さらば大前研一(PART 1)
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ケイトー。。。 どういうわけでさらば大前研一というタイトルにしたわけぇ~?
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あのねぇ~、たまたまバンクーバー市立図書館で次の本を手に取ったのですよ。。。
「看板」教授をすぐにスカウト
アメリカの大学同士の競争が非常に激しいから、競争力を維持していくために、学生から見て魅力のある教授、「看板」になる教授を外国からも積極的に招聘している。
人気のある教授や著名な教授がいれば、おのずとレベルの高い学生が集まってくる。
レベルの高い学生が集まれば、優秀な卒業生を送り出すことができる。
優秀な卒業生を送り出せば、大学の評価が上がる。
大学の評価が上がれば、いっそうレベルの高い学生が集まる、という好循環が生まれるからだ。
各大学が「次は誰をスカウトするか」ということをいつも理事会で話し合っているので、良い論文を書いたら、すぐ「うちの学校に来ませんか?」と電話がかかってくる。
実際、私にもいくつかの大学から教授就任の打診があった。
そのうちスタンフォード大学とUCLAで教鞭を執り、UCLA教授の称号は総長教授(チャンセラーズ・プロフェッサー)というもので、名誉博士号と同じく期限のないものである。
大学も厳しく業績チェック
アメリカの大学の各学部長に対する「業績評価」の厳しさは株式会社に近い。
私は母校のMITの理事を5年間にわたって務めていたから内情をよく知っているが、いわば学部は事業部、学部長は事業部長のようなものである。
MITの場合、化学、機械、電気などの学部ごとに理事3~4人が集まって強化委員になり、3年い1回、各学部の「業績」をチェックする。
そして、もし『ビジネスウィーク』誌の全米大学ランキングで1位から2位に落ちた学部があったとしたら、その学部長を学部担当の強化委員が「なぜ2位に落ちたのか」「教授の質に問題があるのではないか」と追求し、1位を奪還するための具体的な対策を1年以内に打ち出すよう要求する。
それを受けて学部長は、ノーベル賞の受賞者や世界的に著名な学者など“人寄せパンダ”になりそうな教授の招聘に奔走する。
プロ野球やプロバスケットボールのチームが成績を上げるためにスター選手をスカウトするのと同じように、大学がスター教授のスカウト合戦を繰り広げるのだ。
私は原子力工学と科学の学部を強化委員として担当したが、当時の原子力工学部長が私の恩師だったから、とてもやりにくかった。
なぜなら、今や先進国では原子力は斜陽産業で人気がなく、優秀な学生が集まらなくなっているからだ。
アメリカ人の学生は10%未満になり、アフリカや中国など、これから原子力をやりたい途上国の学生ばかりになってしまった。
そんな状態では世界に核保有の種をバラ撒いているようなものだから、学部そのものを廃止しろ、と風当たりが強くなっていた。
しかし、私はそこの卒業生であり、しかも恩師が学部長とあっては、そう簡単に廃止させるわけにはいかない。
だから、放射線治療も含めようとか、今後の原子力産業の中心となる廃棄物処理にシフトすれば先進国のニーズがあるのではないか、などと論陣を張って懸命に抵抗した。
その結果、原子力工学部はメインの分野と名称を変えることで、かろうじて生き残っている。
(215-217ページ)
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アメリカを批判できない日本
私は日本の政治を何とかしないと大変なことになる、と80年代に強く思うところがあり、経営コンサルタントを続けながらも『新・国富論』や『平成維新』などの本を通じて日本の改革を訴えた。
何をなすべきかに関してもかなり考察し、83本の法案を提言したこともある(『新・大前研一レポート』)。
しかし、こうした提言は政治家によってつまみ食いされ、標語としては使われたが、官僚側の中央集権国家の本質はますます末期的な症状を呈している。(略)
一方で、かつて優秀だった官僚も、細分化された職能のために小粒となり、国家の一大事に対する起爆力にはなりえないぐらい制度疲労してしまっている。
政治家は勉強不足で、新しい世界地図の中での構想力や交渉力には全く期待できない。 (略)
いま日本でパートや派遣のレイオフが騒がれているが、企業はマスコミにいじめられれば雇用を海外にシフトするだけである。
日本はその日暮らしをしており、10年、20年先を見てくれる為政者は見当たらないのだ。
そんな日本に生まれ、育ち、老いていき、かつ何とかしようと『平成維新の会』などでもがいて、そして何も変えることのできなかったこの自分が、よくもまあアメリカのことをいけしゃあしゃあと批判できるものだ、という思いが、第2の理由というわけだ。
(257-259ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
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『さらばアメリカ』
著者: 大前研一
2009年2月11日 初版発行
発行所: 株式会社 小学館
つまり、大前さんが『さらばアメリカ』というタイトルにしたので、ケイトーも語呂合わせで さらば大前研一というタイトルにしたわけぇ~?
そういうことです。。。 いけませんか?
ちょっと悪意が丸出しのようにも見えるけどォ~。。。
いや、僕は個人的には大前さんを知らないから、個人攻撃をしているわけではありません。。。 本を読んでの僕の実感を感じるままにタイトルにしたのです。。。
要するに、「大前さんはお呼びではないのよ!」と言いたいわけねぇ~。。。
シルヴィーも、そう思う?
ケイトーの心のうちを代弁したまでよ。。。 私は個人的には何の関わりもないのだから。。。 で、上の引用箇所を読んで、ケイトーは何が言いたいわけぇ~?
あのねぇ~、大前さんは自分が才能ある優れた人物だと思っているようだけれど、自分で自分を貶(おとし)めているのですよう。。。
大前さんが自分で自分を貶めているというのは、どういうことよう?
あのさァ~、大前さんがマジで才能がある優れた人物であるならば、大学は彼を教授として離さなかったと思うのだよ。。。
たしかに、大学としては、優秀な学生を惹きつけるために、才能のある優れた教授を“人寄せパンダ”として置いておきたいわけよねぇ~。。。
でも、大前さんは短期間で大学で教えることを辞めてしまった。。。
でも、それは個人的に教えることが自分に合わなかったのでコンサルタントになったんじゃないのォ~?
でもねぇ~、大前さんが、マジで才能がある優れた人物であるならば、より良いオファーを示して、彼を大学にとどめておくはずですよう。。。 それに、他の大学からもオファーがたくさんなあったはずですよ。。。
つまり、本人が言うほどには才能がある優れた人物ではない、とケイトーは断定するわけなのォ~?
あのねぇ~、注意深く上の箇所を読めば、そういうことになるでしょう!? つまり、専門分野での原子力工学の彼の業績は、大学教育・研究には、まったく役立たずだったので、教授を降ろされたわけですよう。。。 それで、仕方ないからコンサルタントになったわけです。。。
確かに、ケイトーの言う事は分からないではないわァ~。。。 でも、それは、単なるケイトーの意見でしょう?
あのねぇ~、他にも理由があるのですよう。。。
どういう。。。?
大前さんは「日本はその日暮らしをしており、10年、20年先を見てくれる為政者は見当たらないのだ」と書いている。。。 じゃあ、自分はどうなのォ~?… と僕は言いたい。。。
つまり、大前さん自身も10年、20年先を見てなかった、とケイトーは言うのォ~?
そうですよう。。。 大前さん自身が次のように書いている。 「今や先進国では原子力は斜陽産業で人気がなく、優秀な学生が集まらなくなっている」と。。。 そんな事は、良識のある人には、すでに分かっていた。。。
マジで。。。?
ちょっと次の小文を読んでみてください。。。
ロバート・オッペンハイマー
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(1904年4月22日 - 1967年2月18日)
ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)は、ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。
理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。
卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。
生い立ち
ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。
父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンである。
非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。
一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった。
ただし、セーリングと乗馬は得意だった。
彼はハーバード大学に入学し、化学を専攻した。
1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。
オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。
彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。
ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。
1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。
1936年には教授となる。
生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。
ブラックホール研究から原爆開発へ
1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていたが、第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始される。
オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。
彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、大日本帝国の広島市・長崎市に投下されることになった。
弟のフランクが、後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語ったところでは、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうだが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。
また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。
水爆反対活動と公職追放
戦後、1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命されたが、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。
水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。
冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。
これがオッペンハイマーに大きな打撃を与える。
妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。
また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。
1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。
オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた。
後年
オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。
1960年に来日したこともある。
この際、バークレー時代の弟子 日下周一(故人)の両親に会い、弔意を表している。
1963年エンリコ・フェルミ賞受賞。
1965年、咽頭がんの診断を受け、手術を受けた後、放射線療法と化学療法を続けたが効果はなかった。
1967年、昏睡に陥ったオッペンハイマーは、ニュージャージー州プリンストンの自宅で2月18日、62歳で死去した。
出典: 「ロバート・オッペンハイマー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、原爆が広島と長崎に落とされた時点で、「パンドラの箱を開けてしまった」ことをオッペンハイマーさんは気づいたのですよ。。。 だから、それ以降、原爆、水爆、原発などの開発に猛烈に反対した。
それで、事実上の公職追放になってしまったわけぇ~?
そういうことです。。。 つまり、大前さん自身が、10年、20年先を見据える良識があったら、アメリカに留学して原子力工学を勉強するような愚かな決断はしなかったはずなんですよ。。。
でも。。。、でも。。。、それは後知恵でケイトーが判断していることでしょう?
僕は、そうかもしれないけれど、オッペンハイマーさんは自分の科学者生命を犠牲にしてまで原爆、水爆、原発などの開発に猛烈に反対したのですよう。。。 実際、原爆が開発された時点でアメリカは「パンドラの箱を開けてしまった」のですよ! その箱から、原発事故が引き起こされた!
つまり、アメリカのスリーマイル原発事故や、ソ連のチェルノブイリ原発事故、それに福島の原発事故は、アメリカが「パンドラの箱を開けてしまった」ことによって引き起こされた事故だ、とケイトーは言うのォ~?
そうですよう!
でも。。。、でも。。。、世界のエネルギーは石油や石炭を始め、いずれ使い尽くされて、最終的には、人類は原子力のエネルギーを平和に利用しなければならない運命にあるんじゃないのォ~?
だから、それがアメリカが提唱した妄想なのですよう。。。 つまり、それは政治的なプロパガンダなのです。。。 アメリカは、原発を含めた原子力開発の技術やウランなどを日本に売り込むために、そういう事を主張したのですよう。。。 日本の電力業界と政治家は、まんまとアメリカの思惑に乗せられてしまったわけです。
でも。。。、でも。。。、原子力エネルギーを開発しなければ、やがて世界のエネルギーは石油・石炭を始め枯渇して、人類は滅亡してしまうんじゃないのォ~?
だから、そういう考え方が間違っているのですよう!
あらっ。。。 それってぇ、間違いなのォ~?
それは、アメリカの政治的・経済的プロパガンダです! エネルギーは無制限と言っていいほど、この宇宙には溢(あふ)れているのですよう。。。
そんなこと聞いた事がないわァ~。。。
だったら、次の小文も読んでみて下さい。。。
エネルギーの大洋
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じつは産業革命は、エネルギー変換における革命だった。
この革命は、私たちが使えるエネルギーに限界がないことを、再三立証してきた。
あるいは、もっと正確に言うならば、唯一の限界は私たちの無知によって定められることを立証してきた。
私たちは数十年ごとに新しいエネルギー源を発見するので、私たちが使えるエネルギーの総量は増える一方なのだ。
それなのに、エネルギーを使い果たしてしまうことを恐れる人がこれほど多いのはなぜか?
利用可能な化石燃料を枯渇させてしまったら悲惨なことになると彼らが警告するのはなぜか?
この世界でエネルギーが不足していないことは明らかだ。
私たちに不足しているのは、私たちの必要性を満たすためにそのエネルギーを利用し、変換するのに必要な知識なのだ。
地球上の化石燃料に蓄えられているエネルギーの量は、太陽が毎日無料で与えてくれるエネルギーの量に比べれば、微々たるものにすぎない。 (略)
私たちはそれ以外にも (略) 重力エネルギーのよな巨大なエネルギー源に囲まれている。
重力は、地球に対する月の引力で起こる大洋の潮汐の力を見れば、歴然とする。 (略)
私たちは産業革命の間に、自分たちがじつは途方もないエネルギーの大洋に接して生きていることに気づき始めた。
その大洋は莫大なエネルギーを秘めていた。
私たちは、これまでよりも性能のよいポンプを発明しさえすればいいのだ。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
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169-170ページ 『サピエンス全史 (下)』
著者: ユヴァル・ノア・ハラリ 訳者: 柴田裕之
2017年2月2日 第14刷発行
発行所: 株式会社 河出書房新社
あらっ。。。 知らなかったわァ~。。。 やがて、石油と石炭を使い尽くして、残るのは原子力のエネルギーだけだと思っていたわァ~。。。
だから、それがアメリカを中心とした政府とペンタゴンが雇った御用学者が広めたプロパガンダだったのですよう。。。
つまり、それに反することをオッペンハイマーさんが言ったので公職追放されたのねぇ~?
そういうことですよう。。。 だから、もし大前さんに、10年、20年先を見据える良識があったら、アメリカに留学して原子力工学を勉強するような愚かな決断はしなかったのですよ。。。 地熱エネルギー、とか風力エネルギーとか、重力エネルギーを利用する技術開発に目覚めたはずなのですよう。。。
。。。で、ケイトーもそっちの方に進んだわけなのォ~?
僕は、小学校の先生が東京の丸ビルと同じぐらいでっかい電子頭脳が今後の世界を支配するだろうと言ったので、そのことを突き詰めるために大学では情報工学を専攻したのですよう。。。
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(すぐ下のページへ続く)