もう今日で10月も終わり、
明日からは11月だ。
いろんなことを毎日やりながら、
月日はどんどん過ぎていきますねえ。
年を取るとほんまに
時間の立つのが早くなる。
さてそんな10月最後の日の
今日、友達とラインで話をしているときに、
「今日はハロウィンやなあ」と
言葉を入れると、ラインの
バックのデザインが一瞬だけ
ハロウィンバージョンの景色に
なることが分かったよ。
是非これを読んだ人は試してみましょう。
そしてそんな10月末に
いよいよ我が家の台風被害の
補修が始まった。
コーキングと新瓦のはめ込みが
始まったのだ。
大きな車でやってきて、
僕が上がるのに苦労した屋根の上に、
すいすい~と上がっていって、
下見と簡単な作業が始まったのだ。
主に今日は保険のための動きと、
工事の準備みたいなものだね。
ああ、それにしても
やっとこさの工事開始だわ~。
で、今回の工事はそんな屋根被害に加えて、
台風で傷みもひどくなり、
怖くなった入り口の塀を改造し、
軽自動車を無理やり止めていた
ガレージの改造も一緒に
始めていただくことになった。
来週ぐらいからはちょっと
見た目も変わるだろう。
へえ~我が家の雰囲気が
少し変わるんやなあ~
それならこの機会に、
ガレージ&屋根修理完成記念として、
村の麻雀友達らとBBQでも
しようかなとたくらんでいるところなのだ。
ということで、
本日は我が家ではその予行演習として、
小粒のBBQを行った。
二階のベランダに、携帯ガスの
BBQグリルを置いて、
スーパーで買い出ししたものを
いただくことにしたのだ。
題してBBQハロウィンパーティね。
ドヒャーと盛大に二人で実施しました。
超豪邸ですけど、狭いベランダを
有効活用しましたよ。
ここでやってると、
あいつはいつも早いからもう帰って来るぞ~、
あそこの家の奥さんの犬散歩はもうすぐ通るぞ~、
あれあそこの家はごみ出してるぞ、
明日は収集日じゃないのになあ
(これは間違えていたようで後で引っ込めてました)。
そのほか、あの人は旅行に行ってたのか。
あの脳梗塞のおっちゃんがリハビリしているぞ。
ああ、遠くであの噂話好きの
おばちゃんの声が聞こえてくるぞ~
など
村の中の家の出来事なんかを
眺めながら、楽しんだんですが、
きっときっと今頃みんな、
あそこの家は二階でBBQやってたぞ
と逆にうわさしているに
違いないでしょうねえ。
明日から11月。
のんきなdoironの暮らしは相変わらず、
淡々と過ぎていくのです。
では、カレンダーつくりを
進めていきましょう。
まずは日にちを入れて
いかないといけませんね。
ここで注意することは、
日曜や祝日・休日は赤い色で、
土曜日は青い色を付けていることですね。
それと祝日を間違えないこと、
大安などの六曜を間違えずに入れる、
24節気も入れるなどは
全般に注意して
入れていかないといけない。
ちなみに六曜は旧暦の月と日を足して
6で割り、そのあまりの数で
決まっていきます。
実際にこれをやると
多大な時間がかかるので、
24節気も合わせて、
販売されているカレンダーから
ひらって行きましょう。
ではまず一月です。
祝日は「元日」と「成人の日」ですね。
間違えずに入れていきましょう。
そして2月です。
この年はうるう年ではないですね。
建国記念日を忘れずに入れましょう。
この月の23日が今の
皇太子の誕生日ですね。
来年は新天皇の誕生日になるわけですから、
多分祝日になって来るでしょうね。
3月は、少しこれまでと
違う方法をとりました。
日曜をはじめとすると、
週の数が6つになってしまいます。
これまでは、それでも6つの週を
記入して、カレンダーの日にち欄を
縮小していたのですが、
今年からは通常のカレンダーで
よくやられているように、
一つの日にち欄の中に
2日を書き込むという方法に変えました。
こんな感じです。
これだけの事でも、意外に手間がかかるのです。
その証拠に原稿なので
罫線枠が変になっていますが、
これは後で修正しました。
そして4月です。
これは30日を「退位の日」として
書き込むのですが、
この日の扱いが微妙です。
国の今の方向性では、
5月1日の即位の日を祝日にしよう
という動きがあります。
そうなると祝日に挟まれた
4月30日と5月2日が
「休日」ということになり、
なんとこの時には
土曜日を休みとすると祝日にはさまれた
日は休日となり、
10連休ということになるのです。
一方、5月1日を祝日ではなく
休日としてしまうと、
前後二日は一般日になり
休みではなくなってしまいます。
まあ多分元号が変わることによって、
社会の負担を軽くしようとして
この日を選んだのですから、
多分祝日にして10連休に
なるだろうとみていますので、
ここはその希望で
10連休と記入しておくことにしましょう。
え~っと、配られた方はこの辺に
注意してくださいね。
それにしても、この即位の日が
六曜で大安であるのは驚きです。
そういうことも考慮しつつ
決めたのかなあ、
と思ってしまいますね。
だから次の5月の最初の週の記述も、
こういう予想をもとに
記入していくことになりますので、
あわせて注意してください。
こういう日にちは、
紫色にしといたほうがいいかもなあ。
これはもうちょっと検討しておきましょう。
6月は六週ありますので
3月と同様の変更をしましょう。
7月は大安が少ないですねえ。
8月、9月もちゃんと
祝日をきっちり入れておきましょう。
そして10月には即位礼正殿の儀が
22日に行われる予定です。
高御座に座った天皇が、
国の内外に即位を宣明する儀式だ。
これは今まで京都の紫宸殿で
行われたのだが、今回より
東京で行われることになり、
高御座はすでに東京に送られています。
この日も祝・休日になるかどうかも
決められていないが、
多分休みになるとみて、
ここも紫色で日にちを
入れることにしておこうかな。
11月も祝日を入れ、
12月には23日に
平成の天皇の誕生日が来ます。
これまで昭和、明治は
「昭和の日」「文化の日」という
祝日になっている。
この23日がどうなるかは
まだ未定である。
こうして様々なことを
受け入れて来年のカレンダーが
決まっていく。
この辺のことはよく考えて
我々はすごしていかなくてはならない。
とはいえ、高齢者の毎日が
そんなに大きく変わるわけではないんですがね。
今年のカレンダー、
あとは絵の完成と製本です。
頑張って作っていきますかあ。
ここんとこ数年は自分の描いた
その年の絵手紙などを当てはめて、
カレンダーを作っている。
いつも決めた人にあげており、
また今年もこんなことしてる
と揶揄されたりもしているが、
中にはそれなりに予定書きなどに
使っていただいて
重宝してくれている人もいる。
まあ、自分のお絵かきの、
ある意味での今年の集大成
として作っているのだ。
毎年これを作成しているときは、
来年はこんな風にしたら
ええんじゃないかと
考えることはあるのだが、
一つやり方を変えると
膨大な作業が必要になってきたりするので、
少しずつ変更を加えたりして
ちょっとずつ進化させているのが実情だ。
まあこれもいわば退職後の
遊びのようなもので、
昔は販売したりもしていたのだが、
最近はもう無償で上げることにしている。
なかなか販売までとなると、
このおっさん何をしてんねん
という感じは否めないもんね。
退職後のおっさんの遊び感覚で
やっているのだ。
そんなカレンダーも、
11月中くらいには仕上げていきたい
と思っているのだが、
今年は皇室の動きなどで
いろいろと変更が出てきそうなので、
注視しているというところもある。
作業の最初はもちろん絵の完成なのだが、
もうひとつカレンダーの日付部分の
作成作業にいろいろと
例年にない変更が必要に
なってきたりするのだ。
そんな11月にはいろうとしている今、
いよいよそんなデータ作成に
入ることにしたのだ。
ていうか、そんな作業にはいろう
としていろんなことが
カレンダーに関係してきた。
だいたい、大安などの情報を
書き込むのに、100均で
あらかじめそんな情報の入った
カレンダーを買うことにしている。
今年はというと、
まず元号の入っているカレンダーが少ない。
これは昨年
一年前の閣議決定で決めているように、
退位の日としている4月30日までは
平成31年なのだが、
新天皇が即位した5月1日からは
新元号となるわけである。
つまり平成は来年4月30日を持って
終わるということはほぼ決まっている。
なので元号の入ったカレンダーも
4月30日までの使われ方をするわけだ。
まあ、平成の時代になった
時のことを振り返って考えてみよう。
その時の天皇陛下が崩御された日に、
新元号は「平成」であると発表されたのだ。
一世一元の元号であるから、
崩御される前に発表はできないからね。
ところが、今度は違う。
新天皇の即位日が決まっているわけだから、
その日に向けて新元号決定作業は
進めていけるわけだし、
事前に発表も可能なわけだ。
今のところ国では4月1日の
発表ということに決めているらしい。
元号は「元号法」によって
定められていきます。
まず候補を造る際には、
決め事がいくつかあるようです。
🔴国民の理想としてふさわしいような
意味を持つものであること
🔴書きやすいこと
🔴読みやすいこと
🔴これまでに使われていないこと
🔴俗用されているものでないこと
というのがあります。
さいごの俗用はちょっとわかりにくいですねえ。
そしてもう一つこれも決まっているんですねえ。
🔴漢字2字であること、
です。
大化から始まった元号は、
いろいろと節はあるのかもしれませんが
平成で250代を迎えています。
新元号は何になるのか、
来年の大きな出来事のひとつですね。
なので、doironのカレンダーも
ちょっとだけ工夫をして、
新元号となる5月からは
「 元年」
とスペースを開けていますので、
自分で書き込むという形にしていますので、
よろしくお願いします。
元号についてはこんな感じで
あつかって行きます。
では、次は日にちの件でも
すこし検討していかなくてはなりません。
それを少し書いていきましょう。
続く
納経をしてくれるところは、
階段を登って左側にありますが、
まあまずはお参りを済ませておきましょう。
本堂の方へと歩いていきますと、
おおここには「福徳兎」が
置かれています。
ウサギの石像の前に球が置いてあり、
その中に手を入れる穴が開いています。
そこに手を入れてみると、
スペースの中に卵のような形の
石が置かれています。
それが立てば足腰健全だそうです。
やってみますと、おおちゃんと立っていますよ。
足腰は健全ですねえ。
まだマラソンをやってた頃の
力の余韻が残っているのでしょう。
ちょっと写真を撮ってもらいましたよ。
そしてまだまだありますよ。
これは「勝運の牛」です。
口の中の玉にさわると
勝運がつくといわれています。
え~牛にさわりつつ、
競馬にも勝ちますようにって変かなあ。
いやいや宝くじにも勝ちますように
としっかりお祈りしておきましょう。
その牛の横には、
貴乃花と若乃花の手形もあるのですが、
いやあ案外手は小さいんですねえ。
とまあそんなことを一通りした後に、
本尊にお参りしていきましょう。
ここの本尊は「千手観世音菩薩」です。
ろうそくをつけ、線香をあげて、
賽銭とお参り札も入れてお参りします。
四国だったらねえ、
ここでお経をあげたりするんですけど、
まあ気持ちの中で唱えておきましょう。
お参りが終わったら、
境内をもう少し歩いてみましょう。
蓮の花が咲く頃はここはきれいのかなあ。
でも手間が大変なんでしょうねえ。
三重塔をお参りし、
ふと横を見たら看板が立っています。
ここは何と源氏物語の舞台のひとつです。
もともと50編を超える源氏物語で、
宇治を舞台とする10編のドラマである
「宇治十帖」のひとつ「浮舟」の石票があります。
一人の女性である「浮舟」をめぐる
男子二人の恋争いの中で
宇治川に身を投じて命を失くそうとする話です。
静かに人を恋する薫と
情熱たっぷりに愛しようとする
匂宮の情念たっぷりの物語です。
宇治に来るとこの宇治十帖に
あちこちで触れるんですねえ。
さて、では納経帳を持って
最後に記載してもらいに行きましょう。
この日の几帳は女性によるものでした。
朱印の中央には「大悲殿」と書かれます。
千手観音を本尊としているからですね。
西国三十三カ所10番札所の
御朱印ゲットです。
さあ、目的は果たしましたが
ここまで来ていますので
せっかくですから宇治の繁華街の方を
回って帰りましょう。
平等院の近くの駐車場に
車をとめて歩いていきます。
平等院の近くに来ましたが、
もうここは何度も入っていますから、
今日は入らずに置きましょう。
周辺から鳳凰の写真だけを
とっておきました。
さあそういえばもうお昼です。
何か食べて帰りましょうと、
平等院横の若い人がやっている
創作料理店に入りました。
が、なんと撮影を忘れてしまいましたよ。
おなかが空いていたんでしょうねえ。
とてもおいしい料理だったと
報告しておきましょう。
しばらく宇治川沿いを歩いて、
多くの外国人に囲まれながら
たどり着いたのがこの橋「宇治橋」です。
有名な場所ですね。
ここが宇治十帖の最後の帖であり、
源氏物語の最終章である
「夢浮橋」の石票があるところです。
何のイベントもなく終わったのか
終わってないのかわからないような
源氏物語の最後の舞台になっています。
「終わりなきを持って終わらせる」
という言葉があるくらいです。
次の機会には「宇治十帖」を
すべて訪ねてみたいですね。
西国三十三カ所の三室戸寺を訪ねた、
doironの旅も、
ここを持って終わりとしましょうか。
おしまい
西国三十三カ所の訪問もほぼ半分を超えた。
四国の八十八カ所と違って、
進捗がとても速い。
実際に昔に行ったとなると
もう少し数も増えるのだが、
納経帳をもって訪問となると
そんな感じになるだろう。
さあ、ではまた今回も、
のんびりとお寺参りに行くかと思い、
どこに行こうかと考えたときに、
近辺のお寺はたいがいもう参って
納経もしてもらっているんだよね。
残っているのは
ああ、あそこだったら一日かかるなあ
というようなところが多い。
まあそんな中でも近くと言えば
「中山寺」か「三室戸寺」くらいになるだろうか。
中山寺はできれば参った後は
裏の山の方も行ってみたいから、
今回は三室戸寺に行ってみるかと決断し、
出かけていくことにした。
まあここも花の寺として有名なのだが、
宇治のあたりもウロウロしつつ
行ってみることにしたのだ。
では車に乗って出かけていくことにしましょう。
高速道路を使えば簡単に宇治に到着する。
この辺りは昔はよく仕事で来たところだ。
裁判関係の仕事がメインだった頃、
証人の大学教授を訪ねて
頻繁に来ていたのを思い出す。
今のような高速道路網があれば
楽だったかもしれないなあ。
ゆっくり走って行っても、
一時間もかからないうちに到着するのだ。
大きな駐車場があるので、
そこに車をとめて歩いていきましょう。
戦川という小さな流れに架かる
「じゃたいはし」という橋を渡ります。
ああ、もうこんな入り口の橋の
ところから民話があるのですねえ。
昔、娘が村人が蟹を殺そうと
しているのに出会い、
魚のひものをあげるからと
蟹を助けたんだそうだ。
そしてまたその後その娘の父親が、
蛇が蛙を飲もうとしているのに出会い、
蛙を話したら娘を君にあげようと
言ったら蛙は助かったという。
娘をやろうと蛇に誓った父親もどうかとは思うが、
ヘビはその約束通りに娘をもらいに来たそうだ。
「まさかあ」と思いつつ、
拒んだが蛇は娘を連れて行こうとする。
しかし、その姿を見た蟹が
大群で押し寄せ、彼女を守った
という話が合ったのだ。
そのことを三室戸寺に
雨の中お礼参りに娘が行くと、
参拝中に後ろを振り返ったところ、
その橋の上から蛇が悲しそうに
眺めていたんだそうだ。
なのでまたあまりにも
かわいそうになり、
蛇の体の上に人間の顔を付けた
「宇賀神」をこの寺に納めたんだという。
はあ、民話やねえ。
でも、それにしても約束をたがえた父親は
せめられなかったんですねえ。
なんかまだまだ話が
膨らんでいきそうな感じがしますなあ。
そんな橋を渡り、拝観料を払って
山道を登っていきますと、
山門があります。
この辺りまで来ると、
右側に庭園が見えてきます。
アジサイの群落とその向こうには
ツツジがいっぱい咲くような様子です。
残念ながら、今は花の季節ではなく、
大きな重機が入って手入れを
しているような様子でした。
参道の突き当りには、
長い階段が続いています。
そしてそこにはこんな石像が。
「ようおまいり」と書かれています。
ちょっとユニークでしたねえ。
そこの長い階段を登っていくと、
上に何やら石像が見えます。
「宇賀神」と書かれた石のモニュメントです。
ああ、あの娘が寄進した
宇賀神のモニュメントですねえ。
どれどれ~と見てみますと、
「耳をさわれば福がくる。
髭をなでると健康長寿、
しっぽをさすれば金運がつく」だって。
みんなさわっておきましょう。
もっと、頭を触れば毛が生えます。
とか心臓を触れば心筋梗塞になりません。
あるいは、腹を触れば引っ込みます。
なんてのもないかねえ。
いっぱい作ってほしいなあ。
どこが腹かわからんけどね。
蛇年にはより効果があるそうです。
その宇賀神から、
本堂はもう目の前です。
続く
ジダンとの山行きに向けて、
その予行演習ということで
大和葛城に登ってきた。
まあここなら山登りする人も
多くいるだろうし、
何かあったとしても山の中で
朽ち果てることもなくまあ安心だろう。
いろいろと軽い運動をしているとはいえ、
やはり一人で全く無人の山に
登るのはまだまだ抵抗があるもんね。
そう、人の情けにすがっていないと
doironは生きていけないのだよ。
弁当を持ち、車でロープウェイの
入り口まで向かって行った。
元気な頃はねえ、
ここは気分転換の練習にもよく来たし、
体を壊してからも何度かやってきたなあ。
てくてくと山に登り、
帰りはカタクリの群落を見たり、
ギフ蝶の写真を撮ったりしたなあ。
確か、ここでのギフ蝶は
日本最南端かもしれない。
確かに和歌山県の竜門山で
写真も撮ったけど、
あそこのギフ蝶は、
この大和葛城から連れてきた
ものだったそうだ。
そうそう昔、年齢が10代だった頃に
二上山が大火事になり、
大量のギフ蝶が被害を受けた
というのを聞いたことがあるなあ。
いずれにしても、
この辺りは日本固有のギフ蝶の
数少ない生息地なんだ。
この日は、櫛羅の滝コースは
荒れていて通行できなくなっていた。
台風の影響かなあ。
登山道は北尾根コースのみ
となっている
え~、野鳥の声を聞くのははこんな感じです。
テクテクテク~。
ユリは採取禁止です。
テクテクテク~。
ギフ蝶は採取禁止ですよ。
テクテクテク~。
はい、山頂です。
山頂周辺では10組くらいが
登っていたなあ。
小さな小学生の子供を連れてきているのは、
はは~ん、さては運動会の
代休かもねえ。
いやあ、それにしてもいい天気です。
下界の方もよく見えていますねえ。
え~っと、我が家方面からも
この山はよく見えますから
きっとここからも家が見えているんですねえ。
ああ~あの大邸宅が我が家かなあ。
写真じゃよくわからないけど、
じっと探っていってみると
ゲートタワービルや泉大津のツインビル、
浜寺の橋なんかも見えているようだ。
そんな景色を見ながら、
では昼食にしましょう。
お湯を沸かしつつお弁当を広げていきます。
あ~うまい!
ご飯をおいしく食べれるというのも
幸せですねえ。
景色を見ながら、
ふと後ろの奈良県側を見てみますと
パラグライダーが飛んでいますよ。
ああ~優雅ですねえ。
なんとこのパラグライダーは
上昇気流をうまく受けて
1時間以上飛んでいたようです。
ああ~、気持ちよくて
眠くなったりしないのかなあ
って感じでしたね。
そして、今度は足元のススキの
根っこの方を見てみますと、
白くて小さな花が咲いていましたよ。
「せんぶり」ですねえ。
苦くて薬にもなる植物ですが、
花は小さくてかわいいやつです。
ナンバンギセルも昔はたくさん
あったように思うのですが、
今回は発見できずでした。
気候的にもとてもよくて、
山頂周辺でのんびりと過ごし、
下山となりましたよ。
まもなく、ジダン主催のドジ旅で
生駒に行く予定をしているのですが、
まあいい予行演習ができたなあ
と喜びつつ、大和葛城山を
楽しんだというお話でした。
紀州街道の商店が立ち並ぶあたりを歩いていきます。
自転車に乗った警官がたくさんいますねえ。
歩いていくにつれ、何となく
まわりの雰囲気が変わってきましたよ。
道端には、座っているおっさん、
寝ているおっさんもいますよ。
ウワーあのおっさんは
水着のようなパンツ一丁で
歩いていますよ。
これは警察に捕まるなあ、
と思っていても、アレッ、アレッ、
警察官は無視して自転車で
通過していきます。
う~ん、何となく世間の様子が
ディープになってきました。
doironの目もあちこち動き回ります。
とその時です。
前を歩いていたおっちゃんの両手が
ばんざいのように上に上がっていきます。
うひゃ~メンズリゼ、
いやあそれとも
“おっさんリゼ”。
片方の手にはチューハイの
ロング缶が収まっています。
そのおっさんが道端に泊まっている
路上駐車の車に迫っていくのです。
その車には誰も載っていませんよ。
で、車のとこにたどりついたと思ったら、
そのボンネットに肘をついて、
酎ハイとたばこを置き
運転席の方を向いて何やら
ワイワイ言ってます。
違法駐車に文句つけているんでしょうか。
すると、その車の横の家から
若い兄ちゃんが出てきて、
鳩が豆鉄砲食らったような顔をしています。
あ~ひと悶着おこるんでしょうか。
もうこの辺りでそういうことに
関心持っていると進むことができません。
無視して進んでいきましょう。
左手の方から、おおぜいの人の声が
聞こえます。
みてみると、どうやら公園のようです。
地図では「萩之茶屋南公園」となっていますが、
もうそこの入り口あたりから
なんかもうとんでもない
人間の情念が渦巻いているようです。
あそこがドヤ街公園と
呼ばれているところなんかなあ。
興味はありますが、
中途半端な情熱で入っていけるような
ところじゃ何ですねえ。
だいたい普段歩いている時から、
生活の中でおっさんが
カメラを持ってウロウロしてたら、
やっぱり変なおっさんです。
悪いように見れば盗撮してるんじゃないか、
あるいは洗濯物を撮影したりしていたり、
女性ばかりを映してる
変なおっさんちゃうかとか
色々と変な風に見られる
可能性だってあるわけです。
まあそんなんで捕まっても
写真を見たら石が写っていたり、
道が写っていたりするだけで
誤解は解けるのでしょうが、
やはりへんなおっさん風に
見られたりするわけですが、
ここではやはり違いますね。
カバンもってカメラ持ってても、
超まともなおっさんに
見えたりするわけです。
こんな風に安心感を持って
見られそうなところは
めったにありません。
いや逆に、おっさん何を
映してんねんというような
奇妙な生活体験者が多い
という別の不安感はありますがねえ。
ま、熱い情念があるわけではないので、
差支えのないところを
カメラで写しておくことにしましょう。
歩いていくと、こんどは聴覚を
刺激されます。
なんかここの酒屋からは
大音量の声が流れてくるのです。
お店の中でカラオケマイクを
最大音量にしてお客さんに
話しかけているようですねえ。
「冷えてるよ~ビールはうまい」
とか
「はいはいそこのおっちゃん、
寝てたらあかんよ」とか
しゃべっています。
すごいですねえ。
もう人間味出まくりの居酒屋です。
よっしゃー、わしも行ったろー
と入る気にはなりませんけどねえ。
ここにも紀州街道の石が立ってたりします。
その横には歴史の散歩道と
書かれた看板もありますが、
ここは違いますねえ。
「人の散歩道」
と書いていた方がいいかもしれません。
天下茶屋から歩き始めて
萩之茶屋も過ぎました。
萩之茶屋は萩も生えてた
茶屋があったからだといわれてますが、
どこなのかわかりません。
しかし、この界隈は表面を
軽く触れただけですが、
中身はとってもすごいところなんでしょう。
人間臭さがほんまに渦巻いていた、
強烈なお散歩でした。
新世界まではいっていく気持ちも
持ち続けることはできず、
天王寺まで帰っていった
doironなのでした。
歩いたのはこんな感じ
濃ゆい大阪を堪能し、おしまい。
地名で天下茶屋といえば、
だいたいが天下茶屋駅周辺と
西成の中~西部を包括的に
示しているのだが、
場合によっては阿倍野区の
松虫なんかも入ってくる場合がある。
なので地名的に「天下茶屋」といえば
この地域と決まっているわけではない。
じゃ、なぜ「天下茶屋」という
名前があるのかというと、
これはまあだいたい決まった経過がある。
昔、この辺りは大きな森でした。
その片隅で、楠木家の子孫が
茶屋を出したそうです。
そこにやってきたのが豊臣秀吉で、
千利休に銘じてここでお茶を
点てさせるととてもおいしい
と感じたそうです。
それゆえここに玄米年30俵を
与えるようになり、関白殿下の
「殿下茶屋」
あるいは天下人の
「天下茶屋」の名で
呼ばれるようになったということです。
そして、さらにこの地で
「天下茶屋の仇討」という事件が起こり、
それが歌舞伎なんかでも
取り上げられるようになり
「天下茶屋」の名は一気に有名になったのです。
その天下茶屋が縮小されつつも
部分的に残っているのがこの場所だ。
そこには小さな祠と立派な
クスノキが生えていましたねえ。
あ、石の像も立っていますねえ。
ああ、これが天下茶屋の痕跡なんですねえ。
そしてその先のチンチン電車の
走る道の方を見ると、森が見えています
ので近づいてみましょう。
そこにあるのが「天神の森天満宮」でした。
先ほどの天下茶屋の地図から見ると、
この辺りが天神の森で、
池なんかもあったようですね。
秀吉が「恵の水」と名付けた池ですね。
ここにある子安石に安産も祈願して、
秀頼公が生まれたことから
「子安天満宮」とも呼ばれています。
その神社の入り口あたりにある宝篋印塔が、
「天下茶屋の仇討」の証のもので、
道路建設の時にここに移設されたものだそうです。
ではこの神社の中も見学していきましょう。
これが小安石ですね。
秀吉も参拝したようです。
doironも孫の無事の生誕を
ちょっと前なら祈ったかもしれません。
まあ孫の無事と二人目の孫を祈っておきましょう。
ぐるりと一通りお参りして、
参拝した後はまたもとの
出入り口に戻ります。
すると、そこに立っていたのが
「紀州街道」の石碑です。
そういえばこの辺りの700m位東には
熊野街道が通ていましたねえ。
安倍晴明神社や阿倍野王子神社が
あったところですねえ。
そうかあ、あの道のこんな近くに
紀州街道が通っていたのですねえ。
そのそして向かい側には
「天下茶屋跡」の石碑も立っていますねえ。
さらにはこんな案内板も
立っているんですねえ。
街中をじっくり見ていると、
まあいろんな思いで過去の痕跡を
提示しているものですな。
さあ、ではここから北向いて
新世界の方を目指しましょう。
事前に地図で、うまい具合に
ここに一本道が通っているんやなあ
と思いながら線を引いて
地図を造っていたんですけど、
その道は紀州街道だったんですね。
岸里東の交差点から
なおもまっすぐ進んでいくと、
こんな狭い道に入っていきます。
ああ、昔の街道って感じですねえ。
近隣の人たちの生活が目に入ってきます。
高齢者のおばあさんたちが、
ところどころに集まって
何やら話をしていますし、
建築士が屋根を見上げて何かを言ってます。
台風の影響なんかもあったのかなあ。
そんなところをカメラ持って
歩くのんてちょっと抵抗あるけど、
ここはまあ大きな顔をして
歩いていきましょう。
あ、ここにはこんな風呂屋もあるけど
開いてませんね。
商店街は、ちょっと興味ありますねえ。
でもまだまだまっすぐ行きましょう。
この辺りから、自転車に乗った
警察官の姿がとても増えてきます。
あの富田林から逃走した容疑者も
捕まったしなあ。
その警戒ではないんですねと続く。
久しぶりに大阪市内を歩いてみよう。
ただねえ、台風も近づいており、
ちょっと天候も悪いので
場所は比較的ご近所を
歩いてみようと思い、
天下茶屋から新世界までの
濃ゆい場所を選んでみた。
では南海本線で
出かけることにしましょう。
今回は結構地図を眺めてからきましたよ。
天下茶屋跡のある場所も、
ちょうど地図の切れ目当りでしたので
ネットで住所を確認してきました。
岸里東二丁目というところに
その天下茶屋の跡があるそうです。
そして、地図を見ると
天下茶屋に行くのに降りるのは
岸里玉手になるということも
ジダンのからの情報で仕入れてありました。
松ノ浜から岸里玉出まで。
松ノ浜は急行が止まりません。
急行が止まる泉大津駅の隣ですから、
大阪方面にはかなり不利ではあります。
あれ?向こうは急行が止まるのだったけ。
doiron家では、どちらかといえば
JRを使うことが多いので、
南海電車はちょっとなじみがありませんのでね。
まあ、各駅停車でのんびり行くか
と出かることにしたのです。
電車に乗りながら、
南海ハイキングスケジュールの
パンフレットなんかを眺めながら、
ぼちぼちと向かって行きました。
次はどこに行こうか、
なんて思いを馳せつつ堺を超え、
大和川もわたって北上していきます。
約30分で到着です。
駅前で降りると、
ああこんな商店街もあります。
そしてその商店街をうろつく人はというと、
なんといいますか、
個性が豊富といいますか、
あるいは人情味豊かといいますか、
なんかもういきなり濃ゆい世界に
入ったような感じです。
おお~これはもう思っていた
雰囲気にピッタリではないですか
と思い、歩き始めます。
天下茶屋を求めて、
高野線の方に向かって行きますが、
この時です。
doironの頭を混乱させた
おっさんがいます。
道路の端っこで水たまりに
オシッコしてるおっさんがいたのです。
以前、京都でいきなりズボンを脱ぎ、
道端でオシッコをし始めた
おばさんの次に驚く存在でした。
写真を撮ることはできませんが、
できるだけ無視して通り過ぎようとすると、
そのオシッコのチョロチョロ具合に
思わず立ち止まりそうに
なってしまいましたねえ。
ああ、おっさんの加齢は恐ろしいものです。
覚悟して生きていきましょう。
とそんなことを考えてたら、
道端の住居表示をみて
混乱してしまいました。
探していたのは「岸里東」だったのに、
おじさんしっこに塗り替えられて
「玉手東」の住居を追って
しまっていました。
あ、パンダのチンチン電車や
え~っと、こっちが1丁目やから
もう少し南やなあと思いつつ
移動していきます。
特にこの辺りは道が碁盤の目ではなく、
斜めみちとかも多く
地図的にも混乱に拍車を
かけてしまいました。
ここかなあ、
あそこかなあ。
ウロウロと歩いていますと
また同じ場所に出たりして、
おっさんの混乱は極致に達します。
ああおっさんの加齢による
脳の衰えもこわいものです。
道行く人に聞いてみましたら、
「玉手東2丁目はこの先やなあ」
といいながら携帯を探って
くれましたりもしましたが、
やはり見つかりません。
じゃこの人は知ってるかなあ
と思いつつ聞いてみると、
「ああそれは玉手東じゃなくて岸里東やで」
と指摘されて「ハッ」と
正気に戻ったdoironなのでした。
地図で見ますとかなり南側に来ています。
再度町内案内の地図なんかを
見ながら、ウロウロ
歩き始めたのでした。
ああ、もうこの辺りで地元に
すっかりなじんだように、
わけわからず歩くおっさんの
ようになっていましたね。
南海高野線の駅にようやく到着し、
再度岸里東2丁目の住所を探していきます。
この辺りも少しうろつきましたが、
やがて目的地の「天下茶屋跡」に
到着したのでした。
続く
2年前に東北を旅行した時だ。
花巻の駅前の掲示板で
「軽便鉄道」の案内を読んだ。
そうあれがdoironと
軽便鉄道の出会いでしたね。
以来、あちこちで軽便鉄道の話を
聞いたりもした。
軽便鉄道は建設費とか維持費の抑制のため、
低価格で建設される鉄道だ。
そもそも軽便鉄道法で建設されるが、
線路の間である軌間の
短い鉄軌道をそう呼んでいる。
軽便な電車であることから
輸送力をさほど必要としない
路線なんかに使われたが、
いまは廃線になったり、
JR軌道に変わったりして、
その痕跡を残しているところが多い。
身近なところでは、
あの浜寺公園の遊覧電車も
「軽便鉄道」の企画を使っているそうだ。
そんな過去に学んだ鉄道の経験を
斑鳩で思い出させてくれたのが、
「天理軽便鉄道」
の痕跡だった。
ここへ向かうときは、
そんな鉄道の跡があるなんて
全く予想もしていなかったなあ。
安堵町を歩こうとうろうろと
歩いている時だった。
こんな看板が目に入った。
天理軽便鉄道、と書かれてある。
法隆寺の駅から天理まで
つながっていたらしい。
ふ~ん、花巻で見かけた軽便鉄道が
ここでも走っていたんやなあ。
帰ってから調べてみると、
大体この電車が走っている経路は
地図上にも残っているし、
部分的には近鉄電車にもなったりしており、
それを訪ねて歩いている人のブログもあった。
鉄道の後というのはまっすぐな
経路が残っていたり、古い線路の
痕跡が残っていたりして面白そうだ。
ではdoironも太子道からの帰り道、
この線路の近くを法隆寺駅前まで
戻るので、その痕跡を訪ねて
歩いてみることにしたのだ。
資料に基づいて少し役場の方に戻ると、
この辺りを走っていたようだ。
道と重なっている部分もあり
この辺りはわかりにくい。
ただこの地方の取り組みである
案山子が、電車を待っている
乗客のように置かれてあるのが面白かったな。
そこから、鉄道の後らしきところを
歩いていくが見つからない。
で、ふと池にでると、
おお軌道の跡がきれいに
残っているじゃないか。
池の真ん中に古い軌道敷きが残っている。
近づいてみると、扉も開いているので
見学してくださいよというものなんだろうか。
草むらの中を
「ヘビが出てきたりしませんように」
と祈りながら進んでいくと、
こういう線路跡の切れ目に到着します。
へえ、切れ目のところには
レンガで形を作っているんですねえ。
でも、こんな狭い軌道で電車が
ごとごと走って行くのんて、
ちょっとジェットコースター的な
スリルもありそうですねえ。
その軌道の向こう側を見てみると、
家が立っていたりして、
あまり痕跡は残っていないですねえ。
ネットを見たら、この道路がそうだよとか、
この空き地が駅の後だよ
みたいな地元の人の話が出てました。
ところが、これから駅に向かう
反対側を見てみますと、
おお~痕跡があるじゃないですか。
doironでも判別できます。
川の向こう側になるので
ぐるりんと遠回りして近づいてみますと、
道が盛り上がっていかにも
田園風景の中をさっそうと走る
軽便鉄道が思いえがかれますねえ。
宮沢賢治が銀河鉄道の夜を書いたのも、
こんな田舎道を走る
軽便鉄道の姿を見たからかもしれませんね。
このちょっと高くなった
幻想的な軌道跡が
そう500m位は続いていましたかねえ。
やがて線路は、
もう住宅街の中に入っていきます。
法隆寺の駅がもうすぐになりました。
最後に住宅街の横を流れる
川の中をのぞいてみますと、
そこにも線路跡の痕跡がありましたね。
こうして天理軽便鉄道の
痕跡をみながら歩いてきましたが、
ほんとに真剣に探している人は、
あぜ道の横に転がっている
レンガや枕木何かも探していたりするようです。
1915年から1945年まで
続いていた天理軽便鉄道。
その痕跡をこうして少し紹介して
このブログはおしまい。