遠くに和歌山県の道標が見えてきましたが、
その手前に左に入っていく道があります
この道の先には
桜地蔵があると
資料の地図にありましたので曲がってみました。
のどかな山道に入り、あたりにはいっそう静けさが漂います。
ここまで車以外に歩いている人には
一人も会いませんでした。
大阪府内を歩いている時とは違って、静かな歩きです。
多分ここからの街道の雰囲気は
ずっとこんな感じが続くのでしょう。
何やらいわくありげな石がところどころにありましたが、
しかし案内が全くないので、
どれが桜地蔵なのかさっぱりわかりませんでした。
わかったのはこのあたりには
お経を埋めた
経塚が多くあるようだということでした。
急峻な山越えの前に重いお経を放棄?まさかね。
結局元来た道に戻って、
気温7℃という割には暖かい
春めいた空気の中を歩きながら
今回のハイライト「日本最後の仇討場」に到着です。
こんな風に書かれてあると、
調べ心が疼きます。
誰が誰を?その経緯は?なぜここで?なぜ最後なん?
石碑に刻まれている由緒書を要約しますとこうです。
土佐藩同士の争いで、
父を殺された侍が加太に潜んでいる相手を見つけ
紀州藩に仇討を申請したところ
紀州藩が藩の外でならと、
仇討免許を交付し、この境橋で相手を追放し
待ち構えていた侍が
6年前に殺された父の仇を討った。
時に文久3年(1863年)6月のことだったそうです。
日本各地では、その後も私怨からの個人的仇討がありましたが、
境橋でのこれが「最後の仇討」とされるのは
「仇討の免許状を持っていた」という点で
最後の仇討なんだそうです。
4年後には「明治」となり
さらに6年後には「復讐禁止令」も出された時代のことでした。
ここで仇討を成し遂げた侍が
「仇討免許」を持っていたという事実の陰には
同じ土佐藩の勝海舟や坂本竜馬の動きがあったといわれています。
詳しくは長くなるので略しますが、
気になるのは先に「塞の神」の時にも書いた
紀州藩の姿勢です。
やたらと御膝元を意識し、
何でもかんでも追放したうえで
厄介ごとは和泉で行いなさい
という事なかれの姿勢は
あまりにもあからさまで、
士道やいずこにって感じですね。
徳川家の凋落さもありなんてことでしょうか。
素人解釈なので間違っているのかもしれませんが、
そんな印象がぬぐえません。
ここでいよいよ熊野街道の大阪部分は終わりです。
初めて街道を意識して歩き始めたのが、
ちょうど昨年の3月初めでした。
あれからちょうど一年、
紀州街道や柳生街道、
古墳めぐりなども寄り道しながら
チョロチョロと歩いてきましたが、
ようやく熊野街道は
大阪府内完歩となった瞬間を迎えました。
感無量です。
でもこれで終わりではありません。
このうわさの「境橋」より紀州藩、
すなわち今の和歌山に
入っていきます。
doironの街道歩きも
いよいよ第2章に入った
ということでしょうか。
これからも日々いろんなことにチャレンジしつつも、
気長に熊野を目指していきたいと思っています。
道の先にはまだまだ未知の世界が待ってるはずです。
そんな期待に胸を膨らませながら、
ここからしばらくは広い64号を
JR阪和線に沿って歩いていきます。
そして64号からそれて、
小さな踏切を渡るとそこに、
和歌山エリア、紀之國で出会う初めての王子
「中山王子」がdoironを待っていてくれました。
また続く。
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