今年の夏の最大イベントは
やはり「サロマ」でした。
延び延びになっていた
そのサロマの打ち上げBBQが先日開催されました。
人のうわさも七十五日といいます。
忘れかけてた感動を再びというくらいの絶妙な日取りでした。
場所は、槇尾川に架かる和泉大橋の下。
決して清流とはいいがたく、
せせらぎというのにも、
少々抵抗はありますが、
都会の中の川の割に自然の残る
そこそこ美しい川です。
お酒を飲まない人の車で荷物を運び、
他の人は川沿いを川風に吹かれながら
ぞろぞろ歩いてこれるし、
近所に公設のグラウンドもあって
トイレもあるというロケーションで決めた場所です。
サロマ選手のF原さんは、
今シーズン見事に晴れ女でした。
おかげで、サロマのレースは
晴れ女にもほどがあるという暑さ。
レース後は仕事があるため、
彼女が泣きながら先に大阪に帰ると、
北海道に残された我々を
途端に雨が襲うという晴れ女徹底ぶりには
まったく驚かされました。
なので、やはりこの日も、
その晴れ女ぶり健在で、
台風接近もなんのそのの好天となりました。
最近、この仲間でのBBQでブームなのが、
コストコのお肉です。
前日に世話役の人達と買い出しに行きました。
お目当てはステーキ肉。
網の上にドーンとおいて、
少し焼けたところではさみでジョキジョキと
切っていきますと、
ほんのり赤みの残った
「私を食べてチョーダイ」
と言わんばかりの柔らかいお肉に育ちます。
この日は、他に今が旬の
サンマを安売りしていたので、購入しました。
マンション暮らしの皆さんには、
もうもうと煙を上げて
サンマを焼くということが困難なので、
これが大ウケでしたね。
春先からの選手の練習に参加もし、
近江商人の陰謀に負けず
様々なアドバイスもしてくれたジダンを招き、
涼しく気持ちよかった橋の下のBBQ。
選手の100km再挑戦の言葉も出て、
たいへん盛り上がった一日でした。
東大門を出た石畳の突き当たりが
「夢殿」のある東院伽藍です。
ここは先ほどの1000円の入場券を見せれば入れます。
この夢殿は聖徳太子の遺徳を偲んで、
太子の死後に建てられた建物です。
八角円堂の中央の厨子には
またしても聖徳太子と等身大の
「救世観音像」が置かれ、
それを取り囲むように礼堂と回廊が連なっています。
こんな建物の中で瞑想したら
なんか神秘的な力に導かれそうな
そんな感じでした。
夢殿の横にたたずんでみました。
夢殿を出たところには、また道標があります。
ひとつは「松尾道」と書かれてあります。
大和郡山市にある「松尾寺」への
参詣道であることを示しています。
また、その横にはこれから目指していこうとする
「法輪寺」への道案内をしています。
これは心強いですねえ。
ということで、法隆寺を後にし
五町北にあるという法輪寺に
向かって歩いていくことにしました。
田んぼの中を行きますと、
右手にこんもりとしたところが見えてきます。
こんなのを見ると、これも未発掘の古墳じゃないか
と思ってしまいます。
おお~個人の野菜直売所まで夢殿のようです。
「自然散策うるおいの道」と名付けられた
道標を見ながら、
天満池に到着しました。
ん?あれはカワウでしょうか。
他の水鳥たちもたわむれる静かな池でした。
その天満池に接している小さな池は、
ほらこの通り。
アカウキクサがびっしりと繁殖し、
まるでアンツーカーのテニスコートのようでした。
斑鳩神社に寄って、
ここを曲がって
自転車道を進みます。
曲がらないと松尾道ですが、
しばらく行くと恐ろしい池がある
大変なところに行ってしまいます。
その名も・・・「毛無池」。
近寄ってはなりません。
そうそう交通ルールもちゃんと
守らねばなりません。
いつ太子が飛び出してくるかわかりませんからね
これは太子町で見つけた飛び出し太子
このあたりでは見かけなかったけど
そうしてサイクリング道をガッシガッシと進んでいくと、
見えてきました。
法輪寺の宝塔です。
コスモス越しになかなかいいアングルで
写真が撮れそうだと、
何枚かシャッターを押しました。
結局選んだのはこれ。
なかなか良かったのですが、
空がねえ。
青空だったらもっとコスモスも映えたのに残念です。
と、向こうの方で二人のおばさんが
そんな写真を撮っているdoironを
じっと見つめていました。
う~ん、ここならよもや不審者扱いはなかろう
と安心して近づいていくと・・・
案山子でした。
ここが法輪寺です。
宝塔は写真に写すときは、
画面の中央は避けましょう。
こうして端におくと妙に落ち着く映像になるのが不思議です。
さあ、後目指すのは「法起寺」のみです。
歩きつづけましょう。
うひゃー、電話ボックスも珍しいというのに、
伽藍姿とはねえ。
両側にイチジク畑のあるのどかな道を、
こんな導き石に導かれながら
ズンズンと歩いていきますと・・・
見えてきました「法起寺」です。
法隆寺と並んで世界文化遺産に登録されているお寺です。
ここでも塔を少しずらして撮影しましょう。
さあ、これで行きたいところは行きました
あとは法隆寺まで帰るのみです。
と、その時少し気になる標識が見えました。
「緑の道標」?ってなんでしょうか。
生きてる木が道標になっているのか、
それとも石の道標に苔がびっしり張り付いているのか
といろいろ想像を膨らませてしまいます。
行ってみますと、あれ?あれれ?
なんか小さな公園があるだけです。
そこに書かれてあった看板に寄りますと、
奈良県の道路整備計画の中で
こういった小さな公園を道端に設置して
「緑の道標」と呼ぶ計画があるんですと。
これから増えてくるのでしょうか。
お見知りおきしておきましょう。
のどかな田舎道を、
変わった瓦や
マン蓋並びに
電プレを見上げながら、
合計11キロを歩いて
少々汗もかきましたし喉も乾きました。
車に乗ってクーラーをつけようとして
ふと横を見ると・・・
何だかよくわかりませんが、
いろいろ事情があるんでしょうねえと思いつつ、
このシリーズ終わり。
法隆寺を歩いている途中ですが
本日、今年で3回目を迎える
大津川さやわか3時間走が行われましたので
ちょっと寄り道。
天候にも恵まれ
暑いくらいの秋晴れの下
皆さん、汗まみれになって
走っておられました。
doironはスタッフとしての参加です。
仕事は例によって周回チェック。
あ、その前に選手の皆さんが
食べられたオレンジは
doironが切り分けたものでっせ~
大会が始まると計測の席に座り
やってくる選手のゼッケンを読み上げながら
記録していきました。
途中、団体が通り抜けたときは
パニクリましたが
まあ、その辺は濱ちゃんの明晰な頭脳と
パソコンの技で
補完をしてくれるでしょう。
今回は、思わぬ昔のトライアスロン仲間との再会もありました。
最初は誰だか分らなかったくらい
久しぶりの仲間でした。
そりゃあ、もう20年以上会ってなかったもんなあ。
お互い、歳を取りましたねえ。
「doironさん久しぶり!」と言われたこちらは
キョトンとしてたと思います。
それにしてもよくdoironのことが
わかったものです。
こんな特徴のない顔なのに・・・
かつてのランニング仲間や
いつものジム友も走って
今日は楽しい一日でしたな。
スタッフの皆さん、
思う存分打ち上げを楽しんでくださいね~
doironは祭りの寄合なんです。
だんじりに触れず、あいそなしの祭でも
世話人会の会長という
地元の役目はおろそかにできません。
参加できずに申し訳ありません。
そして新聞の方は、写真を
ルネ広報のH野クンに提供してもらい、
さっそく記事を作って
オーナーと交渉します。
秋はイベントが目白押しなので
掲載できるかどうかわかりませんが
取りあえず頑張って作ってみますね~
関西の人間ならたいてい子供の頃に
校外学習で法隆寺に来ているでしょう。
この日も、小学生の団体が、
次から次と観光バスで乗り込んできていました。
見ていると、子どもたちは皆、
手に手に使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)を持ってます。
それも全員同じものです。
デジカメや携帯を禁止にして
学校から支給しているんでしょうねえ。
今どき現像してくれるところを探すのが
大変なのではとちょっと心配してしまいます。
そのうち使い捨てデジカメもでるかもね。
それはともかくとして、doironも
入場料1000円を払って、
世界最古の木造建築の伽藍が建ち並ぶ
西院に入っていくことにしました。
回廊に囲まれて、五重塔と金堂が並んで建ち、
奥には大講堂が見えています。
敷地が大きすぎて全部がカメラに納まりきれませんでした。
ここにある圧倒的な仏像及び壁画群を
いちいち取り上げて紹介すると、
きりがないのでやめましょう。
とにかく聖徳太子はこの法隆寺で
涅槃の世界を築き、
人々を仏教で統制することで
国を治めようとしたんですね。
彼の政治はこの先の夢殿の地下にある
斑鳩宮で執り行われていたそうです。
推古天皇の摂政として官位十二階や
十七条の憲法を定めました。
「和を以って貴しと為す」っていう例のやつですね。
人心を鎮め、穏やかな国にしたい
という彼の志の高さが、
彼の行動すべてを支配していました。
そう、ある意味古代における
官兵衛のような人だったのですねえ。
西院を出て、今日の目的のひとつ、
子規の俳句が刻まれた石を訪ねました。
聖霊院の前にある鏡池のふちに立っているはずです。
場所はすぐにわかりました。
ガイドに連れられた子供たちが群がっていたからです。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。
折しも鐘がゴーンとなりました。
石碑を見ると俳句の前に前置きがありました。
「法隆寺の茶店に憩いて」と刻まれています。
初出は1895年の句です。
この地を訪れた正岡子規の心情と休憩姿が思い浮かび、
静かな秋の気配がにおい立つ句ですねえ。
彼の他の作品は知らなくても、
ほとんどの人がこの句を知っています。
わずか17文字が彼の業績を
後世に残しておるというわけですね。
いくら記事を書いても決して後世まで残ることのない、
貧相なライターとはえらい違いです。
柿食へば・・とつぶやいていると、
お腹がすいてきました。
ここらで一旦昼食休憩にしようと、
先ほどの南大門の門前にあったお店まで戻りました。
門前の、南大門が見渡せる店の二階の
食堂に入ることにしました。
注文したのはこれ。
うどん太子鍋と柿の葉ずしのセットです。
九月半ばとはいえ曇っているからか
ほとんど暑くなく、暖かい鍋が美味でした。
あ、ビールはもちろん車なのでありません。
次々と大勢の子どもたちが、
吸い込まれていく南大門を眺めながらいただきました。
さあ食後は少し距離を稼ぎましょう。
まだここまで6キロしか歩いていません。
先ずは大宝蔵院に向かいます。
榊獏山揮毫の扁額がお出迎えです。
それを見ながら、中に入っていきますと、
これまで見慣れたふっくらとした仏像と違って、
やけに細面の仏像が建っていました。
法隆寺の本尊である「百済観音」です。
どことなくお顔が飛鳥寺の大仏に
よく似ています。
なんでも聖徳太子と等身大で作られているそうですが、
実際の像高は2mを超えていますので、
いささか誇張されているようです。
そして次に夢殿に向かいます。
西院伽藍の前から鏡池の横を抜け、
東大門をでますと、
石畳の先に夢殿が姿を現します。
お、道標です。
なになに、「西院大伽藍是ヨリ西三」。
どっひゃー、法隆寺の境内が広いので、
道標が境内の道を案内していました。
このお寺には近隣の小学生もたくさん来ますが、
遠方だと修学旅行で来たりするのでしょう。
学生向けのお土産テントもありましたよ。
お、しかまろくんもいるんだってよ~。
続く
藤ノ木古墳の副葬品は、
国宝級のものも含め
1万点を軽く超えるものでした。
学芸員の方が熱心に説明してくれた中から、
面白いと思ったものを数点紹介しましょう。
まず、これは刀です。
石棺の中に入れられてあったものですが、
持ち手のツカの部分には
2個の鈴が内蔵されていたそうです。
振り回せばチリチリ音が鳴るものだったそうです。
後の世の武士の刀とはかなり異なります。
そして装飾品のひとつに
変わった形のものがありましたので、
尋ねてみますと、
なんと「イカ」を形どったものなんだそうです。
イカ好きのdoironとしては興味津々です。
また、こういった古墳の土器の中には
たいてい1個は入っているという
奇妙な形の土器があります。
アラジンの魔法のランプの口を広げたような形をした容器の
下の部分の横に穴が開いているものです。
どうも埋葬の際に酒をいれて、
みんなで回し飲みしたのではといわれています。
写真の前列中央の土器です。
つい先日父親を見送ったばかりなので、
これらの副葬品を見ていると、
親父の棺の中にもっといろんなものを
入れてあげられたらよかったのになあ
と考えてしまいました。
他にも装飾馬具の飾りの中に
直径2~3ミリの小さなガラスが
たくさん埋め込まれている話や、
出土した銅鏡の話など
本当に丁寧な説明をしていただいて、
厚くお礼を申し述べてから
文化財センターを後にしました。
それにしても入館料無料はありがたかったです。
これを「館無料」というのでしょう。
再び藤ノ木古墳のところに戻り、
周りを一周してみました。
里山を背景に見晴らしのいいところにそれはありました。
発掘当時はこんな姿をしていたそうです。
ところで、この古墳の被葬者は誰だったのでしょう。
棺には2体の男性とみられる遺体が
埋葬されていたそうです。
まだ、それが誰だと確実に決まったわけではないのですが、
「穴穂部皇子」ではないかと
今は言われてます。
あの聖徳太子の叔父です。
皇位継承争いの中で
若くして殺された皇子です。
聖徳太子の父である用明天皇の後、
誰が天皇になるかともめた後、
用明天皇の弟である
「崇峻天皇」(一緒に埋葬されていたもう1体だと言われてます)
が継承したのですが、
なぜ用明天皇の皇子である聖徳太子が
継承しなかったのか、
その辺もきっといろいろあったのでしょう。
とはいえ、こんな話はよくわかりませんよねえ。
当時の系図はとてもややこしく、
それを見ながらあーだこーだと言ってても、
系図を見ていなければ何のことやら
さっぱりわからんと思います。
興味のある方はこの系図と
あわせてお読みください。
ま、この辺は歩きには関係してこないので
スルーしておくのが無難だろうと思います。
それにしても権力争いは
いつも悲劇を生みますねえ。
藤ノ木古墳を出て、
宮大工などの住宅があった
西里の町に入っていきます。
土塀や築地塀の建ち並ぶ
路地の突き当たりには法隆寺の西大門が見えてきます。
このあたりには、道端に地蔵さんがたくさん並んでいます。
このあともいっぱい出会ったのですが、
どれもきれいに花が手向けられていたのには感心しました。
さすがに、世界遺産の町だけあって、
そこに住む人々の篤い思いを感じます。
法隆寺に来て、
そこに入る前に寄り道が長くなりました。
西大門からいよいよ法隆寺の中に入っていきます。
続く。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
ご存知正岡子規の俳句です。
この俳句を刻んだ石が
法隆寺境内の鏡池のふちに立っている
というので見に行きました。
また法隆寺といえば、
先日歩いた太子町に墓のあった
聖徳太子が創建したお寺です。
きっとどこかでつながりを
見つけられるだろうという期待もありました。
天気は少々曇っていましたが、
訪ねるには柿が色づき始めるこの季節がいいだろうと、
仕事をパッパと済ませて
出かけることにしました。
高速道路の法隆寺インターで降りて、
道路はまっすぐ法隆寺へと向かいます。
途中田んぼの畔や川の堤防を
真っ赤に染めてヒガンバナが咲いていたな。
指定の駐車場に車を停めて、
まずは参道の松並木から歩きはじめましょう。
今回はこんな経路を歩きました。
まず、南大門手前を左に折れて
藤の木古墳に向かい、
そこから西里の街並みを通って、
西大門から法隆寺境内に入り、
ひとめぐりした後
少し離れた法輪寺と法起寺まで
足を延ばすコースです。
参道を歩き終え、
とりあえず国宝の南大門に到着です。
ここには「下馬」の石が建っていました。
主人を送り込んだ後
馬の管理をする家来たちが
ここに集まって世間の話をする。
それが「下馬評」なんですね~
この法隆寺は、国宝が全部で38もあり、
ひとつのお寺の国宝数としては
最も多いお寺です。
しかも日本で初めて世界文化遺産に
登録されたところでもあります。
そのせいか、境内及びその周辺の至る所に
ボランティアガイドさんがおられます。
南大門の説明板を見ていたら、
近づいてきて、丁寧にコースと
歩行のコツを説明してくれました。
南大門に入る前に、
先に藤の木古墳に行き、
斑鳩文化財センターによることを勧められました。
言葉の端々に文化財センターは「無料だから」、
「お金はいらないから」というくだりが入ります。
うう、貧乏を見抜かれていたようです。
でもせっかく無料なので行ってみましょう。
南大門を横目に西を向いていきますと、
宮大工などが多く住んでいたと言われる
西里の集落の南のはずれを歩くことになります。
まだ少し早いコスモス畑などの植わった
のどかな光景が続き、
やがて藤ノ木古墳に到着します。
この古墳に入る前に、
先ほどガイドに教えられた
「斑鳩文化財センター」にまず行ってみましょう。
ここがそれ。
なかなかこぎれいな施設です。
建物もきれいですね。
それもそのはず、このセンターができて
5年経っていないそうです。
広い駐車場がありますので、
ここに先に来ていれば、
駐車料金も取られずに済むのでは・・・残念です。
でもまあこれくらいの貢献はしておきましょう。
センターの中庭には、
藤の木古墳で発見された石棺のレプリカが
デ~ンと置かれています。
本物は二上山の凝灰岩で作られたそうです。
館内に入りますと他に客はいません。
受付の高齢者の人が、待ってましたとばかりに、
ずっと付き添って説明をしてくれました。
当初ここではライターの名刺が登場かな
と思っていたのですが、
普通の観光客を装うdoiron一行にも
親切丁寧な対応で付き添って
相手をしてくれたのには恐れ入りました。
展示室へ入っていく道は、
古墳の石棺が安置されているところまでの
羨道(せんどう)
と言われる道を復元したものです。
通常この羨道には、
ふたをするように大きな石が置かれているのですが、
この古墳は小さな砂利が詰められていたそうです。
それだけに侵入しやすく盗掘の目にあいそうなのに、
昭和60年の発掘まで未盗掘だったのは
稀有なことでした。
その羨道の砂利の中には
土器なども混ざっていたそうです。
突き当たりには、先ほど中庭で見た形の石棺
がデンと座っています。
この石棺の置かれている向きが
この古墳の造り方に大きくかかわっているそうです。
羨道の幅と同じ石室内きちきちに
横向きに置かれてあるのは、
縄のかけた方などからどう考えても
上から入れたとしか考えられないとのこと。
となると石棺を入れるタイミングは・・・。
と推理ともいえる想像が展開していきます。
また発掘に関わった人々の想像は
これだけにとどまらず、
古墳内に残ったものの色、形、素材、位置
などからもどんどん広がっていったのです。
続く
集落を抜けると、前方に見えてきたのが
「橘本土橋」です。
加茂川
という川に架かっているこの橋。
土橋といっても今は木の橋になっています。
すぐ横に県道の立派な橋が架かっているにもかかわらず、
そうして残されてあるのは
名所図会にもあるように
この橋のところが、
昔は重要な船着場だったからだそうです。
熊野に詣でての帰り道
藤白峠を避けてここから船に乗り
和歌浦に出ていく人もいた
と平安末期の旅行記にも書かれてあるそうです。
地図を見てみると、
この加茂川の河口の下津港には
今も「船出の地」というところが残っています。
多分そこからさらに海に船出をして
各地に帰っていったのでしょう。
いつかそこも見に行かなくては
と思っています。
せっせと街道を歩いて、
熊野に詣でる旅も帰路は船旅が
容認されていたようだと資料にありました。
その橋のたもとにあるのが、
大きな石の「三界万霊碑」で、
船からこれを見上げながら
海へと下って行ったのでしょう。
さて熊野古道の往路は
この橋を渡って左折していきます。
しばらく橘本の古い街並みが続きます。
この先にある拝ノ峠と、
ここまで歩いてきた藤白峠の間の地として、
このあたりは、船着場だけでなく
旅籠や伝馬、駕籠屋の並ぶ
交通の要衝であったそうです。
そんな街並みの先に
所坂王子の碑がある
橘本神社があります。
この神社の主神は「田道間守命」です。
え~、このブログの熱心な読者の方なら、
この名前に訊き覚えがあるでしょ。
そう、あのカニカニツアーで行った
木津温泉の売布神社の件で出てきた神様です。
その地では長い間遠い国に行き、
帰ってきたときに不老長寿の薬として、
お酒を見つけて帰ってきた神様と言われていました。
しかし、ここでは不老長寿の霊菓である
橘の木を見つけてきた
ということで、ミカンとお菓子の神様
となっているのが面白いですね。
信仰は時空を超え、
人の心が伝えていくものだから、
各地でその姿は微妙に変化していくのでしょう。
最近これだけ各地を転々と歩いていると、
いろんなところで人の思いや
行動の点と点が徐々につながっていくのが、
まるで幼虫が一齢から二齢、
二齢から三齢へと成長しつつ
成虫に近づいていくような
感じをよく受けています。
これからの道中、
どんな脱皮を見るんでしょうかねえ。
さて、その田道間守命のおわす橘本神社の境内に、
喪中のdoironは鳥居の横をすり抜けて入っていきます。
そこが、「所坂王子」です。
この王子名についている「ところ」というのは
植物名を表しているそうです。
ヤマノイモ科のツル性の植物で、こんな花。
昔、このあたりの坂に
たくさんあったから、
この王子名だとのことです。
そういえば、
ここまでの道のりでも
見かけたような気がします。
境内にはお菓子の神社らしく、
奉納の石板には、日本の名だたるお菓子メーカーが
名を連ねていました。
さあ、予定ではここから拝ノ峠を目指して
登って行くのですが、
本日最大の災難である
カメラ忘れ事件のせいで、
携帯のバッテリーがやばくなってきていました。
それもそのはず、
ここまでで140枚ほど携帯で撮影しています。
もし山中で携帯が使えなくなると、
画像を残せないばかりか、
さらなる災難時の緊急連絡も
ままならなくなりますので、
ここは余力を残して
帰路に着くことにしました。
先ほどの橘本土橋に戻れば、
JRの加茂郷駅に向かうコミュニティバスがあったはずです。
行ってみると、最寄りの加茂郷駅まで
一日3便あるバスのうち1便が
30分後に来ることがわかりましたので、
それに乗ることにしました。
時間があったので、楽しみにしていた
昼食(コンビニおにぎり)とビール
(も、も、もちろんノンアルコールでしょう、多分)を
橋のところで少しくらいならいけるだろう
と摂取しながら待っていると、
ほぼ時間通りに海南市コミュニティバスがやってきました。
バスとは名ばかりのワンボックスカーでしたけど・・・。
この運ちゃんが、まことに地元密着運ちゃんで、
途中で乗ってきた乗客と
「〇〇さん、今日は電車に乗り継ぐの?
もう時間アカンよ」などと超親しげです。
加茂郷の駅に着いて、
「このへんにコインPはあるかな」
て聞いたら、
「そんなんないよ。その辺にとめといたらええねん」
と駅前の小さなロータリーを指さして言ってくれました。
う~ん、しかしねえ~、それはねえ~
次回もやっぱり海南に車をとめて
電車でここまで来ようと
優等生doironは心に固く誓いつつ、
このシリーズ終わりです。
次回は加茂郷~宮原となる予定です。
藤白坂を登り終えたところにある
地蔵峯寺に着きました。
まずはコースからチョロッと離れている
「御所の芝」を目指しましょう。
トイレの横から入っていくと・・・
ん?足下で何か動きました。
よく見ると、蛇でした。
折しもそこに差しかかった男性から、
「それはちょっと毒あるよ~」
と声がかかりました。
変な中国語の「毒あるよ」ではなく、
毒を持ってるよ~という意味でしょう。
すかさずパチリと写真撮影。
どこにいるかわかりにくいのですが、
間違いなく写っていますよ。
もし、これを知らずに踏んでいたりしたら、
シャレにならない新たな「災難」になるところでしたが
こんなのにも遭遇せず
幸運にも事なきを得ました。
日頃の行いが功を奏したのでしょう。
御所の芝からの眺めは、
「熊野路第一の美景」と言われています。
当然今は和歌山県朝日夕陽百選にも選ばれています。
景色のよさにひかれて、
doironも思わずパチリと写ってみましたあ。
再び先ほどの地蔵峯寺のところに戻りますと、
そこが「塔下王子」です。
別名「藤代峠王子」ともいいます。
山の中に立派なお寺があるなあ
と思って見ていたら、
立派なのはそれだけではありませんでした。
なんと境内には、
熊野詣をする人にとってはとてもありがたいことに、
屋根付き壁付き、畳付きで、
しかもクーラー付き、
も一つおまけにテレビ付きの
立派な休憩所がありました。
山越えの長旅を歩いてきた人には
ありがたい所です。
もしかしたら宿泊も可能なのかもしれません。
doironは、残念ながらそうゆっくりもしていられず
持参したお茶と羊羹を
ここで一切れいただいて、
しばし休憩しただけで出発です。
久しぶりに見る「導き石」に導かれて下っていきますと、
道はいきなりミカン畑の方に
落ちていくようにつけられていました。
ミカン農家の方でさえ気を付けて通らないといけないような道です。
ここでは滑落注意報発令です。
しかも、道端にはイノコズチも大量に生えていて、
こちらはひっつき虫警報となります。
気をつけなければ、
また新たな二つの災難に遭遇してしまいます。
前方に見える景色に気を取られながらも、
慎重に下っていきますと、
道は車道に出てはまた畑に入っていく
というのを何度か繰り返します。
つまり、クネクネと下っていく車道を
直線で横切っていくといった感じです。
かなり下の方に来て、
ようやく道は舗装路となりました。
下る途中、ミカン畑の作業小屋から
流れてくるラジオの音を聞きながら
歩いているとなんか懐かしい気分でした。
下りきったらそこは下津の町です。
集落の中に入ってきても
道端に地蔵が多くあります。
中でも、とりわけ手厚く祀られている
こんな地蔵を見かけたら右折して
阿弥陀寺にあるという「橘本王子」を目指します。
クネクネと路地を歩き、
到着したのがここ。
境内に入っていくと
おなじみの熊野ブルーがお出迎えです。
例の八咫烏を刻んだ石も置かれてありました。
橘本王子跡です。
それにしてもこのあたりは王子が次々とあって、
通過王子ポイントの荒稼ぎとなりますな。
そしてその横にはミカンのルーツである
橘の木が植えられています。
この王子は古くは「橘(タチンボ)の王子さん」
と言われていたそうです。
そして藤原定家の熊野御幸記には
「橘下王子」とも書かれているそうです。
長い年月を経て言葉も伝わっていくんやね。
いずれにしても、ミカンの産地に
ふさわしい王子名というわけです。
王子の名前にも、
地域地域の特徴が含まれています。
歩いていて思ったのですが、
このあたりは、集落の中の溝が
大変深く掘られています。
先ほどから降りてきた道の傾斜が、
つま先が痛くなるほどの急斜面だったので、
少しの雨でも一気に増水するのだろう
と考えると溝の深いのも
なるほどの作りやなあと納得しながら、
あと1話続きます。
藤白坂の三丁の辺りは
かなり山の中の道をゆきます。
そして4丁からは本格的な山道です。
ムシムシ注意報、クモの巣注意報も同時に発令です。
そして五丁ともなると、
両側から木の枝が覆いかぶさり、
クモの巣が我が物顔にはりめぐらされ、
すぐにクモの巣警報に変わります。
先ほどクモの巣の災難騒ぎがあったので、
過敏にならざるを得ません。
ここからは持参していたステッキを、
振り回しながら歩きました。
せっかく苦労して巣を作ったクモにしてみても
それを壊されるのですから災難としか言いようがありません。
もう少し人の通らないところに巣を作れば
丸く収まるのにと、クモにぼやきつつ歩きます。
六丁辺りの道から
キツネノマゴが咲き始めました。
野の花には珍しく腰痛に薬効があるといわれている花です。
まだ試したことはありませんが・・・。
そして七丁。
ここは大変豪華な丁石ポイントでした。
手作りの祠の中に石が7体並び、
賑やかな飾りがいっぱいついています。
いつもさびしげに山道にたたずむ石仏達とちがって、
なんだか楽しそうに見えますね~。
こんな癒しこそが、難渋して熊野詣を
続ける途上に必要でありがたかったんでしょうねえ。
お、よく見ると祠の屋根の下に
「七丁目」の文字があります。
そうかあ、住居表示の「〇〇町7丁目」
という書き方のルーツはこういうところからきてるのかと
ハッと気がつきました。
八丁石の周りには掃除道具が置かれています。
いいですね、地元の皆さんもこの道が好きなんですねえ。
そこを過ぎると、遠くに海が臨める場所に出ます。
思えば一の鳥居の海抜11mから
ずいぶん登ってきたものです。
関電の煙突の向こうには加太も見えています。
紀州街道から大川越えをして紀州に入ってきた人にとっては、
淡島神社を懐かしく思い出すポイントだったんでしょうねえ。
消防関係者が作ったこんなユニークな看板や
思わず叩いて渡ってしまいそうな石橋を超えると、
九丁、
十丁、
十一丁と続きます。
このあたりは黙々と登ることになるので、
さすがに汗が止まりません。
あれ?次にあったのが十三丁です。
どうやらこのあたりはこじんまりした丁石が続いていたので、
十二丁を見逃したようです。
そして十四丁。
そこが筆捨松遺蹟です。
やはりいわれがあります。
天下一の絵師が熊野詣の途中、
ここで童子と出会ったときに
松にウグイスの絵を描いたそうです。
そして童子は松にカラスを描きました。
その二種類の鳥が、
ポンポンと手を叩くと絵から飛び出し、
もう一度ポンポンと叩くと、
童子の絵にはカラスが戻ったのに、
絵師の絵にウグイスは戻らず、
それを無念と思った絵師が
松のところに筆を捨てたそうです。
それが筆捨松のいわれです。
結局、カラスを描いた童子が
熊野権現の化身であったと言われています。
天下一の絵師でも熊野の神様にはかなわない
という、いわば熊野の御霊験を
誇張したいがための話なんでしょう。
そしてもうひとつ、
あの三本足の八咫烏が
熊野権現の神使であることも
この話にあわせて熊野比丘尼ら広めたのかもしれません。
今の時代になって、
その松はもう残っているはずもなく、
話だけが残っているというわけですが、
その松があったところに
形になって残っているものが一つあります。
それが、その横にある「硯石」です。
これ。
筆捨松の伝承を訊いた、
和歌山藩の初代藩主徳川頼宣公が
そこの大石に硯を刻ませたものです。
総じて木の文化に支えられていた
熊野の文化の中で、
仏以外で形を残しているものは少なく、
硯石はその代表といえるかもしれません。
さあ、先を急ぎましょう。
十四丁まで来ましたので
あと一息です。
これが十五丁、
そしてこれが十六丁。
最後の十七丁はどんなだろうと
期待して登ってきたのですが、
さり気ない丁石でした。
まあ、目的地熊野はまだまだ先ですから、
ここで喜んでばかりもいられません。
その先で久しぶりの
熊野ブルーの道標に迎えられ、
すぐそばにはこんな地蔵もありました。
資料によっては、藤白坂の丁石地蔵は
18体あるとも書かれてありますので、
もしかしたらこれが藤白坂最後の丁石地蔵なのかもしれません。
その先の足下には、
これも久しぶりの導き石が埋められ、
見上げると和歌山県下四大宝篋印塔のひとつがお出迎えです。
足下と頭上。
まるで現代のマンふたと
電プレみたいやなと思いつつ
藤白坂を上り終えて
地蔵峯寺に到着です。
続く。
一の鳥居を超えてすぐの神社である藤白神社は、
7世紀頃に斉明天皇により
白浜温泉行幸の際に社殿が営まれたと言われており、
熊野古道のまだこれから先にある
藤代、切目、 稲葉根、滝尻、近露の
「五体王子」のひとつとして
熊野詣の際の重要な役割を担っていました。
「後鳥羽院熊野御幸記」にはもちろん
「紀伊国名所図会」にも描かれ、
「万葉集」にも登場します。
また、この場所で催された歌会で
詠んだ歌を載せた
「熊野懐紙」も今に伝えられているくらいです。
海南の町からじわじわと登ってくる途中に
この神社があります。
門前に旅館があるのは、
詣でる人が多いということなんでしょうか。
先ずは藤白神社へのお詣り
といきたいところですが、
doironは現在は喪中の身であります。
鳥居をくぐれませんのでお詣りはせずに、
熊野古道紀伊路押印帳に
紀伊路和歌山エリア6つ目の
スタンプだけをもらうことにしました。
続いて、隣接する藤白王子権現社を見に行きました。
ここには、今年の5月に確か
天王寺の市立美術館の
「山の神仏」展でお会いした
終点熊野三所権現の本地仏である
熊野本宮の阿弥陀如来、
熊野速玉の薬師如来、
熊野那智の千手観音の面々が
坐しておられるはずです。
もうここに帰っておられるでしょう。
貴重な文化財ですので
一般人にはなかなか見れないんでしょうから、
心の中で手を合わせておきました。
あ、そうそうこの神社の入り口近くに
子守楠神社というのもありました。
ちなみに、以前ブログに書いた白浜に記念館のある
「南方熊楠」の名前は
熊野の”熊”とこの神社の”楠”から
つけられたそうです。
ああ、また歴史がつながりました。
そしてこの神社の一番南側にあるのが、
「有間皇子神社」です。
皇位継承の争いに巻き込まれ、
19歳の若さでこの地において
絞殺された悲劇の皇子です。
この有間皇子は孝徳天皇の皇子ということですから、
先日太子町で見てきた孝徳天皇陵と
ここでまたdoironの訪ねた先の歴史がつながりました。
あちこち歩いていると
関連が出てくるもんですね。
こうして関連付けられると
記憶にしっかり残ります。
万葉集に有間皇子の歌が二首あります。
「家にあらば けに盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」
「磐代の浜松枝をひきむすび 真幸くあらば また還り見む」
いずれも絶唱という名にふさわしい歌であります。
その皇子のお墓が、
藤白神社を出て熊野古道を
万葉集ゆかりの紫川を眺めながら
海南ICの脇をすり抜け
200mほど先に進んだところにあります。
ここ。
熊野古道の曲がり道、
藤白坂の入り口の
見晴らしの良い場所に、
すっきりと明るくしつらえてあるのは、
若い皇子の魂を少しでも鎮めてあげよう
という人々の配慮なのかもしれません。
とまあ、そんな具合に
熊野詣の五体王子のひとつである
藤白王子をしっかりと目と心に焼き付けた後は、
藤白坂の急な登りにさしかかります。
結構な急坂ですから、
高齢者にはちとしんどいかもしれません。
熊野御幸が盛んだったころは、
この坂には駕籠屋がいたというのもうなずけます。
そんなしんどい坂道を
ゆっくり上る人達の気持ちを紛らわし、
要所要所で力づけていた丁石地蔵が
この坂道の途中にあります。
1丁石はさっきの有間皇子の墓の横にありました。
もともとの丁石は全部で17体あったそうですが、
今から約30年前の調査では
4体しか残っていなかったそうです。
今は復元されていて、doironは
十二丁石だけ確認できなかったほかは
すべて確認しました。
順を追っていきましょう。
これが一丁石。
これは当時からあった石だそうで、
文化財的価値が高いとのことです。
二丁石のところには、
あの徳本上人の名号碑も立っていました。
山道にはツルボの花が咲いていました。
史前帰化植物のこの花は、
凶作年の救荒植物として
植えられていたそうですが、
アワ、ヒエなどに地位を奪われ
影が薄くなっていったとみえ、
万葉集にも一首も詠われていません。
そんな花に見とれながら坂道を登って行くと、
あわわわ~クモの巣に頭を突っ込んでしまいました。
これは人にもクモにも災難です。
クモの巣注意報が発令される中、
登り道はまだまだ続きます。