湯煙美人(PART 1)
Subj:
小百合さん、おはよう!
バンクーバーは久しぶりの
雨ですよう。
きゃはははは。。。
Date: 31/08/2010 1:13:19 PM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間:9月1日(水)午前5時13分
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
CC: barclay1720@aol.com
1日中雨ということはないだろうけれど、久しぶりにバンクーバーらしい雨になりました。
そのうち止むだろうけれど、本格的な雨ですよう。
「七人の侍」の雨のシーンを思い出しました。
きゃはははははは。。。
どこで読んだのか忘れてしまったけれど、あの雨のシーンは、激しさがフィルムに写らないので、墨汁を雨に混ぜて撮ったらしい。
映画撮影も大変なんだね。
今日はデンマンストリートのローヤルバンクへ行く都合があるので、3時頃には止んで欲しい。
きゃはははは。。。
ところで、夕べ7時頃、小百合さんから電話がかかってきたけれど、
ちょうどパソコンがシャットダウンしていて、何度、再起動しても言う事を聞いてくれなかったので半藤一利の『昭和史(1926-1989)』を読んでいたのですよう。
ん。。。? 誰かな?
ちょっとばかり胸騒ぎがして。。。
声というのは本当に特徴があるよね。
小さな声が聞こえただけでも、すぐに分かるんだよう。
2ヶ月ぶりだろうか?
久しぶりに小百合さんの声を聞いて思ったよりも元気そうだったので安心しましたよう。
秋にまた再会できる事を楽しみにしています。
小百合さんも胸が痛いとか。。。
自由がないとか言ってないで
軽井沢タリアセン夫人になりきって元気にルンルン気分で過ごしてね。
時間があったら次の記事でも読んで気分転換してね。
■『プロキシの謎』
(2010年8月31日)
タグ: いかがわしい人妻出会い系, ネットの迷惑行為, ネットの迷惑宣伝, プロキシの謎, プロキシサーバ, 迷惑スパマー, 悪徳出会い系, 愚かな鴨ネギ, 不道徳人妻出会い系, 人妻出会い系
カテゴリー: アクセス解析, デンマンさんが登場, ニュース・時事問題, ネット犯罪・ネット社会の問題点, パソコン・インターネット, 不倫, 健全なる批判, 出会い系・出会い馬鹿, 卑弥子さんが登場, 小百合さんが登場, 小百合さんのメール, 小百合物語, 性道徳・性のモラル, 秘話・裏話, 艶話・エロい話・エロチカ, 迷惑スパマー, 韓国の文化と生活と歴史
いかがわしい人妻出会い系の話ですよ。
結構、面白いよ。
じゃあ、またねぇ。
8月30日の夜、小百合さんから電話をもらったので僕の夢とロマンが急に広がったのですよう。
デンマンさんの夢とロマンって何ですの?
あのねぇ~、なぜか霧積温泉の小百合さんの紀行文が僕のオツムに蘇(よみがえ)ってきたのですよう。
日付: Mon, 10 Aug 2009 08:24:47 +0900 (JST)
(バンクーバー時間:8月9日 日曜日 午後4時24分)
差出人: "sayuri@hotmail.com"
宛先: "denman@coolmail.jp"
件名:
霧積(きりづみ)温泉に
やっと行きました
\(*^_^*)/
ずいぶん メールもたっまって
だれかこのメール 開けたなー。
ほら 私がいないと誰か見るよ。
ただいまー 夕べ 戻りました。
自由に させてもらいました
元気です
碓氷峠の近く
霧積(きりづみ)温泉にやっと行きました
霧積(きりづみ)温泉
金湯館(きんとうかん)
一晩ねて翌朝、 急用で すぐ戻らなくては・・っと
軽井沢から帰らなくては いけない状況になり
あわてて 横川まで 降り
PA (パーキング)からTelして
長男坊と話したら、
戻らなくてOK という事になった。
ホットして また 碓氷峠を登る。
バカだねー私
(今度は旧道から、父と昔 とおった道を登った)
横川まで降りてしまったから
途中 霧積(きりづみ)へ向かってみよう。
イイ チャンス!
ここから軽井沢は近いし夕方までにまた戻れば・・と
「人間の証明」で麦わら帽子を渓谷で
落して亡くした、あのフレーズを
ずーっと 気になっていて やっと行けました。
たのしかったよ~、三男坊と温泉
お風呂5分
後 遊卓球場 で遊びたい 感じ。
次男坊いたら 卓球で1時間 遊んでましたね
行水だから 温泉は無理、
でも せっかくだから 入りました。
他に誰もいなくて 三男坊と貸しきりでした。
三男坊も熱いのは苦手らしく
洗い場を 走り回ってました。
霧積温泉は 万葉の歌(防人)の碑がある
サンセット ポイントという眺めの良い見晴らし台の
熊野神社から 中山道の道が今もあって、
山歩きが好きな人は歩いて
霧積まで 下っていきます。
3時間位かかると聞きました。
三男坊が小学生になったら
一緒に 下っていきたいと思うのです。
さゆりより
8月8日 記
『母さん、僕のあの麦わら帽子』より
(2010年6月3日)
『カラスの証明 (2010年4月30日)』にも掲載
どうですか?。。。小百合さんも上の紀行文を読んで懐かしくなったでしょう。。。
そうですわね。。。想えば1年前ですわ。。。月日の経つのは本当に早いですわね。。。10月には、またデンマンさんがやって来るのですわね。
うししししし。。。そうなのですよう。
。。。で、どうして私の思い出の場所を持ち出したのですか?
「人間の証明」で
麦わら帽子を渓谷で
落して亡くした…、
あのフレーズを
ずーっと 気になっていて
やっと行けました。
この部分がなかなかいいですよう。
それ程デンマンさんの心に残ったのですか?
そうですよう。。。
でも、デンマンさんは霧積温泉に行った事がないのでしょう?
残念ながらないのですよう。。。でもねぇ~、小百合さんのメールを読んで、「人間の証明」のことでも、「霧積温泉」のことでも、結構たくさんの記事を書いたのですよう。。。僕はまるで小百合さんと一緒に霧積温泉に浸かったような、そのような懐かしささえ覚えるほどですよう。
でも、それは単なる想像でしょう?
そうですよう。
想像したぐらいで懐かしさを覚えるなんてぇ。。。ちょっとオーバーではありませんか?
あのねぇ~、実は、バンクーバー市立図書館から『漱石とグールド』を借りてきて読んだのだけれど、僕はかなりハマッてしまったのですよう。
22番の本ですよう。 6月7日から8月9日まで借りていたのですよう。
じゃあ、もう返してしまったのですわね?
また借りてきたのですよう。うししししし。。。
『漱石とグールド』の返却期日は8月30日ですね。もう返したのですか?
2度まで更新できるのですよう。 だから、更新したばかりです。
つまり、6月7日からずっと借りているのですか?
そうなのですよう。
それ程面白いのですか?
うん。。。面白いというか、読み応えがあるのですよう。 僕は夏目漱石にも関心があるし、グレン・グールドにも惹かれているのですよう。
グレン・グールド
Glenn Herbert Gould
(1932年9月25日 - 1982年10月4日)
カナダのピアニスト、作曲家。
トロントに生まれる。
旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。
プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。
母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様バイオリンの演奏ができた。
母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロント王立音楽院に合格。
同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルベスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。
1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。
1945年にオルガン奏者としてデビュー。
同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。
1946年5月トロント交響楽団と共演しピアニストとしてベートーベン「ピアノ協奏曲第4番」で正式デビューし、同年10月、トロント王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業。
その後、1947年に初リサイタルを行って国内での高い評価を得た。
1955年1月2日、ワシントンで公演してアメリカでの初演奏を行い、ワシントン・ポスト誌に「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と高い評価が掲載された。
続く1月11日のニューヨークでの公演で、米国CBSのディレクター(d.オッペンハイマー)がグールドの演奏に惚れ込み、翌日終身録音契約が結ばれた。
グールドは、プロデューサーなどの反対を押し切り、デビュー盤としてバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。
1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。
同作は、ハロルド・C・ショーンバーグのような大御所批評家からも絶賛され、ヴォーグ誌やザ・ニューヨーカー誌といった高級誌もグールドを賞賛した。
その後、メディアは、そのアイドル的容貌と奇抜な性癖を喧伝し、グールドは一躍時の人となった。
1957年には、ロシア及びヨーロッパへの演奏旅行に赴く。
第2次大戦以降、ソ連へ初めて演奏旅行に赴いたアメリカで活動する音楽家となったグールドは、口コミで瞬く間に演奏会場が満員になり、「バッハの再来」と賞賛を浴びた。
その演奏により、当時鉄のカーテンの向こう側と言われていたソ連と東欧衛星国でもセンセーショナルを起こした。
グールドは、演奏方法・解釈、新たな作曲家の認知など、その後のロシア音楽界に多大な影響を及ぼした。
その衝撃・影響力・演奏の素晴らしさは、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチら当時の最高峰の音楽家達によっても証言されている。
その後、ヨーロッパでは、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レオポルド・ストコフスキーらとも共演。
1959年には、ザルツブルク音楽祭にも出演した。
北米と異なり伝統的で保守的な風潮のあるこれらの国々でも大絶賛を受けたグールドは、世界的なピアニストとしての地位を確立した。
低い姿勢とハミング
グールドは、異様に低い椅子(父親に依頼して作ってもらった特製の折りたたみ椅子で、いつもこれを持ち込んでいた)に座り極端に猫背で前のめりの姿勢になり、時に大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めた。
レコーディングエンジニア等が再三注意し止めさせようとしたにも関わらず、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯この癖が直ることは無かった。
なお、猫背でかがみこむような奏法や指の独立には、その師であるゲレーロの「フィンガー・タッピング技法」の影響も指摘されている。
演奏会への不信
演奏会において正しく燕尾服を纏い観客を圧倒するパフォーマンスをみせることが優れた演奏家の当然の条件のようにいわれた時代にあって、自身の気に入ったセーターを着て特注の椅子に座って演奏するなど奇抜なスタイルで演奏会に臨んでいたグールドは、そもそも演奏会そのものに対して批判的であり、デビュー以来ライブ演奏に対する疑問や批判を繰り返していた。
グールドは、この点について大変に雄弁であり、多くのユニークな論拠を挙げている。
第1は、演奏会の不毛性・不道徳性であり、グールドによれば、演奏会での聴衆は言ってみれば「血に飢えて」おり、演奏者は失敗を畏れて志を失い、ひいては「寄席芸人に身を落としてしまう」という。
また、演奏会やコンクールに特有の競争性にも否定的で、「演奏行為は競争ではなく情事である」とも語っている。
また、演奏会では、演奏者と聴衆は平等な関係を失っているという。
第2には、ライブ演奏の一回性への疑問であり、それを「ノン・テイク・ツーネス」とよび、録音技術の登場によりライブコンサートはその意義を失ったとまで説いた。
結局グールドは、コンサート・ドロップアウト後は、どんなに頼まれても演奏会で演奏することはなかった。
オマージュ
グールドの死後、カナダにおいてグレン・グールド賞が創設され、メニューインや日本人作曲家武満徹等がこれを受賞している。
また、ドミトリー・シトコヴェツキーは、グールドの演奏にインスパイアされて、ゴルトベルク変奏曲を弦楽三重奏に編曲して、グールドに捧げている。
さらに、グールドの1955年のゴルトベルク変奏曲の録音を、最新のテクノロジーで再創造する試みも行われており、グールドの録音は一種の楽譜として評価されている。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『漱石とグールド(2010年8月23日)』に掲載
(To be continued)