腹ごしらえを済ませて、
再び歩きはじめた。
このあたりで歩き始めて
約9キロだから
あとひと踏ん張りだ。
車を通行止めにした気持ちのいい堤防道路を、
電車の線路と並行してテクテクと進んでいくと、
やがて山科川と宇治川の合流点に到着。
もう夏も終わりに近く、
このあたりにも赤とんぼが
やたら群れて飛んでいた。
顔に向かって飛んできたトンボを
スウェイバックでよけた拍子に、
背中がぐきっとなってしまったぞ。
あ~あ、いくら無邪気に遊んでいても
寄る年波には勝てないなあ。
あ、こんなところに「江戸町」がある。
東京の江戸と何か関係があるのかと思いきや、
実は淀川と江戸には
語源的に深いつながりがあるのだ。
つまり水が淀んだ低湿地を「淀」といい、
それがなまって「江戸」となったという説がある。
また、別の側面から見ても
「江」は港のことで「戸」は入り口、門という意味があることから、
舟運の盛んだった淀川沿いのこの地域に
「江戸」という地名があるのは、
江戸幕府の出先があるとか
江戸の人が住んでいた街があるとかの
歴史的な意味合いがあるからではなく、
単に地形的なところによるものが
多いのだろうと思われるのだ。
あ、距離標だ。
河口まで45㎞とある。
着実に近づきつつありますな。
ここは宇治川のほとりの旅館
「桃山温泉 月見館」。
登録有形文化財の木造三階建ての建物が目を惹く、
伏見観光のお宿である。
前方に上下二段になった大きな橋が見えてきた。
これが「観月橋」。
ここから観る月がいいのかというとそうではなく、
少し上流の先ほどの「江戸町」あたりの
「月橋院」で秀吉が催した
月見の宴に由来している。
この橋の歴史は古く、
鎌倉末期頃からあったそうだ。
川が荒れることが多く、
何度も何度も付け替えが行われ、
とりわけ秀吉が豊後守に命じて作らせたころは
「豊後橋」といわれていたそうだ。
木幡にあった、あの土塁のような
築堤を使っていた火薬工場に
石炭を運ぶ船の画像が残っている。
今よりもっと水量の多かった当時、
この外輪船の煙突が
橋の欄干より高かったため、
通過するときは煙突が倒せる構造になっていたそうだ。
この観月橋と隠元橋、
そしてスタート地点の宇治橋が
この地域の三大橋と呼ばれていた。
その観月橋の下をくぐり
もう少し下流へと進み、
中書島の駅に向かって
本日のメイン歩行は終わり。
合計12km程度を歩いた。
京阪電車で先ほど歩いてきた
山科川や宇治川の流れを眺めながら、
再び宇治の駅に戻った。
普通ならここでまっすぐ車へと向かうのだが、
今回は京阪宇治駅周辺も少し散策をした。
駅のホームで買ったこれで水分補給をし、
出発。
駅を出てすぐのところにあったのが、
「東屋観音」。
この「東屋」というのが源氏物語にも登場する。
源氏物語は色恋沙汰が多く
人間模様が複雑なため
よくわからない部分も多いが、
まあこうして物語に名前を残しているので、
立派な一角にこの観音さんが据えられている。
見所はもうひとつ。
駅から宇治川の右岸に出て400mほど歩くと、
「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子御墓」
がある。
応神天皇の皇子で皇太子に任命されたが
自分より年長の兄こそ天皇にふさわしいと
自ら命を絶ったそうだ。
(継承争いが盛んだった頃だから自ら・・・という部分は怪しいが)
天皇になった兄が「仁徳天皇」なのだ。
そんな遺跡も見て歩き、
宇治から伏見を歩いた今回の散策。
当初は行こうかどうかウジウジ迷っていたけど、
8月も末になって、
気候的にもかなり歩きやすくなっており、
快適な散歩で来てよかったな。
これならもうそろそろ
熊野古道も再開できそうだな、
しめしめと思いながら今回の淀川完歩は終わったが
doironのほっつき人生はまだまだ続くのであった。
川を離れて、黄檗ではなく木幡の方へと向かった。
京阪の駅は「こわた」、
JRの駅は「こはた」と読む。
ここからしばし堤防を離れて、
その木幡の街の中を歩いてみよう。
堤防を下りて行くと
すぐに街の中へと入って行く。
何かいわくのありそうな名前の
「熊小路」に出たところにあるのが
「木幡池」。
この池は宇治川氾濫の痕跡として残っている池で、
いまは一級河川「堂の川」の
河川区域の一部として管理されている。
おっとここで「一級河川」という言葉が出たので、
ちょっと確認しておこう。
一級河川とは、河川法によって
国土保全上または国民経済上
特に重要な水系として定めた
一級水系
に属している川のことをいう。
何も川としての景観がいいからとか
そういう理由で「一級」なのではない。
だいたい流域面積が大きかったり
他府県にまたがって流れている河川が多い。
日本で一級水系は109水系があり、
淀川水系(一級水系)である宇治川も
一級河川であり、しかも
その宇治川に注ぐ河川も
すべて一級河川ということになっている。
元々琵琶湖から流れている淀川だから、
琵琶湖のある滋賀県には
一級河川しかないということになるんやねえ。
この木幡池は水鳥が多く飛来することで
野鳥ファンにはよく知られているそうだ。
この日もたくさんの水鳥が水面に見られた。
ここにはたまに、
宇治市の「市の鳥」としている「カワセミ」も来るそうだ。
木幡池を過ぎたところで右折し、
駅の方へと進んでいく。
そして最初に現れる踏切が
京阪電車宇治線の踏切だ。
それを越えて最初の信号を左折して北上すると、
許波多(こわた)神社の鳥居が見えてきた。
と、ここでこの神社名を見て
何か気付かれた人もいるんじゃないでしょうか。
そう、まだ瀬田川を歩いていた頃、
鹿跳橋からしばらく歩いたところに
「畑」という集落があって、
その「畑」が「波多」に由来していたんやったね。
木幡のこの一帯もかなり宇治川が暴れた地域だったので、
そんな様子から名づけられた社名
であり、この地名になったのかもしれませんな。
さらに六地蔵方面へと北上していくと、
途中堤防のような土塁の下を
道がくぐっている。
あれ?これはなんだろう。
上に道がありそうな感じもあるし、
確かめてみようと上に上がってみたら、
この堤防が東西に伸びていることがわかった。
その様子はまるで、
豊臣秀吉が作った京都を囲む土塁のようだ。
でもこのあたりにまでそれが伸びてきていることはないはず。
そのあたりをあちこち探ってみたが、
案内看板のようなものもない。
これはハゲシク気になって、
帰ってきてから真っ先に調べてみたら、
この地域には火薬工場があり、
そこでできた火薬を運ぶために
戦時中に敷設された鉄道の
引込み線の為の築堤であることがわかった。
こうして好奇心満載でウロウロほっついていると、
いろいろあるもんですねえ。
その先が、六地蔵の札の辻。
奈良街道の宿のひとつで、
ここに高札が掲げられたとのこと。
街道沿いらしく古い家や
道標も何本かある。
これは、「左 長阪地蔵」と刻まれた石。
そしてこれが
「右 長阪地蔵 すぐ 伏見舟乗場」とある。
この道標もかなり立派なものである。
こういうのには淀川を歩いているだけでは
川が道案内をしてくれるので
なかなか出会うことがなく、
旧街道沿いならではの見どころである。
道はやがて「山科川」に出て、
そこから宇治川の合流地点まで
堤防沿いを歩くことになる。
桃山東大島橋で河原へ降りて行く階段に腰かけて、
昼食を摂った。
この日のメニューは
先日の地蔵盆で村人たちが
総出で握ったおにぎりに、
防腐剤代わりに梅をまぶしたものと、
イカの缶詰。
むむ~、ここで携帯を見たら
メールと電話がたくさん入っていたので
それを処理しているうちに
うかつにも写真を撮り忘れたぞ。
修行が足りませんな。
モグモグと反省しつつ、続く。
やっぱり河川敷は、
堤防上の道より
目線が川面に近づいて、
川の水と一緒に流れて行くようで楽しい。
そして何より、車に神経を遣わなくていいので快適だ。
川の中洲に群がる鳥たちなどを眺めながら
いそいそと歩いていこう。
あ、河川敷の道が途切れるところで、
土手の草むらの中に
距離標が建っているのが見えた。
しかし生い茂る雑草で
どうにも近寄れないので
上から確認することにした。
ふむふむ、ここで「河口から50km」なんやね。
まだまだ先は長い。
といっても、元気な頃なら
走れば4時間くらいの距離だけどね。
そこからまたまた歩道のない車道を歩き、
河川敷に道が見えたところで、再び下へ。
しかしそれもやがて、
大量の「クサネム」に阻まれて
上へ下へと登ったり下りたりしているうちに、
京滋バイパスと国道1号が通る橋に出た。
見てみると、この橋の上へと
らせん状に歩道がつながっている。
ここらで、上へ下への左岸に見切りをつけ
右岸に渡ることにした。
登って行くと、
高速と車道に並行していい具合に
歩道がついていたぞ。
上から見ると川は相変わらず滔々と流れ、
いろんな生き物が息づいている。
これは湖面を飛ぶ黒い鳥(見えるかな?)
岸辺には白い鳥がエサの魚を狙っている。
ん?対岸に何か変わった畑が見えているぞ。
近づいてみたら「茶畑」でした。
宇治は茶の本場なのに、
あまり見かけなかったなと思ったら、
宇治市全域で全部合わせても
80ヘクタールほどの畑しかないそうだ。
100ヘクタール以上の茶畑を持つ自治体が参加する、
全国お茶サミットにも特別枠で
参加しているくらいなんだそうだ。
意外やねえ。
対岸の河川敷には道が続いていた。
植生も左岸と違って、
ヒルガオ、
オオニシキソウ、
センニンソウ
などが咲いていた。
草が多いせいか、
キリギリスもたくさん鳴いていたし、
バッタの姿も多くて、
歩いていると、
普段あまり人のこないところなので、
たまに人を見かけると焦って
腕や体にぶつかってくる個体もいた。
あわてんぼうはどこにでもいるのだ。
これはイナゴかな。
これはコオロギ。
そしてショウリョウバッタ。
おお~、これは見事に絵に描いたような
オンブバッタだ。
う~ん、秋ですねえ~。
赤とんぼも急に乱舞しはじめたもんね。
左岸のここの距離標は
雑草に埋もれることもなく、
きちんと整備されていた。
あれ~河口まで「49km」だと。
なんやあ、まだ1キロしか進んでいないんやあ。
これが還暦おじいさんの距離標とのツーショット。
と、ボチボチ歳をかんがえなきゃね。
川はというと、
このあたりは中洲が大きく広がっており、
水路が狭められかなりのスピードで流れている。
一方岸辺に入り組んだ流れにもなっていて、
いよいよ淀川独特の「ワンド」の景色を
彷彿させ始めた。
下流に行くほど土砂ってたまりやすいんやろな。
あ、対岸に緑の塔がある。
クズが何かに巻きついたもののようだが、
よく見れば電線もないから電柱ではないし、
建物から出ているのではないから
煙突でもなさそうだし、
元は一体何だったんでしょうね。
謎です。
とまあ落ち着きなく
キョロキョロしながら
距離標で48キロのところに来た。
このあたりからは、前方に橋が見えてく~る~。
「隠元橋」である。
あのインゲンマメの「隠元」?
そう、そのインゲンだ。
その昔、この橋の辺りは
「岡屋の津」といわれる川の港だったそうです。
そこへ今で言う「インゲンマメ」を携えて
上陸してきたのが中国の「隠元禅師」。
あの普茶料理で有名な
黄檗山萬福寺
を開創した禅宗の僧である。
彼の上陸地がここということで、
「隠元橋」のたもとには、
こんな上陸の碑が立っている。
「隠元禅師登岸の地」。
doironもここで登岸し、
しばし川を離れて陸地へと続く。
地蔵盆が終わったばかりで
疲れてるしなあ、暑いし、
おまけに台風まで来てるしなあ。
どうしようかなあ、
歩きに行こうかなあなどと
ウジウジ考えていたのですが、
思い切って出かけることにした。
ということで行先はウジ、
つまり宇治まで進んできた
淀川完歩の続きである。
琵琶湖から出た瀬田川が
京都府に入って宇治川となり、
次に目指すのが三川合流後の
「淀川」ということになる。
だんだん近づいてくるのが、
この淀川完歩。
琵琶湖のほとりを歩いていた頃が
懐かしくなってきたよ。
この日の天気はまずまずの歩き日和。
そんな中を車で家を出て、
宇治の商店街の中にある
最大料金設定のある
安めのPに車をとめ、
スタートしたのだった。
「宇治」という地名は万葉集にも登場するし
そこはかとなく歴史を感じるなあ。
おお~やっぱりそんな地らしく
Pの入り口から地蔵がお見送りだ。
そして現代のご当地キャラ、
「チャチャ王国の王子ちゃま」
にも別れを告げて歩き始めた。
平等院の参道へと続く商店街の中を抜けて行くと、
通りに面してこんな出窓があった。
これは窓の内側にお茶を並べて、
その出来をみんなに見てもらう
茶商のシンボル「拝見窓」というそうだ。
そう、ここは日本二大茶の宇治茶の産地なんだ。
(ちなみにもうひとつは「静岡茶」)
立派な茶商が軒を連ねている。
ここが「中村藤吉本店」。
「上林」という茶商もある。
じゃあじゃあ「伊右衛門」や
「綾鷹」はどこにあるんだ。
「お~い、お茶」は?
はは~ん、さてはお茶の自動販売機に
ずらっと並んでいるのか、
と思ったらこれが普通の自販機で、
缶コーヒーなどを売っておった。
どういうこっ茶。
宇治のマンふたには
宇治橋ともみじが描かれている。
そうそう、先日の夕刊に
「蓋女(ふたじょ)」のことが書かれてあった。
マンホールの蓋に魅せられた女性のことをそう呼ぶそうだ。
そこに登場する人は
「拓本」を取っているそうで、
写真を撮るのも周りに気を遣うのに、
一枚30分くらいかかる拓本を
路上でとるとはええ根性してますな。
「踏まれて摩耗した質感がかっこいい」
んだそうだ。
また「謎解きもある」んだそうだ。
そういえば、ジダンが解いた
大津の「ワンハンドレッド」のナゾなんかも
ご存じなんだろうか。
そして秋には神戸で
マンホールサミットが開かれるらしい。
目玉は「神戸牛をマンホールの蓋で焼いて食べる」
イベントなんだそうだ。
むむ、ちょっと面白そうじゃないか。
おっと、話がだいぶそれてしまった。
元に戻そう。
商店街を抜けたところで宇治川に出る。
前回写真を撮った宇治橋たもとの公園には、
今日も多くの隣国人がたむろしていたあるよ。
これは地元の子どもたち
前回はここから宇治橋を渡って
京阪の駅に向かったのだったが、
今回はここから橋を渡らず
左岸をしばらく進んでいくことになる。
車が結構多いので、
河川敷に下りようと思ったら、
堤防維持作業とやらで
立ち入り禁止だと。
なんてこっ茶。
仕方がないので、
車道に沿って歩くことにした。
せっかくの川歩きやのに、
落ち着いて歩けないのが残念だあ。
そんな事とは関係なく、
宇治川は今日も滔々と流れていた。
川沿いにはところどころ大きな木が生えていて、
このあたりはさすがに宇治も近く、
こういうところにも
そこはかとなく歴史を感じる道である。
しかし、隣をゴーッとダンプが通ったり、
ビューンと車が走るので、
あまりにも落ち着かない。
ガードレールの切れ目に階段があったので、
自己責任で下におりることにした。
国土交通省には一刻も早く
一般開放をしていただくよう、
国会の場で追及してもらおう。
さあ、茶っ茶っと歩いていこう。
続く
携帯コンロの燃焼実験をやってみた。
いつも使っているチタンコッヘルで
沸かしたのは300mlの水。
(風袋はちゃんと考慮しています)
なぜ300なのかというと、
カップヌードルの場合
必要なお湯の量が300ml(公式データ)だからだ。
コーヒーだと2杯はいけるかな。
まず最初に試したのが
「エスビット」。
これはコンロと一緒に購入したもので、
1個4gの燃料が20個入っている。
いろんなサイトの中にあった情報によると、
だいたい1回で2個使うのが
標準的なようなので、
2個をコンロの底に敷いた
アルミ箔の上に置いてみた。
アルミ箔を使うのは、
こうすると、後の燃えカスの始末が
楽だとのことだ。
そうしてみた。
それにコンロの容量的にも
まあ2個ぐらいが妥当だろう。
2個で8gだから、
エスビットの燃焼熱量は理論的には
60キロカロリーあることになる。
燃焼効率を100%とすると、
300gの水なら2回沸騰させることができる熱量である。
まず火にかける前の水の温度を
こんな水温計で測ってみると、
30℃であった。
山だったらもう少し低いだろう。
リュックに入れて持参している水だと、
だいたい気温と同じと考えたらいいのかな。
そして着火した。
コンロの上にコッヘルを置くと、
横から火が逃げているのが見える。
結構熱が逃げている。
玄関先の比較的風のない場所でもこうだったら、
アウトドアならはもっと条件が悪いことは
想定しておかねばならない。
そして待つこと6分、
火が消える直前にお湯の温度を測ってみたら、
なんとたったの54℃。
温度は24度しか上昇していなかった。
せめて80℃くらいにはなるかなあ
と思っていたのにかなりの期待外れである。
これで熱効率を計算すると
12%しかない。
エスビットを燃やした熱の88%は
水に伝わらず逃げていることになる。
技術の粋を集めた自動車エンジンでさえ、
熱をエネルギーに変える効率は
30%くらいが限度なのだから、
冷静に考えれば、
ただ燃やすだけの行為で得られる熱効率は
それくらいで仕方ないのかもしれない。
エスビットで沸かしたお湯では
コーヒーを淹れるくらいが
関の山ということやね。
もし、沸騰させようと思えば、
コンロの熱いうちに燃料のつぎ足しはNGだから、
同じものを3つくらい用意しておいて、
次々とコンロを替えて行くほかはない。
あ、ふたつ交互使用で行けるか。
でもそれじゃ折角軽量コンパクトにした意味もないし、
第一コンロふたつは不経済である。
少々かさばっても、ガスコンロを
持っていけばそれで済む話である。
では、ジェル燃料の場合はどうか。
これも試してみよう。
ダイソーのジェルひと袋だと
145kcalだから、計算するとカロリーは
エスビットの2.5倍近くある。
冷えていることを確認し、
コンロにジェルを注入し、着火をした。
燃焼時間は13分くらいで、
燃え尽きたところで水温を測ってみたら・・・
69℃。
う~ん、熱いといえば熱いが
沸騰には程遠い。
ネットでは、結局固形燃料と
ジェル燃料で一回の燃焼では
沸騰していなかったわけである。
使用したコッヘルが底が
小さかったために
熱の伝導が悪く、
また背が高いために
熱の放散が多かったのが
敗因かもしれない。
これらの実験から、
このコンロを用いた場合、
今のコッヘルだと
固形燃料またはジェル燃料では
カップヌードルは作れないという、
ちょっとショックな結果となってしまった。
あと残るは液体燃料の
熱量の大きい方のエタノールを
試してみるほかはない。
その実験もまたいずれやってみようと思うが、
とりあえずは秋の歩行時には
コーヒーまたはスープを淹れることぐらいを念頭に
ガスコンロの補助的に
使って見つつ、
次の手を考えて行こうと思っている。
あーあ、それにしても残念
と嘆きつつ終わり。
街や山の歩行時の楽しみのひとつに、
アウトドアでの食事がある。
たまには田舎の食堂で、
ビールを飲みながら
定食をつつくのも悪くないけど、
自分で湯を沸かして作った
インスタントラーメンをあずまやなんかに座って
ハフハフ言いながらすする幸せ感といったらあなた、
防波堤で波の音を聞きながらする
昼寝の幸せにも匹敵するのですよ。
まあ、ささやかな幸せではあるんですけど・・・。
そんなささやかな幸せを演出するツールとして、
先日簡易コンロを買ったことは
このブログに書いた。
今日はそのコンロと
さらにお友達関係を深めようと、
いろいろと調べたことを書いてみよう。
このコンロで使用できる燃料は、
大きく分けて3種類ある。
まず最初は工業用アルコール。
それにはメタノールとエタノール
もしくはその混合体がある。
昔理科の実験で使った
あのアルコールランプの燃料である。
これらを燃焼させたときの熱量はというと、
最近はジュール(J)の単位が用いられるので
ややこしいから旧来の方法で表示すると、
メタノールが約5500kcal/kg、
エタノールが約7100と
熱量的にはエタノールが勝っている。
これらはいずれも液体燃料である。
持ち運び時には密閉容器が必要なのと、
扱いが液体だけに飛び散ったり、
燃焼時に混合気がたまりすぎると
爆発するという性質があり、
火事など、アウトドアで思わぬ事故に
つながったりする危険性もはらんでいる。
そこでふたつめに、
それに酢酸カルシウムなどの薬品を入れて
固形化した固形アルコールという燃料も作られている。
有害性や引火性を考慮して
なじみやすく、一般に広く使われており、
アウトドア燃料でも
昔からお馴染み「メタ」がその仲間だ。
旅館に泊まったらさ、ほら晩御飯の時に出てくる
一人用のコンロのようなものにも
使われているやつを想像すればいい。
ほかに、ヘキサメチレンテトラミン
という物質を固形化した
「エスビット」
という燃料もある。
ススも出にくいこともあって、
最近はこれがよく使われている。
これ。
熱量も約7500kcal/kgと高カロリーなので、
少しでも軽量化できるというメリットがある。
写真のエスビットは1個4gで
燃焼時間が約6分。
熱効率を無視すると、
理論上は燃やすと4gで
30kcalの熱を放つ。
0℃300mlの水を
沸騰させることができるわけだ。
ドイツ軍ももっぱらこれを
使用しているそうだ。
戦争の是非は別として、
命を賭けた戦場で使用するというのだから、
その信頼性は高いだろう。
doironもコンロと共に
この燃料を買った。
この燃料は窒素を含んでいるその成分上、
ほんの微量のシアンガスが出るので、
テント内など密室での使用は避けた方がいいのと、
なぜかとってもカニ臭くて、
部屋に何もせずに置いておくと
微妙に日本海のカニ漁港のような匂いが
部屋中に充満するという欠点もある。
液体燃料、固形燃料と来て
最後にもうひとつ、
ジェル燃料
というのがある。
BBQの着火剤としても
お馴染みのやつだ。
こういう燃料を色々試してみたブログが
ネットの中にいくつもあった。
中には動画撮影をしているものまである。
その中のひとつにあったのが
ダイソーの、つまりは100均の
ジェル燃料を試してみたら
具合が良かったというのもあった。
そこで、試しに買ってきた。
これ。
メタノールを主成分とする燃料だ。
108円で4袋入り。
1袋あたり約27gの燃料が入っており
18分間燃焼とある。
これもすべてメタノールであると仮定し、
熱効率も無視すると、
理論上は145kcalの熱を放つから
1.4リッターの水を沸騰させられることになる。
とまあ、それぞれの燃料の特性を踏まえて、
持ち運びの簡易さ、
燃焼時の安全性など検討した結果。
このコンロに慣れるまでは、
固形燃料のエスビット、もしくは
このジェル燃料を愛用しよう
と思っている。
ではどれくらいの量を
持ち運べばいいのか。
次にdoironが持ってる山道具で
湯を沸かした場合の熱効率を測定してみよう。
メラメラと続く。
23日は地蔵盆でした。
早いもので、doironが頭屋をつとめてから
もう3人目の頭屋を迎えました。
doironの父親も含めて
お亡くなりになる人がいて、
減っていくメンバーもおられますが、
着実に地蔵講は若い人に引き継がれています。
現在会員は40人。
最高齢者は89歳で
最も若い者は57歳です。
地蔵盆にはこの40人が一丸となって、
丸一日時に賑やかに
そして時に厳かに一日を過ごします。
午前5時からそれは始まります。
朝、いちばんで続々と
地蔵の周りにしつらえられた献灯台に
それぞれが提灯を吊るしに来ます。
提灯には名前が書かれてあるのですが
同級生の孫の世代になると、
あまり名前がわかりません。
ていうか、最近の子どもの名前は
昔に比べて、バラエティに富んでいて、
漢字だけでは全く読めない名前もあります。
これは誰々の孫だ、
これは今年生まれたひ孫だと
その提灯を見ながら、
村の人間模様をみんなで共有するのです。
午前中は、テントの設営、
届いた樽入りのタクワンの洗浄とカット、
そして村の女性ほぼ総出で
おにぎりを握るための
公民館の準備があります。
そして昼前にはおにぎりのためのご飯を、
注文してあった業者のところへ
引き取りに行きます。
これも見習いや、昨年の頭屋、
大きな車の持ち主と役割が決まっています。
なにせひと箱10kg入りのご飯を
19箱を運ぶわけですから、
最低ワンボックスの車が必要ですからね。
そうして運んできたご飯をセットして
午後イチで集まってきた女性達が
一斉に握りはじめます。
1パックに3個のおにぎりと
たくわん5切れくらいがワンセットです。
なのでおにぎりを握る人をはじめ、
ご飯とできたおにぎりを運ぶ人、
たくわんを入れるアルミカップを
ひとつひとつパックに入れる人、
そこにたくわんを入れる人
胡麻をふる人、
おにぎりをパックに詰める人、
パックをホッチキスで止めて行く人、
それらをひとまとめにして
大きな箱に入れて行く人、
そして号令をかける人
など多彩な役割が振り分けられています。
そうして1時間半余りで、
できたおにぎりが約2000個。
完了後は集まってくれた人にふるまう
スイカやジュースやお菓子の準備も
頭屋はしておかねばなりません。
ようやくおにぎりの作成が完了したら、
今度は地蔵さんの設営です。
お飾りとお供えを決められた通りに置き、
坊さんと頭屋、見習いが座る座布団を並べ、
一緒にお参りをする村の人用の
いすを25個セットします。
お供えがあるので、
猫にやられないように女性に見張り番をお願いします。
この見張りの間に
女性たちはいろんな情報交換をするようです。
まあ、ほとんどが男どものグチなんだそうですが・・・。
当の男どもは、
その間に何も知らず無邪気に
公民館で宴会をはじめます。
これがまあ、ほとんどの準備を終えた安心感からか、
ほんに賑やかな事!
女性陣の嘆きもわからないではありません。
頭屋が準備した立派な弁当をつつき、
ビール、お酒は飲み放題。
昔、農仕事で大変だった頃、
こうして集まる宴会が
唯一の娯楽だったのでしょうね。
で、宴の終盤でdoiron達若手は
地蔵さんに行き、見張りを女性たちと交代します。
女性たちは宴会の後始末をし、
それで役割を終えます。
あ、そこで女性にも頭屋から
弁当がふるまわれます。
あとは地蔵盆本番。
薄暗くなったころにやってきた
お坊さんの読経が終わったら、
用意してあったおにぎり約700パックを
集まってきた村の人たちに配った後、
御供えを仕分けしてお下がりを作り、
配り終えたらテントを片付けて午後8時。
長かった地蔵盆がようやく終わります。
いまだにこんな風に村人総出で
おにぎりを握っている村は珍しいと思います。
doironの知る限りでは50年は続いているでしょう。
動画でドキュメンタリーでも作って
NHKにでも提供してみようかね。
そしたら、あともう少し頑張って続けたら、
もしかしたらこれが世界文化遺産に
登録される日が来るかもしれませんぜ。
夏の終わりの村の大イベント、
地蔵盆が終わったら、
虫の音がいっそう大きくなって、
少しずつ秋が深まっていくのです。
急激な登りの始点にある道標には
「灘丸山公園」の文字が刻まれている。
これは、杣谷を登ってシェール槍方面へ向かうか、
あるいは山寺尾根を通って
摩耶山に登る登山道の途中にある公園だ。
あ、「摩耶山」のことは確か以前に書いたはずやね。
釈迦の聖母である「摩耶夫人」像を
この山の上にある天上寺に安置したから
この名前なんですね。
今はケーブルもあって気軽に登れる山で、
星の散歩道のある掬星台広場が有名だし、
あの六甲全縦の通過地点としても
よく知られている。
高校の頃、クラスの仲間達と
この山に来たことがあり、
下山時にロープウェイに乗るグループと
走って下るグループの二つに分かれて
競争をしたことがあるのを思い出した。
コースタイム1時間弱のコースを
30分くらいで下ったような記憶がある。
あの頃から、走るのは好きだったんやねえ。
この日も、結構重装備の山ガールが、
テクテクと灘丸山公園の方へと登っていたな。
「行ってらっしゃーい」と心の中で見送り
doironは途中の道標に従って左折し、
摩耶ケーブルの駅方面へと向かったのであった。
前方には、ジェットコースターのように
下って登る道が続いている。
これまで歩いてきたリボンの道にしては
珍しく見通しのいい道だ。
あ、前からバスが来た。
市営バスではなさそうだ。
見ると「坂バス」と書かれてあった。
あの「どんぐりバス」と同じ
「みなと観光バス(株)」の経営するバスだ。
この会社のバスはネーミングが面白い。
ほかにも
「住吉台くるくるバス」なんかもあるし、
ホームページを見ると
地図上に現在のバスの位置が
刻一刻と表示されていたりする。
なかなかユニークな会社のようだ。
この時道は東西を進んでいるが、
南北に上がってくる坂道に
「桜のトンネル」という道がある。
これ。
桜の季節に訪ねてみたいもんじゃね。
そしてようやく「摩耶ケーブル」の駅に到着した。
ここからケーブルとロープウェイを乗り継いで
摩耶山に行くことができる。
この日も、普通の恰好で遊びに行く
カップルなんかも多く見られた。
このケーブルは日本でも
最古級のケーブルらしい。
トイレもあるし、涼しいし、
ベンチもあるのでこの駅で昼食にすることにした。
今日はこれ。
毎度おなじみのおにぎりでーす。
でも、左の商品は新発売だそうだ(ローソン)。
昆布とシソごはんがなかなかよろしいようで。
あとは値段がもう少し安ければね。
おにぎりってなんであんなに高いんだろう。
腹ごしらえをして駅を出ると、
そこにこんな看板が・・・
光ってわかりにくいけどひとつに
「灘区・一万歩ロード」とある。
いろんな取り組みをしているんやねえ。
道は神戸高校の周りの
狭くて急な坂道をぐるりんと回っていく。
ふむふむなんだかイノシシが出そうな道じゃな
と思っていたら、やっぱりね。
この高校の校舎は
上野が丘のロンドン塔といわれている。
こんな感じ。
県立高校なんですが、
建物が豪勢なのは周辺との調和を意図しているんですかね。
この高校の正門から下に下りて行く道は
「地獄坂」といわれているそうだ。
下りでよかったばい。
下りきって「山麓線」といわれる道路に出てきたら、
もうゴール間近だ。
青谷川に沿って設けられた公園から、
王子公園へと入って行く。
そう、あのパンダで御馴染み
「王子動物園」がある公園だ。
おお観覧車もパンダじゃないか。
最寄りの駅はというと
阪急王子公園駅だ。
この日はここまで約10キロ。
いつもながらにアップダウンの多い、
歩き甲斐のある道だったな。
阪急の高架の下がアーチ状になっており、
西灘のランドマークといわれている
「原田拱橋(こうきょう)」を眺めながら、
今回のリボン道は終了。
次回はここから神戸の中心地である
三宮を目指します。
ふ~、まだ暑かったなあ、
と汗を拭き拭き終わり。
受験をした頃は、
どこが大学の正門だったかも覚えていないほど
昔のことだ。
多分あの神戸の大震災で道も変わったらしく、
古い地図にはない道があったり、
反対にあるはずの道がなかったりしているのだろう。
もし万一間違えていたとしても、
下ってしまうとまた登りなおしが大変なので、
どうせ間違えるんなら
上へ上へと行けば、
見晴らしもあって分かるかも知れないと思い、
ちょっと道を見失ったけど
さらにガシガシと登ってみることにした。
あとでナビをチェックしてみたら
どうやらこのあたりが、
この日の最高標高地点だったようだ。
道理で、景色がさらによくなったはずだ。
こんな道や、
神戸薬科大学のあるこんな道を通ったあとは、
もはや道標のどの字も見かけないほど、
道を間違えてしまっていた。
川などを目印に下りてきたところで、
これはちょっと見失いすぎだろう
と思い、年配の人に訊いてみることにした。
若い人に訊いても、
学生だったらよくわからないだろうからね。
結局、聞いたのは80歳台くらいの女性だった。
さすがに山手の上品な高齢者ですねえ。
とても親切に教えてくれようとするのですが、
結局、謎の言葉を残して
説明が終わってしまったのだ。
その謎の言葉とは・・・
「26の曲がり角を右に曲がって橋を渡るのよ」
だった。
むむむ、これはどういう意味なのか。
「26」というのはお店か交差点の名前なんだろうか。
それとも、交差点を26も越えなければならないのか。
あるいは26歳のお姉さんがいたら
そこを曲がるのか?
だってお肌の曲がり角年齢やもん。
いずれにしてもキーワードは「26」。
この謎の数値の正体は一体何なのか。
それ以上聞いても、成果なさそうだし、
まあ、行けばわかるかと思い、
丁重にお礼を言って、
その場を後にしたdoironなのであった。
まあ大体の方角はわかったから
そっち方面に向かっていくと、
ありました。
ようやく道標と再会した。
この時に横を流れていたのが
「六甲川」。
謎の言葉のうちの「橋を渡るのよ」
というのはどうやらこの小さな橋のことらしい。
結局「26」が何なのかわからないまま、
地図に書かれてある目標の
龍寺に到着した。
ここは禅宗のお寺で、
ちょっと雰囲気が変わっていたな。
門に小さな仁王像があり、禅寺だけに
その奥ではななんと猫が座禅で修業中であった。
その寺の前に厳島神社のある
「篠原北町3丁目」のバス停がある。
緑が多い地域にいっそう濃い緑の森に囲まれ、
街の中にあっても
神社の境内は静かなたたずまいだ。
石段でたむろする女子中生をかき分けて上がっていき、
帽子を脱いで二礼二拍手一礼の参拝をしておいた。
お、地車があるんですねえ。
でも坂道が多くて曳行がさぞかし大変やろなあ。
道はしばらくアップダウンのない、
山麓道をまっすぐ進んでいく。
兵庫県に2社あるという護国神社の1社
「兵庫県神戸護国神社」
を過ぎ、杣谷川を過ぎたところの
道標を右折する。
ここから道は再び強烈な坂を登り始めるのだ。
おっと、その前に電柱にこんな表示があった。
これはあのおばあさんの
謎の言葉にあった数字ではないか。
「知らないおじちゃんと話しちゃいけないよ」
ときっと言われているであろう
小学生たちが電柱の根元にいたので
「キャー」といわれたらどうしようと心配しつつ、
思い切って尋ねてみた。
「あのさあ、質問していいかな?
この『26』て何のこと?」
と柔らかく丁寧に聞いてみたら、
利発そうな女の子が
「26系統のバスのことと違うかな」
と答えてくれた。
おお~そういえば厳島神社のバス停にも
その答えが書かれてあったではないか。
要はバスの経路を行けということやったんやね
ふむふむ謎の言葉の意味が解けました。
ありがとうね~、
よしよしと続く
この山手にあるのが「頌栄短期大学」。
狭い坂道が通学路になっているらしく、
電柱には縦一列右側通行と書かれてある。
そうやねえ、doironの地元でも
通学時の高校生自転車ほど邪魔なものはない。
おしゃべりに夢中だったり、
音楽を聴いていたりで
クラクションを鳴らしても
気がついているんだかどうなんだか。
高校の先生に訊いたら
苦情も多く頭を痛めているそうだ。
今は夏休みだからいいけど、
学校の多いこの山手の道を歩くときには、
できる事ならそんなわがまま集団には遭遇したくないものだ。
深田池近くの細い道なんかだったりすると、
それはそれは難儀だろう。
道はアップダウンを繰り返し、
やがて新田川沿いの道にでる。
短期大学手前の小さな橋を渡って、
道は西へと続いていく。
このあたりちょっと道がややこしかったな。
これはおなじみの神戸市の消火栓ふた。
ん?でもこれまでに見たものと
どことなく違っている。
調べてみたら、マリンタワーや
風見鶏のある洋館など書かれてあるのは
共通しているのだが、
なんか違う。
で、再度山に登った時の
ブログ記事にある写真と比べてみたら
配置が異なっている。
少なくとも2種類はあるようだ。
地図がなかなかわかりにくいので、
バス停はよい目印になる。
どんぐりバスはなくなり、
神戸の市バスが通るエリアになってきた。
便数は朝夕に集中していて、
日中はあまり走っていないようだ。
バスの勤務体制ってどうなっているのかなあ
といらん心配をしてしまう。
それにしてもこのあたりの豪邸は、
はるかに想像を超えた巨大さだ。
みなさん、どんなお仕事をされているんでしょうか。
きっとフリーライターなんかではないんでしょうねえ。
石垣の間を抜けて行く道は、
まるでお城の天守閣に向かう道のようだ。
でもねえ、そんな豪邸がい並ぶ割に、
道端にはもうレトロといってもいいくらいの
なつかしい公衆電話があったりして、
街の性格がよくわからんぞ。
宮谷川を越えたあたりから道は再び
グ、グ、グイ~っと登って行く。
目指すは本日の最高到達点、
神戸大学の北側である。
小さな里山を制覇するほど
ズンズンと登り続けて行く。
標高は一気にあがり、
後ろの景色も一段と眺めがよくなっていく。
斜面を利用して建てられたマンションを上から見ると、
まるでジャッキーチェンが飛び降りていきそうな
見事な階段があったな。
そしてやがて、道は神戸大学の
キャンパスエリアに入って行く。
実はこの大学は、
doironにとって一度受験した
思い出のある大学なのだ。
入試の時には現役の頃に神戸のマリンタワー近くの宿に泊り、
友達と3人でタクシーで
試験会場に向かったような記憶がある。
結局この学校の桜は咲かなかったのだが、
もし受かっていたら
この界隈はdoironの第二の故郷になっていただろうて。
ほんでもって今頃は何をしていただろう。
豪邸に住んでいたかな?
まずそれは絶対なかっただろう。
多感な頃の四年間というのは
人格形成に大きな影響を与える。
もしかしたら、下宿もしないで
家から通学してたろうから、
もっとまじめな人間になっていたかも。
それはあり得るな。
こんなふざけたブログも書いていないだろうて。
で、この大学に近寄るのは
多分あの受験の時以来のような気がする。
40年以上前である。
グランドではアメフト部が練習をしていた。
甲子園ボールが今年で70回目を迎えるのだが、
神戸大学は一度も出場経験がない。
でも今年はそこそこ健闘はしているようだ。
関西学生リーグではあの京大を押さえて、
只今5位なのである。
まあ、多少の縁のある大学ですから、
見守っていてあげましょう。
フレーフレーと続く。