が言ったのですよう。

それで、デンマンさんは電子計算機の道へ進んだ訳ですか?

そうなのですよう。




『光さす庭 (2008年6月20日)』より




これってぇ、マジですか?



もちろん真面目な話ですよ。 嘘や“でまかせ”ではありません。 当時は、今のようにきれいな公園になっていなかった。 葦(アシ)が茂る広大な沼地だった。 その沼地の向こうに石造りの「足袋御殿」が聳(そび)え立っているように見えたものですよ。 子供の目には国会議事堂のような尊厳な建物に見えたものです。

それだけのことですか?

いや、それだけじゃない! 小学校を卒業して行田中学に入学した。 それで僕は1年2組に入ったのですよ。 そのクラス50人の中に新井久代さんという名前の頭の良い可愛い女の子が居た。


(etsuko2.jpg)



この女の子が足袋御殿と関係あるのですか?



ありますよ。。。大有りですよ。 その久代さんは「足袋御殿」に住んでいたのですよ。

あらっ。。。「足袋御殿」のお嬢様だったのですか?

そうなのですよ。

デンマンさんは、小学生の時には久代さんのことを知らなかったのですか?

僕は中央小学校だった。 久代さんは南小学校だったのですよ。 だから小学生の頃、僕は彼女に一度も会ったことがない。

。。。で、中学1年生の頃に新井久代さんの住んでいる「足袋御殿」に遊びに行ったことがあるのですか?

小百合さんも、そう考えるでしょう? でもねぇ、残念ながら一度も彼女の住んでいる「足袋御殿」に遊びに行ったことがないのですよ。 今から考えると本当に残念なことをしました。 僕がクラスの委員長で彼女がクラスの副委員長というようなこともあった。 それなのに僕は純情可憐な男の子だったから久代さんの家に遊びに行きたいなんてとても言い出せなかった。

信じられませんわ。 デンマンさんならば、何が何でも押しかけてゆきそうじゃありませんか!

だから、当時の僕は気の小さい控(ひか)えめな少年だったのですよ。

信じられませんわ。

人間は年とともに変わるものなのですよ。

そうでしょうか。。。?


(初出:2011-10-18)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
小学生時代のデンマンさんは気の小さい控(ひか)えめな少年だったと、あなたは信じることができますか?
あたくしには想像もつきませんわ。(微笑)

確かに、時と共に、性格は多少は変わってゆくと思いますけれど、“三つ子の魂百までも”と申しますわ。
性格は極端には変わらないものでござ~♪~ます。

あなたの小学生時代を思い浮かべてくださいまし。
現在のあなた自身と性格が変わっていますか?
それほど変わってないでしょう?

ええっ。。。あたくしですか。。。?

考えて見れが、ずいぶんと性格が変わりましたわ。

どうしてかってぇ~。。。?

だってぇ、あたくしはビートルズの熱烈なファンなのでござ~♪~ますわ。
ビートルズの影響だと思うのですわ。


(beat44.jpg)

“キャ~ 素敵ィ~♪~”


(bmania22.jpg)


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お分かりでしょう!?
ビートルズのファンは熱烈なのですわ。
だから、性格までも変わってしまうのですわ。
うふふふふふ。。。

 



 

でも、日本も含めて世界中にビートルズの熱狂的な嵐が吹き荒れたのは、あたくしが生まれる以前のことでしたわ。
ところが何度も何度も、あたくしはビートルズの夢を見るのでござ~♪~ますう。
軽井沢の万平ホテルに行くと
ジョンレノンとあたくしがカフェテラスで会うような気が、マジでするのでござ~♪~ますう。



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滞在中のジョン・レノンは朝9時半ごろ、

このカフェテラスに下りてきたのですよ。

わたしたちに「おはようございます」と

日本語であいさつしたものですわ。

いつも庭に面した一番奥の席にすわって、

他のお客様には背を向けるような格好で

腰掛けていました。

ジョン・レノンのお気に入りは

ローヤルミルクティーでしたわ。


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『幸福の谷』より
(2008年4月6日)


あたくしは万平ホテルのカフェテラスでマジでジョン・レノンとローヤルミルクティーをいただいている記憶が鮮明に甦ることがあるのでござ~♪~ますゥ。
あなたは信じられないでしょう?
あたくしだって信じられないのですから。。。
おほほほほほ。。。

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあ、また。。。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』


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『銀幕の愛』


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『パリの空の下で』

『愛の進化論』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』


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『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』




(june10b.jpg)

こんにちは。ジューンです。

あなたは軽井沢に出かけたことがありますか?

私はデンマンさんとご一緒に

一度だけ訪れたことがあります。


(karuswan.jpg)

この湖は“Swan Lake”という

英語名がついているのですわ。

昔、宣教師の方が軽井沢に

別荘を持っていたのですって、

その家族の人たちが名づけたらしいのですわ。

10月でしたが、紅葉が見ごろになっていました。

 

軽井沢・雲場池の紅葉



 

まだ冬景色には程遠かったのですけれど、

湖にしては小さなその池のほとりに立ったら、

どこからともなく白鳥が飛んできそうな

感じがしましたわ。


(swan0023.jpg)

そう言えば、バンクーバーの

クイーン・エリザベス・シアターで

デンマンさんとご一緒に

バレー『白鳥の湖』を見たことがありましたわ。

 



 

あの時のチャイコフスキーの曲が

聞こえてきたものですわ。

それで、私はいつになく

感傷的になったことを覚えています。

ところで、日本に帰省してから

デンマンさんが小百合さんのことで

次のような記事を書いています。

時間があったら覗いてみてください。

『白鳥はどこに?(2011年10月8日)』

『思い出の軽井沢(2011年10月7日)』

『日本は汚染される(2011年10月4日)』

『おばんざい(2011年10月4日)』

『バーナビーと小百合さん(2011年10月3日)』

『杜の都で食べる PART 1(2011年10月2日)』

『杜の都で食べる PART 2(2011年10月2日)』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



(renge500.jpg)


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スープカレー@行田

2022-07-26 01:36:32 | ふるさと 行田市

 

スープカレー@行田

 


(neco005.jpg)


(sayuri201.jpg)




(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。 どうして今日は“スープカレー@行田”なのですかァ~。。。?


(kato3.gif)

やだなあああァ~。。。小百合さんはインドカレーで有名なのですよう。

どうして、そのようなことをおっしゃるのですか?

次の検索結果を見てくださいよう。。。

 


(gog41105a.png)

『現時点での検索結果』

 



「インドカレー 軽井沢タリアセン夫人」と入れてGOOGLEで検索してみたのですよ。 そしたら 2,440件もヒットするのですよ。 これはハンパじゃないですからねぇ~。。。



つまり、私がインドカレーにハマッているとデンマンさんはおっしゃるのですかァ~?

その通りですよ。 先日、熊谷の駅ビルでインドカレーを食べたばかりじゃありませんかア!

 


(binjdi01.jpg)


(binjdi02.jpg)

『インドカレー@熊谷』

 



インドカレーにハマッてないとしても、小百合さんはカレーにはハマってますよう!



その証拠でもあるのですか?

上の検索結果が何よりの証拠じゃありませんかア! しかも、昨日(11月4日)、小百合さんは 行田市にあるスープカレーの店で ハンバーガー スープカレーを思う存分食べたではありませんかア!

 


(neco002.jpg)


(neco001.png)

『実際のページ』

 



あらっ。。。見てたのですか?



やだなあああァ~。。。小百合さんは僕の目の前で ハンバーガー スープカレーを思う存分食べたのですよう。 見たくなくとも見えてしまうでしょう!

 


(neco003.jpg)


(neco006.png)

 



デンマンさんは、ご自分のスープカレーを食べないで 私の食べる様子をしみじみと眺めていたのですかァ~?



あのねぇ~。。。 僕は小百合さんのリクエストに圧倒されてしまったのですよ。

ええっ。。。私のリクエストですか?

そうですよう。。。

私が何をリクエストしたとデンマンさんはおっしゃるのですかァ~?

あれっ。。。 やだなあああァ~。。。忘れてしまったのですか?

だってぇ~。。。私は自分のスープカレーをいただくのに夢中でしたもの。。。うふふふふふふ・・・

うふふふじゃありませんよう! 小百合さんは、「このカレーのお店はデートスポットとしても有名なのですわァ・・・うふふふふ。。。」と言ったのですよう。

私がですかァ~?

そうですよう! それで、小百合さんは僕に次のウェブページを見せたじゃありませんか!

 


(neco001b.png)

『実際のページ』

 



小百合さんは上の赤枠で囲んだ箇所を指差して「ほらねぇ、ここに“デートにもぴったり”と書いてあるでしょう!? うふふふふ。。。」と言ったのですよう。



あらっ。。。 そのような事を私が言ったのですか?

そうですよう!。。。昨日のことですよう! もう忘れてしまったのですか?

だってぇ~、私は自分のスープカレーに夢中になっていたのですもの。。。うふふふふふ。。。

やだなあああァ~、惚(とぼ)けないでくださいよう!。。。しかも。。。、しかも。。。、驚いたことに 小百合さんは「デンマンさんのためにロマンチックなボサノバを演奏していただきますわ」と言ったのですよう。

あらっ。。。 私が、そのような事をマジで言ってしまったのですかァ~?

そうですよう。。。「デンマンさんとも、また来年までお会いできないので、この瞬間を思い出深いものにしたいのですわァ~。 うふふふふふ。。。」と微笑みながら言ったのですよう。

マジで。。。?

やだなあああァ~。。。このような時に冗談や嘘を僕は言いません!。。。忘れようとしても忘れることができません。

それで。。。、それで。。。、私はどのようなボサノバの曲を演奏するようにリクエストしたのですか?

小百合さんは「リオの浜辺を眺めながら。。。スープカレーを食べているような夢心地に浸りたいのですわァ。。。うふふふふふ。。。」と言ったのですよう。

 


(orphe800.jpg)


(orphe801.jpg)

 



どうですか?。。。「リオの浜辺を眺めながら。。。スープカレーを食べているような夢心地に浸りたい」と言ったのですよう。 上の写真を見たら思い出したでしょう?



思い出せませんわ。

やだなあああァ~。。。 僕をさんざ、その気にさせておきながら、小百合さんは覚えてないのですかァ~?

覚えてませんわ。。。それで、どのボサノバが流れたのですか?

次の曲ですよう。

 


(orphe802.jpg)



 



どうですか。。。小百合さん。。。上のボサノバを聴きながら思い出したでしょう?



思い出せませんわァ~。。。 第一、あのお店には お客さんのリクエストに応じてボサノバを演奏するようなステージがありませんわ。

そうでしたか?

やだわあああァ~。。。 デンマンさんは、まだボケてしまうお年ではないでしょう!? うふふふふふふ。。。

でも。。。でも。。。

デンマンさんは、私がスープカレーを夢中で食べるのを見ながら 白日夢に浸っていたのですわァ~?

まさかァ~。。。




初出: 2014年11月5日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
そうなのですわ。
デンマンさんは“黒いオルフェ”がメチャ好きなのでござ~ますう。。。

だから、あたくしも、この曲に合わせて踊ってしまったのですわ。
うふふふふふ。。。


(aerobics5.gif)



 

『衝撃の角度』

 

ところで、どうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

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