ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

曽根神社で清祓い

2016年09月30日 21時19分06秒 | 最近の出来事

さて、今年も祭りが近づいてきました。



例年なら、よっしゃー頑張ろう
と気合も入いるのですが、
ここんとこ2年間は、
親の喪中だったため
祭りにはしっかりと
参加できずにいたのです。

もちろんだんじりにも触れません。

その年は祭りの村の中でも
おとなしくしていようという立場と、
もしだんじりに触って、
誰かが本番に怪我でもあったら、
何とも言い回しのつかないような
立場になるわけです。

すると義理の母親が亡くなった今年も、
だんじりに触れないなあ
と思っていたら、
「義理の親の場合はお祓いしたらええやん」
という、村の重鎮の話があったので、
今回はそれをすることにしたのです。

子どもの頃からこの神社の
近所に住んでおきながら、
宮参りや七五三などの
決まりのお祓い以外を受けるのは初めてです。
いつものだんじり宮入の
神社での事前のお祓い。

まず日にちは六曜でいくと
やはり大安がいいでしょう。

祭りに一番近い大安で受けれる日となると、
同じく大安の秋分の日(三時間走)
や四国巡礼(28日)を避ければ、
16日の金曜がそれにあたります。

さっそく神社に話をすると、
その日付でOKとなりました。

時刻は午前10時30分。

他家の宮参りの跡
ということになりました。

いいですねえ。

なんかありがたみを感じますねえ。
そしてその後は予約時間丁度に
doironのお祓いとなりました。

こういうお祓いは

「清祓い」

というそうです。
へ~、そんな名前も
ついているんやねえ。

お祓いしてくれるのは、
子どもの時からの地元後輩の息子で、
doironの息子と同級生の
男の子が行ってくれました。
もう、神主も継いでいるんですねえ。

社務所で事情を話すと、
「ああ聞いてます」と言ってたので、
通常のお祓いに加えて
この際もう一つ「身体堅固」も
お願いしておくことにしました。
心臓といい脳といい、
いろいろあるからね。

はいわかりましたと了解を取り、
いかにもパワースポットな
こんな神社の本殿に入っていくと、



その中のお払いのための部屋に
案内され、そこで椅子に
腰かけながら待っていると、
いよいよお払いが始まりました。

巫女さん登場です~

ではなく、その息子の同窓生が
静々とおこなってくれます。

お祓いしながら、
神への敬語に続き、
いろいろな儀式を行いながら
祓いは進んでいきます。

そんなお祓いの言葉には
「清祓い」のほか「身体堅固」も
加わっています。
よしよし。
そしてdoiron自身も
「子どもの頃からずっとそばに
いてくれてた神さん。
何度も命を助けてくれたけど、
今回もよろしくお願いします~」
としっかりお願いしておきました。

お祓い経費を払って
最後に受け取ったのがこの封筒。



中を確認してみますと、
右から「破魔矢」かな。



それと健康箸とお札、
そして上が勾玉付きの腕輪、
そして下が神社のお守りです。

これらを身近に置きながら、
毎日を暮らしていくといいでしょう。

また祭りのときには、
腹巻の中にこのお守りを
潜ませておくことにしましょう。

え~っと、これはねえ
お祓いとは関係ないと思うんやけど、
それ以後村の人たちに
呼ばれて参加する麻雀で
上がれなかったけど
ダブル役満をテンパったり、
トップも今のとこ5連ちゃん
と大当たり。

神様のご利益のおこぼれなのかなあと、
みんなで騒いでいる次第で~す。


ぶらチャリ22大津川に触れた

2016年09月29日 21時39分32秒 | 最近の出来事

我が市をおじチャリで
南へ南へと向かっていくと
市内最大の河川、大津川に出る。

チャリンコでたどり着いたのが
河口近くのこんなところ。



この辺りは、潮の満ち引きで
水に浸かったりするから
道だけはできているけど
遊び感覚はあまりないね。
潮のない時には
歩けるようになっているだけ。

あっ、でもこんな距離表示が
新たにできたようですねえ。



どこまでついているのかな
これもまた確認しないといけないなあ。
大津川は牛滝や槇尾の方から流れてきて
我が市の上流で1本の川に合流して
大阪湾に注いでいる川なのだ。

で、この川の上流で、
地元のランニングクラブ主催の
「三時間走」が秋分の日に
行われることになっていた。

その開催に向けて
平日もお休みのdoironは
様々な指令を受けている。
一つはおづみんを前日に連れて帰って
前泊、後泊で一緒に過ごすというものだ。
前日の夜には我が家で宴会をした。

もう一つの役割が市役所との連携

おかげで市の後援もとれてよかったね~

また前日のトイレ設置の立ち合いも
引き受けた。

そのための堤防への入口の
カギを借りてきてたので
それがちゃんと動かせられるかどうかの
確認をまずしておこうと
この日、おじチャリで
ここにやってきたのだ。



せっかく業者が来てくれたのに
鍵が合わないとシャレにならんからね。

現場について
鍵を合わせてみると

ん~、ウヒャ~開かないぞ!

あれ~と思ったときに
ピコンと開きました。

よかったよかった

屋外のカギでサビも
回っているのかもしれません。
でもまあ、これで前日時間通りに
来れば、設置の立ち合いはOKだろう。

=========
で、ここからは三時間走にまつわるお話

開催前日はおづみんの引き取りをし
その足で、一緒にトイレの設置を
確認しに行きました。

午前11時。
時間通りに指定業者さんが来られて
トイレ設置が始まったのです。
まあ、慣れたもんだ。
アッという間に設置が終わり
さあ、これで指令も果たしたぞと
思ったその時である。

あれ~、水洗用の水を入れたら
タンクからぼとぼとと水漏れが
するではないですか。
確認してもらったら
どうもタンクのキャップが
あってないようなので
これは変えないといけないから
ちょっととってきますと
二人来てたうちの一人が
店に取りに帰りはったのです。

で「、のこった若い男性と話をしてたら
その男性も大阪マラソンを
走ったことがあるといいます。
五時間半でふらふらになりました、だって。

いやあ、練習なしで5時間半で
走れたら上出来ですよ~
なんて話をしてたら
鍵を取りに帰った人は
4時間台でゴールしたとのこと。
いやあ、普段きっちり体をうごかして
仕事をしている人というのは
なかなかのもんですね。

で、その4時間兄さんが帰ってきて
キャップを変えてみたら
ウヒャー、まだ水が漏るとのこと
結局タンクまで変えて
設置作業が完了したしだいです。

はあ~、これで明日トイレが
ちゃんと動けば問題ないだろうと
大会のこと以外にも
ちょっと心配なことが増えたような状態でした。

主催の実行委員をやると
こんなことも気になるもんなんですな。

で、台風でいったん河川敷が
全部水で覆われた翌々日
まあ、うす曇りの絶好天気で
大会日を迎えたのでした。



トイレもちゃんと動いているし
河川の管理をしていた
市の担当課もすぐ掃除に来てくれるなど
大変協力してくれたようで
ありがたいことでした。
翌日担当課に行って
お礼しときましたよ。

こうして大会は、全員の協力で
無事に終了しました。

doironはいつも通りのメンバーで計測でしたが



集団で2回ほどゼッケンを見逃したものの
まあ、5回目めということも会って
経験からクリアーできたようです。



これは昔のウルトラメンバー(ふたり現役)



これはもっと昔に一緒に走っていた仲間



三日間、我が家で一緒に暮らした
おづみんも元気です。
キャラクターに投票してあげてね~

こうして無事に5回記念大会も
大成功で終えることができたのも
まあ、スタッフのこれまでの
経験があってのことだったでしょうね。
よかったよかったです。

========

とまあ、大会はこうして
成功して終わったので
おじチャリも役に立ってくれたようですね。

事前のオジチャリ散歩で
そんな用事を済ませた後
大津川をぐるっと回って帰宅。

あっ、そうそう、この大津川に
アユが帰ってきているそうですよ。



そんな川になってきているんですねえ。
これからも楽しみです。



初秋の一日の
楽しいブラちゃり
なかなかもりだくさんな
一日なのでありました。


ぶらチャリ21看板に触れた

2016年09月28日 21時01分25秒 | 最近の出来事

さて、おじチャリ2号は
南向いて進んでいきます。

そうだあ、南の空には
明るい未来が待っているのだあ~

ではなく、

ここから南の方に1キロほど
移動していったところに
車の中からちらっと見ただけでも
どうも変な看板だぞ、というのが
前から気になっていたのだ。
なんて書いてあるのかなあと
気になって読もうとしても
後ろの車の流れが気になって
止まってきっちり見ることができないでいる。

それは見ためしっかりした看板なんだけど
どうも書かれてある言葉が
記憶の断片をたどってみても
ちょっとなんかおかしいぞ
という感じだったのだ。

なので、一度おじチャリでいってみて
じっくり観察してみようと思っており
本日やっとそこに向かったのでありました。

え~、途中のこの辺りは静かな住宅街です。
よくぞジダンが住めたものです。
きっと生活するのに苦労したことでしょう。



そんなところをチャリで転げつつ
前方にもう使用が中止になった
市民会館が見えてきました。

え~っと確か成人式も
ここだったような・・・
大阪にいなかったので
知らないけどね。
最近、耐震の問題、老朽化の問題で
使用が中止になりました。

え~、ということは左側が
doiron家の墓ですね。
11月くらいに父母の
三回忌をしてあげなくては
なりませんね。
待ってってね。

そのあたりの道を海側へと
向かっていったところに
その看板が張られています。
その枚数は、3~4枚あります。

一枚目は、これ



「ずるいことや 卑しいことをしない!」

と書かれてあります。
確かに、まあそうありたいものですがねえ。
でも、他人に言われることでは
ありませんよねえ。
しかも看板にして、
説得されるほどにねえ。

しかもその看板、
単なる手書きではなく
なんとなく既製品みたいな
きれいな文字で書かれています。
よほど気合が入っているんですねえ。
どんな人間が書いたんでしょうねえ。
きっとなにか人に言われん
悔しい思いをした人なんでしょうかねえ。
一度書いた人にあってみたいものです。

で、二枚目がこれ



「負けるな 嘘を言うな
弱いものをいじめるな」

う~ん、この人の過去に
何かトラウマでもあるんでしょうか。
とっても悲しい目にあって
負けてしまったとか。

はい。でもわかりました
決して間違ってないですね。
しっかりと頑張って
生きていきましょう~
 
そして3枚目がこれ。



「泉大T市の道路等には
口にした物品等を
絶対に捨てない!!」

う~ん、なんかこの言葉の
陰にはとんでもない
歴史的事実が含まれているようですね。
かつてこの看板に書いてあるような
事実が人々を苦しませていたような・・・
それにこの三枚目の看板も
きれいな既製品のような
立派な看板というのが
その歴史的事実にさらに
重みを加えているような気がしますねえ。

ではその原因は何でしょう

チューインガム?
ああ~そうかもしれません。
あれを踏んだ時は
腹が立ちますもんね。
なんとかして犯人を突き止められないか
と思ってしまいますよねえ。
はきたての靴なんかだったりすると
DNA鑑定をしてくれと
思ったりしますねえ。

たばこの吸い殻?
ああこれも大変です。
村の中の溝にいつも吸い殻が
あふれているところがあります。
同じところで火をつけて
同じところで消す通行者が
いるんでしょうねえ。
毎月、町内清掃を一緒にしている
村人たちでは決してない人でしょうよ。
家事等の心配も残りますねえ。

まあ、この看板を作っている人の
気持ちはよくわかります。
まともな言い分であることに違いありません。
作った人の気持ちがしんみりと
看板ににじんでいるようです。

そして最後の一枚がその横に張られた

「よき市民たれ!」

あ、これらの看板を作ったのは
もしかして市会議員かなあ。

看板作成経費は政務調査費
いやいや、法律改正なって
政務活動費で作ったのかなあ。
まあ、これは町をよくしようというもので
なんとか政務活動費の中に入るかな。

あんたは辞職しないでよろしい!

でもさあ、あんな事件があったら
自分らの市の議員が
どんな政務活動費を使っているのか
知りたくなりますよねえ。
二年間ぐらい続けている
ボランティアの広報誌のモニター仕事で
「次回広報誌にそんな情報をのせろ~」
とか書いてみようかねえ。
中身まで乗せなくても
金額くらいは載せてもいいんじゃないかなあ。

そんな中身もそうですし
もし掲載できないとしたら
広報の返事がどう帰ってくるのか
まあそれもちょっと気になりますねえ。
市の情報公開活動の取り組み方が
それでわかるかもね~

まあ、それはさておき

やはりこれまで車で
ちらっと見ただけだったのですが
実際見てみると
なんとなく面白い看板でしたな。

なかなかえらい市民もおられますな。

さて、ではここでおじチャリも
帰りかなあと思ったら大間違い。
ぶらチャリの行く先はまだ続きます。

祭りが近づいて、町では
あちこちの電柱にカバーを付けたり
していますし
こんな鍾馗さんのいる家や



うだつの上がっている
浜街道の古い住宅に



赤じゅうたんをつるして、だんじりの
衝突を避けようとしている姿なんかも
見ながら、さらに南のほうへと
おじチャリは進んでいくのです。

この後向かうのは、
地元ランニングクラブ主催で
実施している三時間走大会の
開催に向けて、種々doironに
与えられている準備のために
その会場である
大津川へと向かうのでありました。

ちりん~と続く


ぶらチャリ20若冲に触れた

2016年09月27日 21時41分17秒 | 最近の出来事

最近ちょっと散歩等には活用してなかった
オジチャリ2号に乗って
いくつか市内に気になるところが
あったので、久しぶりに
ちゃりちゃりと回ってみました。

もう市内の各地に提灯も上がり
祭り前の季節です。
前回のおじチャリ散歩は
桜の頃でしたねえ。
今の時期もぼちぼちチャリンコが
気持ちいい季節です。

今回まず最初に行ったのが、
一度ミセスが夜に行って
一株もらってきたいという
こういうコスモスが咲く辻を
入っていきますと



え~っと、泉大津城の正門です。



・・・というわけではなく
市内、ジダン家近辺にお住いの
H見様の門です。

滋賀県の膳所城で使われていた
高麗門です。



膳所城は淀川散歩の前に
いったことがありますねえ。
琵琶湖沿いの静かな公園でした。
その公園のところから
室戸台風で倒壊したものを
引き揚げてきたそうです
と看板がありました。



気になるのはその横にある
H見美術館の案内です。
この家の方が様々な
コレクションをしておられ
今は京都に美術館まで立てておられます。
そこで、この秋に伊藤若冲の絵画展を
開いているそうなんです。



ああ~、いいなあ、行きたいなあ
と思っていたら、ひょんなきっかけで
その美術館の入場券が手に入ったのです。
ウヒャー、これはやっぱり見に行かなくては、と
ずっと思っていたのですが
なかなか京都というとねえ
気軽に行くにはチト遠い。
ようやくその展覧会最終日の
前日になってようやく
京都へと行くことができました。

===ここからしばらく京都の話===

伊藤若冲といえば
六曲一双の「鳥獣花木図屏風」や
30枚の「動植綵絵」が注目を浴びていますねえ。

どれも超絶技巧で描かれた
見事な絵で、その彩色技術は
現在の人もうならすすごい手法。
超精密画でいて一切のミスがない絵。
驚きの絵なのです。
NHKが大きく取り上げたことで
今年は一層の注目を浴びています。

京都から、地下鉄二本を乗り継ぎ
東山へと向かいます。



駅から歩いていくと
こんな商店街の横を通ります。



ああ、いちど京都のそんな店を
覗いてみたいのですが
まあ、きょうはとりあえず
美術館へと向かいましょう。

その美術館はそこから
歩きで10分くらいかな~。
こういう公園に沿って







てくてく行くと、これがその美術館。



そして、おお~建物の外に
行列ができているではありませんか。



さすがに最終日の前日だからかも
しれません。
いや~そんなことなくて
毎日こうなんですよと
いわれるかもしれませんがね。

もちろん展示はすべて写真はだめです。
精密画をすぐそばで
こちらも精密に鑑賞してきましたよ。

気になったのはキャンバス。
あれは紙かなあ
それとも良質の絹なのかなあ

絵具は何を使ってるのかなあ。
墨はどんな筆で書いたのかなあ
昔の人のお絵かきの風景を
一度眺めてみたいなあ、と
思いますねえ。

週末の京都は結構な人盛り
でも頑張って、京都駅の片隅で
京都らしい食事を選んでいただき



さあ、帰ったらdoironも
アトリエにこもって絵を描こう
とか思いながら帰った
初秋の京都旅なのでした。

======

で、ここからおじチャリに戻ります

しかし、そんな若冲をお持ちの美術館の
持ち主が、こんな近所にいるとはねえ。

doironのお家が、doiron美術館に
なるのはいつなんだろうかあ。
なあんて思いながら、ジダン家のそばを
通りつつ、



さて次は車で見かける
変な看板のお家だあところころと
進んでいくのでありました。

続く


四国巡礼七十二番曼荼羅寺

2016年09月26日 21時24分22秒 | ウォーキング

さあて、この次の
72番曼荼羅寺をお参りしたら、
今回の巡りの予定は終了です。

回りながら、
今回のお寺はあまり
特徴少なかったなあとか
首Dさんと話していましたが、
振り返ってみると
やはりいろんな歴史を
持っているんですねえ。

次回の計画書ももうできているので、
しっかり予習しておきましょう。

さあ、最後のお寺参りです。



日本で密教が公の場で
初めて紹介したのは「最澄」でした。
しかし、彼は天台教学が主であったので
密教をあまり深く就学しているわけではなく、
実際は唐の青龍寺で
密教を深く学んできた空海が
それを本格的に取り上げた
とされています。

その教えを絵で説いたものが
「曼荼羅」で、この72番曼荼羅寺には



空海が唐より持ち帰ったものを
写した曼荼羅が納められています。

そもそもこのお寺は、
空海の一族である
佐伯氏の氏寺として
「世坂寺」として創建されたものですが、



この曼荼羅が納められ、
空海自作の薬師如来を
安置して今の寺号に改めたそうです。



空海にとっては、
自分の母上の菩提寺としたんだ
とされています。

曼荼羅を書いたり、
薬師如来を作成したり、
またある時は
井戸を掘ったりと忙しいですね。

そんなこともすべて空海が
したんでしょうかねえ。

書もいっぱい書いているし、
まるで、仏教界のクリエイターですねえ。

そんな彼の才能に倣って、
絵を描いているのも
もっと上達へとつながればいいですねえ。

このお寺では、
自分の後姿を大きく当てはめて



絵にしてみました。



足元の長靴が何といっても
今回のポイントです。

う~ん、これを見たら
バカな巡拝者と静かなお寺が
きちんとかけてるじゃありませんか。

おバカ曼荼羅やマラソン曼荼羅
なんてのも面白いかもなあ。

ま、それはさておき、
お参りです。

山門をくぐっていき、
本堂、太子堂でお参りです。



これは、その時あった
若いお遍路さんで、



「歩き遍路?」って聞いたら
「そうです。きついっすね~」
と言ってはりました。

学生さんかなあ。

もし逆回りじゃないとしたら、
あと一日で9月ですよ。
がんばって夏休み中に
回ってくださいね。

ああ~、これでやっと
第三回目の四国詣でが終わりました。

あとは琴平で昼食を食べて帰阪します。

時間はまだ12時前。
早い時間に大阪に帰れるでしょう。
バスに揺られて琴平に向かいます。

ここは以前に2回ほど
旅行できたことがあります。

なんかもっと遠かった
という気がするのですが、
バスに揺られてくると
意外に近くなんですね。

八十八か所とは関係ない、
別のお参り場所ですねえ。

こんな繁華街の中にある
お店にバスで入っていきます。



さあ、このツアー最後の食事です。
こんなんでした。



イカソーメンのあるのがいいですねえ。
そしてうどんは釜揚げつけ麺。
アイスです。
まあ、普段のお昼にしたら
食べすぎですけど、
でも全部いっちゃいました。

あ~あ、四国通いも
ダイエットには
何ともやるせないですねえ。

この後、バス停横のコンビニで
ビールを買って、
ちびちび飲んで帰りました。

だって回向中はやっぱり飲めないもんね。

となると、途中のトイレ休憩が
気になりますねえ。
休憩時にはしっかりと
トイレ参りしないとね。

さあ、これで今回の11寺を
回り終えました。
今のところ全部で17寺となりました。

したがって、絵も11枚描けたし、
帰りにバスの中で
返却してもらった掛け軸はこんな感じ。



う~ん、それなりにたまってきました。

次回は今月末に1泊で
7寺回る予定です。

ま、ということはまた
7枚絵を描くわけですな。

八十八枚の絵も
自分にしてみたら結願です。

う~ん、楽しみです。

帰りにエイによって
今回の打ち上げをして
帰った二人なのでした。

え~っと、もうあさってが
今月の四国参りです。

今回は以上。


四国巡礼七十三番出釈迦寺

2016年09月25日 20時40分26秒 | ウォーキング

次に行くのは、
73番の出釈迦寺です。



え~っと、釈迦の出る寺ですか?

ありがたい名前のお寺ですねえ。

そう、そうなんです。
このお寺の名前は、
空海の子どものころの
伝説に基づいたお寺なんです。

このお寺の裏には
我斬濃山(わしのやま)という
山がありました。

そこにジダンが昇って行った
んではなく
「真魚(まお)」という名を持つ
7歳の空海が昇って行ったんだそうです。

そして山の頂に立ち、
「仏門に入っていろんな人を救いたい。
もしその願いがかなうなら、
釈迦如来よ現れたまえ。
もしかなわないなら
一命を捨ててこの身を仏に供養する」
と言い、身を投げたんだそうです。

ああ~ジダンも今度は
崖っぷちでしてみてください。

すると、空海の場合、
釈迦如来が現れ、天女が真魚を
抱きとめたんだそうです。

いやあ、無茶な子だったんですねえ。
なにか似たようなものを
崖っぷちから飛ばしたら、
トンビが加えていった、
まあそんな逸話がこうなったの
かもしれませんがね。

でもまあこういう話は
ありがたい連想で包んでおきましょうか。

将来、釈迦を刻んで本尊とし、
出釈迦寺としたということです。



そしてこんな事件もあったから
その我斬濃山は我拝師山と
名付け変えられたようです。

絵を描くのはやはり
お寺から見上げたこの山の姿ですねえ。



ウヒャー、山頂下に
見事な岩場が出ていますねえ。



山頂から見下ろしたら
さぞかし怖い山でしょう。

絵でもわかると思いますが、
山頂の右下のコルに小さな祠がありますね。
これがこの山の禅定なんです。

そうそう、この話の最初に
「真魚」という子供のころの
名前が出てきましたよねえ。

ちょっと、この四国巡りの
同行使である「弘法大師」のことに
触れておきましょう。

彼は善通寺で生まれた後、
15歳まで讃岐にいました。

しかし、15歳で京都に上り、
18歳から大学に入って
勉強をし始めました。

だが彼は、そんな勉強だけでは
人は救えないと大学を呼び出し、
四国で修業を積んだ後、
22歳で受戒し、
名前を「空海」と名付けたそうです。

その辺のことはまだまだ
ずっと先の24番最御崎寺あたりで
わんさか出てくることでしょう。

なので活動する彼の名前は
「空海」とこれからも書いていきます。

あとまあ、彼の呼び名には
「弘法大使」というのもありますが、
まあこれは死後というか、
高野山で入定後100年経過したくらいに
与えられた名なので、
彼の行動を実績として書くときなどは、
「弘法大使」この名前を
使うことになるでしょうね。

「弘法大師、筆の誤り」
とか
「弘法、筆を選ばず」
といった具合に彼の場合
よく出てくるのが、
彼の「書」のきれいなこと。

確かに彼が書いた文章などは
様々なシーンで残っています。

そのどれもが非常にきれいな文書、
見事な文書構成力など、
確かにすばらしい文書なわけです。

ここへきて彼の生前の歴史や
中国での大活動、密教の開始者
としての実績を学んでいくにつれ、
いかに日本の上人の中でも、
一人とびぬけた
すさまじいものを持っていた
ことがよくわかります。

四国八十八か所めぐりは、
もしかしたらそんな彼の
心に触れる旅なのかもしれませんね。

坂の上の本堂、太子堂で
ここもしっかりお参りしていきます。

般若心経を唱える前に、
我々は
「開経偈」、「懺悔文」、「三帰」、
「三きょう」、「十善戎」などを
先達に続いてあげていきます。

そして「発菩提心真言」、
「三摩やがい真言」をあげたら、
そこから般若心経が始まります。

で、さらにその納経が終わったら、
「ご本尊ご真言」、「虚空蔵菩薩」、
「光明真言」、「大師宝号」、
「廻向」を唱えて、一クールです。

それを二か所で行うから2クール。

いやあ、こうして書いてあるのを
見るだけでも大変そうでしょ。

たしかにまあ、大変なんですが
近頃はそういう時間も
あまり苦にならないように
なってきていますから不思議です。

続く


四国巡礼七十四番甲山寺

2016年09月24日 21時27分54秒 | ウォーキング

今回の一番お寺である
善通寺は過ぎましたが、
四国めぐりという点では
1寺にすぎません。

次は74番甲山寺を
目指していきましょう。



善通寺が空海誕生のお寺だったとすると、
この辺のお寺には
空海が子どもだった頃の
話が残っているそうだ。

彼は親からお前は僧侶になる
といわれて育ったそうだ。
なので土などを掘りながら
泥土の仏像を作っていたそうです。

で、あるとき、善通寺と
曼荼羅寺の間で老翁が表れて
ここの石を刻んで毘沙門天を掘りなさい
と言ったそうだ。

その像を刻んだお堂の入り口に
お堂を立ててお寺を
設けていったとのこと。

最終的にその山の形が、
カブトムシなどの「甲虫」の
背に似ていたので「甲山寺」
という名前になったといわれています。

今回の絵はそんなお堂の
前に立ったお寺を絵にしてみました。



実際に行った時には、
お堂の中にどっと10人以上が
入ったので、ただでさえ暗い道内が、
人出が入口の光を防いで、
ますます暗くなって何も見えませんでした。



が、あきらめず最後まで残って
全員が出た後になって、
ようやく毘沙門天が見えるようになりましたな。

暗いお堂内に像はしっかりと
立っておりましたな。

絵では、そんなお寺の暗い感じを
もう少し浮かび上がらせかったのですが、
ちょっと物足りない絵に
なってしまったかな。



そして、ここのお寺周辺には、
これもぜひ近くまで行って
見てみたかったところがあります。

ツアーなのでそれは望めませんが、
それは空海が開発を命じられた
「満濃池」というため池です。

香川県は温暖少雨で、
昔から水の少なさに悩まされてきました。
なので農産物ができるための水がめとして、
ため池が多く作られてきました。
今も県内には1万4000近い
ため池があるそうで、
この満濃池はその中でも最大のものです。

これは空海が子どもの時の仕事では
もちろんありません。
48歳の頃のことです。

もともとこの池は3年を費やしても
できていなかったのですが、
すでに空海の高野山の
金剛峯寺建設での指導ぶりが買われて、
ここにため池を完成させるように
派遣したそうです。

すると、土地の人からも
慕われているおかげで、
やく3月で竣工したといわれています。

その時に朝廷から送られた報奨金で、
堂宇を立ててこの寺甲山寺が完成したそうです。



こんな事跡が数々と残されていることから、
各地で伝説を残していったのですね。

これまで歩いた中でも、
弘法大師=空海が掘って作った
井戸というのがいくつあったことか。

讃岐の人は、空海を人として考えられず、
うろたえてしまうが、
空海を人以上のものとして
考えるようになってようやく
気持ちが落ち着くのだそうだ。

井戸や爪書き地蔵など
熊野古道を歩いているときでも、
それはそれは各地に空海の
伝説が存在するのだから、
生まれ故郷の人々の心に
空海がいかに強烈に刻まれているかは
もう我々の理解を
大きくこえているんじゃないかと
想像できますねえ。

空海さんのおかげで
人がたくさん来てくれた。
そしてそれが我々の生活や
心を満たしてくれた。
いかに大きな存在なんでしょう。

そんなことを思うと
本堂や太子堂で上げるお経にも
ついつい力が入ってしまう。

もうここまで何回唱えただろうか、

般若心経。

きっちり覚えているわけではないけど、
なんとなく言葉がところどころ
つながってきている。

お経は100万回唱えると
自分のものになるという考えがあり、
空海は四国修行でそれを行ってきた。

まあ、100万回は無理だろうけど、
車のHDDにお経を覚えさせ、
折に触れ聞いていると
少しずつ近づいているような
気にはなりますね。

お経を聞きながら車に乗っていて、
例えば駐車券の確認や、
知り合いとあった時に窓を開けると
「おやおや~」て顔をされますわ。

でもこんどはジムで聞きながら
運動してみようかななんて
近頃考えている次第なのだ。

続く


四国巡礼七十五番善通寺

2016年09月23日 20時50分33秒 | ウォーキング

え~、76番金倉寺という名前のお寺で、
お参り時に賽銭財布を忘れる
というトラブルに会いましたが、
お大師さんのおかげで
乗り越えることができました。

さすがに同行二人のごりやくです。

まあ人生の旅路も、
周りの人に命を2度も
助けられたりしていますから、
こうして「お大師様とともに」の
気持ちでありつづけたいものです。

さて、次に行こうとしているお寺が、
今回一番気になっていたお寺である
75番善通寺です。



ここは、あの空海生誕地のお寺です。

「善通寺」の名前は
彼の父親である佐伯善通から
付いた名前で、いまはもう
市の名前にもなっています。

昔、空海は自分の聖地として
高野山を私寺として開発し始めました。

しかし私寺としての
高野山の開発は
資金、人出など無理なことが
たくさんありました。

生きてるうちに
高野山を開発できるだろうか
と思い始めたころに、
公寺である京都の東寺を授かりました。

高野山の開発を続ける一方で、
東寺を彼の真言宗の霊場としました。

したがって、高野山の金剛峯寺も
併せてこの善通寺は
三大霊場の一つと言われています。

バスが止まるときに先達さんから、
「ここは広いので迷子にならないように」
と注意がありました。
たしかに広い境内でしたね。

参道を歩き、本堂に向かっている途中に、
空海の子ども姿の銅像もありましたので、
ここではこの姿を絵にしておくことにしました。

これ。



バッグのお堂の部分には
これまであまり使っていない
手法も使ったので、
しっとりした雰囲気を出せたかなあ。

八十八枚の景色を描いていく中で
少しずつ新しいことも
やっていきたいですねえ。

まずは手洗い所で手を清めていきます。

このときふと柄杓を見ると、
その裏に「奉納 〇山▢男」みたいな
名前が刻んであります。

ああ、そうかあこういうヒシャクも
参拝者の奉納で成り立っているんやね。

だったらそうだ、
気になるお寺にはdoironと
首Dさんの名前で
柄杓を奉納してはどうかと考えたのです。

名前を記した柄杓を持っていき、
気になるお寺に奉納してきます。

これはいいですねえ。
お参り度も上がるでしょう。

ではどこのお寺にするか、
これはこれから先の計画を見ながら
首Dさんと相談しなければなりませんねえ。

doironはこの先気になるお寺といえば、
五十一番の衛門三郎関連の石手寺、
二十四番の最御崎寺などですが、
いろんなことを勉強していくうちに
もっと気になるお寺も
出てくる可能性がありますねえ。

そんなところに奉納していこうと思います。

で、この善通寺も一つの気になるお寺でした。



大きな太子堂と本堂でお参りしながらも、
境内をしっかりと見まわしてきました。

境内が広いので、
ゆっくり歩く同行者の分
ちょっと余裕ができますからね。
こういう五重塔なんかも
きっちりとみてきました。



空海は習っていたお坊の学校をやめて、
唐に行き、青龍寺というお寺で
恵果阿闍梨に密教のすべてを伝授され、
日本で一番最初に
密教を教わった僧となりました。

これが空海の根本修行で、
この日本で真言密教へと
なっていくものだったのです。

この善通寺はまさしくその
青龍寺を模して伽藍を
創立していったお寺だったのです。

空海はこの善通寺で生まれ、
ここの空気を吸い、
ここの水を飲みながら
そだっていきました。

佐伯という素姓の中で
通常の僧としての動きはせずに、
自分が求めているものを
とことん追求していこう
という姿勢で若さを過ごしていった
という、そんな彼の原点と
思いがもっとも染みついているのが、
この善通寺なのかもしれませんね。

いつもよりしかっりお参りしていきましたとさ。

続く


四国巡礼七十六番金倉寺

2016年09月22日 21時26分59秒 | ウォーキング

doironも首Dさんも寝ることに関しては、
非常に優れた特質を持っています。

まあ、ほとんど寝れなかったことがない。
寝てしまったら前後不覚五里霧中
になってしまいます(どんなんやねん)。

なので、こういう旅行に来ても、
寝ることに関しては
二人ともぐっすりなのです。

こういうベッドの部屋で熟睡し、



朝は二人ともさわやかに目覚めました。

とはいえ、
こういうお参りの旅は朝が早い。

朝食などもうすべて済ませて、
午前7時半にスタートなので、
ホテル周辺を散歩とか、
新聞読みながらモーニングコーヒー
などという優雅な時間はありません。

まあ、もっとも田園地帯の中ですから、
朝の散歩はさほど
楽しそうでもありませんけどね。

目覚めてすぐにバイキングの
朝食へと向かいます。

ああ~結構昨日食べたからなあ。
高カロリー成分は少なめにするなど、
取りすぎに注意して
ぱたぱたとすませました。

うう~、これも修行です。

準備もさっと済ませてバスへ。

メンバー全員がそろい次第
すぐにスタートです。
幸い天気は台風の影響も
ほとんどなく好天気。

でもdoironはやはり
長靴でお参りだけどね。

田園地帯を出発して、
町の中に入っていくと
今日のお参りのお寺
76番金倉寺に到着です。

ふむ~、金の倉ですよ。
なかなかゴージャスな名前の
お寺ですねえ。



そもそもは、西暦774年に、
この金倉の郷の豪族である
和気道善が開基したお寺だそうです。
あ~ということは
ちょうど空海が生まれた年に
開基しているんですねえ。

その頃は名前をとって
「道善寺」と呼んでいたそうですが、
醍醐天皇の勅願時となり
その時に地名としての
金倉を寺の名前にしたそうです。

さて、さらにこのお寺ですが、
4代前の住職の弟子に、
中務茂兵衛という人がいました。

この人が慶応二年に
四国遍路に出たのをはじめとして、
大正11年まで家に帰らず、
お四国を280度回られたそうです。

まあ、いろいろ事情はあったのでしょうが、
自由にこんなに四国巡りを
できるような立場で、
何を祈願したのかという
そういう興味がわきますねえ。

いやあ、いろんな人がいるものです。

とまあ、そんなことを考えつつ
本堂に行きます。



ろうそくを灯し、線香をあげ、
納札をいれていきます。

あ、このとき注意しないといけないのが、
納札入れと写経入れが
よく似た形で置かれてあること。

しっかり確認して入れていきましょう。

そうそうそういえば首Dさんと、
どこかのお寺に写経をしに
行こうと思ってます。

これまで高野山やで写経も
したことがあります。
般若心経を
書いたらここへもってきて、
奉納すればいいんですねえ。

気候が良くなったら
行こうと思っています。



はい。では、まずはお参りです。
賽銭を入れて・・・

あれ?

あれあれ?

おかしいぞ。

参拝バッグの中に
賽銭用の五円玉財布がありません。

あ、そうかあ、
昨夜補充しとかなきゃと
5円玉を入れ、
それを参拝用のバッグに
入れ忘れているじゃありませんか。

しかたないなあと思って
自分のメインの財布を開けてみると、
ウヒャー、5円玉はないどころか、
100円玉以上しか入っていません。

むむ~、これはこのお寺の
名前にかかわる陰謀ではないかと
あせりつつ、首Dさんに借りようとすると・・・

「ああ、賽銭用の財布忘れたあ」
と騒いで張ります。

いやあ、朝一のお参りだと、
こういうことも起こるんですねえ。

でも決まりごとは
しないといけないしなあ。
すべてのお寺を滞りなく
回っておきたいので、
しかたなく「釣り人疑惑」を
申してた女性に賽銭を借りました。

ああ~助かりました。

こうして周りの人々に
助けをいただきながら
歩いていけばいいんですねえ。

そして無事にお参りを
すますこともできました。

絵は、この寺の看板が
小判に書かれてあったり
千社札が小判の形をしている
こんな景色を描くことにしました。



「金倉寺」という名前にふさわしく
明るく描いてみましたよ。

バスですぐに借りた賽銭の
お金を返して解決。

いやあ、しっかりしないとなあと
言い聞かせながら続きます。


四国巡礼七十七番道隆寺

2016年09月21日 20時33分08秒 | ウォーキング

丸亀の駅前なんかを通って、
次のお寺に向かいますが、
時間的にはもう
16時30分頃になっています。

これまで回ってきたかんじで
行きますと大体納経していただけるのは
17時までですから、
本日お寺を回るのはたぶん
ここ77番の道隆寺が最後になるでしょう。

さあしっかりとお参りしていきましょう。

お寺の横でバスを降りると、
さっそくこのお寺の特徴であります
全国各地の観音霊場の本尊など
250体以上の観音像が
我々を迎えてくれます。



縁起では、この地方の豪族、
和気清隆が自分の桑畑の中に
建てたお寺で、
そこに弘法大師が自ら彫った
薬師如来立像を刻んで本尊と定め、
霊場としたとあります。

これまでもよくそうでしたが、
弘法大師はかつてある寺に
彫り物を収めるなどして、
そこを霊場としてきたことが
よくありましたね。

そこに彼のワガママはなかったのか、
なあんてことを
気にかけてしまうのであります。

考えすぎかなあ。

で、今回描く絵の構図はというと
どうもこれらの観音像を
透かして見るお寺の景色かなあ
と最初考えたのです。



でもねえ、今回は最初の根香寺なんかでも
たくさんの肖像を描いているし、
どうもうまくいきません。

で、結局描こうと考えたのが、
この太子堂の前のこの像です。



本堂、太子堂でこの日
最後のお参りをした後で、
ふとこの像を見たのです。

まるで子どもが大使に
すがっているような図ですよねえ。

じつは前に座っているのが
「遍路の始祖」であるといわれる
「衛門三郎」です。
これまで逆回りの巡礼の意味なんかに
よく出てきた人ですね。

彼が大使にすがりついている姿が、
うまく掘られてますよねえ。
このお寺で一番印象に残ったものだから
頑張って描くようにしました。

弘法大師の立像は結構多くのお寺で
見かけました。
知り合いの四国を経験した人の
多くが、この大使像を待ち受けにしたり
ラインの自分の写真に
したりしているようです。

doironもまだこの立像を
描いたことがありません。
ここはひとつこういう姿を
記憶しておくことにしましょう。

あ、お参りはここも
きちんと済ませましたよ。





このあとバスは、
宿泊所である高松空港近くの
アパホテルに向かいます。



初めての四国遍路お泊りです。
宿の近くなんかでお土産なんかあるのかなあ、
と思ったら、
ついたのは田園地帯の真ん中にある
ホテルで、周りにはお店などは
一軒もありません。



このとき、僕の長靴を釣り人みたいと
言ってた女性の顔色がよくありません。

じつはこの人、
「オチャカナ系の食べ物が全くあかんのだ」そうです。
周りにコンビニでもあったら
買い物しようと思っていたそうなんですが、
そんな店などありません。
どうしよーと思ってはったようです。

でもまあ、食事はオチャカナばかりでもなく
いろいろとあったようで、
ほっとしたそうですがね。

とりあえず、我々二人はなんでもいただきますから
いいんですけどね。
でも魚がだめで四国遍路も
ちょっと辛いものがありますねえ。

そんな食事が、これ。



鍋は肉鍋でうどんも後でついていました。

部屋もまずまずの眺めで、
温泉もかなり広いお風呂がついています。
看板を見てみると、
こんな「四国お遍路遥拝の宿」という
看板が上がっていましたね。



まあ、お遍路があるから
こんな不便な場所の宿も
いっぱいになったりするんですねえ。

まあ、四国の人にしてみれば
遠くからやってくるお遍路客は
ありがたいもので、
お遍路さんに喜んで接待する
という四国の人の気持ちが
なんとなくわかるような気がします。

でもまあ、一泊で食事も4食付いて、
こんな眺めのいい部屋に泊まって、





今回の値段くらいだったら
全然そんなに悪くない旅です。

お参りして、それなりの四国の
景色も眺めつつ楽しめる
いい旅だったなあと、今思っています。

さて明日は残り5寺のお参りです。

首Dさんと部屋で酎ハイで宴会しつつ
お休みしましたとさ。

続く