ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

取材にて

2014年02月28日 21時40分31秒 | 仕事

市町など各自治体の来年度予算がほぼ固まった。
記事を書いているミニコミ誌の記者(ライター)としては
そんな予算の概要も掴んでおきたいところであるから、
近く企画している最近の消費者トラブル関連の取材と同時に、
予算資料の配布についてお願いをしに
ミニコミ誌の配布エリアとなっている各市町を回った。

かつての職場でdoironは
そのお願いを受ける方であったが、
今度は投げる方になっているのだから、
人生どうなるかわからないものだ。

取材に行くときはこんな格好。



恰好はある程度大事だ。
なめられちゃいかんしね。

少し上品にニットのカーディガンを着て、
その上にアウトドアコート。
手帳を片手に
「うちのかみさんがねえ」と言う・・・



ちょっと違うか。

先ず最初に行った市では、
広報担当の職員と
ここんとこの取材を通じて割と親しくなっているので、
いろいろと話をさせていただいた。
もちろんこちらの経歴は伏せている。

こちとらは広報担当の苦労は
いやというほどわかっているから、
ツボは心得ている。

さぞかし相手も話しやすい記者だ
と思っているだろう。

広報担当というのは、
まず全体の予算概要を把握する。
歳入内訳とそれぞれの項目の経年推移、
市債の残高なども必ず聞かれるので、
しっかりとまとめておかねばならない。

また、細かいところでは
報道機関が興味を持ちそうな各事業について、
予算内訳などを担当に聞き取り調査をし、
あらかじめ広報メモなどを作っておく必要がある。

発表時に記者の求めに応じて
できるだけ広報担当が説明したり、
資料を渡したりしなければならないからだ。

そのへんは広報担当の
最低の仕事なんだけどね。

そのあたりの段取りを心得て、
いよッ!お役所のミスター大変!
と持ち上げてやる。
おかげでここでは一介のミニコミ記者でも
懇切丁寧に対応していただけている。

次に行ったのが地元の市。

これがねえ、
あまり広報力が高いとは思えない対応でがっかりしたな。

突っ込んで聞いても、よくわかっていないようだし、
いちいち「上司に訊いてみます」
と中に引っ込むのは、
言葉の信ぴょう性を奪ってしまうのにな
なんて思いながら話をさせていただいた。

きっと、その通り書きますけど間違いないですね
と念を押したら、

「ちょ、ちょっと待ってください」

なんてうろたえるのに違いない。

まあそんな意地悪なことはしないし、
言わないけどね。
こちらの資料としての取材だから
本当に書くときにはきちんと念を押させていただきます。

とまあ、対応がなってなかったら、
こっちとしてもついついぞんざいに
なってしまいそうになりますので
広報担当者には心得ておいていただこう。

そして次に行った市では、
なんと地元の祭り関係者が担当職員であった。

いつもだんじりで顔を合わす知り合いで、
まさかこんなところで会おうとは思ってもみなかった。

カウンターで名刺を差し出していると、
奥の方から「doironさん、今日は何でんねん」
と声がかかったので見てみると、
隣村の前の祭りの総括責任者であった。

実は・・・といきさつと用件を話すと、

「ほんまに何でもやる人やなあ」とこうだ。

「いやあ、こんな仕事は前からやりたかってん」、
「そういえば、祭りの記念誌を作るときに頑張ってたもんなあ」

とそんなやり取りがあった後に
懇切丁寧に取材に応じていただいた。

こんな時は地元で顔が広いのも有利なものやね。

彼は取材の合間に
そんなdoironの仕事の話を聞いて、
「わしも退職したら、今の職場ではなく
地元にもっと貢献できるようなことを
せなあかんと思ってるねん。」とつぶやいていた。

地元に恩返ししているつもりはないけど、
あらためてdoironの今の仕事は
言葉一つで地元を盛り上げていける仕事でもあるんやなあ、
と気づかされた次第である。

取材を終えて帰宅して、
そうか、ではさらに頑張ろう
と思って書いた記事は、
根が単純でノリやすい性質なので、
気合を込めることができたため
自分でもなかなかの出来であるように思ったのでした。

取材は、相手とのやり取りが命ですが、
そのやり取りで自分の動向を左右させたり、
あることについてああ自分はこんな風に考えるのか
ということにも気づくなど、
実は取材は相手を見るだけではなく、
自分自身も見つめているという
側面もあるのだなとふと思ったのでした。


カニカニツアー 取材編3

2014年02月27日 21時18分09秒 | ウォーキング

神社を後にして、そろそろ宿に帰らないと
カニカニの時間が迫ってきました。

せっかくだから温泉にも入りたいしね。

水路に沿った道を町の様子を眺めながら戻っていきます。
「のんびりぶらぶらマップ」のコースをすべて歩いて
宿に着いたのがカニカニの始まる20分前くらいでした。

慌てて風呂に行き、露天風呂ではしゃぎました。
もう少し時間があれば
ここでも風呂に入る前に
まず取材をと思っていたのですが、
ちょっとそれは無理でした。

で、仕方なく席についてから
料理を運んでくる女中さんに訊いてみました。

「清張がこの宿にいた頃に働いていた人はいませんか?」

そしたら「そんなんいつのことですか。
ここにはおらんし、そんな人が生きてるかどうかもわからんよ」だって。
50年くらい前に20歳なら今は70歳。
生きてはいると思うのですが、
ここで働いている人はいないそうです。

それがわかっただけでもひとつ収穫です。

ワイワイ、モグモグ、グビグビと宴会が進み、
帰りの時間が迫ってきましたので、
ちょっと席を外して
先ほどの女中さんに訊いてあった
清張の書斎を見に行くことにしました。

書斎は旧館の玄関の真上にあります。

カニカニをしたのは新館で、



女中さんによれば平成2年に建てられたそうです。

平成2年といえばJR宮津線が
第三セクター運営になった年で、
大阪から直接乗り入れされる
タンゴエクスプローラーという特急が、
華々しくデビューしたのを何となく覚えています。

この旅館もその特急が
京阪神からどんどんお客さんを運んでくると期待して、
新館を増築したんでしょうね。

旧館は昭和5年築だそうですが



大正館と名付けられていました。



その2館は渡り廊下で結ばれています。



クネクネと通路を行き、
ギシギシと階段を上ったところに
その書斎はありました。



清張が宿泊していた部屋は
膨大な資料に埋まり手狭だったために、
ここで執筆をしていたそうです。



窓から外を眺めると、
左に最初に行った「お薬師さん」の山が見えます。



赤い矢印が展望台の辺りだと思われます。

そして右の方には、
「賣布神社」のある山と谷が見えています。



小説の中では、あの山に死体捜索の灯りが
ちらちらと見えていたことになっています。

清張はこの書斎で2カ月の間小説を執筆してたのですが、
最初の頃は新聞記者も一緒に滞在していたそうです。

実は、後で女将に訊くと、
この書斎に案内するのは宿泊客だけで、
日帰りのお客さんには案内していないそうです。

そればかりか、当時の話をするのも
宿泊客にだけなんだそうですが、
帰りがけに、女将は先の新聞記者の話や
昔はこの宿が海軍のお偉いさんだけが泊まれる宿で、
一般の人は宿泊できなかったことなども教えてくれました。



エピソードなどいろいろあるようでしたが
日帰りカニカニ旅行の客としては、
そこまで聞き出すのがやっとこさでした。

旅館でそんな風に決めているとは知らないとはいえ、
宴会後この部屋に来て
大切な部屋の窓まで開けて、
こんな記念撮影をしたと知ったら



女将も卒倒されるかもしれません。
なにとぞお許しを。

それでも制限がある中で、
とりあえずここまで聞き出せたのですから、
まあまあ来た甲斐があったというものです。

この後、一行は天橋立にも行き、
そこでみた元伊勢大神宮の鳥居の形について



T君から質問をいただいて
それもいろいろと調べてみたのですが、
それはまた別のところを訪ねた時にでも
まとめて書いてみたいと思います。

束の間の旅行でしたが、
賑やかに楽しく行けたのと、
精一杯の取材もできて充実した一日でありました。
なんとか元は取れたかな

またこんな機会があれば
ぜひ参加したいと思いますので、
よろしくお願いします。

カニカニツアーシリーズ終わり。


カニカニツアー 取材編2

2014年02月26日 20時44分35秒 | ウォーキング

お薬師さんの階段を降り切ったところで、
登る前にハゲシク興味をひかれた商店に入ってみました。

入り口に串に刺された一夜干しの魚が
ずらっと並んでいます。



値段を見るとこれが激安。
国道沿いの大きなお土産さんの
干物1枚の値段が、ここでは1串(八枚)の値段でした。
何ともリーズナブルでありました。
もちろんお買い上げです。

店内も何となくローカルチックで面白かったし、



いけすではカニさんが飛び出さんばかりに
元気に泳いでおりました。



こういう地元のお店は要チェックですな。

次に目指したのが、
いよいよ「Dの複合」に所縁のある神社です。

小説の冒頭近くで
「先生と一緒に歩いたとき、あすこに小さな祠がありました」
と書かれてある場所です。

右側の田んぼ越しに清張の書斎を眺めつつ、



線路を越えて200mほど比較的大きな水路沿いの道を歩くと



目的の神社の鳥居が見えてきます。



ここが賣布神社です。



表記を簡単にすると「売布神社」と書き
「めふじんじゃ」と読みます。

この神社の本殿がこれ。



一間社流造のこの建物は京都府の文化財に指定されています。

Dの複合では死体が埋められていた近くにあったのが
この神社の小さな祠とありますが、
それがこの本殿にある左右の拝所のことを
書いているのだろうといわれています。

右側がこれ。



そして左側にはこういう祠が見られました。



小説では死体の埋まっていたのが
祠の裏側の雑木林であったと書かれていますが、
どちらを想定しているのかはわかりません。

他の部分には「稲荷」という言葉もありましたので、
それはやしろを詳細に調べればわかるのでしょうが、
そこまでの時間はありませんでした。

物語の中でこの場所はひとつの伏線にすぎません。
厳密にそれを調べることで
清張の意図が読み取れるというものでもないでしょうから、
深く追求はしませんでした。

それよりもこの神社のいわれの中に、
もしかしたら清張が小説の組み立ての
きっかけを見つけたのかもしれないと
doironは思うわけです。

2カ月の滞在の間、周辺を歩き回って
この神社にも何度も足を運び、
滞在していた部屋に積まれていたという膨大な資料の中には、
この神社に関する資料もきっと含まれていたのだと思います。

なぜそう思うのか、
そのことを少し書いてみます。

この神社の名前である「賣布神社」ですが、
大阪の人なら「あれ?どこかで聞いた名前やな」
と思われたんではないでしょうか。

そうです。阪急宝塚線終点の宝塚の二つ手前に
「売布神社」という駅があります。

もちろんその名前の神社があるからですね。

では「売布神社」という名前の神社が
他にもあるのかと調べてみますと、
延喜式神名帳には6社が記載されています。

兵庫県には宝塚の他に三田市に1社、

島根県は松江市に1社。

そして後の三社が丹後にあります。

これらのうちで、「売布」発祥のひとつ
と思われているのが今回訪れた神社なのです。

それはこの神社のあるところの名称が
「女布谷(めふだに)」であること。
また木津温泉の南5キロのところに
「女布権現山」という山があることから、
地名が合致することからも伺えるということです。

さらに、この神社の祭神が
お酒の神様である「豊宇賀能命」であることも
発祥の地を表しているほか
多くの示唆も孕んでいます。

丹後地方には「浦島伝説」と
「羽衣伝説」が同居しています。

羽衣を盗んだ漁師が
天に帰れず泣き崩れている天女を連れて帰り、
一緒に長年暮らさせていたのですが、
天女が天に帰れず
あまりにも毎日悲嘆にくれ続けるので
可哀そうになって返してあげた所、
礼を言ってお酒の造り方を
教えて出ていったそうです。

ところが、長年の逗留で羽衣を手に入れても
天への帰り方を忘れた天女が
再び泣き崩れたというところが
今も丹後にあります。
それは「奈具」というところだといわれています。

「奈具」は「泣く」から転じた言葉だそうです。

この天女と「豊宇賀能命」が、
どちらが先なのかわかりませんが、
酒の祖ということで被るのは言うまでもありません。

また浦島も同様に竜宮城で過ごした時間が
あっという間だったのに、
玉手箱を開けたら歳をとってしまった
というのも、いずれも長期間
とらわれの身であったという点
(これは「淹流説(えんりゅうせつ)」といわれます)
でストーリーが重なります。


この神社があるこの地に
そんな伝説が残っていることを
知って滞在しにきたのどうかはわかりませんが、
清張は賣布神社の境内であれこれ思いを巡らし、
浦島伝説、羽衣伝説を絡めて
「Dの複合」を組み立てていったと
考えられるわけです。

他にも垂仁天皇のために
不老不死の薬を求めて
海を越えていき、
長い年月を費やして不老不死の薬
(それは「酒」ではなかろうか)
を探しあて、帰ってきた田道間守(たじまもり)が
垂仁天皇の死を知って泣き崩れた伝説もここにあります。

それも「淹流説」と関係があるとしていることのくだりや、
「田道間守」の読み方がこの地の南側の
「但馬」に似ているということも
小説には書かれています。

賣布神社の「賣」は神様の名前に
「比賣(ひめ)」として女性の祭神を表す場合に
よく使われています。
姫の語源ですね。

では「布」はどうなのか。

ここまで書いてくると
当然天女の羽衣の
「布」と関係があるように思われるのですが
それはdoironが勝手に思っていることで、
根拠もないし小説にも出てきません。
先に書いた島根の売布神社では
「めふ」のことを
「海藻や草木の豊かに生えること」としていますが
それはこの神社にはちょっと当てはまらないでしょう。

そしてdoironはさらに思うのです。
この神社に来るまでに
てくてく通ってきた道が
ちょっとした水路に沿っていたのも、
古来この水路を通ってこの地の人々が
大海へ漕ぎ出していったかもしれないと考えると、
「売布(めふ)」が転じて「舟(ふね)」になったという説にも
何らかの関係があるのでは
と考えてしまいます。

いやあ、まったく推測だらけなのですが
何もはっきりとわかっていないのだから
どう推測しようと勝手といえば勝手です。

いずれにしても普通に訪れたら、
ああここが清張の小説の
とある場面のモデルになった神社か、
で終わってしまいますが、
こうしていろいろ考えていくと
いっそう旅は面白くなるものです。

次回は宿の取材などについて書きます。


カニカニツアー 取材編1

2014年02月25日 22時01分49秒 | ウォーキング

みんなとワイワイ行くのは本当に楽しいものですが、
今回はもう一つ楽しみがありました。
それが、旅の取材です。

今回doironがカニを食べに行ったその旅館に
松本清張が約50年前に2ヵ月滞在して書いたという小説が

「Dの複合」



その小説も念頭に、
木津温泉周辺を時間と事情の許す範囲で
取材してみようと思ったのです。

ツアーでは、途中でバスを下車して
宿まで走るオプションも考えてくれていたのですが、
結局誰も走る者はおらず、
バスはそのまま旅館に直行しました。

到着は降り注ぐ陽光と
そこはかとなく漂う春風が
ポカポカと気温を上げ始めた午前11時15分頃でした。

食事までに1時間以上あったので、
とりあえず宿の周辺を見ておこうと、
宿の中に入らず、
バスから荷物を持ったまま
さっそく散策に出かけることにしました。

日帰りツアーの限られた時間ですから、
効率よく行動しないといけません。

先ず最初に行ったのは木津温泉の駅です。
今回はバスできましたが、
やはり鉄道の駅は旅の始発点です。
おさえておかなくてはならないでしょう。

最寄りの「木津温泉駅」は、
平成2年にJR宮津線を引き継いで、
第三セクターの北近畿タンゴ鉄道(KTR)が
宮津線として営業を始めた路線の駅です。
元々ホームが線路の両側にあったというように
今もその名残のホームの一部が残っていました。



また、和風建築の駅舎は趣のある雰囲気をかもしておりましたな。



と、ここで駅周辺の表示を見て気づいたのが、
「木津温泉」をずっと
「きづおんせん」と思っていたのは実は間違いで、
正しくは「きつおんせん」と濁らないということでした。フムフム

京都の木津川や大阪の木津市場など
「きづ」と濁るところがほとんどなのに、
所変われば読み方も変わるものですねえ。

まさか透明な湯が湧く温泉地だけに、
濁るのを避けたということではないかと思って
調べてみましたが、そんな記述はどこにもありませんでした。

Dの複合では
「木津温泉は山と狭い田んぼばかりの
町らしいものが見えないところ」のように
木津温泉の光景が書かれてありますが、
50年前とは印象がかなり異なり、
駅前には国道まで続く広い通りがあり、
田舎ではありますが
しっかり町の体をなしておりました。




ただし、その広い道沿いには店はなく、
突き当たりの国道沿いに
何軒か店が並んでいるのは、



最近の旅の形態が
電車よりも自動車
という傾向になっているから
仕方がないのかもしれません。

地元のグループが作って
ホームページにアップしてあった
「のんびりぶらぶらマップ」木津温泉駅周辺版を
プリントアウトして持ってきていたので、
それを見ながら次に向かったのが

医王堂

歩いて10分くらいで到着します。

マップによりますと、
ここから清張が滞在していた
旅館の書斎にしていた部屋の窓が見えるそうです。

ということは、
清張も書斎の窓からここを見ていたということですね。

ここは正しくは「温泉山 医王堂」といいます。



石碑には「目を洗う、心を洗う」と書かれてあります。
島根にある一畑薬師の分霊所で、
地元の人には目の病気に御利益のある
「お薬師さん」と言う名で親しまれているそうです。

このお薬師さんの山の下に立ちますと、
お堂に上がる階段の入り口にある
鮮魚店の方にハゲシク心をひかれますが、
まずはやはりお詣りです。

灯籠が並ぶ急な階段を登って行くと、



突き当たりに展望台がとりあえず開けています。

とりあえずというのは、
周りに結構密に雑木が茂っていたからです。

どれどれ、清張の書斎はどこじゃと眺めると、
ちょうどその場所が見えるように木々の枝がなく、
ぽっかりと空間を作っていました。


赤丸内が清張の書斎です。

もしかしたら地元の人のご努力なのかもしれません。
遠くから眺める清張の書斎は、
雪景色に映える赤い塗り瓦
(たぶん石州瓦)の屋根の中央あたりが
軒先にせり出した部分の真下にあたりますから、
その屋根の色と形を目印に探せば
容易に見つかるはずです。

その展望台で眺めた後、
Uターンするように再び登ると、
そこが医王堂です。



doironも若い時は、
真夏のトライアスロンのレースや
練習で目を酷使してきましたから、
この歳になると目を大事にしないといけませんし、
親も含めて身の回りに目の病で困っている人もいるので、
しっかりとお詣りをしておきました。

参道を引き返して階段を下っていく途中、
こんな植物と出合いました。


ハート形の紅葉している葉がそれです。
花はもう少し後にならないと咲きません。

昔、山に登った時にはよく見たのですが、
近ごろとんと見なくなった
「イカリソウ」です。

誤変換すると「イカ理想」となり、
ちょっぴりうれしいイカ好きのdoironです。

正確にいうと「トキワイカリソウ」という植物です。

船の錨に似た花をつけるこの植物、
特に「トキワ・・」は日本海側に多く、
北陸では白色、福井以西では紅紫色の花をつける傾向にあります。
イカリソウは「強精剤」のもととなる
生薬の成分を多く含んでいる漢方薬としても知られ、
なかなかお薬師さんの参道には
ふさわしい植物ではあるな
と思いながら歩いていたのでした。

せっかく遠くまで来たので、
このシリーズもう少し続きます。


カニカニツアー おもてなし編

2014年02月24日 20時13分54秒 | マラソン

昨日はランニングチームの仲間たちと
丹後方面にカニカニツアーに行ってきました。

自家用車に乗り合いで、
大会に行ったり、合宿で泊まって帰ってくる
というのはこれまでも数えきれないくらいありましたが、
観光バスを仕立てて遊びに行くというのは記憶にありません。

参加したのはdoironを含めてレースを卒業した人から
これから頑張ろうという初心者の人、
そして家族の方も含めて
総勢31名のツアーでした。

午前7時過ぎに泉O津の駅に集まり、
賑やかに出発しました。

途中10キロ程度のランのオプションがあるとのことでしたが、
走る気のないdoironはいきなりビールです。



普段の旅行といえばたいてい運転役なので、
こんな時ばかりは楽しまないとね~。

他にも飲む者は結構いて、
ルネRC一行は賑やかに丹後へと向かったのでありました。

福知山マラソンなどでおなじみの
舞鶴自動車道を順調にどんどん北上し、
ほとんど車の通らない京都縦貫道から丹後入りです。





途中のサービスエリアにて。

バスの車中では、
回覧で先週に行われた泉州マラソンの結果表と
写真集が回ってきました。

ルネRCで最も早くゴールした
(“ルネイチ”と言われる)
ミカンくんが作成したものです。

サブスリーを目指す彼ですが、
今回は残念ながら4分ちょっと足りませんでした。
あと1分を達成できなかったdoironとしては、
彼の悔しい思いは痛いほどわかります。
次の篠山ではぜひ達成してほしいものです。

そんなランナーがいるかと思えば、
ようやく10キロレースを二つ完走し、
次はハーフマラソンに挑戦しようという人もいました。

「完走できるかなあ」と不安がっていましたが、
10キロを完走してるから
絶対に完走できるよと太鼓判を押してあげました。

チームの中には、
その時々の自分と同じ思いを持つ人がいて、
「そうか堺シティを完走して、
敦賀マラソンに挑む頃の自分と同じやなあ」
なんて思ったりして、
話していると懐かしさがよみがえってきたりします。

とにかくみんな走ることを楽しんでおり、
こちらまで楽しくなってくるもんですね。

宿に着いたのは、午前11時15分頃。



食事まで1時間以上あったので、
皆さん温泉へと向かいましたが、
doironは友達と宿周辺をまず散策してみました。

ツアーの一週間前に、
カニをいただく旅館のことを
ネットで探ってみると、
そこは木津温泉という場所にあり、
今から50年位前に松本清張が約2か月滞在して、
「Dの複合」という小説を書き上げたという宿でした。

その小説を図書館で借りて、
さっそくがんばって読んでみたのは、
先日もブログに書いた通りです。

散策はそのゆかりの地を訪ねてみようと思ったわけです。

そのことは後日に書くとして、
一時間ほどうろついてから
慌てて温泉に向かうと、
まだまだうちのメンバー連中が
露天風呂に入りながら
マラソン話で盛り上がっておりました。

他の入浴客がいないのを確認し、
「ブログ掲載の折には
ちゃんと修正するから」とお断りして写真をパチリ。

酔った頭でこれは面白い企画だと
思っていたのですが

やはりお見苦しいのはどうかと・・・
宿の看板風呂を汚してもいけないし・・・
kaisanは大股広げてるし・・・
開湯の租、行基様に叱られそうだし・・・

ということで残念ながら、
私設ブログ倫理委員会により
写真はボツとなりました。
永遠に封印します。

格調高い源泉かけ流しの「橘の湯」で、
格調高く?はしゃいだあとは

いよいよお待ちかね、カニ料理です。

宴会室で



テーブルの上でカニが手を振って
お・も・て・な・し体勢でお出迎え。



カニはひとり1.5杯分だそうです。

この後、雑炊とデザートもあり
お腹いっぱいに。
皆さん最後の雑炊まで
ちゃんと完走できたでしょうか。

いっぱいになったお腹を抱えて宿を後にし、
お土産屋さんに寄って



最後に向かったのが天橋立。



橋立の南側はよく行くのですが、
今回は北側から攻めてみました。

バスを降りて
レンタサイクルで橋立を往復してきたツワモノもいましたが、
ほとんどがぶらりとあたりを散策。

橋立のたもとにある「船越の松」で
鎖に足を引っ掛けて
天橋立名物「股のぞき」をしてるのは
kaisanでした。
露天風呂に続きここでも大股開き。
でもその股のぞきはちょっと違うと思うな。
よい子はまねしないようにしましょうね。



え~、本人のご要望通り写真を掲載しておきます。

今回は青馬会チームの重鎮の御夫婦二組にも参加していただき、
愉快な丹後路を満喫した一日でした。
出発時に大量に積み込んだ
ビール&チューハイも下車時には空っぽ。
それにしてもよー飲む連中ですわ。

幹事の皆さんをはじめ、参加された皆さん



お疲れ様でした。


今日はカニカニツアー

2014年02月23日 22時04分30秒 | 最近の出来事

ランニング仲間たちと
丹後は木津温泉に
カニカニツアーに行ってまいりました。

カニをいただいた宿は
あらかじめ調べたところでは
松本清張ゆかりの宿ということで
関連の本を一週間で読み
宿ではいろいろと取材もしたかったのですが・・・

もちろん、走る仲間たちとのカニ宴会は楽しく
アルコールも進む進む。
バスの中でも飲みまくりでした。
しばらくは節制しなきゃね~
今日の様子はまた後日報告しまあす。


夜間歩行 後編

2014年02月22日 21時32分34秒 | ウォーキング

穴師神社の鳥居と太鼓橋を背にして、
南に進んでいくと
左手に水汲み場のある
「湧井戸地蔵尊」がある。



ここから湧く水は、
夏場はよく冷えていておいしいそうだ。

中はベンチなども置かれて整備されているので、
地元の人の良きくつろぎ場なんだろう。



その先にある鳥居から、
神社の方に向かって撮った写真がこれ。



わからん?

ではここでも画像処理をしてみましょう。



どうです?かなり見えるようになりました。
夜に写して真っ黒けの写真でも
これだけの情報が写りこんでいるんやねえ。

「見えないものでもあるんだよ」 by 金子みすず

デジカメが持つ潜在能力は
今回のひとつの驚きであった。
その鳥居の先を左折して、
くねーっと曲がったところにあるのが、
前編に書いた地蔵堂と宝篋印塔。



方向的には穴師神社までの勅使道の直線上にある。

その先の大きな交差点を渡り、
直進していくとJRの踏切に出る。



ここ和泉府中駅は
最近すっかり整備されて、
今は高架橋上の駅になっている。



線路の東側からも駅に入ることができるようになって、
代わりに駅の南側にあった踏切が
最近閉鎖され、その時にはちょっとした騒ぎにもなった。

駅は整備されたものの、
少し離れた位置になってしまった
駅前商店街はさらにさびれた感じが否めない。



こうして写真を撮ってみても、
画像処理をしなくても明るいことは明るいのだが、
シャッターの目立つその景観は暗い。

そんな商店街の横の道を直進し、
30号線を渡ったところが、
本日の目的地「情熱ホルモン」・・・



じゃなくて「泉井上神社」。



ここが和泉国五社の惣社となるので、
御利益は5社分ある。



それはこの少し東にある
国府にいた役人による陰謀ではないかと
doironは考えているのじゃがね。

とりあえず帽子を脱いで、
手袋をはずして参拝。
五社分の御利益が授かるだろう。

エイからここまでちょうど4キロであった。

元来た道をほんの少し引き返した後は
別の経路を歩いて帰った。

親父がデイでお世話になっている施設を眺め、
中央線と国道26号線の交差点に出た。



お酒を飲んで歩き回っているので
少しふらつく頭をこらえながら、
その先で首Dさんと解散。

近所の公園はさすがに
そんな時間はひっそりとしていた。

パチリと撮った写真は真っ暗だけど、



画像処理をしてみたら、
こんなにクッキリとシルエットが写っていたのには驚いた。



金子みすずの先ほどの言葉とよく似ているけど

「大切なものは、目に見えない」

とはサン=テグジュペリの代表作
「星の王子様」で主人公が語る言葉です。

その彼の作品のひとつが

「夜間飛行」であることを紹介して、
「夜間歩行」終わり~


夜間歩行 前編

2014年02月21日 21時12分46秒 | ウォーキング

最近激しい運動を控えている首Dさん。

いつもエイの帰りには
ひとりでテクテクと夜のお散歩をしてから
帰宅されているとのことなので、
昨日はそれに付き合ってdoironも一緒に歩いてみることにした。

それまでは浜寺方面に向かって歩いていたそうだ。

「どこで何キロ、そしてあとどれくらいの距離と
時間がよくわかるので、
いつも同じところを歩いている」とのことだったので、
昨夜はおおよそ距離を合わせて、
doironの案内で勅使道を
歩いてみることを提案したところ賛同してもらった。

あとの歩行を考えて、
アルコールはナマ中を一杯だけにし、
いつもより20分くらい早く店を出た。

GPSをセットしてスタートである。

コースは多分通ったことがないだろう
という道や車で通っていても止まってみることもないだろう
という道を中心に選んでみた。

店をでてまず「二田(ふった)」の村中を通った。

車では通れないような
細い路地が続く。

写真をとっても塀が写っているだけで
何が何だかわからない。



なので、画像処理ソフトでゴニョゴニョしてみると、
ほらこの通り。



赤外線カメラみたいでしょ。
この後に出てくる画像は
ときどきこの処理をかまして紹介しよう。

これは二田の地蔵尊。



地元のふるさと文化遺産とやらに認定されている。
この地蔵は並んでいるのがたくさんおられて、
柳生などでよく見た六地蔵とはちょっと違う。

村の境界に並べておいて、
他村から来た人に村の格式を見せつけるような
意味があったんでしょう。

それはdoiron村にも村の北端、
その北の村にも南端に地蔵様がおられることからもわかるように、
そんな村はずれの地蔵尊は
ムラの境神信仰の表れだといわれている。

「二田」のその地蔵尊を右折し、
中央線へと向かう。
途中、遠くに輝くアルザタワーが見えてくると、



その道も終点となる。

その歩き始めて1キロのところにある交差点は
一見T字路に見えるが、
よく見ると歩行者には十字路となっている。

車では侵入できない細い道を
てくてくと直進していくと・・・

出たあ。

これが勅使道。



だからわからんがな。
え~と、おまじないをかけると、
ほうらこの通り。



これもわからん?
いいんです!夜間歩行なんですから。

わかったつもりでその勅使道を東進していく。

みちみち、首Dさんに
「『ちょくしみち』ってどんな字を書くの?」と聞かれて困った。

「えーっと、弥勒の勒みたいな字ていうか、
あ、そうそう『教育勅語』の「勅」の字です」
と答えたものの、
この漢字の説明は難しい。
その時とっさに書けなかったんだよね~
なので、意味は「みことのり」、
とか「おおせ」とかいう意味で、
昔大津の港に着いた京都の官人たちが、
国府に向かって歩いた道
という説明で許していただいた。

やがて左手にそびえるのは、
夜の市民病院。



う~ん、なんとなく怪しげなネーミングだ。

その道をぐいぐい直進していくと、
そこが和泉国二宮の「穴師神社」。



夜の神社もまた雰囲気がある。

ここに祀っている神様は
紡織の神様とその夫である農業の神様の二人がおられるので、
そのそれぞれを参拝できるように
相殿造りの本殿前に鳥居が二つある
珍しい景観を持っている。



勅使道は、かつて方向的には
このまま穴師神社の鳥居を左に見て直進し、
後で出てくる要池の宝篋印塔と地蔵堂まで
まっすぐ続いていたように思えるのだが、
今はそれらしい路地はあるものの
複雑に入り組んでおり、
直進の道はない。

なので、鳥居のところを右折し、
進んでいくことにした。

後篇に続く。


エイから散歩して帰宅

2014年02月20日 22時36分45秒 | ウォーキング

1週間は早い。
ついこの前エイにいってきたばかりのように思うのに
早くも今日は木曜日。
首Dさんと、近頃常連の仁Oさんと
美味しい料理をつつきながら



先の泉州マラソン応援の話で盛り上がった。

そして今日はこれまでと違って
エイを早めに切り上げ
いつも夜間に散歩をしているという首Dさんに付き合って
勅使道を通って
泉井上神社までテクテクと歩いてきた。

いよいよ寒さもましになり
ウォーキングに心地よい季節になってきました。
そんな散歩の様子は
明日にでも書きましょう。
何せ、飲んだ後の散歩はよく回る。
安いビールでなんと経済的なこと。

二時間近く歩いて、帰宅なう。
星のとてもきれいな夜でした。


「雨水」に濃い歩行

2014年02月19日 21時28分58秒 | ウォーキング

以前、熊野街道沿いにある篠田王子の
北1キロくらいのところを歩いている時に、
東の山の方を望むと
こんもりとした古墳が見えた。

それは和泉黄金塚(こがねづか)古墳。

2008年に国に史跡に指定された古墳で、
出土した画文帯四神四獣鏡は
重要文化財に指定されている。

オリンピックに金はつきもの
と言うわけではないが、
なんとなく頭のどこかで最近のソチオリンピックと
関連付けられたようす、
豪華な名前を持つこの古墳のことを
最近よく思い出す。

そこで、まだ少し寒いけど、
今年の歩行の予行演習のつもりで、
家からテクテクと歩いて訪れてみることにした。

親父をデイに送り出してから出発。

家を出てまずは、この三月に開通が予定されている
道路に沿って北上した。

かつて、オジチャリで高石の自転車専用道を紹介したことがあるが、
そこにつながる道なので、
ここでも自転車道が整備されるようだ。
写真の青く塗られているのが自転車道になるのだろう。



今年のだんじりパレードのコースが
大きく変わるやろうな。
とりあえず開通したら
ぜひオジチャリで往復走破をしてみよう。
ユルランでもいいかな。

途中、助松団地を抜けて



泉北有料道路の高架下に出たところで右折。
阪和線を階段のある跨道橋でヨイショとまたぐと、





間もなく熊野街道と交差する。



交差点にはおなじみのあの道標があります。



しかしこの木製の道標も
作られて7年が経ち、
かなりくたびれてきている。
ここらでひとつ新調してもらえないかなあ。

信太山丘陵の北の端に沿って東に登って行くと、



左に曲がる小さな道がある。
あぜ道に毛が生えた程度の道だ。

その道もやがて田園地帯に続く
いよいよ細い道に入っていくと
この先行き止まりの看板とともに、
前方に樹のない土の塊が見えてくる。



それが「黄金塚古墳」だ。

古墳時代前期末に築造された前方後円墳で、
全長約94m、後円部直径約60mの
比較的立派な規模の古墳なのだ。

畑のあぜ道をよちよち歩いて近づいていくと、
どうやら周りにフェンスがしてあるようだ。



キワまで行って下から見上げると、
山頂と中腹あたりに石碑が建っていた。



発掘調査のため立ち入り禁止となっていたので、
写真はネットから拝借した。

中腹の石碑がこれ。


真ん中で見事に割れているのは
下からも確認できた。

そして頂上に置かれてある石碑がこれ。



後ろの景色とあわせて
なかなか立派なものである。
この頂上からは、
遠くに百舌鳥古墳群までも見渡せるというから
さぞかし絶景であろう。

ここから鏡が出土した時は、
卑弥呼が魏の国から銅鏡100枚を贈られた
といわれる「景初3年」の文字が
その鏡に刻まれていたので、
邪馬台国と関連があると騒がれたが、
古墳の築造時期から考えれば、
いくつも人の手を経て
ここにたどり着いた一枚であることが予想されるので、
今はその論争は下火になっているそうだ。

それにしてもこの古墳の周りを
ぐるっと半周してみたが、
案内板とかは一枚も見つけることができなかった。

なぜ半周かと言うと、
半分は宗教団体の敷地になっていて
近寄りがたい雰囲気だったのだ。

まわりには堀がめぐらせてあったように見えたが、



これも発掘調査の結果、
一般畑地との緩衝地帯のようなもので、
水を張ったりしていなかったことがわかったとのこと。

いずれにしても、
まだまだ整備の余地はありそうな古墳ではありました。

帰りはまた違った道を通ります。
古墳のわきにはこんな素敵な
ススキのトンネル道がありました。



その後、あちこちウロウロとして
葛葉稲荷にも寄りました。



そしてそこにはこんな新しい石碑が建てられてありました。



また、広い境内のあちこちに御社があり、
そのうちのひとつに、
なんと石切剱箭神社があるのを発見!



つい先日、東大阪の本殿に
二度目のお百度参りに行ったばかりだったので感激しました。

まだまだ寒い、「雨水」の一日、
こんなルートで10.4キロを歩き、



春の歩行の予行演習をばっちりこなしてきたdoironなのでした。