ケイトー。。。 どういうわけで 宗教戦争 を取り上げたのォ~?
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あのねぇ~、僕が予約していたDVDが10本ほど届いたので、どれを観ようかと思ったら、次の映画が目についたのですよ。。。
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The Sultan and the Saint
サルタンと聖者
映画「スルタンと聖者」は、歴史から失われた偉大な物語の 1 つを伝える。
過去の東西対立の時代を舞台に、私たちの現在に切迫感を持って語りかける。
二人の信仰の男(一人は巡回するキリスト教の説教者、もう一人はイスラム帝国の統治者)を中心に物語は進む。
二人は、一世紀にわたる戦争、不信、陰湿なプロパガンダに立ち向かい、相互尊重と共通点を模索した。
これは、アッシジのフランシスコとエジプトのスルタンの物語であり、十字軍として知られるキリスト教徒とイスラム教徒の対立の時代の血なまぐさい戦場での彼らの出会いを描く。
この映画は、アッシジの聖フランシスコとスルタン・マリク・アル・カーミルとのあまり知られていない出会いの物語を描いている。
二人は第5回十字軍中に出会い、それぞれが顕著な変化を遂げる。
史実の再現シーンと、著名な歴史家、美術専門家、宗教思想家、脳科学者へのインタビューで語られるこの映画は、信仰間の宗教対立の恐ろしい時期にありえない出会いを映画化し、この二人の信仰の男を中心に平和を見つける方法を模索する。
1219年、第5回十字軍の最悪の時代、死と恐怖のうめき声が響く過酷な戦場を越えて、サラディンの甥であるマリク・アル・カーミルは、風変わりな2人のキリスト教徒を設備の整ったテントに迎え入れた。
彼らは謙虚な修道士であり、貧困と非暴力を誓う修道会の男たちであり、粗末なローブを着て裸足であった。
彼らの頭は剃られ、頬は献身的な行為の末にこけていた。
彼らはこの戦線を越えるために命を失うことさえ顧(かえり)みなかった。
つまり、すべてを危険にさらして やって来たのだ。
筆頭修道士であるアッシジのフランシスコという男は、生涯をイエス・キリストに倣い、キリスト教徒とイスラム教徒の間の数十年にわたる戦争に終止符を打とうとした。
フランシスコが去ったとき、スルタンはイスラムの精神性をより深く理解し、カトリック教徒にイスラム教徒をより敬意を持って扱うよう促す後の著作に、彼のフランシスコとの出会いの経験は反映された。
アル・カーミルはキリスト教徒と関わり議論するあらゆる機会を歓迎し続け、
数年後、神聖ローマ皇帝との協定を結ぶことに成功し、最終的に血なまぐさい第5回十字軍の苦しみに終止符を打った 。
(デンマン訳)
出典:
「columbanird.org」
今から800年以上も前の出来事を基に作られた映画じゃない。。。
そうです。。。800年以上も前の出来事について作られた映画を観てはいけませんか?
かまわないけれど、そんな昔の話をここで取り上げても、多くのネット市民の皆さんは関心がないと思うわァ~。。。
いや。。。そんなことはありませんよ。。。この800年前の宗教戦争と現在ドンパチとおこなわれているハマスとイスラエルの戦いは、時間は800年も離れているけれど、密接な関係がある 。。。
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でも、このハマスとイスラエルの紛争は「宗教戦争」ではないでしょう!?
確かに、イスラム教とユダヤ教の対決ではありません。。。しかし、イスラム教徒とユダヤ教徒が戦っていることに間違いはないのですよ。。。その意味では、「宗教戦争」と言えないこともない。。。
でも、紛争の目的は宗教の対立にあるわけじゃないでしょう!
確かに、宗教の対立が直接の問題になったわけじゃない。。。あくまでも政治情勢がハマスにとって悪くなってきたので、ここで紛争を起こして世界の目をハマスに向けさせようとしたのが直接の目的ですよ。。。
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ハマス
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ハマース(アラビア語: حماس Ḥamās, ハマース、英語: Hamas)あるいはハマース運動(英語: Hamas Movement)は、パレスチナのスンニ派イスラム原理主義、民族主義組織であり、パレスチナ土地奪還と、パレスチナ人権保護を目的に活動している。
名称については、公安調査庁や多くの日本メディアはハマスと表記している。
社会奉仕組織「ダアワ ないしは アッ=ダアワ)」と軍事組織「イッズッディーン・アル=カッサーム旅団」を擁する。
2006年のパレスチナ立法選挙で勝利し、2007年のガザの戦いの後、ガザ地区の事実上の統治当局となった 。
パレスチナ自治政府の議会でも過半数を占めているものの2007年の分割統治以降、議会は実質停止している。
カナダ、欧州連合、イスラエル、日本、オーストラリア、イギリス、アメリカ合衆国はハマスをテロ組織として指定している 。
ニュージーランドとパラグアイは軍事組織のみをテロ組織として指定している。
ブラジル、中華人民共和国、エジプト、イラン、ノルウェー、カタール、ロシア、シリア、トルコからはテロ組織とはみなされていない。
2018年12月、
ハマスに対するテロ組織としての非難決議は国連総会を通過できなかった 。
なお、ハマスの指導者イスマーイール・ハニーヤはカタールを拠点としている。
歴史
1980年代の第1次インティファーダ時代に、ヤーセル・アラファト議長が指揮するパレスチナ解放機構 (PLO) の影響力を排除した民衆レベルでの対イスラエル抵抗組織として設立された。
ハマスとPLOの対立関係を見たイスラエル政府は、ハマスがPLOに対抗する勢力となることを期待して秘密裏に援助を行っていた 。
ハマスは教育、医療、福祉などの分野で一般民衆への地道な活動を続けたため、パレスチナ人の間で支持が拡大していった。
1990年代にPLOがイスラエルとの和平交渉を開始すると、ハマスはこれに強く反対し、対イスラエル強硬派の支持を得た。
1995年の右派イスラエル青年によるイツハク・ラビン首相の暗殺、和平交渉におけるアラファト議長の強硬姿勢、そして2000年のリクードのアリエル・シャロン党首による岩のドーム訪問をきっかけとして、第2次インティファーダが開始されると、ハマスは自爆攻撃やロケット弾を用いたイスラエル国防軍へ攻撃を開始した。
イスラエルは2004年3月22日に創設者のアフマド・ヤースィーンをアパッチ戦闘ヘリでの攻撃により殺害した。
翌日には最高幹部陣からアブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィーが後継者となることが発表されたが、同年4月17日に再びイスラエル国防軍ヘリの攻撃を受け暗殺された。
ハマスは草の根の民衆支援への評価、和平交渉の破綻、ファタハの率いるパレスチナ自治政府への不満などを背景に、2004年12月に行われたパレスチナ地方議会選挙において過半数の議席を獲得。
さらに2006年1月のパレスチナ評議会選挙でも定数132の議席中で76議席を獲得するなど圧勝した。
同年3月29日にハマスのイスマーイール・ハニーヤがパレスチナ政府首相に任命された。
多数の西側諸国はハマスをテロリズム団体に指定しており、ハマスの政権参加を機にパレスチナ政府への支援を停止した。
日本は世界食糧計画などを介した形で同年7月に再開している。
政策
当初は全パレスチナの支配を主張していたが、現在は1967年の国連安保理停戦決議(安保理決議242)に基づく国境線を容認する構えを示している。
イスラエルの承認は拒否しているため、「イスラエルの生存権を認めない」組織として報道されることが多い 。
マシャアル政治局長は2009年6月25日に「パレスチナ民衆にとっての最低限のライン」として、イスラエルによる全入植地の撤廃、パレスチナ難民の自由な帰還、1967年6月4日時点での停戦ラインを国境とする、パレスチナをエルサレムを首都とする完全な主権国家とするーーとの4条件を挙げている。
シャリーアに基づく統治を目指しているため、同性愛を処罰対象にするなど、西欧北米諸国において広く認められた人権規範とは相容れない政策も多い。
ガザ地区にはハマスよりさらに過激な武装組織もあり、それらとの間に衝突も発生している。
議会活動も行い対外的にもある程度の妥協も行うハマスに対し、より厳格なシャリーアによる国家の建設を主張している団体もある。
2009年8月14日にはそれらの組織の一つでアルカーイダとの関係も指摘される「ジュンド・アンサール・アッラー」との間で銃撃戦となり、「ジュンド・アンサール・アッラー」の指導者が自爆。
子供1人を含め、双方で24人の死者が発生した。ガザ地区には他にも類似の武装集団が少なくとも10前後はあるとされる。
またISIL(イスラム国、ダーイシュ)とも敵対しており、ISIL側はハマスをユダヤ(イスラエル)、ファタハと共に「根絶やしにする」と宣言している。
このため、イスラエル側はハマスへの攻撃を「芝刈り(mowing the lawn)」と称している。
「芝」であるハマスが伸びすぎないよう、定期的に攻撃して「刈る」が、根絶やしにしてより過激な組織が台頭しても困るというわけである。
西側諸国やイスラエルはシリア、イランがハマスに対して支援を行っていると指摘し、両国はハマスに対して軍事面でも協力しており、最大の支援国であったと主張。
2011年から始まったシリア内戦でアサド政権との関係が悪化したことからシリアとの関係は凍結状態となり、イランからの支援も減少している。
イラクとサウジアラビアもかつて資金提供や軍事支援を行っていたが、イラクは対イスラエル強硬派のサッダーム・フセイン政権が崩壊したため支援は停止された。
サウジアラビアは対米関係への配慮とシリア・イラン両国との対立から、現在は政府としては反ハマスの立場である。
サウジアラビアと同じ親米のペルシア湾岸諸国でも、トルコと並んでムスリム同胞団への影響力が最も強いカタールは政府首脳がハマス指導部と頻繁に会談を行うなどハマスを支援しており、2012年10月23日にはハマスのガザ制圧以来、外国元首として初めてハマド首長がガザ地区を訪問した。
また、国家レベルだけでなく、ハマスを支持するアラブ・イスラーム社会からの個人献金がハマスに対して行われている。
出典: 「ハマース」
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このハマスとイスラエルの戦争を解決するためのアイデアがケイト―が観た映画に秘められている とでも言うのォ~?
そうです。。。もともと上の映画は「第5回十字軍」の「ダミエッタ包囲」を中心に描いたものです。。。
第五回十字軍
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第5回十字軍(1217年 - 1221年)は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍。
アイユーブ朝の本拠地エジプトの攻略を目指しダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功したが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退した。
1204年にコンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、現地での争いに忙殺され、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世は、1213年の教皇教書で新たな十字軍の招集を呼びかけ、1215年の第4ラテラン公会議で正式に発布した。
この時点では、神聖ローマ帝国においては前年のブービーヌの戦いに敗れたヴェルフ家のオットー4世が失脚し、教皇が支持するホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が名実共にローマ王となり、フランス南部におけるアルビジョア十字軍もトゥールーズ伯レーモン親子の亡命により一旦収束しており、西欧は一致して十字軍を派遣できる状況と思われた。
しかし、1216年にはレーモン親子の帰還によりアルビジョワ十字軍の戦いは再燃し、従来から十字軍の中心だったフランスの騎士達は第5回十字軍に参加する余裕がなかった。
一方、十字軍参加を誓ったものの、元々宗教的に寛容なシチリアに育ったフリードリヒ2世はイスラム教徒との戦いには熱心でなく、イタリア政策において対立するローマ教皇との条件闘争が先決だった。
ローマ教皇はこれまでの失敗の反省から、第2回十字軍、第3回十字軍のような国王中心の十字軍や、第4回十字軍のような諸侯の自由な主導によるものでもなく、第1回十字軍のような教皇使節が主導する十字軍を意図していた。
結局、新たに教皇となったホノリウス3世の呼びかけに対してフランスの騎士はさほど集まらず、ハンガリー王アンドラーシュ2世とイタリア、ドイツ、フランドルの騎士等が参加した。
十字軍進軍
1217年にハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世がアッコンに到着し、現地の十字軍国家の諸侯、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ、キプロス王ユーグ、アンティオキア公ボエモンらと合流した。
ジャン・ド・ブリエンヌとアンドラーシュ2世を指揮官として、十字軍は進軍を開始する。
十字軍の侵攻を恐れたダマスカスの王アル=ムアッザムはエルサレムの城壁を破壊し、住民達は退避させられた。
以後長らくエルサレムは城壁のない町となり、16世紀に入ってようやくオスマン帝国によって城壁が再建される。
十字軍はシリアにおいてイスラム勢力と小規模の戦闘を行ったが、ほとんど成果を挙げられなかった。
1218年1月にハンガリー王アンドラーシュ2世が帰国、続いてキプロス王ユーグとアンティオキア公ボエモンが撤兵した。
ダミエッタ包囲
オーストリア公レオポルト6世やエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌは、エルサレムを奪回して維持するには、アイユーブ朝の本拠地であるエジプトを攻略する必要があると判断した。
十字軍はジェノヴァ艦隊と協力し、1218年5月にエジプトの海港であるダミエッタを包囲し、プニエールという巨大な投石器を投入して城壁を攻撃した。
8月に十字軍の侵攻に苦慮していたアイユーブ朝のスルターン、アル=アーディルが亡くなり、息子のアル=カーミルが跡を継いだ。
9月には
教皇使節ペラギウスが率いる後発軍が到着し、十字軍の士気は上がったが、ペラギウスが「教皇代理」として十字軍の指揮権を要求した ため、ジャンを初めとする諸侯との軋轢も生じた。
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映画の中のペラギウス
十字軍とエジプト軍は対峙し小競り合いを繰り返していたが、1219年2月になるとクルド族の反乱などが発生し、アル=カーミルはカイロに戻って対応せざるを得なくなった。
アル=カーミルは十字軍との和睦を模索し、ダミエッタとパレスチナ南部の二つの城の確保と引き換えに旧エルサレム王国領の返却を申し出た。
加えてアイユーブ朝が有する真の十字架と、捕虜の返還が和睦の条件として提案された。
ジャン・ド・ブリエンヌや現地諸侯はこれを受け入れることを望んだが、ペラギウスは異教徒と交渉することを拒み、またエジプトの商業利権を狙うジェノヴァ勢も反対したため、提案は拒否された。
これは十字軍にとって聖地エルサレムの優先度が激減したことを表わす。
また、十字軍陣中にペストが流行して進軍の前に兵力が減少し、テンプル騎士団総長ギヨーム・ド・シャルトルも病に罹り陣没した。
これにより、十字軍ではジャンを支持する現地諸侯、フランス勢とペラギウスを支持するイタリア勢、聖地騎士団との対立が明確になった。
5月になるとオーストリア公レオポルト6世が帰国。新たな援軍も到着しており、ペラギウスは諸侯の反対を押し切って再三に渡り攻撃を命じたが、その度に跳ね返され、特に8月の戦闘では大きな被害を受けた。
アル=カーミルは再び和睦を提案したが、皇帝フリードリヒ2世の到着を期待していたペラギウスは未だに和睦を容れなかった。
アル=カーミルの包囲を破ろうとする試みも成功せず、10月に入るとダミエッタの疲労は大きくなり、11月についに城壁の一角を占領され落城した。
ジャンはダミエッタをエルサレム王国の領土と考えたが、ペラギウスは教皇領とする意向を示し、怒ったジャンは1220年2月にアルメニアの王位争いに介入するためにアッコンに戻ってしまった。
このためペラギウスが十字軍のリーダシップを握ったが、戦闘を指揮する力はないため、フリードリヒ2世の到着を待っていた。
アル=カーミルもマンスーラで対峙したまま防備を固めており、持久戦となった。
カイロ進撃
皇帝自身は参加しなかったが、1221年5月にバイエルン公ルートヴィヒ1世指揮の元にかなりの兵を送って来た。
7月になるとジャン・ド・ブリエンヌも戻ってきてため、十字軍は攻勢に出た。
ペラギウスは勝利を確信しており、またナイル川を通じて補給を確保できると考えていたため、諸将の忠告を聞かず、十分な食糧、補給品を持たずに進撃したが、マンスーラ手前のナイル川デルタ地帯で進撃を阻まれた。
おりしも雨季のナイル川氾濫期に入り、ナイルの水かさは増していた。
退路を絶たれる危険性に晒されたため、8月26日に荷駄を焼却して撤退を開始したが、それを見たアル=カーミルはナイルの堤防を切らせ、十字軍は泥沼の中で孤立することになった。
早々と焼却したため食糧もなく、8月30日には降伏し、ダミエッタを返却する条件で解放された。
他に8年間の休戦と真の十字架の返還の条件もあったが、真の十字架は既に失われており戻って来なかった。
結果
ペラギウスとジャン・ド・ブリエンヌが失敗の責任者として非難されたが、フリードリヒ2世も自ら行かなかったことで大きな非難を受け、まもなく第6回十字軍を起こすことになる。
これ以降の十字軍は各国王の主導によるもので、教皇主導の十字軍はこれが最後となった。
出典: 「第五回十字軍」
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この「ダミエッタ包囲」の時に戦いを止めさせようとして聖フランシスがスルタンに会いに行ったのォ~?
そうなのですよ。。。死を覚悟して出かけて行ったのです。。。当時、十字軍を指揮していたのは、教皇使節ペラギウスだった。。。フランシスがペラギウスに許可を求めると、初めは「バカなことをするもんじゃない。殺されるのが目に見えている」と言って許可しなかったのだけれど、もともと狡猾なペラギウスは、フランシスが殺されたとしても痛くも痒くもない、もしかすると100に一つの可能性で停戦になることがあるかもしれない。。。そう思い直して許した。。。
アッシジのフランチェスコ
1182年 - 1226年10月3日
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アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus Assisiensis、本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。
「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、清貧、 悔悛と「神の国」を説いた。
中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。
また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている。
原音主義にしたがい、ここではイタリア語の「フランチェスコ」という表記を採っているが、日本のカトリック教会ではアシジの聖フランシスコと呼び慣らわし、典礼暦には「聖フランシスコ(アシジ)修道者」と記載されている。
日本のフランシスコ会も「聖フランシスコ」の呼称を採用している。
アッシジのフランチェスコは存命中から聖人視されていたために、多くの伝説が流布されている。
ここでは世に知られていて、かつ信頼のおける史料で確認できる彼の生涯について概述する。
生い立ち・青年期
フランチェスコは1181年もしくは1182年に、イタリア半島中部ウンブリア地方のアッシジで生まれた。
父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーネという裕福な毛織物商、母親はジョアンナもしくはピカという名でフランスの貴族の家の出であるとも伝えられているが、これについては信憑性は薄い。
もともとの洗礼名はジョバンニであったが、当時は風変わりで珍しかったフランチェスコという名前で呼ばれるようになった。
これは「フランス人」ぐらいの意味であるが、その理由としては父親がフランスとの商取引を主としていてフランス贔屓だったから、フランス人の母親への敬意から、本人がフランス語で歌うことが好きであったから等、様々に言われている。
この時期の都市に住む平民として、フランチェスコは高度な教育は受けなかったものの、少年期にラテン語の読み書きをサン・ジョルジュ教会の付属学校で学んだ。
フランチェスコの青年時代は、富貴を問わず誰に対しても礼儀正しかったが、気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。
プロヴァンス(南フランス)の言葉で歌われていた宮廷詩や吟遊詩を吟じ、珍奇な衣服を好み、宴会の支払いを引き受けていた。
この時期のヨーロッパは人口と経済が飛躍的に伸長し、それに伴った急速な都市化が進行して、新しい時代の制度が模索されている時期であり、戦乱も絶えなかった。
イタリアの諸都市においては、神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)が対立すると共に、都市内の領主や貴族・騎士と平民が対立し、都市間の争いと複雑に絡み合っていた。
アッシジは皇帝派を後ろ盾とする貴族や騎士階級が治世権を有する都市であったのが、1198年から1200年にかけて反乱が起きて平民勢力によって貴族や騎士たちが町から追放されている。
町を見下ろしていた、ドイツ軍が駐留するための要塞もこのとき破壊された。
平民の一員であったフランチェスコも、この内乱に参加していた可能性がある。
隣町のペルージャと、そこに逃亡していた貴族たちがアッシジに戦争を仕掛けたのが1202年のことである。
フランチェスコも戦闘に参加したがアッシジは敗北した。
彼はペルージャの牢獄に捕虜として一年以上を過ごした後に釈放されて、和議が成立していたアッシジの町に帰った。
1205年、フランチェスコはイタリア半島南部のプーリア地方の戦争に出征する騎士に同行を申し出た。
これは、戦功を立てて騎士に取り立てられることを目論んだもので、装備を整えた上で出立するが、アッシジ近郊のスポレートで彼は突然に引き返す。
聖人伝は、このとき彼が幻視したか神の声を聞いたのだとしている。
回心と出家
フランチェスコがどのように世俗を離れて神の道に生きることを決意したのかについて、順序関係に曖昧なところを残しながら、聖人伝は様々なことを伝えている。
前述したスポレートでの幻視もしくは幻聴もそのひとつであるが、他にも様々なきっかけがあり、フランチェスコの回心は数年間の長いプロセスとして描かれている。
ペルージャの捕虜時代であるのか、釈放後なのかは伝記によって異なるが、フランチェスコは大病を得て、そこから快癒して外に出た時、以前のように自然の美しさを楽しめなくなった自分を発見した。
友人たちとの放埓な生活にも空しさを覚えるようになり、ときおり洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになった。
あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。
すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。
また、ローマに巡礼に出かけて、乞食たちに金銭をばらまき、乞食の一人と衣服を取り換えて、そのまま乞食の群れの中で何日かを過ごしたという伝記もあるが、これは史実かどうか疑わしいとも言われている。
アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。
これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった。
父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に差し出した。
帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。
最後には、アッシジ司教の前で父子は対決するのだが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。
初期の活動
家を出たフランチェスコは、施療施設に住んでハンセン氏病患者への奉仕を行った。
また、森を放浪したともいわれているし、サン・ダミアノ教会に住んだともいわれているが、最終的には修復を行うことになるポルツィウンクラの小聖堂近くに住んだ。
このポルツィウンクラの地は、フランチェスコと後のフランシスコ会にとって重要な地となる。
サン・ダミアノから始まった聖堂の修復は、(おそらく)サン・ピエトロ教会、ポルツィウンクラの小聖堂と続き、その資材となる石や漆喰、灯明の油などの喜捨を、歌やフランス語で呼び掛けた。
これに限らず彼は世俗の時代に慣れ親しんだ吟遊詩のフランス語(プロバンス語)を歌うことが多かった。
日々の食事は、様々な肉体労働もしくは托鉢で得た。
金銭は受け取らず、初期のフランシスコ会でも同志たちはそれを忌み避け、手を触れることさえ嫌がった。
こうした活動のスタイルから、フランシスコ会は同時期のドミニコ会と共に「托鉢修道会」と呼ばれるようになる。
こうした活動の指針を与えたのは福音書に書かれた、キリストや弟子たちの行動である。
ある日、ポルツィウンクラの小聖堂で行われたミサの中で福音書が朗読され、イエスが弟子たちを各地に派遣するときの言葉にフランチェスコは感動した。
その中でイエスは「行って、そこかしこで「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」と弟子たちに命じており、それに従ってフランチェスコは直ちに履物を脱いで裸足となり、皮のベルトを捨てて縄を腰に巻いた。
福音書でイエスが命じている全てをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣することがフランチェスコの生活の全てとなっていた。
「裸のキリストに裸で従った」のである。
フランチェスコが宣教を始めたのは1208年もしくは1209年のことである。
彼は街頭や広場に立ち、聖職者が用いるラテン語ではなく、日常語のイタリア語で聖書の教え、つまり悔い改めて神の道に生きよと説いた。
フランチェスコは歌や音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えたとされている。そうした芸能的ともいえる活動から、フランチェスコは「神の道化師」と呼ばれている。
仲間と教団の成立
富裕な商人の子弟であったフランチェスコのそうした活動は、奇行と捉えられ、市民の好奇と侮蔑の対象となった[46]。
しかし、その態度に共鳴してフランチェスコと行動を共にする市民が現れ始める。
アッシジの貴族で大変裕福だったとされるベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えた上でフランチェスコと共に生活を始めた。
この後も、所有物をすべて放棄して、無一物となった人間をフランチェスコは仲間として迎えていく。
初期の仲間には、この他にエジディオ、法律家で聖堂参事会員であったピエトロ・カッターニ、司祭のシルベストロの名前などが知られている。
彼らはフランチェスコも含めてお互いを兄弟と呼び合い、二人一組となってイタリア各地に宣教の旅に出て、行く先々で新たな仲間を得た。
彼らは問われれば「アッシジの悔悛者」と名乗っていたが、やがて彼らは自らの集団を「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と名乗るようになっていく。
これは現在でもフランシスコ会の正式名称である。
1210年、仲間の数が12人になっていた小さき兄弟団はローマに向かい、教皇インノケンティウス3世に謁見し、活動の許可を求めた。
これにはアッシジ司教グイドの斡旋があったものとされている。
フランチェスコたちの活動は問題を孕んでいた。そもそも当時の聖職者や修道士は托鉢を禁止されていたし、司祭職の権限を持たない俗人が、説教を行うことも問題視されていた。
修道院の中に閉じこもって祈りと瞑想に身と心を捧げる従来の修道会と、小さき兄弟団はまったく性格を異にする集団であった。
この時代に少し先行して、古い修道院制度を刷新したと言われているシトー会は労働や生産活動を行ったが、托鉢や街頭での説教などを行ったわけではない。
一切を所有しないという清貧の実践、托鉢や宣教活動は、当時の教皇庁を悩ませていた「リヨンの貧者」(ヴァルド派)、あるいはファミリアーティ派と呼ばれたグループなどとも共通するところがあり、異端として弾圧されたこれらのグループとフランチェスコたちが同一視される危険性は十分にあった。
やせ細って、汚れたぼろを纏った兄弟団を最初に見たとき、教皇は不快に感じたとも伝えられている。
しかし何度かの謁見の後、口頭によるものではあったにせよ、小さき兄弟団の活動に認可を与えた。
聖人伝の伝えるところでは、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見ており、その男こそがフランチェスコであると悟ったからだという。
このときフランチェスコは教皇に兄弟団の生活規則を記した文書を提出しており、これは今日「原始会則」と呼ばれている。
その本文は現在残っていないが、福音書からの引用で構成された簡単な格言集のようなものであったらしい。
おそらくフランチェスコ達は修道会のような組織を作るつもりはこの時点では無く、福音書に書かれた生活を素朴に実践することだけを考え、その認可を求めたものと推測されている。
しかし、一切の所有を拒否することなどを含む、福音の完全な実践を謳ったその内容に、枢機卿たちは実行が困難として難色を示した。
その否定的な空気を覆したのは「そのような理由で撥ねつけたとあらば、福音が実践不可能であると宣することになります。さすれば、福音をお与えになったキリストを冒涜することになりますまいか」というジョバンニ・コロンナ枢機卿の一言であったという。
教皇は「全能なる主が、汝らの数と恩寵を増してくださったならば、喜びとともに余のもとに戻るがよい。さすれば余は汝らにさらなる愛顧を与え、より大きな使命を、ますますの信頼をもって託すであろう」といって彼らを送り出したとされているが、フランチェスコが与えられたのは仮認可であり、様子見のために結論が先送りされたというのがその実質であった。
スルタンとの出会い
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フランチェスコはイスラーム世界への宣教にも意欲をもっていた。
1209年から1212年のどこかで船に乗ってシリアに向かったが、船が難破してダルマチア沿岸に漂着して断念した。
1212年から1214年のどこかには殉教覚悟でモロッコを目指したが、途中のスペインで病を得て引き返す。
1219年には、ついに第5次十字軍が駐留するエジプトに渡った 。
彼はまず、ダミエッタの町を包囲していた十字軍(ダミエッタ包囲戦)に対して戦闘の中止を呼びかけたが、十字軍の行為に幻滅を覚えた。
その後、
供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った。
スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされた という。
この席でフランチェスコはイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。
すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである。
フランチェスコ伝の中のこの有名なエピソードは近代以降は史実に根拠を持たない伝説と考えられていた。
しかし、カイロに保存されているある墓碑銘の文面によれば、その時期にイスラム法学者がキリスト教修道士と有名な試みを行ったとされており、この伝説も再考されつつある。
スルタンによって十字軍陣営に送り届けられたフランチェスコ は、エルサレムなどの聖地巡礼を行っていたが、イタリアから急を告げる使者がやってきてイタリアに戻ることになった。
出典: 「アッシジのフランチェスコ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った のですかァ~?
そうなのですよ。。。周りの者は呆れて、「殺せ!殺せ!」とスルタンに迫ったのだけれど、このスルタンは教養もあり、もともと戦いや殺人を好まない。。。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコの言う事に興味と理解を示して丁重にもてなした のですよ。。。
アル=カーミル
生没年:1180年 - 1238年3月6日
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アル=カーミルは、アイユーブ朝の第5代スルターン(在位:1218年-1238年)。
初代スルターン・サラディンの弟に当たる第4代スルターン・アル=マリク・アル=アーディル・サイフッディーン・アブー・バクルの子で恐らく長子。
本名はナースィルッディーン・ムハンマドで、アイユーブ朝のスルターンに即位するにあたり冠せられた尊称「アル=マリク・アル=カーミル」から通常「スルターン・(アル=マリク・)アル=カーミル」などと称される。
アラビア語で「カーミル al-Kāmil 」は「完全(なるもの)」を意味する。
父がスルタンの在位にあった間は、副王(=ナーイブ(nā'ib)つまりスルタンの「代理人」)として父を補佐してエジプト統治に務めた。
1218年、父が第5回十字軍と交戦中に心臓発作で死去したため、後を継いでスルタンとして即位した。
しかし父の死により、第5回十字軍によってダミエッタを占領されるなど、一時は危機に陥ったが、総力を挙げて反攻に転じ、十字軍を破った。
その後、カーミルの即位に不満を持つ一族やアレッポとダマスカスの総督に反乱を起こされて危機に陥る中で1228年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が第6回十字軍を率いて侵攻を始める。
カーミルには十字軍を迎撃する余裕など無く、フリードリヒ2世もローマ教皇や教皇派諸侯との争いに集中したかった。
2人は知識人としての交流(自然科学についての論議も行われた)を書簡によって(共にアラビア語で)続けるうち、互いが戦う事を望まない事を知った 。
カーミルは10年間の休戦、十字軍側への聖地エルサレム返還に同意し、全軍を内紛の収拾に向ける。
この為、帝国の内紛は収拾したが、エルサレムを放棄した事で多くのイスラム教徒からの不満を招き、バグダードのモスクではカーミルを糾弾する集会が開かれたという。
エルサレムに和平が訪れてから9年後の1238年にカーミルは亡くなった。
フリードリヒ2世との交流はカーミルが亡くなるまで続いたという。
カーミルの死から12年後、フリードリヒ2世が亡くなった。
19世紀、フリードリヒ2世の遺体が学術調査を受けたとき、棺の中の彼はイスラム風の衣装を身にまとい、
シャツの袖にはアラビア語で「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」というカーミルに向けられたと思われる言葉が刺繍されていた ことが記録に残っている。
出典: 「アル=カーミル」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イスラム教も、キリスト教もユダヤ教も同じ一つの神を信じているのですよ。。。だから、当然、共通するものがあるから宗派は違えども、お互いを理解できるだけの素養を持っている。。。だからこそアル=カーミルとフランシス、またアル=カーミルとフリードリヒ2世との関係に見るように、平和を願う気持ちが強い。。。
つまり、現在進行しているハマスとイスラエルの戦争には、アル=カーミルやフランシス、それにフリードリヒ2世のような真に平和を願うような人間がいないということなのねぇ~。。。
そういうことですよ。。。失った領土を奪い返す。。。政治的劣勢を回復する。。。政治的、軍事的主導権を奪いたい。。。そういう個人的、あるいは国家的な野望に縛られて、平和を求めようという気になれない。。。少なくとも現在は、そういうガリガリ盲者、ガリガリ亡者、ガリガリ猛者が前面に出てきているのですよ。。。歴史から学んでない。。。だから、悪い歴史を繰り返す。。。
そのうち、アル=カーミルやフランシス、それにフリードリヒ2世のような真に平和を願うような人間が出てくるかしら?
出てきますよ。。。でも、その人たちが亡くなれば、また悪い歴史を繰り返すのですよ。。。
「歴史は繰り返す」と言われるけれど、人類が滅亡するまで戦争はなくならないのかしら?
完璧な人間はいませんからねぇ~。。。人類が滅びる種は、そこらにまかれてますよ。。。北朝鮮の将軍様が核兵器を使ってないことが不思議なくらいです。。。
いくらなんでも、あの将軍様も、そこまで馬鹿じゃないでしょう!?