ロマンと悪妻
ロマンと軽井沢
Subj:長い電話お疲れ様でした
Date: 01/10/2007 1:52:14 AM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間: 10月1日 午後5時52分
From: fuji@adagio.ocn.ne.jp
To: barclay1720@aol.com
長い電話お疲れ様でした。
良くわかりました。
経理をしなくてはいけない。
それも13年分。
誰にたのもうか?
レシートもなくてと迷って朝方まで寝られない夜が毎晩だった時、
デンマンさんと話して、ここまで経理が進んだことをホットしてます。
いくら 請求がきても カナダに納めるのならいいやと思いはじめました。
バーナビーで夏休みを過ごすことは 毎年私の支えの時間でした。
あの古い家は、夏休みで休むというより
ペンキ、芝のクローバむしり、
りんごの木の手入れ、
玄関まで高く長い階段のペンキはがしや、
しばらくみがかないガラス、
シミだらけのじゅうたん、
BASEMENTはランドリーのホコリとくもの巣、
行けば、掃除ばかりの家に大変でしたが
また戻りたいと思っていました。
実父の病気に、もう自分勝手にしていては駄目だ。
と今年決意しました。
こんな私でも欲しい物があります。
別荘です。
場所は長野です。
買ったら元家主の藤田桃子さん夫婦も招きたいです。
よかったらデンマンさんも。
日本だったら、親をおいていくことなく、ゆけます。
でも、29才からバーナビーで夏休みを過ごすことができた事は
私の人生にとって良かったと思います。
ではまた。。。
小百合より
『軽井沢と小百合さん (2007年12月4日)』より
デンマンさん。。。上の小百合さんのメールは、これまでに何度となく引用しましたわ。あたくしは、もう、目にタコができているのでござ~♪~ますわぁ~
卑弥子さん。。。それはちょっとオ-バーでしょう。
。。。んで、どうして、また持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
僕は夕べ、もう一度おとといの記事を読み返していたのですよう。
■ 『女と味噌汁 (2008年7月29日)』
小百合さんと味噌汁の記事でござ~♪~ますか?
そうですよう。
それで、お味噌汁がどうだと言うのでござ~♪~ますか?
別に、僕は味噌汁にこだわっている訳ではないのですよう。
何にこだわっているのでござ~♪~ますか?
次の部分ですよう。
人を理解するという事は
とっても難しいということ…
ここで明らかなのは、漱石の人間認識がとぎすまされた結果、人間同士の相互認識などまったくあてにはならないものだということだけを最後に見出しているような、そうした、冷徹な懐疑主義だけである。
漱石は、人間関係の生臭いまでの悪臭の中に身をさらしながら、それらを裸にしてみせ、しかもその裸にされた人間たちがいかに不可解であるかについて、いうならば懐疑しているのである。
人間は裸にしてみればみるほど信じがたいももだという認識が、『明暗』を通じて流れる認識の基調である、といっていい。(183ページ)
残された唯一の解決は、行動による溝の否定でしかない。そして漱石は、そこに次第に近づきながらも、その究極的な答えを見出すことなしに『明暗』を中絶して死なねばならなかったのであった。実際には、漱石が溝の克服として行動の世界を見出していたかどうかということも、決して明らかであるわけではない。ただ、認識自体の不確実性を『明暗』においてのごとく究極的に検討しつくせば、残るものとしては認識の否定でさえある行動のみだということが、想像されるばかりである。(184ページ)
事実、ここでは人間の無力さは、ただに、作中人物同士が互いに相手を知りつくすことができないという点においてのみならず、それら作中人物たちの創造者たる漱石自身が、自分の生んだ作中人物たちを知りえず、彼らの行為を一種驚きの目をもって見ているごとく思われる点で、ほとんど完全に表現されているのである。
何度も繰り返して書いたように、漱石の晩年の作品において次第に澄んでくるのは彼の現実観察の眼だけであって、それは澄めば澄むほど、現実の暗い襞の中にひそんでいる醜悪な部分を明るみに出すことしかできなかった。したがって彼は死ぬまで、本質的な散文作家のみが辿る皮肉で苦しい道すじ、己の描き出す世界の醜さに堪えきれずして澄んだ心境を求めながら、心境の澄むことは、逆になおいっそう深く現実の裏面観察へしか彼を追いやらないという、皮肉な道すじを辿り続けねばならなかったのである。(185ページ)
『拝啓 漱石先生』 著者: 大岡信(おおおか まこと) 出版社: 株式会社世界文化社
1999年2月10日 初版第一刷発行 ISBN: 4-418-99503-X
評論家の書くモノって分かりにくいのですよねぇ~。どうしても観念論的になって、理屈を捏ね回しているように見える。
デンマンさんだって、理屈を捏ね回すじゃござ~♪~ませんかア。
僕はできるだけ具体的に書こうとしているのですよう。その方が分かり易いから。でもねぇ、評論家の書くモノって、どう言う訳か難しい言葉を使って、難しい言い回しで、日常的な具体例を書いてくれない。なんとなく文章がもったいぶった哲学的な感じを受けるのですよう。分かるようで分からない。そういうのが評論家の書き方だなあああぁ~。。。僕は、そう思うことが多いのですよう。
それで、上の文章のどこが分かったようで分からないのでござ~♪~ますか?
次の部分ですよう。
残された唯一の解決は、行動による溝の否定でしかない。
実際には、漱石が溝の克服として
行動の世界を見出していたかどうかということも、
決して明らかであるわけではない。
残るものとしては認識の否定でさえある
行動のみだということが、想像されるばかりである。
もちろん、書いている大岡信さんは理解しているつもりなんでしょう。でも、読んでいる僕には「行動」と「認識の否定」が、具体的にどのように結びついているのか全く分からなかった。
つまり、大岡さんが具体的に分かり易く書いていない、とデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?
その通りですよう。僕は結構、英語の本をたくさん読んでいるのだけれど、いつも感心させられるのは、具体的な例をたくさん引用して分かりやすく書いてある。同じような題材について書いてある本を、日本語と英語の本で比較するとき、僕はいつも日本語で書いてある本に具体例が乏しい事に気づくのですよう。
そう言うものでござ~♪~ましょうか?
最もはっきりした例が教科書ですよう。英語の教科書は日本語で書かれた教科書の2倍から3倍の厚さがあります。大学生の時に使った「解析理論」と言う数学の教科書は、読んでもさっぱり分からなかったのだけれど、英語で書かれた「解析理論」は具体的に書かれていたので良く理解できた。現在はどうなのか良く知らないけれど、20年ほど前はそうだった。先生の言っている事が英語で良く分からなかったけれど、教科書を読むと良く理解できたものですよう。
。。。んで、「行動」と「認識の否定」の関係がデンマンさんには理解できないのですか?
良く分からなかったのですよう。でも、上の小百合さんのメールを読んで急に閃(ひらめ)くモノがあった。
その閃いたモノのって。。。どのようなモノでござ~♪~ますか?
だから、今日はその事を書こうと思い立ったのですよう。
分かりましたわ。さっそく話してくださいましな。
分かり易く説明するために、まず次の文章を読んでください。