フェルメールの食卓(PART 1)
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フェルメール「牛乳を注ぐ女」
画家の名はヨハネス・フェルメール。
「牛乳を注ぐ女」。
オランダの宝石です。
耳を澄ませてみてください。
聞こえてきませんか?
時が止まったような部屋で、牛乳だけが流れています。
フェルメールの絵は、不思議な魅力を持っています。
まるで本物そっくりなのです。
本物を見ているはずがないのに、そう思ってしまうのです。
いったいどうしてなのでしょう。
17世紀、商業と貿易で栄えたオランダ・デルフトの町。
画家フェルメールは、この町で生まれ育ち、43年の生涯を終えています。
(中略)
フェルメールは、透視法と呼ばれる方法で全体の構図を決めていました。
さらに、ミルクの流れが、消失点の真下から一直線なのです。
それは偶然ではありません。
彼の絵は厳格な計算によって描かれているのです。
それが心地よさの理由の一つといわれています。
でも、ちょっとだけ嘘をつくのです。
嘘の一つは牛乳です。
透視法に従えば、壺は画家の視線の高さより下にあります。
すると牛乳は、壺の中まで見えているはずなのです。
しかし、嘘をつくのです。
下に流れる牛乳だけを強調するためです。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
23-27ページ 『美の巨人たち』
編者: テレビ東京
2005年1月28日 第2刷発行
発行所: 日本経済新聞社
デンマンさん。。。 今日は、どういうわけで“フェルメールの食卓”を取り上げたのですかァ~?
あのねぇ~、夕べ たまたまバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら上の箇所に出くわしたのですよ。。。
あの有名な「牛乳を注ぐ女」ですわねぇ~。。。
そうです。。。 真由美ちゃんもオランダの絵画に興味があるのですかァ~?
以前デンマンさんが次の記事を書きましたよね。
オランダ移住
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デンマンさん。。。 どうして“オランダ移住”を取り上げたのですか?
あのねぇ~、バンクーバーはオランダと似ているところがありますよ。
どういうところが似ているのですか?
思い出してください。。。 5月3日の日曜に、真由美ちゃんと一緒に“コール・ハーバー (Coal Harbour)”の "Lift Bar & Grill" でブランチを食べたでしょう。。。
ええ。。。 そうでしたねぇ~。。。
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真由美ちゃんは、この Bar & Grill が気に入ったようでしたよねぇ~。。。
ええ。。。 素敵なところでしたわァ。。。 なんだか、マジで優雅な生活をしているような気になりましたわ。。。 でも、ここがオランダと似ているのですか?
似てますよ。。。 アムステルダムにも、こんな感じのカフェがあるのですよ。 次の写真を見てください。
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なるほどォ~。。。 アムステルダムにある運河沿いのカフェですねぇ~。。。
そうです。。。 感じが似てるでしょう!?
確かに、言われてみれば、似てますわねぇ~。。。 でも、偶然に似ているだけではありませんかァ~。。。
あのねぇ~。。。 他にも似ているところがあるのですよ。。。 "Lift Bar & Grill" でブランチを食べてから 真由美ちゃんと一緒にスタンレーパークをそぞろ歩いて、The Teahouse に行ったでしょう!?
ええ。。。 そうでした。。。、そうでしたわァ~。。。
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この The Teahouse の感じが風車のそばで チューリップを見ながらティーを飲むことができる 次の写真のカフェに似ているのですよ。
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The Teahouse と 上のカフェが似ていますか?
真由美ちゃんは似てないと思うのですか?
似ていると思えば似ているようでもあり、似てないと思うと似てないようにも見えますわァ~。。。 なんだか、デンマンさんが無理やり結び付けているように思えますわァ~。。。
じゃあ、他にも似ている場所を紹介しますよ。 次のカフェもアムステルダムにあるのです。
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このテラスのあるカフェが真由美ちゃんと一緒にブランチを楽しんだ バンクーバー美術館の裏のカフェと 実によく似ていますよ。
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つまり、たまたまアムステルダムのカフェが バンクーバーのカフェや Teahouse に似ているので、“オランダ移住”というタイトルにしたのですか?
もちろん、それだけじゃありません。。。
『オランダ移住』より
(2015年5月27日)
もう1年ほど前になりますけれど、私もこの時にオランダのことをちょっと調べてみたのですわァ。
それで、何か面白いことが解りましたかァ?
フェルメールが「牛乳を注ぐ女」を描いたのは 1660年頃ですよねぇ~。。。 この頃のオランダでは、食卓でフォークをほとんど使わずに、手づかみで食べていたというのですわァ~。。。
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大人も手づかみでぇ~。。。? まさかァ~。。。?
冗談ではなく、真面目な話ですわァ~。。。
じゃあ、熱い料理は食べられないでしょう!?
だから、そういう時には、スプーンを使っていたようですわ。
でも、どうして手づかみなのですか?
17世紀のオランダでは「神から与えられた食べ物は、人間の手そのもので食べるべきで、道具に頼るべきではない」という宗教的な考え方があったそうですわァ。
僕にはちょっと信じられないですよ。。。
。。。で、デンマンさんも何か面白い発見でもしたのですか?
あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた別の本を読んでいたら、次の箇所に出会ったのですよ。
野菜と肉のジャガイモマッシュ
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オランダで、ハットスポットと呼ばれるこの料理の歴史は長く、
すでに17世紀にはこの名の料理がありました。
まだジャガイモがなかったのっでパンを使って作りました。
すべての材料を一つのお鍋で煮て
混ぜ合わせるという合理的な料理法です。
野菜の水気が出てしまうので、
作りたてをいただくのがおすすめです。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
86ページ 『フェルメールの食卓』
著者: 林 綾野
2011年10月3日 第3刷発行
発行所: 株式会社 講談社
17世紀のオランダには、まだジャガイモがなかったというのですよ。
マジで。。。?
僕もちょっと信じられませんでしたよ。。。 それで、ウィキペディアで調べたら次のように書いてありましたよ。
ジャガイモ
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ジャガイモ(馬鈴薯、英: potato、学名:Solanum tuberosum L.)は、ナス科ナス属の多年草の植物。
デンプンが多く蓄えられている地下茎を食品として利用する。
ジャガイモの原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
16世紀には、スペイン人によりヨーロッパにもたらされた。
このとき運搬中の船内で芽が出たものを食べて、毒にあたったため「悪魔の植物」と呼ばれた。
日本には、1600年ごろにオランダ船によりジャカルタ港より運ばれた。
日本では当時は観賞用として栽培されたという。
日本では北海道が最大の生産地で、春に植え付けて夏の終わりから秋にかけて収穫される。
北海道に次ぐ大産地である九州の長崎では、秋に植え付けて冬に収穫するのに加えて、冬に植え付けて春に収穫する二期作が行われる。
ジャガイモの利用史
ジャガイモは南米アンデス中南部のペルー南部に位置するチチカカ湖畔が発祥とされる。
もっとも初期に栽培化されたジャガイモはSolanum stenotomumと呼ばれる染色体数24本の二倍体のもので、その後四倍体のSolanum tuberosumが栽培化され、現在世界中で広く普及するに至ったとされている。
このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。
当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシではないかと伝えられていたが、ワマン・ポマが1615年に残した記録やマチュ・ピチュの段々畑の史跡研究、気象地理条件、食生活の解析など、複数方面からの結果が、食基盤がジャガイモであったことを示しており、近年見直しが図られている。
しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っておらず、スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測付けられている。
さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していない。
いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが普及するのは、さらに時を待たねばならない。
普及は、プロイセン王国で三十年戦争により荒廃し、飢饉が頻発した際に作付け(栽培)が国王の勅命により強制、奨励されたことや、踏み荒らされると収穫が著しく減少するムギに代わり、地下に実るため踏み荒らしの影響を受け難い作物として、農民に容易に受け入れた結果である。
さらにジャガイモは18世紀には、アイルランド移民の手により北アメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となった。
アイルランドの小作農家たちは元来は主にムギを栽培していたが、地主に地代を納めなくてもよい自分らの小さな庭地で、生産性の非常に高いジャガイモの栽培を始めた。
それによって、ジャガイモが貧農の唯一の食料となってゆき、飢饉直前には人口の3割がジャガイモに食料を依存する状態になっていた。
ジャガイモは寒冷地でも良く育ち、アイルランド人口の増加を支えた。
しかし、1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。
ジャガイモを主食としていた被支配層のアイルランド人の間からは、ジャガイモ飢饉で100万人以上ともいわれる多数の餓死者を出した。
また、イギリス、北アメリカ、オーストラリアなどへ、計200万人以上が移住したといわれる。
アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。
この時代のアメリカへの移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。
アイルランドでのジャガイモ飢饉があったものの、寒冷地にも強く、年に複数回の栽培が可能で、地中に作られることから鳥害にも影響されないジャガイモは庶民の食料として爆発的な普及を見せた。
アダム・スミスは『国富論』において「小麦の三倍の生産量がある」と評価しており、瞬く間に麦、米、トウモロコシに並ぶ「世界四大作物」としてその地位を確立した。
日本への伝来
日本へは諸説あるが、オランダ人やオランダ造船によって1598年に持ち込まれたとの説がある、オランダ領ジャワ島の現ジャカルタ(当時、ジャカトラ(Jacatra))を経由して伝来したため、ジャガタライモと呼称された。
江戸時代後期の18世紀末にはロシア人の影響で北海道・東北地方に移入され、飢饉対策として栽培された。
蘭学者の高野長英はジャガイモ栽培を奨励している。
また、江戸後期には甲斐国の代官であった中井清太夫がジャガイモ栽培を奨励したとされ、享和元年(1801年)には小野蘭山が甲斐国黒平村(甲府市)においてジャガイモの栽培を記録している(『甲駿豆相採薬記』)。
また、アイヌの人々もジャガイモを栽培していた。
本格的に導入されたのは明治維新後で、北海道の開拓に利用された。
当初は西洋料理の素材としての需要であったが、洋食の普及とともに、徐々に日本の家庭料理にも取り入れられるようになっていった。
出典: 「ジャガイモ」
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つまり、日本で“ジャガイモ”と呼ばれるようになったのは、“ジャガタライモ”がなまってぇ“ジャガイモ”になったのですわねぇ~。。。
そういうわけですよ。。。
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