うひゃー、大輪田ポンプ場に
作られた高潮対策ゲートには、
まるでめざまし君のような
キャラクターが印刷されている
ではありませんか。
このゲートの向こう側の
「新川運河」も先ほど通ってきた
兵庫運河同様に手狭な
兵庫港の将来を見越して
明治の初めに作られた運河だ。
現在はこの運河沿いが
「キャナルプロムナード」
として整備され、
木道なんかがのんびりと続いている。
ああ、ここにはきれいそうな
ベンチもありますから、
そこに座って持参のお弁当を食べましょう。
資料なんかには、
カモメの声を聴きながら・・・
と書いてありますが、
うひゃー、ここには大量の鳩が
50m位向こうで休憩しています。
あんな鳩が飯時に大量に飛んで来たら
どうしようと思って警戒していますと、
まずは様子見の鳩が
3羽ほどやってきました。
ここでエサでもあげようものなら、
もう大変ですね。
あのヒッチコックの「鳥」
みたいなシーンになります。
doironは静かにカモメが
羽ばたくような景色でいいんです。
「カモメーが飛んだあ~」。
とか言いながら追い払うと、
三羽は向こうへと帰っていきましたとさ。
それにしてもベンチはあるけど、
屋根はありません。
照り付ける日差しが
熱くなってきたなあ
と思っていたら、
先客もきっとそんな風に
思ったんでしょうねえ。
ベンチに落書きが・・・同感です。
夏場のお弁当は湯を
沸かすわけでもなく手軽でいいけど、
ちょっと豪華さが足りませんね。
これからの季節は
お湯を沸かして
もっとおいしいご飯を頂かないとねえ。
で、おなかもいっぱいになったので、
また先に進んでいこう。
このプロムナードのあたりには、
むかし兵庫城があったそうだ。
その痕跡を表す案内板も建っている。
のちにこの辺りは幕府領となり、
その城は大坂奉行所の与力、同心の
勤番所となった。
奈良の五條も天領となって、
五條代官所があったのと
よく似たものですな。
それがずっと続いて、
明治開元時に県庁となったので、
ここがつまり最初の
兵庫県庁となったわけである。
今日歩き始めた駅の名前が
「兵庫駅」だったのも
こういう理由からきている。
プロムナードの終点には
大きな橋が架かっている。
これが「入江橋」だ。
その橋げたの上に何か置かれてあるぞ、
と思って近づいていくと、
ここにいたのが「清盛君」だ。
う~ん、キャラクターにしては
濃い顔だなあ。
で、コースはこのまままっすぐ
行けばいいのだが、
ここはちょっと清盛君を左折して
北の方へと向かって行こう。
この道は「兵庫津の道」といわれています。
一般に、清盛によって開かれ、
運河も多く作られたこの辺りは
「兵庫津」といわれることが
よくあります。
まあ、古い土地などで
神社仏閣も多くあり、
散歩するとちょうどいいと、
「兵庫津の道」という
ガイドマップも作られています。
そのマップではコースは
はっきりしないのですが、
doironがこの日に歩いてきた道も
含んでもっと広域に紹介されています。
これを参考にまたコースづくりを行えば、
まだまだ名所は数多く残っているようで、
またあらたなコースが作れそうだ。
これはまた今後の楽しみの一つやね。
そんな兵庫津の道を
北向いて進んでいきますと、
わあ、見えてきました。
奈良、鎌倉に並ぶ三大大仏として、
神戸の豪商南条荘兵衛の
一大発願などにより、
建てられた兵庫大仏です。
あれ~でも石切さんにも
三大大仏とかあったけどなあ。
あの大きさとこの兵庫大仏、
いずれもかなり大きそうです。
大きいかその辺の評価の仕方は
よくわかりません。
でもねえ、近づいてみると
かなり大きいですねえ。
この日はお参りしている
サラリーマン風の社会人や
おばあさんがいてはりましたね。
続く
清盛橋を渡って少し歩くと、
真光寺の前に出る。
ここは、時宗の宗祖である
一遍上人が立ち寄り、
観音堂で入寂したというお寺だ。
彼の息子が遊行の際に
念仏時に踊りを踊ったところから
踊念仏を各地で唱え続け、
最後には栄養不良で亡くなった
という僧である。
ここのお寺はもともと兵火や
大震災で何度も壊れたが、
地元の人々の熱き信仰により
何度も再興したといわれているそうだ。
今は「清盛七辨天」や「兵庫七福神」の
お寺の一つにもなっており、
多くの参拝者も訪れている。
さあ、ではdoironも中に入ってみよう。
まず境内のなかほどにあるもので、
いちばん目立ったのが「道標」。
「左 京大坂道 右 播磨道」
と書かれてある。
たぶん、この先の西国街道の
札ノ辻あたりに立っていたものを
移設しているのではないか。
そしてこれが
「平清盛御膳水の井戸」。
清盛はここの水でお茶を飲んだそうだ。
そしてここが一遍上人の御所だ。
ああ、ここで彼は遊行の末に
なくなったんやねえ。
「我(が)門弟においては
葬礼の儀式をとゝのふべからず。
野に捨ててけだものにほどこすべし」
と唱えていたそうだ。
いやあ、doironは「なもあみだぶ」
と唱えておくことにしよう。
そうそう、この一遍さんの
映画があります。
主演はなんと「ウド鈴木」。
これは見てみなくてはと、
ツタヤや他のビデオ屋さんで
いくつか探しましたが
ありませんでしたねえ。
2012年の映画だそうで、
テレビでロードショウされへんかなあ。
あ、もうされているかもわかりませんがねえ。
何かの機会で見れたらいいですねえ。
あ、そうそうそれともう一つ、
この僧のじいさんというのが
愛媛の人で、源平合戦のときに
源氏に味方して平家の滅亡に
つなげたという歴史がある。
そんな彼の孫の墓のある
真光寺のすぐ近くに
敵の清盛塚があるというのも、
なんか時空を超えた人々の
つながりを見るようで
ちょっと面白い気がするな。
この寺の横の須佐野公園で、
当時この地方にあった地域名所の
「和田の笠松」の遺跡を見ながら、
ここでUターンして
清盛橋の方へと戻っていこう。
ここが兵庫住吉神社。
ここには清盛塚と琵琶塚がある。
平清盛の墓というのは、
推定で6か所くらいが言われている。
これまで行ったところでは
六波羅蜜寺の清盛塚が
そうだという説もあるし、
この住吉神社の清盛塚も
そうだともいわれていた。
しかし、ここの清盛塚は
昔の市電工事で道路が拡張されたときに
移転されたもので、
移転時に発掘調査した結果、
墓でないことが分かっているという。
それでもこの清盛塚は
8.5mもの高さがあり、
兵庫にとってはとても
大切な人だという人々の
認識の大きさがうかがえるというものだ。
十三重の塔の清盛塚の横には
柳原義達という有名な
彫刻家の清盛も建っている。
そしてその横に立っている
大きな石が「琵琶塚」といわれている。
この石は大きな琵琶の形をしており、
琵琶の名手といわれた
平経正の墓といわれていたところに
1902年に有志によって
建てられたものだ。
まあ、この琵琶塚もここへ
移転してきたものなので、
当時は墓と思われていたものだが
そうではないことが分かっている。
なのでいまは供養塔として
大切にされているのだろう。
コースはここを左に曲がって
新川運河に沿っていくのだが、
目の前にかかる「大輪田橋」を
渡っておこう。
橋げたが古いね。
そう、この橋は、戦争の神戸大空襲
及び1995年の大震災で
焼け落ちたそうだが、
神戸市によってこんな
モニュメントレリーフとともに
再興されたもので、
戦災と震災によって滅びた
親柱を再構成し、神戸市が
付け替えた橋なのです。
続く
このエリアの名前を見ると、
「神戸市ものづくり工場」
と書かれている。
そう、ここはあの大震災で被災した
中小製造業に対し、
良好な操業環境を
確保・提供することにより、
本格的な復興を支援しようと
作られた全国初の大規模な
公設賃貸工場だそうだ。
へえ、復興支援でこんなのも
建てられているんやねえ。
なかなかのものですな。
さて道はその先で橋を渡る。
「御崎橋」という名の橋で、
どうも海の上にかかっているようだ。
そうここが明治8年に
完成した日本最大の運河
「兵庫運河」なのだ。
材木や巨大な荷物なんかが
この運河を行き来した、
ある意味日本の産業を
支えてきたような運河だ。
船が西から来た場合、
神戸港に入るには
風が強かったりする海の難所
「和田岬」沖をとらねばならなかったが、
そういう不便を解消させよう
として彫られたのがこの運河だそうだ。
水はまあさほど濁っていて
汚いというほどでもない。
最近はそういう水質関係の改善も
進んでいて、どこの海も
さほど汚れていないけどね。
この海岸線のところに
立っていた案内では、
ボラ、スズキ、キスなども
多く生息しているという。
そんな運河の海岸線は
気持ちのいい散歩道にされている。
日差しが強くなければ
のんびりするのも
いいかもしれないね。
日陰のベンチでは
高齢者の男性がのんびりと
座ってはりました。
ところどころの植え込みには
ユーカリが植えられている。
あ、ここではパンダを
飼っているようだ。
シャンシャンですかあ。
んなわけないか。
で、しばらく進んでいきますと、
次の運河の橋が見えてきます。
「材木橋」。
かつてこの辺りには
木がたくさん置かれていたようだが、
その需要はなくなってきており、
今、この運河はあらたな
マリンスポーツなどの面など
いろいろと見直しが
図られてきているそうだ。
これからに注目ですねえ。
材木橋をこえたら道はまた
街中へと入っていく。
ここでまたコースは
和田岬線の踏切をこえることになる。
この踏切には大きな地蔵も
祀られているねえ。
ちょっとチェックしておこう。
ふむふむ立派な地蔵さんが
収められているようだ。
御崎本町の無縁地蔵尊
と書かれてある。
ここに線路が通る前から
あるのかなあ。
その辺のところはよくわかりません。
歩道の植え込みが
大きな銀杏並木になってきたら、
左折して兵庫運河の方に
もどっていくコースに入っていこう。
運河の住吉橋のところに
出てくると、この辺りは
運河沿いの散歩道もまた、
手すりやきれいな床も
しっかりと整備されているようだ。
そして次に現れてくるのが
「清盛橋」というきれいな橋だ。
さあ、出てきましたねえ。
二人目の重要人物「平清盛」です。
日本初の武士政権を
打ち立てた平安時代末期の武将だ。
彼と神戸との関係は深い。
一時、神戸の福原に
遷都したが半年で
京都に戻ってしまう
ということもあった。
かれが神戸に遷都しよう
としたのは、国際貿易港である
大輪田の泊を望む地域だからだ。
ここで日宋貿易によって
財政基盤の開拓を行い、
宋銭を日本国内で
流通させ通貨経済の基礎を築いて
日本初の武家政権を
打ち立てたという実績を持っている。
そんな彼の動きを記した
源平合戦や平家物語の
名場面を描いたレリーフが、
タイル貼りの清盛橋に
数多くはめられている。
ああ、ではあの那須与一の
扇の的なんかもあるのかなあ
と思いましたが、
ちょっとこの橋の両面を
きっちり見て歩く
というわけにはいかなかったねえ。
まあ、この事件が源氏軍を
たたえる事件ですから、
ここにはレリーフになって
残っていないかもしれません。
で、そんな橋を渡ると、
右の方に清盛塚が見えていますが、
ちょっと先に一遍上人の
真光寺の方に寄っていくことにします。
続く
阪神高速神戸線をくぐってこえると、
道はもう静かな住宅街にはいっていく。
公園の中には親子連れが遊んでいる。
この公園は「明親公園」という名前だが、
この「明新」という地名には歴史がある。
1867年に神田兵右衛門、
そしてあの高田屋嘉兵衛との
関連もあった北風家の人らによって
開校された神戸最古の
学校の名前を明新館という。
漢書「大学」の中の
「上明らかにして下親しむ」
より採って、当時の兵庫県知事
伊藤博文が名付けたという。
そういった歴史が、
今の町名及び小学校の名前として
残っているそうだ。
ひゃー、歩いていると
ふと気づいた街中の公園の名前一つにも
深い歴史があるもんやねえ。
うかうかと歩いてられませんな。
それにネットで調べていると、
この辺の公園は、あの大震災の時に
いろんな役割を果たしたそうで、
なかなか調べれば
ドンドンいろんなことが
出てくるようです。
まあ、そんなことまで書き始めたら
きりがないので、
ここではこれくらいにしとこう。
住宅街を歩いていくと、
一か所線路をこえていく。
この線路が兵庫駅と和田岬をつなぐ
山陽本線の支線だ。
この電車の時刻表を見てみると、
和田岬までの下りは
平日で朝と夜の一日15便。
休日は朝と夜が1本ずつで
合計2本と超変則なダイヤである。
それもそのはず、
この電車は和田岬にある
三菱重工などの社員の通勤で
混雑するという線路なのだ。
実は、昨日書いたように
あの単独行の登山家
「加藤文太郎」は三菱重工
神戸造船所に勤務する
社会人登山家だったのだ。
読んだ小説の中で、
雪山にトンネルを掘って
ビバークするときも
エンジンの燃焼効率について
思いをめぐらすという
シーンがあったなあ。
地元の木こりなんかを
ガイドに雇って山歩きを楽しむ
という時代に、
単独行で国内の厳しい冬山にも
上っていたという彼の動きは
当時のdoironの山行きにも
大きな影響を与えたものだ。
雷の鳴り響く雪山で、
トンネル掘ってやり過ごしたという
自分の危ない山登りも、
彼に比べたら全然平気じゃないか
と思ったくらいだ。
彼は30歳で冬の槍ヶ岳で遭難する。
遭難時の当時の新聞のみだしは
「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」
だったそうだ。
そんなすごい彼の山登りだから、
われわれには全く関係ない
と思われがちだが、
実はかれは「六甲全山縦走」を
始めた人だったのだ。
マラソンやトレイルをやっている人には
良く知られた山登りですよねえ。
その創始者が彼だったのだ。
え~doironは一度だけ
このトレランをトップでゴール
したことがあるんだよ。
まあ小さな大会だったのですが、
いい思い出だあ。
ただ加藤文太郎が
同じようなことをやったか
というとやっぱり違っていて、
宝塚にゴールした彼は
また歩いて須磨まで帰ってくる
ということをやっていたそうだ。
なので総距離は100km近くになるという。
和田岬線の線路を見ながら、
若い頃に自分に影響を与えた
彼の通勤を思わず連想してしまいました。
あ、でもそんな彼だったら
電車に乗らずに、今のdoironと
同じように歩いて通勤
というのもきっとあったかもしれませんね。
さてコースに戻りましょう。
道はここから、生活用の道路
というより大きな工場の横の
通路のような感じへと変わっていきます。
この工場が川崎重工兵庫工場だ。
ネットによると、
電気機関車、ディーゼル機関車、
ロープウエイなんかも作っているそうで、
我々もきっとどこかで
お世話になっているだろう。
会社の周りには海が接しており、
神戸の海沿いという利点を生かして
頑張ってはるんだろう。
で、その先に川重の向かい側に
小さな工場の集まっている
エリアが見えてきましたよ。
ここは何でしょうか。
続く
この夏に歩きに行く計画の中で、
明石ともう一つ楽しみに
していたところがある。
それが神戸のなぎさ海道だ。
天然の良港として発展してきた、
兵庫の港を舞台にしたエリアである。
歩くコースを考えたら、
駅でいうと「兵庫」と「神戸」駅の
間をあるくということになるわけだ。
まあ名前的にはとっても
豪勢な駅なのだが、
発展し近代的に進んだ駅かというと
そんな感じもなく、
じんわりと人のにおいのする
昔からの歴史エリアの駅なのである。
地域的には運河やお寺神社も散在しており、
歩いて楽しむスポットも非常に多い。
そしてここには運河のある町を
発展させていった歴史上の
人物との出会いもある。
平清盛
と高田屋嘉兵衛
清盛はまあ西行との関係で
本を読んだし、高田屋嘉兵衛は
6巻中4巻まで読んでいる
司馬遼太郎の「菜の花の沖」で
ちょっと途中で止まっているけど
船乗りのことなのだ。
いずれも、彼らの熱い想いが
大きなことを成し遂げた、
という実績で長く語られている。
そんな彼らの関連する場所が、
このエリアの各地に
散らばっているというのだ。
それだけでも面白そうなのに、
加えてもう一人の人もまた
この地域に絡んでいるという。
そこで働いていた登山家で、
名前は加藤文太郎である。
あの新田次郎の「孤高の人」で
取り上げられた登山者で、
単独行で各山を精力的に歩いた
実績はものすごく、
doironもそれに心酔して
若いころにはどんどんと
山登りにはまらせていった
という人物である。
かれは、この散歩コースにある
会社で働いていたという過去をもっている。
いやあ、そんな風にけっこう
doironの心を揺さぶった人が
多く関連していた地域なので、
歩くのに絶対楽しくないはずはないのだ。
これはもうとても
楽しみにしていた歩きのひとつ
ということになる。
では車で神戸駅の近くまで行き、
安い駐車場に車を止めて
旅を進めていこう。
まずはそこから電車で一駅、
兵庫駅まで移動していく。
さあではここから歩行開始だ。
ナビをセットし、歩き始めよう。
スタートの兵庫駅は
まるでここが兵庫県の
中心のような名前だが、
まあ今の中心地「三ノ宮」に比べたら、
静かな駅である。
ただ歴史はとても古く、
明治21年に山陽鉄道兵庫~明石の
始発駅として開業している。
そうかあdoironはそんな鉄道の
東西の始発をこの夏
歩いたことになるんや。
そんな兵庫駅なのだが、
昭和4年にさっき電車に乗った
「神戸駅」や「三ノ宮駅」と
同様に古くから
今風の高架型の駅舎に
改修されたという歴史があるそうだ。
この兵庫という名前は
今は県名にもなっている。
そうここには最初に県庁が
おかれていたのだ。
では、「兵庫」とは何なのか。
その歴史はとても古く、
645年の大化の改新のころ、
兵器庫をここに設けていた
ことによるんやね。
兵器庫=兵庫ということで、
ちょっと物騒な語源だ。
ついでに、神戸の語源もかいておくと、
この辺りがすべて生田神社の
祭祀を維持するために
神社に付属している民子
(それを神戸という)だった
ことによるものとされている。
え~最近doironは地元の
神社の氏子代表に選ばれました。
仕事は、正月のお神酒配り
だんじり宮入のあいさつ受け
神社の会議と寄進集めと
まあ、ちょっといろいろありますな。
でもまあ、選ばれたんだから
来年から5年間、氏子代表として
しっかり活動していきましょう。
まあdoironも地元神社の
神戸になったわけですかねえ。
そんな兵庫駅から
南に向かって歩いていくと、
阪神高速神戸線の下をくぐる。
そうそう神戸線を走っていくと
この辺り、JRの駅が
すぐそばに見えますねえ。
神戸駅なんか、改札口に立っている人が
すぐそばにいるような
感じに見える。
最近は特に四国の八十八か所巡りの帰りに、
バスの中からそんな景色を見ながら、
早くここに歩きに行くぞ~
と決意を新たにしていたものです。
続く
本日、18時58分より
宇宙ステーション希望が
ほぼ真上を4分間くらい
キラキラと輝きながら
飛んでいきました。
地球の陰から太陽の光を受けて
また陰に入るまでの間
見事に飛んでいきました。
そして今日小池さんが
新党「希望の党」の結党宣言。
いやあ、本日希望だらけです
ではdoironの希望満載の
ブログもどうぞお読みください
ーーーーーーー
先日、皮膚科へイボを焼いて
もらいに行った話を書いたが、
(全然、希望ではありませんが・・・)
↓
実はもうその時doironの
体調は最悪だった。
その日を含めて医者に
毎日行くことになったのだ。
以前から予約してあったのは
あったのだが、なんとこの週は
タイミング的にとても
医者通いがピタリとはまる週だった。
イボの後一つが歯医者。
少し前からかぶせていた
歯がポロリと取れて
非常に難儀していたのだが、
何とかこの日からあまり
不自由のない歯生活
(こんな言葉があるかどうか知らないが)
を送れるようになった。
まだまだ治療は続くが、
まあ最初の一段落は
済んだという感じだ。
厄介だったのが、痛風だ。
ああ、また出たのだよ。
今度は左の膝に出た。
ミセスが5年間日記をつけており、
その日にdoiron痛風発生!
と書こうとしたら、
な、なんと昨年の同じ日に
痛風発生と書かれてあるではないか。
季節の変わり目やからなのかなあ。
それともこの時期、
夏の終わりの飲み会なんかが
続くからなのかなあ。
同じ日に発生てどうやねん
て感じだね。
でもねえ、今回の痛風は
ちょっと重かった。
いままで痛風ってそんなに
痛みがひどいものって
思わなかったけど、
今回は膝に激痛だった。
痛みの発生したのが
夜だったので翌朝まで
放置してたからかなあ。
こんな痛みじゃ東京オリンピックは
無理やなあって感じ。
え?見に行くのんですよ。
朝になって慌てて
病院に行くことにした。
デンボを焼いたのと同じ病院の
整形科だ。
通風の時はいつもここに行く。
先生にいつものように
「また痛風出ましてん」
といって足を見せると、
ひざがもう真っ赤に晴れて
熱を持っている状態だった。
これはちょっとひどいですねえ。
いつもは点滴だけですけど、
今日は幹部に注射を打ちましょう
といわれた。
え?膝ですよ?そこに注射?
注射禁止ですよ~と抵抗するものの、
医者はもう看護師に
薬の用意をしているのだ。
え~っと痛いですか?
と聞くと「はい」といわれます。
でもこの方が即効なんです
という言葉に従って、
ベッドに横になり膝を出して
注射を待ちます。
アルコールで吹きまくった後、
「さあ行きますよ」といってきます。
おおきく息を吸って構えたところに、
「ググぐぐわ~」
と痛みが襲い掛かります。
「うう~」と声が出ましたね。
もう半ば放心した状態で
注射が終わりました。
で足を下ろしてみると、
あれ?痛みが消えてるって感じ。
すごいなあ、と思っていましたが
しばらくするとまた痛みが。
ああ注射の痛みでこれまでの
痛みがなくなってるような
感じだったんでしょうねえ。
で、その三日後やはり
痛みはきれいにひかずに、
もう一度点滴をしてもらおう
といったのですが、
またまた膝に違法注射。
でまたその三日後くらいには、
さあ~と痛みは消えていったのですが、
どうもあの2回の駐車の跡が痛い。
膝の薄い皮とサラの間なんですがねえ。
どうも筋を痛めているんじゃないか
という痛みが残ってしまいました。
そしてそれから1週間。
ようやくdoironの膝も
完璧に直ったようです。
よかったよかった。
で、その2回の注射の間に、
今度はかかりつけ病院の
消化器科へ行きました。
ちょっとおなかの調子が
悪かったのですが、
では腸のレントゲンを撮ろう
という話になりました。
今度は注射違反ではなく、
盗撮違反です。
まあ、doironはこれまで
胃のレントゲンなど、
カメラを入れたことがありません。
なのでまあこれを機会に
挑戦してみるか
ということになったわけです。
腸のレントゲンは食事制限が
大変だそうです。
まあ、これも肥大化した
胃や腸を小さくするのに
いいのかもしれません。
デンボ、虫歯、痛風、
超レントゲンとこの週は
医者三昧でしたね。
歳をとったらこういう日々も
これから増えてくるんでしょうねえ。
このほか、かかりつけの
心臓関係の定期健診にも行き
この週はずっと医者通い。
まあ、歳をとったら
こんな日も多くなるのかもしれないけど
希望は忘れずに持っておきましょう。
和泉の美術館・博物館の二つ目は
「弥生文化博物館」。
我が家から最も近いところに
ある博物館です。
歩いて5、6分かなあ。
どこに行くにもその博物館前を
通ることは多く、
「ああ、今やってる展示会は
まだ行ってないなあ」とか
普段から親密に接している。
今回の「沖縄の旧石器人と南島文化」も
まだ行ってなかったなあ。
弥生文化と沖縄文化かあ、
ちょっとどんな関係があるのかなあ、
と思いつつ先日、家から歩いて
尋ねていくことにした。
ああ、ここの入館券は
いつも手に入るよ。
余分に持って行って、
券を買いそうな人に遭遇したら
差し上げることにしている。
このブログの読者の方も
希望があったら言ってくださいね。
少しでも多くの人に
弥生文化に触れてもらえたらいいもんね。
ただし、枚数はごくわずかですけどね。
かつて大阪府知事の影響で
閉鎖されそうになったところですが、
まあまだ何とか頑張ってるようですねえ。
あの知事の影響で
一方では一般の参加者の人にも
わかってもらえるような
イベントなんかも開催され、
そういう意味ではいい刺激が
入ったのかもしれないね。
では中に入っていきましょう。
特別展示室は2階です。
展示物の中には沖縄の
生き物も展示されています。
これは、ハブですね。
そうそう大和葛城に出かけたときに、
こんな看板がありましたねえ。
うひゃー、本土にもハブがいるんですねえ。
それにしても凶暴な口ですねえ。
一生噛まれたくありません。
そしてこれはヤンバルクイナ。
2015年ころには70羽もいない
とされていた絶滅危惧種だ。
そんな展示の横にあったのが
「カトウキヨマサシカ」の角の展示です。
え~こんな名前のシカがいたんや
という驚きとともに内容を見てみると、
どうも昔の日本鹿の祖先といわれている
シカのようです。
遺跡の残っているのが熊本県で、
そのためこんな名前が
付けられたとのこと。
うひゃー、生態学と歴史学との
合作名ですねえ。
ちょっとなんか紛らわしいなまえですが。
当時、沖縄の遺跡の中で
見つかった子供の足の遺跡が、
日本で最古の人類の化石だそうです。
3万6千年前くらいのもので、
そのあと2万年くらい前の
人物として見つかったのが
「港川人」
といわれる人の遺跡です。
上半身は小さく、下半身はしっかりした人間で、
食べるものから顔の輪郭は強固で、
それを再現した模型が
そこに飾られてありました。
え~、顔はなんかこの前難波で
見かけたような人ですねえ。
しっかりした下半身も、
えっとブログ上ぼかしが入りますが
しっかりと組まれていますねえ。
小さな展示室ですが、
いろいろと工夫をされているようです。
doironはそんな感じで帰ってきたのですが
ミセスはここで行われる
コンサートに参加して、
「よかったあ」といいつつ
満足げに帰ってきましたね。
こうして今年の夏までは、
群馬の星野富弘美術館も行ったし、
夏のご近所もくるくると回りました。
またミセスは秋には
島根県の美術館にも
行きたいというので、
それだったらdoironも
安野さんの美術館にもと思い、
現在いろいろ画策している
ところである。
ああそうだあ、
自分の四国お絵かき美術館も
もっとしっかり進めていかないとなあ
というのも頭の片隅で考えているのでした。
今日は3時間走でした。
そのことはまた整理次第
書くことにしましょう。
ブログはこれまでの続きです。
ーーーーーーー
前回神戸の美術館に行った。
怖い絵展も面白かったなあ。
そこで、今回は和泉市の
山の方にある久保惣記念美術館に
「北斎の富士」展を見に行くことにした。
まあ、こういう美術館なんかに
ミセスを連れていくと大喜びだ。
またdoironのあそびの許しが
もらいやすくなるってもんだ。
北斎が描いた富士の数々は、
あらゆる画法を研鑽し、
自然を凝視した末に
降臨してきた神によって
描かれたようだという人もいます。
北斎はこう語っています。
晩年になって
「禽獣虫魚の骨格、
草木の出生を悟し得たり」と。
まあとにかく彼が描いた
富士の絵は総ての画各を
飲み込みつくした日本人の
心の中の富士山なんでしょう。
ここにも車でやっていきましょう。
和泉のこの辺りは最近、
大型のショッピングセンターが
できてよく行くところです。
久保惣にしてみれば、
周りの風景が変わっていくのは
やるせないところなんですが、
そこはそれ樹木の植え込みなんかで、
周りの風景をうまく
隠しているように思えます。
むかし、久保惣太郎が
ここに美術館を建てたとき、
中から見える丘の上に
住宅街ができると聞いたときに、
だったらそこの土地を
すべて買ってこいといったとか。
周りの景色にも非常に
関心を持ってたそうですが、
まあそこまでいかなくても
こうして樹木を増やして
隠しているのはとても
好感が持てる作業ですね。
この美術館、現在は国宝2件、
国の重要文化財29件を含む、
所蔵総数は約11000点。
作品の大半は久保惣コレクションで、
収集年代や経緯によって
第一次から第五次久保惣コレクション
と呼ばれているそうです。
田舎の美術館ですが、
中に入っていったらその
壮大な展示物にうひゃーと
驚く人もたくさんいると思いますよ。
僕らはいただいた券で
入っていきましたが、
その日は特別デーで
一人200円という
大判振る舞い日でした。
展示館はいくつかあるのですが
北斎展は一番奥の方の
本館でやっています。
それにしてもここの庭も
手入れはすごいですね。
ここに植わっている植物が気に入って、
最近ミセスがちょっと
植木替えにこっています。
うひゃーあんな庭には
絶対ならんけどなあ。
とまあそんな出来事も発生させつつ、
本館に到着です。
北斎は2室で展示しています。
その1室に入ろうとすると、
静かな展示員さんが
そちらは今小学生が入ってますから
こちらから入ったらどうですか?
とのこと。
ああ、そうですか、親切ですね。
入っていきますと
一枚ずつ展示がされています。
有名な凱風快晴や
神奈川沖浪裏などは
特別なケースに入れて
飾られていますが、
その他の者は順次一枚ずつ
展示されています。
そしてその横には、
絵の説明が張られていて、
これは何をどんな風に描いた図であるとか、
構図を見ると富士の大きさが
より大きく感じられるような
配置になっている
というような説明もあり、
じっくり見てると
どんどん時間が過ぎていきます。
そして絵の中には北斎だけではなく
歌川広重も飾られており、
なかなかの見ごたえのある展示でした。
北斎は88歳で亡くなったそうです。
そして亡くなる直前に
「あと5年いかしてくれたら
本当の画工になっただろう」
といったそうです。
いやあ富嶽の絵でも
その周辺に書かれた人々の暮らしは
すごいものがありましたよ。
もうあなたは本当に画工だったんですよ。
辞世の句は
「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」
人の魂となって夏の野原に
気晴らしで出かけようというもの。
うん、なんか絵の厳しさ、
激しさの陰に彼の優しい心が
あるようなそんな歌でした。
和泉の山の方にある
この久保惣美術館は
本当にすごいね。
もう5回くらい行ったけど、
いつも注目しています。
え~あちこち歩きに行って
ブログを書いたりしていますが、
日常生活の中でも
ちょろちょろっと
書きたくなるようなことが
ありますねえ。
きょうはそんなちょろっとブログです。
歩きに行くのに場所決めの一つとして、
本屋さんや図書館なんかで
旅本とか見ることがよくあります。
するとそんな中で、
地域の観光の一つとして
人力車による観光を
取り上げていることが
たまにありますよねえ。
あの人力車引きをやってる
若い男の子なんですが、
どれくらいの体力があるんでしょうか
というのにとても関心がありますねえ。
確かに歩くのもしんどいと
いうほどがっちりした
体の人はいませんよねえ、
体脂肪率で行ったら
15%以下くらいの体格です。
足も結構しっかりした足です。
で、そんな彼らに
一度聞いてみたいのが
「フルマラソンを走ったことがありますか?
あるんだったらどれくらいで走るんですか?」
ってね。
「ああ、二時間台では走りますね」
なんてこたえたらすごいですね。
乗ったら「行け~」って
叫んでしまいそうですね。
とまあ、そんな興味を
あの人力車引きの人に対して
持ってしまいますね。
今度どこかへ行って
話す機会があったら
聞いてみようかなあって思っています。
毎年自分でカレンダーを作っています。
題材は自分の絵手紙を
中心にしていますが、
ただ単に絵手紙だけではなく、
絵の題材が語り掛ける
優しく温かい言葉を書き連ねている、
つもりです。
そしてあとはカレンダーの
日付欄に印をつけて
いい一年にするようにしよう
という思いも込めています。
今年のカレンダーも
これから作っていくのですが、
今年はもう少しこってみようかなあ
というちょっとした思惑もあり、
いまはいろいろと迷っている最中です。
あとまあこのカレンダーつくりで
必要なのが、日付け作りです。
これは市販されている
カレンダーをたよりにして
作っていくのですが、
ここへきてやっと来年の
カレンダーや手帳が文房具屋や
百均にならんできました。
その中から自分の入れたい
情報が記載されているのを選んで
購入してくるのです。
それをパクッて日付づくりを
するわけですね。
先日そんなカレンダーを
一つ買ってきましたので、
ぼちぼちカレンダーつくりに
力を入れようかな
と思っている今日このごろです。
ミセスは夏の暑い時に
誕生日を迎えます。
そのお祝いで、息子夫婦から
いろんなものが届いた。
そのうちの一つに、
生で食べられるという
トウモロコシが届いたよ。
確かに食べてみると
生でしっかりと食べられる。
ああ、息子にはそんなものを
選ぶセンスはないだろうから、
これはきっとジュニアミセスの
たくらみだろう。
で、doironはというと、
最近ミセスが牛カツを
食べたいと騒いでいた。
体育館の近くにある
牛カツのお店に行きたい
と何度かたくらんだが、
毎回大変な数の人が並んで
待っていたりするので
あきらめている。
そこで、友達と飲みに行った
お店で牛カツを
本日の高級つまみに
出していたりしたので、
それを買って帰ったことがある。
これ。
なかなかこれはいい誕生日祝いでした。
ほかにも、ドライ納豆事件、
壊れたLED事件、
墓地ノラ猫事件などもありますが、
今日のところはこれくらいにしときましょ。
五條の基が作られたのは
江戸幕府成立すぐあとくらいとのこと。
新町通りの入り口近くの
栗山邸ができたころですねえ。
松倉氏が大和五條藩を賜り
城下町建設に着手してからですので、
そんな松倉氏をたたえた公園もあります。
ここで先ほどのおにぎりを一個
食べておきましょう。
あんこがさっぱりしていたなあ。
白いのは帰ってから。
そして、五新鉄道はますます
近づいてきました。
この五新鉄道はここまで
何度もかいてきたように
もう廃線になっています。
でもその高架線路はそのまま放置され、
ほっちらかしになっているのです。
この線路はいくつか開通もしたのですが、
いまはこんな高架線路や
バス専用道、トンネル内の
宇宙船観測所なんかで
その痕跡をとどめているそうです。
そんな鉄道をちらっと描いた
河瀨直美の映画「萌の朱雀」
(1997年)があるので
近いうちに見てみようと思います。
その出演者のひとり、
尾野真千子が離婚したという
ニュースが流れたその日に
考えたことだったので
ちょっと不思議な感じがしましたね。
高架の下に行くと
壁に五新鉄道のことが
書かれていたりします。
新宮まで行くといってた
この電車の廃線は多くの人の心に
悲しみをもたらしたでしょうねえ。
さあ、ではこの辺で時間はお昼です。
この新町通りには
「源兵衛」という料理屋さんが
あるのですが、これはねえ
ちょっと値段が合わなかったですね。
もう一軒、簡単なうどん屋さんが
あったので入りました。
う~ん帰りが近いので、
ビールは当然なしで
てんぷらうどんをいただきました。
写真忘れたあ。
さあ、これで歩こうと思っていた
新町通りはほぼ終わりです。
ここから市役所を目指して
てくてくと帰りましょうか。
北向いて歩いていくと、
どうも五新線の高架道路の
上がのぞけそうな場所が
ありましたので、
ちょっと寄っていきましょう。
若しかしたら
まだ線路があったり、
何か鉄道に関するものが
あったりするかなあ
と思ったのですが、
行ってみるとこんな感じ。
ただの荒れ放題になっておりましたねえ。
その五新線から市役所の方に
向かって進んでいきますと、
そこにあったのが史跡公園です。
まだまだ暑い日だったので
セミが鳴き続けていましたねえ。
そこにあった民族資料館に
入ってみました。
どうもこの辺りには、
維新のころに大きな事件が
起こったようです。
それが「天誅組の変」。
五條はもともと天領で
そこに代官所があり
(市役所のところ)、
少人数で運営をしておりました。
そこを尊王攘夷の志士が襲い、
「五條御政府」の看板を
掲げたそうです。
それが1863年の
「天誅組の変」
といわれています。
その組織はわずかひと月で
崩壊したそうですが、
そんな天誅組の資料が
多く集められ、この民俗資料館に
収められていました。
話を聞けば維新時の
ある意味大きな出来事なんですが。
もともと歴史に詳しくなかった
doironにしてみれば、
そんな話は初めて目にした感じで
興味深かったです。
かえってまた勉強しなきゃ
と思いつつ、市役所の車のところに
戻ったのでした。
歩いたコースはこんな感じで、
距離は6キロほどでした。
これまで3回に分けて
大和街道を歩き、
今回で4回目となります。
和歌山から紀ノ川沿いに
ずっと続いているこのコースは
なんか独特の雰囲気がありますねえ。
まだまだ途中の抜けている区間や
かつらぎ、高野口あたりを
歩かないといけませんねえ。
これがねえ資料なかなか
少ないんですよね。
個人で歩いている人の
ブログなんかを探らないと
いけませんね。
まあそれもまたまた一つの
楽しみであるわけですけどね。
また、この先で中途半端に
残っている五新線の後も気になるなあ。
とまあ、そんな風に
いろいろと次の課題が見えてきた
五條の町をごそごそと歩いた
doironブログはこれで終了。
お疲れさまでした。