今日は網走に来ています。こちらで仁O夫婦と合流しご馳走宴会でした。本日のイベントはもうひとつ。野付半島探索でした。それはどんなところだったのか?詳細はまた後日~
初挑戦の選手にとってはあまりにも苛酷な暑さの中でのレースとなりました。残念なことに70キロで関門にかかりました。詳細は帰阪後に~
本日より、北海道で開催され、
友達が出場する
サロマ湖100kmウルトラかけっこ
の応援に出かけます。
天気も上々の見通しです。
この大会のために
過酷な練習をこなしてきた友達のこと
完走は間違いないでしょう。
予想タイムは11時間58分。
さて結果はいかに。
レース後、道内の観光めぐりをして
帰ってくるのは水曜日
それまでは携帯での投稿
もしくはiPadでの投稿となります。
では行ってきます~
明日からサロマに行く。
ルネと職場から
応援を含めて9人を引き連れて
灼熱のサロマを走ったあの時から
13年の歳月が経った。
今回は選手一人で
応援がdoironを含めて
6名という布陣での参加で、
通っているジムの仲間の
一大イベントでもある。
旅の手配は完璧だろう。
持ち物もしっかりチェックした。
後はスタートラインから
選手を見送るだけ。
この日のためにこの春から
選手が行った練習は
60km走が2回
50km走が1回
40km走が4回
に加えて、フルマラソンのレースも
2回完走している。
20~30kmの練習は数えきれない。
したがって60km以降は
未知の領域となるわけだが
そこまではまず平常心で走ればよい
とアドバイスをした。
そしてその先が自分との戦いとなるとも。
この大会は
その選手にとっても、ランニング人生の
集大成となる戦いであるようだ。
まずはスタートラインに立てることを喜んで
長い一日を精いっぱい楽しんでほしいと思っている。
義父さんの葬儀列席のために
長野県で働いている息子が帰ってくることになった。
仕事を終えて、車で仮眠しながら
朝にこちらに着くという強行軍だ。
これがまた、ひと悶着あって、
途中のサービスエリアで、
エンジンを止めライトを消し忘れて
仮眠したものだからバッテリーがあがってしまった。
雪国でボードによく行ったりするものだから、
バッテリーのコードは持っている。
そこで、誰かにつながしてもらおうと思ったらしいが
そのSAに止まっていたのはトラックばかりだったそうだ。
そこはGSもない所だったので
仕方なくJAFを呼び、何とか出発。
連絡を受けてこちらもホッとしたところだ。
そして明け方近くになってまたメールが来た。
「今、掛川です」
だと。
ぬわに~
どうして静岡にいるのだ。
長野からだったらそんなところを通るはずもない。
「これはまた何かやらかしおったか」
と慌てて「ぬわんでそんなとこにおるんじゃ?」
と返事をしたら、どうも目が悪いので
「桂川」とうったつもりが
「掛川」になってしまったようだった。
ただでさえバタバタして
寝不足のところにもってきて、
明け方からそういう事件が続いたもんだから、
久しぶりに寝不足で頭がキンキンした。
しかし、葬儀会館であれやこれやと動きまわっている間は
何とかまぎれていたが、
夕方以降遠方の親せきがやってくるのを待って迎えに行ったり、
泊まるところを手配したりしているうちに、
フラフラになってきた。
最終23時30分頃にやってきた親戚を、
宿泊するところに送ってからは泥のように眠った。
萩では2晩寝なくても走れていたのにな。
翌朝からは、かなり息子にも手伝わせた。
これも社会勉強である。
喪主の義母さんの要望で、
身内だけでひっそりやる葬儀だったのが救いであった。
そうして精進上げの挨拶もdoironが成り代わってし、
初七日も済ませて、
バタバタとあっという間に時間が過ぎた。
これだけはシミュレーションもおおっぴらに行えないし、
ましてや予約などすることができなくて
どうしても急にやってくるものだから、
慌ただしいことこの上ない。
すべてを終えた時にはへなへなになってしまった。
葬儀の夜、息子と一緒にラーメンを食べに行き、
向こうの暮らしぶりなどを聞かせてもらった。
話の中で一番盛り上がったのが、
向こうはとっても田舎で
通勤道の一部は街灯のないところも多く、
先日歩きスマホをしながら木にぶつかってしまい、
思わず「すみません」と木に謝ってしまったそうだ。
「相手が木だったからいいけど、
もし熊とかだったらごめんで済まんぞ」
というと、さすがに熊は見たことないけど
イノシシはよく見るとのこと。
また、近所の公園に散歩に行ったときも
ヤマモモの実がいっぱい落ちてて
珍しそうに見ていたので
「向こうにはないの?」ときいたら
「クルミの実ならいっぱい落ちているけど」だと。
いやあ、うらやましいほどの自然豊かなところですな。
doironももっと歳をとったら、
息子の近くに移住でもしますかね。
そうしてラーメンと生ビールで
楽しい時間を過ごせたのも、義父さんのおかげ。
今頃あの世で笑っていることだろう。
義父さんが亡くなった。
1週間で4回の危篤を迎え、
その都度頑張ってきたが
ついに力尽きた。
早速葬儀の手配、進行を任され、
これまで自治会の会員のためにやってきたことを、
今回は身内のために行うことになった。
お通夜、告別式の2日間めまぐるしく動き回り、
ようやく落ち着いたので絵を描き
義母さんの家に設けた小さな祭壇の
横に飾ってもらうことにした。
義父さん、安らかに。
もう少し兼六園を歩いてみよう。
松やさくらなど緑や花も多いけど、
やはりなんといっても
この庭園の主役は“水”だろう。
有名な「徽軫(ことじ)灯籠」も「虹橋」も
園内の池「霞ヶ池」に付属している。
この池は、金沢城の防火用水とするために、
犀川上流から引き入れられた水が
こんな石管や
水路からなる「辰巳用水」という用水路を
約10kmも通り、
庭園内の曲水と言われる水路を
流れてやってきた水を湛えているのだ。
そして、さらにその水はまた
「日本最古の噴水」と言われる
池との高低差による水圧で吹き上がる
噴水にも配られる。
したがって、曲水に設けられた橋も
凝った形のものも多い。
名勝の中の見所を構成するこれらは、
「兼六園」と呼ばれる所以となった
名園の条件「水泉」に該当するスポットとなっているように、
何と言っても“水”がこの庭園の景観を際立たせている。
また豊富な水で育つ緑にも見所は多い。
庭園内には約400本の桜が植えられ、
立派な桜が多い。
その中には、ここでしか見られない
「兼六菊桜」や「兼六熊谷桜」など
庭園名を冠した希少な種類もあるそうだ。
学生の頃迎えた4回の花見の季節には、
普段は入園有料の庭園も
桜の時期は無料開放されるので
何度か訪れた記憶もある。
また、すぐ横にあった学校のグラウンドで
体育の授業のサッカーをしていた時に、
桜吹雪が舞ってきたときのことは、
色つき映像で記憶に残っている。
そうそう、1年の時に下宿していた
まかないのおっちゃんが、
「兼六園のカキツバタは朝早く『ポン!』
と音をたてて咲くがやで」と言っていたのを憶えているが、
そんな早起きはついに一度もできなかったな。
この松は「根上がり松」という。
松の根っこが上がって
地面に出てきたように見えるが、
じつは盛り上げた土山に松を植えて、
頃合いを見計らって
その土を取り除いたことにより
こんな姿になったそうだ。
気の長い育成で、
まるで大きな盆栽ともいえる松の古木である。
その名前から、訪ねてくる証券マンも多いとか・・・。
とまあ、そんな具合に
この兼六園には緑の見所もたくさんある。
このあと庭園を出て、
昔のdoironゆかりの場所もいくつか訪ねてみたが、
ほとんどが当時と変わっていた。
よく行った中華料理屋が残っていたのには感動したが、
住んでいたアパートは面影すら残っていなかったな。
道、景色、人、店、におい、音、
変わっていたものをひとつひとつ挙げればきりがないし、
変な懐古調になってしまうので控えておこう。
時間と共に町も変わっていくし、
自分も変わっていく。
それはそれで別に悲しいとは思っていない。
どちらかと言えばいつまでも
昔のままでとどまっていることの方が悲しいことだろう。
doironが変わってきたように、
多感な時代を過ごしたこの街も変わり、
今はもうあの頃の町ではなくなっていた。
そうして全ての人やものが
時間の中を旅しているのだと考えると、
結局日常を生きる事もまた旅なんだ
とあらためて教えられた。
そんな加賀百満足の旅終わり。
金沢という町はdoironにとって、
とても特別な町なのだ。
学生時代の多感な4年間をこの街で暮らしたからだ。
夢を見たり、バカなことをしたり、
恋もして濃密な四年間をすごし、
そこで出会った人達とは、
30年以上経った今も交流が続いている。
故郷で生まれ育ち、
今も故郷で暮らしているdoironにとっては
そこは「第二の故郷」とも言うべきところだ。
その街に行くということは、
当時の自分に逢いに行くのと同時に、
四半世紀以上の時の隔たりを
確認しに行くということになる。
なぜこんなことを書いているのかというと、
その街に、先日故あって行ってきたのである。
金沢は「北陸の小京都」と言われるだけあって、
寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群など
お寺や神社が多く点在し、
金沢城と兼六園を中心に
町が広がった城下町である。
もし今金沢に住んでいるのなら、
訪ね歩く名所旧跡には
きっと困らないだろうというくらい
訪ねどころ満載の町でもある。
途中、永平寺に立ち寄って取材をしたあと、
金沢に着いてまず行ったのが
やはり兼六園。
名園と言われるための条件は六つあると言われ、
その六つすべてを兼ね備えている
というところからつけられた名前だそうだ。
じゃ六つて何?とお思いだろうが、
これは中国の古人が言ったことなので、
「宏大」や「眺望」などの他は、
意味も読み方も難しく、
漢字変換さえややこしいので
この際省略するとして、
昔はこの名勝と言われる庭園内が
doironの通学路だった。
どうしても出席しないと「不可」になる授業があり、
特にそれが必須科目となると
進級がかかっているわけだから、
そんなときに寝坊をしたりすると、
血相を変えてこの静かな庭園内を、
息も荒く駆け抜けていったものだ。
今は入園が有料になって、
そんな学生の姿を見ることはない。
第一、学校が金沢城内から
田舎の方に移転してしまっている。
この街で喫茶店を営んでいる
知り合いを訪ねた時に
そのマスターも、
「あの頃は街に元気な学生がたくさんいて、
よかったじ~」と言ってたように、
今もそのことを嘆く市民はたくさんいるそうだ。
この庭園内の東側には展望所があり、
そこからは、金沢市内が見渡せる。
眼下に浅野川界隈の町、
正面には白山から続く山並みの先端である
卯辰山や遠くにかすむ医王山が並んで見える。
学校帰りによくその展望所にあるベンチに腰かけて、
友達と遊びの計画や将来のことなどを
話しあったりしたものだ。
なのでそこから見る景色は、
自分の記憶の中では
学生の頃に見た金沢の
代表的な景色であるともいえる。
その頃のdoironの姿はというと、
信じられないだろうが
肩まで髪を伸ばしたり、
わざとボロ着でうろついたりで
今思うとめちゃめちゃ恥ずかしい恰好だった。
趣味で山登りをしていたから、
なおさらむさくるしかったということもある。
今は伸ばすほどの髪もないし、
純粋に貧乏くさい恰好で歩いているだけで、
「ありのままの姿見せるのよ~」ということで、
何一つ恥ずかしいことはないけどね。
大阪から車で5時間と距離も離れているが、
ここに来るたびに強く感じるのは、
そんな物理的な距離ではなく
時間的な隔たりだ。
卒業して35年、街の中でも当時の姿で残っているものは
それこそ神社仏閣の他は数えるほどしかない。
そして何より35年の時の中で
自分自身がすっかり変わっているということを
あらためて認識した旅となったのでした。
続く
ほっつき百選1で書いたように、
登録NO1はハマデラソウと決めていた。
しかしその時はまだ花の時期には早く、
実際に咲いている写真を紹介することができなかった。
で、そろそろ花の時期だろうということで、
ほっつき走ったり歩いたりしながら、
時間があるときに4回ほど
かつての自生地を訪ねていった。
行くたびに悲しくなるのは
そこにある、朽ちかけた看板だ。
そこには、貴重な植物の自生地であることが
書かれてあるにもかかわらず、
看板そのものも絶滅しかけている有様である。
倒れたまま放置された看板
そして看板同様、
自生地あたりも最近はあまり顧みられることもなく、
草ボウボウの状態である。
ただ、一か所だけ草が刈られてある場所があり、
もしかしたら誰かがひっそりと
ハマデラソウのために
手入れしてくれているのかも
と一縷の望みを抱いていた。
そこに脚を運ぶたびに、
小さな草芽を見ては
これかもしれないと
希望を持ってしまうのだが、
数日後に行ってみたら違っていた
ということばかり続いていた。
そして、それはある日の昼下がりのことだった。
行き慣れたその場所に行き、
前回チェックしておいた草芽が
やっぱり別の植物のものらしく
「あ~あ、やっぱりこの地の
ハマデラソウは絶滅したのかなあ」
と落胆して帰ろうとして、
ふと後ろを振り向いた時だ。
青々としたエノコログサの根元から、
一本の花茎が伸び、
その先に白い粒々の花がついているのを発見したのだ。
それは紛れもなくハマデラソウであった。
うひょー、生きていてくれた、
とちょっぴり感動した。
昔はこの感動が忘れられなくて、
プラントハンターをしていたようなものだ。
あ、ハンターといっても摘んだりはしないよ。
写真に撮るだけですがね。
八ヶ岳の森で初めてイチヨウランを見つけた時、
白馬岳の下山道でまだ見ぬムシトリスミレを
見つけた時の感動は今も鮮やかに覚えている。
その感動は、それが奥地であればあるほど、
また希少な植物であればあるほど
大きいものなのである。
なので「希少」の観点からいうと、
ハマデラソウの自生確認もまた
感動ものなのだ。
夢中でシャッターを切ったら、偶然にも
ちょうど種が今まさに落ちていく瞬間をとらえていた。
これ。
まるで、doironの訪問にご褒美を
与えるかのような
命の営みの瞬間である。
そしてよく見ると
そのハマデラソウが生えていたのは、
地面ではなくコンクリートの上に積もった
腐葉土の上であった。
このあたりが、
いかに手入れがされていないかがよくわかる。
そのおかげで、
薄い土の層ができて、
その薄い土の中で発芽したのだ。
まるでど根性発芽である。
さらにあたりを見回すと、
同じように腐葉土の上に
葉を広げて花茎を伸ばしている
ハマデラソウを4株見つけることができた。
4株で10本の花。
これがおそらく今年大阪、
いや日本に自生する
唯一のハマデラソウの姿だろう。
ほっつき百選のNO1にふさわしい逸品だ。
今年のハマデラソウはぜひ種を採取して、
日当たりのよさそうなところに
撒いておいてやろうと思っているdoironなのでした。
麹クンはよく頑張った。
違う、違う
それは広治クン
糖分をせっせとアルコールに変え、
まるで一幅の名画を見るような味で(ほめ過ぎ?)、
飲んだ人をぽわーんとさせてくれる
おいしいお酒をがんばって造ってくれた。
そんな麹クンに敬意を表して
このドブロクの「銘柄」を考えてやることにした。
そこでまず日本酒の銘柄を調べてみたら、
それこそ星の数ほどあるんやね。
よくあるのが「OO錦」や「OO誉」
あるいは「OO正宗」といった名前だ。
だがそれではあまりにもありきたりだろう。
では、思い切って発想を変えて
「どぶろく」というほどしっかりしたものではないから
「どぶさん」というのはどうだろう。
「あぶさん」みたいで酒の雰囲気がするかな
とおもったが、
やはり「どぶ」ではあまりおいしそうにないし、
ポリシーが安っぽい。
何かないかなと思って、
部屋を見渡してみると、
今年の正月に書き初めで書いたこれが目に入った。
「大丈夫」。
うん、これはなかなかいけるではないか。
高齢の親の面倒を見つつ
合間に作ったお酒にふさわしい名前かもしれない。
かなりいい線じゃないかと思いつつも、
もうひとひねりしたいところだ。
そこで考えたのが、「大丈夫」の「丈」を
「醸造」の「醸」に変えてみたらどうか。
「大醸夫」
おおこれだとなんとなく「大吟醸」を
におわす雰囲気があるではないか。
しかも大の大人なのに
醸造にうつつを抜かしている夫が作った
お酒にぴったりの名前ではないか。
ということで、この名前に決定することにした。
早速墨と筆を用意して、ラベルづくりだ。
紙はやはり和紙がいいだろうということで、
手持ちの和紙の中から「越前和紙」をチョイスし、
金銀の紙吹雪がちりばめられた一枚を使うことにした。
銘柄だけではなく、
横に「極上」の文字を入れ、
「どいろん酒造」と書き添えてできたのが、これ。
ペットボトルなのでシルエットはイマイチだけど、
ラベルはなかなか決まっているでしょ。
書道セットを出したついでに、
よく田舎の造り酒屋なんかで見るあの言葉も書いて、
壁に貼りだした。
最初はあきれ顔だったミセスも
ここまでやったら「あきらめ顔」になってましたな。
でもねえ、近ごろ再入院した義父さんの状態が芳しくなく、
落ち込み気味だったミセスが
杉玉をみてふとつぶやいてたよ。
「なんかこれ癒されるね」だと。
義父さんもきっとよくなるよ、
だからこその「大醸夫」なんだよと説明し、
ポイントを獲得したdoironなのであった。
無事に退院したらささやかに
「大醸夫」パーティをやろうと思っている今日この頃だ。
そして次なる挑戦は
味噌かな?
チーズかな?
醤油かな?