ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

ぶらチャリ14 三角点征服編

2015年04月30日 21時18分37秒 | スポーツ全般

平成19年に復元整備された海岸沿いの道を、
東進し大浜公園に向かう。



この道から左手に大きな
「龍女神像」が見える。



かつて「乙姫さん」と呼ばれていたものを
平成12年の堺市制110年を記念して
復元されたものだそうだ。

間近で見たかったが、
あそこまで行くには、陸地経由で
ぐるっと回っていかないといけないので、
時間の都合上今回はここからの撮影で辛抱しといてやる。

臨海道路を信号で渡り、
大浜公園に入って行った。

この公園にも見るところはいくつかある。



ひとつは「猿島」。



「猿山」ではないらしい。
80年ほど前に市民から
25匹のアカゲザルが贈られたことをきっかけに
作られたもので、
今は50匹くらいのサルが過ごしているそうだ。



しかし、猿島のサルはいつ見てもちょっと哀れだ。
ストレスで(多分)毛の抜けた猿なんかがいると



思わずおでこを押さえてますますそう思う。

もし、「人(ひと)島」があったら、
みんなハゲてくるのかねえ。

案の定、ここのサルもそんな感じで、
ここで猿を見て楽しむ市民ているのかなあ。

doironはあまり好きじゃない。
旧態依然とした猿島ではなくて、
いきいきと猿が過ごすニュー猿島を
ぜひ考えてもらいたい。

桜はとうに終わったけど、
今は藤棚の藤が咲き始めている。

ちょっと変わったこんな白い藤も咲いていた。



幹がこんなに太いから



単に年老いて色が抜けてきただけかもしれないけど・・・。

これは、南極越冬隊が
昭和基地に置き去りにした15頭のカラフト犬の
慰霊としてつくられた像をブロンズ像に復元したもの。



置き去りにして去っていく隊員たちに向かって
遠吠えをする姿を彫ったものだそうだ。
かなり悲しい。

毎日出かけるときに、
玄関先で首を伸ばして
「僕も連れっててよ~」と見送るグーと同じやな。

置き去りにしてきた越冬隊員たちに
当時、非難の言葉が浴びせられたそうだが、
きっと誰よりも無念だったのは、
彼らだっただろうて。

で、次の越冬隊が一年後に訪れた時
この置き去りにされた15頭のうち
7頭はつながれたまま死に、
6頭は行方不明となっていたが、
「タロ」と「ジロ」と名付けられた2頭が生き延びいて、
越冬隊員たちの元に駆けつけたそうだ。

うう、泣ける。

この話は「南極物語」として
映画にもなっているから、
また借りてきて観てみよう。

結局ブロンズ像のどれが「タロ」で
どれが「ジロ」なのかそれはわからなかった。

あ、こんなところにも樺太犬が・・・



お稲荷さんの狛キツネでした

さあていよいよ、今回のお目当てである

「蘇鉄山」

に向かおう。

まだ花の咲いていない菖蒲園を抜け、



登り口に到着した。



ここはひとつ、せっかくのオジチャリ2号だから、
漕いで登ってみよう。



わっせ、わっせと15mほど漕ぐと、
山頂に到着。

山頂はちょっとした広場になっている。



その南の隅に三角点があった。



大阪府内に5か所ある
一等三角点のひとつである。

まわりを防護石にしっかり囲まれて
大切に保護されている。

大事な三角点なので、
二等以下の三角点と違って、
地中の構造も盤石ともうひとつ
下方盤石の二枚が埋め込まれているそうだ。



そして柱石は90kgもあるとのこと。

高い山の頂きなんかに埋める作業は
さぞや大変だっただろう。

側面に「一等三角点」の文字が刻まれている。
ここは大浜公園の築山として、
大阪湾を浚渫して出てきた土で整備された山なので、
三角点(二等)を持つ日本一低い山である
天保山と同じ生い立ちを持っている。

昭和14年に南東約300mのところにあった
「御蔭山」からここに一等三角点が
移されたことによって
「一等三角点を持つ日本一低い山」=「蘇鉄山」となった。

山頂付近には蘇鉄が植えられているので
この名前になっているそうだ。

熊野古道を歩いている時に
切目の駅近くにあった光明寺のソテツとは



比べようもないほど小さいけど、
たしかにソテツが植わっていた。



あ、そういえばみなべに
ソテツの茂る地蔵堂があり、



そこの名前を「堺地蔵堂」と言ってたのと、
地名が偶然に一致している。

そんなことを考えていると旅は面白い。

つらつらと続く。


ぶらチャリ14 海辺のチャーリー編

2015年04月29日 21時41分56秒 | スポーツ全般

一等三角点を持つ日本一低い山を目指して、
オジチャリ2号で家を出た。

往きは、1年くらい前に新しく開通した
南海中央線を行けるところまで
北上するという作戦を取った。

家を出て、まず「足神さん」に
オジチャリ旅の安全をお祈りだ。



南海中央線には歩道と車道の他に
自転車道(青い部分)が設置されているので快適だ。



おお~2月に母が亡くなった病院が見えてきた。



心のどこかにさざ波が立つ。

その病院を横目にどんどん北上していこう。

高石市の気になる加茂という街から
東羽衣に入るあたりで、
自転車道はおしまいになるが、



道は続いている。

こんな公園を横に見ながらさらに北上。



JRの東羽衣線をくぐっても道は続いているものの、



途中から一方通行を逆行するようになる。



車に気をつけて進んでいこう
(本当は自転車でも逆行は×)。

あ、マンふたに南蛮船と共に描かれてあるのは、
旧堺港灯台ではないか。



そう、今日はここも行く予定だ。

そして直進する道がなくなっても、
ちょっとグイチでほぼ直線で進めそうなら
その道に無理やりはいって行くことにした。
(子ども連れの女性が出てきた道)



しかし、ついに浜寺小学校のところで
どうにも突き当たってしまった。

かくなる上は、
昔歩いた紀州街道の方に西進だ。





諏訪ノ森で紀州街道に合流し、



しばらく北上すると石津川に架かる
太陽橋にさしかかる。



この地域は昔木綿業が盛んで、
石津川では木綿を晒していたそうだ。



その川に明治5年、この太陽橋がかかった。
当時、この橋は通行料(橋銭)を取り、
それで建設・管理が成り立っていたそうだ。

今も橋の南詰には当時の橋柱と



橋銭を徴収していたことを刻んだ道標が立っている。



またその道標の横には、
ここ石津の戦いで没した南北朝時代の武士である
北畠顕家と南部師行の供養塔がある。



以前紀州街道を北上している時に、
自転車で南下している若者と
ここで逢ったことを思い出した。
彼は今頃どうしているだろうか。

その橋の少し北に「石津太神社」がある。



海から漂流してきた戎様が
携えていたという五色の岩がこれ。



普通の石に見えるんですけどねえ。
普通の時は茶色、
雨の日には黒、
雪の日には白、
夕暮れには赤、
そして太陽の降り注ぐときには黄金に
輝いたりするのかな。

そこから少し北上してから、
紀州街道を離れて
石津川の駅前から臨海方向に向かった。



これが旧26、海岸通りと名付けられている。



そして石津北の交差点から



しばらくこの海岸通りを北上すると
コンビニがあったので、少しコーヒー休憩。

隣にあるラーメン屋さんの窓越しに



楽しそうなお客さんの影が・・・絵でした。



出島中の交差点から臨海道路に向かう。



おお、臨海道路沿いに
こんな気持ちのいい道が・・・



ずっと続いていくかと思ったら
出島漁港の「とれとれ市」のところで終点。





たんなる回り道だと。



漁港の様子もパチリ。



堺のこんな中心地に近い所にも、
漁船のたくさんある港がある。

あ、漁船にこんなシールが貼られているよ。



「小さな魚は海へ帰そう」だって。

かつては「茅渟(ちぬ)の海」と言われた大阪湾。
限りある漁業資源を大切に、ということだろう。

ああ、あちこち寄り道してたら
なかなか目的地にたどり着かない。

ここから一気に北上しよう。



楽しそうに釣りをしている海沿いを走り、



旧堺港から出る堅川の対岸に、
こんな大きな壁画が見えたら



「旧堺港灯台」に到着だ。



堺旧港南波止場に明治10年に築造された
高さ11.3mの六角錘形の灯台で、
埋め立てが進み役割を終えた後、
堺のシンボルの一つとして保存され、
現地に現存する日本最古の木造洋式灯台として
国指定史跡になっている。



大阪湾に沈む夕日をバックに
写真を撮ったらよさそうだが、
時間的に無理だから、
逆光で海辺のチャーリーの記念写真をパチリ。



ここから蘇鉄山まではもう少しとなる。

チリンチリンと続く


ぶらチャリ14 日本一低い山編

2015年04月28日 21時05分45秒 | スポーツ全般

「ぶらりオジチャリ2号」を
タイトルに入れると長くなってしまうので
今回より略して「ぶらチャリ」とする。
後ろにつく数字は、オジチャリシリーズの通し番号。
こんかいは14番目の話題ということなんだな。
以後よろしくです。
では今回のブラチャリをはじめよう。

日本一低い山と言ってもいくつかある。
日本一がいくつかあるというのも変な話だが
こういうわけだ。

海辺に小さな土の塊があれば
それこそ日本一低い山といっていいだろう。
それが海抜ゼロメートルよりも
低い土地だったら文句なしだ。
だが、そういうことではない。

「山」と公式に認められるかどうか
というところに問題があるのである。

公式に認められるかどうかの
判断基準としては、
それはやはり国土地理院の地図
(以下、「地形図」という)に
「山」として記載されているかどうか
ということになるだろう。

いくら地元の人たちなどが
「いつもあそこの小高いところで
doironさんが昼寝しているから、
あそこをdoiron山と呼ぼう」と言ったとしても
それは公式には「山」としては
認められていないことになる。

ただ、それがあまりにもオーソドックスになって、
国土地理院のエライさんか担当者が
地形図に乗せようとなったら話は別で、
そうなったら一転、
公式な山として認められるわけだ。

現在そんな公式な「山」で最も低いのが、
仙台市にある「日和山」と言われている。

かつては標高6.05mあったところが
2011年の東北大震災の津波に削られ、
現在は標高3mの「山」として
地形図に記載されている。



この山と大阪の「天保山」との
「最低」争いにはちょっとした歴史がある。
津波以前の1993年、
まだ日和山の標高が6.05mだったときに
一度、地形図から標高4.5mの
大阪の天保山の山名が記載されなくなった時期がある。



そのためその時は日和山が
地形図に記載されている
「日本一低い山」の栄誉に浴していた
のだが、その後再び
地形図に「天保山」の山名の記載が
復活したために、仕方なく

「元・日本一低い山」
と呼ばれるようになってしまっていた。

ところが、2011年3月11日のあの津波である。

押し寄せる津波に山が削られた。
しかし、地形図には山名は残され、
新たに測量しなおされて「3m」の標高が
記載されたため、
再び日和山が
「日本一低い山」に返り咲いたというわけだ。
背後にある大震災を考えたら
こんなたわいもないことを
手放しでは決して喜べないが
結果としてそうなったことになる。

では、天保山はもう日本一低い山ではない
かと言うとそんなことはない。

山には三角測量に用いる際に
経度・緯度・標高の基準になる
「三角点」が設置されることがあり、
日和山にはその三角点がなく
天保山にはある。

そのため、三角点のある山を
「山」とするならやはり
天保山が日本で最も低い山
であることには変わりはないのだ。

で、話はもう少しややこしくなる。

その三角点にも「一等」から「五等」まであるのだ。

三角測量の測地網の網の目の大き順に
一等の三角網→二等の三角網→・・・、
と小さくなっていく。

したがって、一等三角点が
最も少なく全国に約1000点、
二等が約5000点と徐々に増えていく
(五等三角点は四等以上への切り替えが行われ、
2011年現在、沖縄の離島3点しかない)
とまあそんな仕組みになっているわけだ。

いうなれば、デジカメの画素数を
多くしていき、
より滑らかな地図を作っていくための
分類のようなものである。

全国に約1000点ある一等三角点の中で、
大阪府にあるのはわずか5点。

大阪北部の石堂ヶ岳、
生駒山、和泉葛城山、
俎石山(泉南)の4点と
堺市大浜公園内にある
「蘇鉄山」の5点である。

日本国土測量のもっとも基本的な測地点といえるだろう。

そしてようやく出てきた
この「蘇鉄山」が、
実は今回の主役なのだ。

国土地理院の地図閲覧サービスでは
標高「7.0」mの記載がある。



これが実は日本の一等三角点を持つ山としては
最も低い山となるのだ。

堺市のホームページでは6.97m、
他の資料では6.85mとなってたりするのだが、
一等三角点のある日本で一番低い山
であることには変わりないだろう。

天気の状態を見計らって、
ここへオジチャリ2号で行くことにした。

新生ぶらりオジチャリ
「ぶらチャリ」へといざ出発だ。

わっせわっせと続く。


関西房総族イチビリ旅 4

2015年04月27日 21時22分55秒 | 最近の出来事

昔、NHKの番組で
里見八犬伝の人形劇をやってたんを思い出しますわ。



今からちょうど40年前の話でんな。

その頃、ようデートの話題になってたもんですわ。

あの頃はわても髪の毛を伸ばしとってな、
よう髪の毛サラサラのシャンプーを使たもんですわ。

あれから40年。

今は血液サラサラの薬を飲んどります。



館山城は高台にあってなかなか眺めのええとこでっせ。



富士山も見えるらしいて、
関東の富士見100景になっとります。

おお~、そうやそうや
人形劇に続いて大河ドラマもええかもなあ。



八犬伝を絡めて
ちょっと不思議な大河ドラマになりそうやんかいさ。

次に行ったんは
あの切手になった「見返り美人」で有名な



菱川師宣記念館。



菱川はんはこのへんの生まれやそうですわ。

版画の浮世絵の礎を築いたお人やそうでっせ。

記念館にはその版木なんかも展示されとって、
クリエイターとしては見といても
損はおまへんでしたな。

しゃあけど、浮世絵のあの「赤」と空の「青」は独特でんなあ。

房総半島の内側、
つまり内房をゆっくり暴走しながら、
次に目指したんは「海ほたる」ですわ。

そうそう、内房で思い出したんやけど、
館山城でちょこっと取材さしてもろてな、
あの東北大震災の時に
この辺は津波の被害はなかったんかて聞いたら、

内房はほとんど影響のうて、
九十九里浜の外房の方は
ちょっとだけ水位が上がったそうですわ。

こっちに来てからずっと海沿いを走ってたんで、
気になっとりましたんや。

で、「海ほたる」なんやけど
普通にいうたら、
海に居てる青色に発光する甲殻類のことやけどな、
ここでは東京湾アクアラインの



海上にあるパーキングエリアのことやで。





え?なんで「海ほたる」ていう名前なんやてか。

そらあんた「海、掘ったある」さかいでんがな。

ここがその「海ほたる」ですわ。



大きな舟みたいでっしゃろ。



こっからは東京スカイツリーも見えてましたで。

さすがに通天閣や阿倍野ハルカス
までは見えまへんけどな。

アクアラインをUターンして
また千葉の方にでんぐり返し。

今度は「成田山」を目指しまひょ。

一旦、空港の近くまで行ってから
下道を走って、着きよりました。



大きなお寺やで。





参道を歩いとったら、
旅籠街と石切さんを
足して2で割ったみたいな風情がおましたわ。



本殿前はこんな感じ。



成田山言うたら、
節分によう有名人が豆まきするとこやでなあ。

この日は、ようさんの人が
本殿の中で祈祷を受けとったで。

大きな太鼓叩いて、関西とは
だいぶ雰囲気違いまんな。

山門にはこんな大きな提灯がぶらさがっとった。



さすがにこの辺まで来たら、
房総の先っぽの方にはいてなかった
外国人がようけおりましたわ。

関東弁と外国弁に囲まれて、
関西人はまったく異邦人だすな。

ほんで最後に行ったんが

「印旛沼」。



ここは一回来たことありまんねん。

昔、環境関係の仕事をしてた時に、
水質汚染で有名やったさかい
見に来たんやわ。

アオコが浮いて異臭を放つ
えらいとこやったような記憶がありますわ。

せやけど今はきれいになってまんな。



どっかのお国とちごて
環境管理がしっかりしるんでっしゃろな。

あ、そう言うたら「花の房総半島」やゆうのに
花の紹介してまへんでしたな。
ちょっと、ここの花を紹介しときまひょ。

これは、春の房総の象徴ともいえる
菜の花ですわ。



ほんでこれが、印旛沼の展望台に行くまでに
咲いとった
ウラシマソウ



マムシグサの仲間で
浦島はんが釣竿だしてるみたいやさかい
ついた名前でんねん。

ああ、そろそろ変な関西弁に疲れてきましたわ。
ワープロ打っても変な変換しよるしな。
こんなおかしな変換癖ついたらかないまへんよって
ぼちぼち帰りまひょか。

レンタカーを返して、
できたばっかりの成田第3ターミナルまで送ってもらい、





天井むき出しのフードコートで。



お好み焼きを食べたで。

ああ、たった2日やったけど
関西が懐かしい。

帰りも激安ピーチで関空まで。

着いたんはもう夜11時過ぎとりましたな。

二日間メいっぱい遊んで、
帰路についたdoiron
(ドローンとちゃいまっせ、ドイロンでっせ)の
関西房総族のイチビリ旅は
これで終わりだす。

ほなさいなら。


関西房総族イチビリ旅 3

2015年04月26日 21時35分04秒 | 最近の出来事

この旅館、客の泊まる部屋は全室オーシャンビューやて。

海が見えるちゅうことでんな。

ん?ほんなら方角的に見て
富士山が見えるかもしれへんって感じやんけ。
明日が楽しみやな。

まあとりあえず温泉行っときまひょか。
浴衣に着替えさせてもろて、
大浴場に行くと、平日やゆうのに
けっこうなお客はんで混んどりましたわ。

早速露天風呂へ・・・



豪雨でした。

せやけど頭にタオルかぶって
意地でも露天に入ったで。
露天に入らな温泉に来た気ぃせーへんもんな。

〆に入った屋内の風呂の窓には、
富士山の形がペイントされとった。

銭湯にようある富士山の絵も



ここやったら本物見てやいう事でんな。

残念ながら雨で全然見えへんかってあいそなしでした。

風呂を出たら、いよっ待ってました、
夕食の時間です。
夕食のバイキングは席が決まっとります。
ボーイさんに案内してもろて、席につきました。

せやけど、バイキングも良し悪しでんな。
ついつい食べ過ぎてしもてかないまへん。
ちょっとずつちょっとずつ取ってくるんやけど、
あれもこれもと欲張ってしもてわやくちゃですわ。



飯食ってたらミセスが

「うちもたまにバイキングにしよか」
と言いよりますねん。

「そんなん、残ったら無駄やで、グーにもやれんし」
と言うと、
「ちゃうねん。あんたが冷蔵庫の前に行って
食べたいもん勝手にとって食べるていうバイキングやで」やて。

ただでさえ毎日うちの返却口と言われてる流し台に
食器を返させられてるんやから、
そうなったら「バイキング」やのうて、
「完全セルフサービス」やっちゅうねん。

せやけどバイキングの時によう
「人間にもリスみたいな頬袋があったらええのになあ」
と思いまへんか?



夜食に唐揚げとかピザをため込んで
部屋に帰れるやんなあ。
ええと思うな。

まあ、結局doironも部屋にいんでから
唐揚げとピザでチューハイ飲んだけどな。

夜中に目ぇが覚めた時に、
気になってカーテンを開けたんやけど、
やっぱり富士山は見えまへんでしたわ。

それ以後は朝までぐっすり寝てしもて、
ほんで朝、やっぱり富士山見えへんかった。

金返さんかい~オラオラ。

全室オーシャンビューやけど、
富士山ビューて書いてなかったもんなあ、
あきらめるしかおまへんな。

せやけど、その時ですわ。
富士山の方角らしき
水平線の上の空が明るくなってきよった。

ほんで白い雲が消えたと思たら・・・

おお~富士山やんけ。

てっぺんが白なったあの頭には見覚えがあるで~。



写真やったら見にくいけど、
確かに富士山が顔を出しよりましたわ。

こらもう絶対露天風呂で富士山観賞やゆうて、
タオルかたげて風呂にいったんはもちろんだす。

ここは朝食もやっぱりバイキングですわ。
ゆんべ食べ過ぎたんで、
今朝は軽くおかゆにしといたりました。
おかゆに明太子と冷奴とサラダ。
昼飯用に頬袋にパンも入れといたよってに、
まあええんとちゃいまっか。

今日の目的地は4つおました。

いっちゃん最初に行ったんは

「館山城」だす。

館山城は里見義頼ちゅう人が
いまから500年以上前に築城しはったらしい。



その後廃城になったけど、
昭和57年に犬山城をまねして作った模擬城やそうや。

ほんでな、今の天主閣は、
館山市立博物館分館になっとんねんで。



で、その築城しはったお殿様の
「里見」ていう名字に聞き覚えはありまへんか?

そうでんねん、あの昔の冒険活劇

「南総里見八犬伝」

の生まれたんが、まさにこの場所ですわ。

それぞれ
「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」
の字が入った玉を持つ
8人の若者の話でんな。



まあ言うてみたら、
現代のドラゴンボールみたいな話ですわ。

続く


関西房総族イチビリ旅 2

2015年04月25日 21時11分19秒 | 最近の出来事

ピィーナツ育ててるんは黒い土やで、
せやのに「白」浜はないやろ。
和歌山のまねするのんも
ほどほどにしとかな関西人は黙っとれへんで。

その先にあったんが、
アチャー、紀州鉄道房総白浜ホテルやて。



紀州鉄道言うたらあんた、
熊野古道の通ってる御坊にあった
「日本一短い私鉄」やで。

その名前にこんなとこで逢うやなんて
どないなってんねんて感じやね。

ほんでスマホで調べてみたら、
どうやらこのへんは、
昔江戸に幕府があった頃に
爆発的に増えた人口を養うために
漁業を振興させようとしたそうなんや。
ほんで、どうもその時に
徳川御三家のひとつ紀州から
漁師をここへ呼んできて
漁業を教えさせたさかいこんなことになってるそうや。

今もタイ釣りで「紀州びしま釣り」たらいう漁法が
伝わってるてネットに書いたったしな。

そんな紀州からここへ来た漁師さん達が、
故郷を懐かしがって
「白浜」やら「勝浦」なんちゅう名前をつけたんやそうや。

そうやそれから、なんでもこの房総半島の先っぽの市には
熊野神社が6社もあるそうやけど、
このへんたりの人のDNAを考えたら、
それも無理もない話やったんや。

なるほどな、これで謎が解けましたわ。

それにしても、御坊であんなに素朴に営業しとった
紀州鉄道はんも
ここではホテル経営なんちゅうハイカラなことして、
えらい羽振りでおますなあ。

房総半島を日本地図で見とくれやす。
半島のいっちゃん先のところで
大阪と同じくらいの緯度てわかりまっしゃろ、
せやのにぬっくいとこに咲く花が
ここにようさんあるんはなんでやろな。
黒潮はんの仕業なんやろかね。

その半島の南の先っぽにあるんが、

この「野島埼灯台」。





明治2年に初点灯され、
大正14年に改築された灯台やそうや。

おお、うちの亡くなったおとんより若いんや。

合掌。

て、なんでやねん。

南には太平洋が広がっとるで~。



こっからは朝日も夕日も見えるんやと。



せやけどそんなん潮岬も一緒やんなあ。
とかなんとか憎まれ口叩いてるけど、
ほんまは、この灯台が今回のひとつの目的地やったねん。

じっくり見ていきまひょ。

眺めのええ、なかなかええとこでした。



帰りは厳島神社を抜けて行ったで。
これが七福神。



関西人好みやねえ。

ようさん儲かるようしっかり拝んで行きまひょか。

あらら、これはブロ倫にひっかりそうな社でんな。



なんやて?
「男根七不思議」やて?



う~ん、終わりの方で若干反論したいとこもおますけど、
だいたいあったりまえでな~んも不思議なことあらへんで~。

ほてからこっから宿に行くまでに、
もうひとつ灯台を訪ねましてんで。

それが大正8年に初点灯したちゅう

「洲埼灯台」。



ん?「灯台と海が見えるみち」
と書いた案内板が立ってるで。



「灯台が見えたらたいてい海が見えるやろ」と、
イチビリ親父の突っ込みも鋭いでっしゃろ。

階段が続きます。

何段あるか数えてみまひょ。

「ぼ・ん・さ・ん・が・へ・を・こ・い・た」
10段以上はあるようでんな。

さっきの灯台岬が最南端やったら、
こっちはゆうてみたら
房総半島の最西端。

紀伊半島でゆうたら御坊の日御碕
みたいなとこですわ。

天気が良かったら、富士山も見えるちゅーのに



生憎の曇天で残念、ラーメン、ヒヤソーメン。

ぐるっと見回して、これでまあ、
今日の訪問地はしまいだす。

宿は近頃こってる「休暇村」。



琵琶湖や加太の合宿や
コウノトリを見に行った丹後でも使わしてもろた
宿のお仲間はんですな。

一宿二飯の「飯」は全部バイキングやねんけど、
温泉がまあまあええらしいんで、
楽しみにチェックインしまひょか。

続く。


関西房総族イチビリ旅 1

2015年04月24日 21時04分17秒 | 最近の出来事

わてらが意を決して関東の旅に出かけたんは、
春の真ん中、雨のよう降る季節やった。

義理のおかんの介護の手配をして、
ワンコの宿も手配して
1宿2飯のぶらり旅で
房総半島に行ってきたんや。

乗った飛行機は関空から出る
ホンマに安いピーチの激安便。



椅子がパイプいすやったり、
キャビンアテンダントが
シルバー人材センターから派遣された
割烹着のばあさんやったとしても
文句のひとつも言えないほどの
やっすい料金やったわ。

座席はやっぱり狭かったけどな、
大柄ではないdoironには
そんなに不自由でもあらへんな。



早朝便やったさかいに
午前8時過ぎには成田に着きよった。

もうここからは関東弁の世の中やさかい、
思いっきり関西弁でいてこましたれ
と思いつつレンタカーデスクに向かったねん。

「ねえちゃん、予約してた車あるけ?
doironちゅうもんやけど」

思わず姉ちゃんも

「おますおます」とは言いよりまへんでしたな。

これも格安レンタカーを頼んどいたさかい、
ナビがのうても、
タイヤが3本しかついてのうても、
ボディに「パチモン商店」とペイントしてあっても
しゃあない料金やってんけどな。

せやけど貸してくれはったんは、
ナビもついてるしタイヤもちゃんと4本付いてる
日産N―トでっせ。

ニートとちゃいまっせ。
「ノ」でっせ。

ええとこあるやんけと思いながら、
さあ、向かうは春の花咲く房総半島や。

途中、「八街市」というところを通った。

「八街」とかいて「やちまた」と読むそうや。
明日から「やってもうた」市
に名前をかえなはれ
などと言いながら運転しつつ、
最初に着いたんが九十九里浜や。





おうおう、九十九里とは
またエライきばってつけた名前やないけ。

せやけどな、関西の紀伊半島には
熊野古道沿いの岩代王子のそばに
千里浜ちゅうとこあるで。

九百一里も短いんやったら大したことおまへんな。

それに、千里浜に行ったときは
晴れとったけど、
こっちはえらい雨やんけ。
どないしてくれるねん。

このあたりはピィーナツの産地やそうや。
「ピーナッツ」とちゃうで、
「ピィーナツ」やで。

黒っぽい土のピィーナツ畑を
あちこちで見かけたわ。

早くもお土産に「ピィーナツ最中」
ちゅうんを買うたった。



昼飯は網代湾に面した
御宿というとこで喰うことにした。

ん?網代湾てか。

あかんあかん、
これも関西の紀伊半島の
「由良」ちゅうとこにおんなじ名前の湾があるで。

熊野古道からはちょっと離れてるけどな、
気持ちのええとこやねん。
せやさかい真似してもろたらどんならんわ。

喰うたんはこれ。



なかなか新鮮やったさかい、
素材の味はよかったんやけどな、
醤油がいかんかったわ。

房総で醸造した醤油やて。

醤油はやっぱり和歌山の湯浅やでなあ。

それにしても、地名も醤油作りも
和歌山に似てるなあと思てたら、
その先にあったんが

「勝浦市」やて。

こらますます怪しいやんけ。
どうも房総の人は関西の和歌山に
あこがれとるんとちゃうけ。

その勝浦にある

「海の博物館」



たらいうとこに立ち寄ってみた。



ほんだらちょうど
「クラゲ展」たら言うのんやっててな。



こんなクラゲや



こんなクラゲが



ようさん展示されとって





ゆらゆら呑気にゆらゆら泳いどって





えらい楽しませてもろたわ。
せやさかい、「勝浦」の名前使てても
許したろと思たわけや。

せっかく飛行機に乗って
はるばるここまで来たちゅうのに、
関西の地名やて、
ちょっとあいそないけどな。

和歌山に来たみたいやな
とか言いながら運転してたら、
えらいびっくりしたとこに出たわ。

その名も「白浜」やて。

こら一体どうなってんねん。

続く


よく落し物をする

2015年04月23日 21時10分25秒 | 生活

イベント話が続きますので、
ここらでちょっと日常の話題をひとつ。

といっても、
「売れないフリーライターの赤裸々な仕事ぶり」
なんかではナイスな話になりません。

読む方はそこそこ面白いかもしれませんが、
書く方は涙なくしては書けません。

ということで、近ごろのdoironの様子をひとつ。
まあこれもあまりナイスな話ではありませんが、
我慢して読んでください。

近頃よく落し物をする。

といってもどこかに落としてきて物を失くす
という落し物ではなく
手に持っているものがするりと落ちるという落し物だ。

例えば、コンビニでおつりがないように
細かいお金を取り出そうとするときに
一円玉がポロリと落ちたり、
手作りしおりにリボンを通している時に
しおりやリボンが何度も手から
するりと落ちたりすることがよくある。

特に細かい作業をしている時に多く、
先日もそろそろストーブをしまわねばと
最後にフィルター掃除のために
ネジを緩めてカバーを外そうとしたときに、
小さなネジをポトポト落とした。

そのたんびにネジが家具の隙間に
転がっていったりするものだから
なかなかはかどらないのだ。

昔からそういう傾向はあって、

「ああ、スカイツリーなどの高所の建設現場で働く仕事でなくてよかった」
とよく思っていた。

高いところで働くと下にいる者が
危なくて仕方がない。

なので宇宙飛行士やパイロットにも
ならなくてよかったと思う。

ま、それは関係ないか。

不器用といえばそれまでなのだが、
単に細かい仕事をするだけなら
絵を描いたりもするので
そうでもないと思うのだけれど、
どうも物をつかんだり離したりする能力に
劣っているように思われる。

メガネのネジを締めてとか
時計の裏蓋をはずして、
といわれたりすると
それだけでオロオロしてしまう。

そんな傾向が最近さらにひどくなってきたように思うのだ。

若い時に比べて、
目が悪くなってきたということもあるかもしれない。

また指先の細かい動きが
とみに悪くなっていたりすると、
もしかしたら知らないうちに
あまりない脳みそのどこかで、
軽い脳梗塞でも起こしているのかもしれない
と思ったりもする。

それにもう一つ心当たりがあることに、
寒い日には口が回りにくい
と思う時もあるので
プチ脳梗塞を全く否定もできないのだよね。

そう思って定期検診の時に
医者に洗いざらい言ってみたら、
すぐさま答えが返ってきた。

「加齢ですね」、だと。

そういえば、最近非常に目が疲れやすい、
音が聞き取りにくいというのも
「加齢」なんだろうか。

アメリカに行こうと思っていたのに、
気がついたらインドにいたというのは

「インド加齢」・・・

ということはない。

リンゴにはちみつをかけようとして、
手がべとべとになるのは
「バーモント加齢」・・・とも言わない。

高齢になるにつれ、
若い時には考えられないような
簡単なことが出来なかったりするのは、
自分の両親を見ていて
いやというほど学んだつもりだけど、
こういう感覚の世界まで
共有していたわけではないので
何とも言えないんだけどね。

何度も同じ失敗を繰り返していると、
気持ちがイラついて来たりするのも
「加齢」独特の感情なんだそうだ。

数えで言ったらもうすでに「還暦」の身なんだから、
そう考えれば無理もないかもしれない。

とにかく、まあ最近はよく物を落とすわけですが、
そのくせ毎日書いてるブログに
落ちがなかったりもする。

それもまあいわゆる「加齢」
なのかもしれませんのでご理解ください。

(あーオチがあってよかった)


吉野オープン 会長杯 2

2015年04月22日 21時34分06秒 | スポーツ全般

さて、午前中のハーフラウンド
前回のスコアに比べてマイナス10打で上がったdoiron。

気を良くして食事時にビールもちょこっといただいて、
さあて行くぞと午後のラウンドに向かったのでした。

スポーツってメンタルが大きく作用するんだよね。

マラソンやトライアスロンは
どちらかといえば日ごろの練習が98%
みたいなところがあるけど、
技術的な要素が多いゴルフのようなスポーツは
特にメンタルがものを言うんだと思います
(まだトーシローゴルファですから推測ですが・・・)。

後でジムのトレーナーに聞いたら、
午前中のスコアが良かったときほど、
午後は要注意なんだそうです。

あ~あ、先にそれを聞いていればなあ。
というほど午後前半はボロボロになりました。

あるパー5のロングコースでは、
スカ打ちばかりでようやくOBの時に打ち直す特ティーに
たどり着いた時には5打目になっていたりしました。

気いよく最初にOBしていれば、
そこから4打目で進めたはずなのに、
まったくおろかとしか言いようがありません。

またあるホールでは、
バンカーからバンカーを渡り歩くという始末で、
サンドウェッジが大活躍しました。

そのサンドのショットも思うようにいかない。

背の高いアゴの直下に球があるときには、
三回サンドウェッジを振り回すなんてのも
ざらにあります。

砂にまみれて、しまいにゃ、
サンドウェッジのクラブが怒り出すかもしれない
ってほどです。

だって
「仏の顔もサンドまで」っていうしね。

そんな無茶苦茶なラウンドの中でも、
明るい話題が二つありました。

ひとつは、パターがよく決まったこと。
1m以内のパットは一度も外していないし、
5mほどのパットも2回決めたほどの
好調ぶりである。

実はこのグリーン上のプレイの陰には、
ジムトレーナのアドバイスがあったのだ。

「グリーンに乗ったらカップをドラム缶くらいの
大きさだと考えてパッティングしたらいいよ」
という言葉が見事に効を奏したのです。

そしてもうひとつは、
3回ほどアイアン最後の一打が
見事に決まりグリーンに乗ったこと。

1回なんかは「あ、大きい」と思ったら、
スピンがかかっていてピタッと止まったときには、
全員から「お~」という声が上がったほどです。

そんなグリーンの魔術師振りと
奇跡のショットがなかったら、
もしかしたら200オーバーに
なってたかもしれないもんね。

いろんな人のアドバイスを思い出しつつ、
必死で修正したおかげで、
午後後半はわずかに持ち直し
結局終わってみたら午後は
午前中のスコアに比べてプラス2打で済みました。
あまりにも低いレベルなので、
そんなこととしか比べようがないんだよね。

そしてトータルスコアは前回を
10打も縮めることができました。

これも下手なりに、
練習した成果だといわずして
何といいましょう。

前回行ったときは、
針のむしろの上でゴルフをしているようで、
まるで18箇所札所巡礼の旅になってしまいましたが、
今回は下手なりに
「ゴルフをしたな」という感じが濃く残りました。

まあ、たくさん叩いたということは、
たくさん練習したんだと
前向きに考えようかね。

コース上の桜はほとんど散っていましたが、
咲いていたら絶景だろうな
というホールもありました。

さすがに桜の名所、吉野のコースです。

近頃、寒く雨模様の日が続いていた中で、
この日だけはピンポイントで
暖かく天気のいい1日でした。

コースから遠くを眺めると、
吉野山の桜が咲いている一帯が
ピンクに染まっているのがみえており、
「これもやっぱり日頃の行い」的な景色でしたな。

そしてコンペの後は例によって
居酒屋で結果発表。

地元御祭りゴルフの熱い一日は、
そうして更けて行ったのでありました。
それにしても地元の連中と
こういう遊びはホンマに楽しいね。

次回のコンペは12月。

それまでまたせっせと練習に行くとしますか。


吉野オープン 会長杯 1

2015年04月21日 21時19分39秒 | スポーツ全般

先日、doironが所属する、
ていうか会長をしている祭り関係の
「世話人」という団体で、
今年初めてのゴルフコンペがありました。

ゴルフの場合は「大会」という
もっちゃりした言い方ではなく、
スマートに「コンペ」というんですね~。

マラソンが「マラソン大会」、
トライアスロンが「トライアスロン大会」であるように、
ゴルフも「ゴルフ大会」でいいじゃないか
と思うのですが、
そこはまあ紳士のスポーツたる
プライドなんですかね。

まだ素人ゴルファーなのでよくわかりません。

とにかくまあ世話人会長杯ということで、
吉野のお山にあるゴルフ場へ、
総勢15名で行ってきたわけです。



この日に先だって、
前回12月に開催した同大会での
ブービーの屈辱を晴らすべく、
ジム友にいただいた球券を使えるところと
淀Kという打ちっぱなしに
計10回ほど通いました。

練習だったらたまにいいショットが出たりするので、
まあこれだったら前回は軽くクリアするだろう
と意気揚々と向かったわけであります。

折しも吉野は桜の季節。

下界ではほとんど散っている季節ですが、
中千本、奥千本とまだまだ見頃が続いていますから、
車も相当の渋滞が予想されます。

なので集合は午前5時。

だんじりの曳きだしなみの速い集合時間です。
みんなして眠い目をこすりながらも、
頑張って向かいました。

おかげで車の渋滞にも合わず、
スタートの1時間前にゴルフ場に到着。

パターの練習場で芝の感触を確かめたり、
素振りをして体を温めたりしながら待ちました。

そしていよいよ午前7時半。
ラウンド開始です。



始球式を無難に済ませ、
御祭りゴルファー4組が次々に出ていきます。



doironは最終組でした。

始球式に続く1発目のドライバーショットもまずまずでした。

よしよし、今日はだいぶ縮まるぞ、
とこう思ったのが間違いでした。
2打目から変に力が入ってガタガタに・・・。

挙句に目の前にグリーンがあるのに、
ピッチングでさえ
吸い込まれるようにバンカーに球が飛んでいきます。

結局この日一番よく使ったのはサンドウェッジだったと思われます。

そして2ホール目はいきなりの谷越えでした。

球は谷に向かって一直線。
方向はよかったのですが・・・。

とまあこんな具合に
へなちょこなプレイは続いていき、
そして迎えた3回目の谷越えで、
ついに歴史的瞬間を迎えました。

アドレスに入ったら、
いろんなことを考えます。

1.肩の力を抜いて 
2.左腕を伸ばして 
3.球から最後まで目を離さない 
4.フォローは大きく 
5.ティーを忘れない 等々です。

このときもしっかり自分に言い聞かせて、
つとめて軽く打ったら

な、な、なんと球は谷の上空を海辺で
ピーヒョロロロと滑空しているトンビのように
飛んでいくではありませんか。

そしてアホウドリのようにボテッと着地したのが、
フェアウェイのど真ん中。

あともう少しで手前の谷に落下する
という位置でした。

バックスピンをかけていたら
(ようかけんけど)
谷に転がり落ちるような位置です。

それでも谷越えは谷越えです。

苦節ラウンド3回目。

ウウッ、初めて谷越えした歴史的瞬間です。

しかし、感涙にむせるまもなく
無情にもプレイは進んでいきます。

またこの日は、パターがよく決まりました。
1m以内のパターはすべて成功し、
「グリーンの魔術師と呼んでおくれ」
などとほざきつつ
午前中を前回を10打も上回るスコアで上がり、
いやがうえにも午後に向けて
期待が高まったのでした。

さてそんなゴルフで
予選は通過できたのか、
あるいは大逆転で賞金王をゲットしたのか。

続きは明日。