ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

大和街道 橋本へ3

2019年06月26日 20時49分01秒 | ウォーキング

橋本市という名前は、
当時の支配者が天正年間(1573~92)に
豊臣秀吉より免許を得て
塩市を開き,紀ノ川に橋をかけた
のが起源といわれています。

こうして寿命寺から川の周りに
広がる景色を見ていたら、
なるほどなあという市名の
起源ですですねえ。



お寺の横の地蔵堂のところに
こういうお接待の箱がありました。



見てみると、賞味期限も
全然新しい缶コーヒーと



ポテトチップがありましたので、



せっかくなのでいただいて
休憩していきましょう。

四国詣での時は、
果物とかお茶とかよくありましたが、
大和街道では初めてかなあ。

ゆっくり休憩してそこを出ると、
道の横に「生地石見守」と
書かれた石と石碑がありました。



これが城跡の一角で、
この先の神社が堀の一部を表す
(本丸跡?)ような高台に
なっていたりします。



まあさっきの水のタンクが
あった場所というより
こういう施設跡にはもっと
しっかりと痕跡を残して
ほしいなあという感じでした。



この辺りから道は下の国道方面へと
下っていきます。



こうして和歌山線を越えていきます。



単線ですねえ。
そして遠くから見ててもわかる
お店のひとつに「大阪王将」が
ありましたので寄っていきましょう。



あ、でもその先に「王将」もありますよ。
う~ん、これは迷います。
もともと王将はひとつでした。
でも昭和44年頃にそこから
兄弟げんかのような形で
大阪王将が飛び出したそうです。
でもその大阪王将が、
王将のお膝元の京都に進出したので
裁判になり、そのなかから和解案で
「餃子の王将」と「大阪王将」に
わかれたそうで、いまは
二店舗とも餃子だけでなく
中華全般を提供しているようです。

なのでどちらに入ろうか迷いましたが、
まあジダンとウロウロするときは
「餃子の王将」になるので、
今回は単身なので「大阪王将」に
しときましょう。

もちろん注文はビールと餃子です。



そこに昼飯用の小天津飯を付けました。



味は「餃子の王将」と
どう違いましたか?って
言われてもさっぱりわかりませんなあ。
まあまあとりあえず腹いっぱい、
気持ちいっぱいで、大満足でしたねえ。





歩いていて、こんな豪華な
昼食というのは贅沢ですなあ。
まあ大阪王将を贅沢というくらいですから、
模範の年金暮らし者ですかねえ。

さああと少しです。
橋本の駅を目指しましょう。

またまた橋本の住宅地の方へと
入っていきます。
こんな古い家の並ぶ街道筋を
歩いていきます。



道路の下にある石像を眺め、



大和街道の道標も見ながら



進んでいくと、おっここに
大師の井戸がありますよ。



おなじみ弘法大師の杖で
見つけられた井戸ですねえ。
もう何本くらい見たかな。
多分20本以上は見てるでしょうねえ。

こんな虫籠窓のある家や



うだつの上がっている家、



大きな門屋のある家など、



この辺りは結構昔の家が
立ち並んでいますねえ。

そういえば高野山に行く旅人も
通るんですねえ。
川の方はどうでしょうと
見に行きますと、
ちょうど渡し場のところに出てきました。



「東家の渡し場」です。



こんな大きな灯篭が
建てられていたそうです。

そしてその先では一里塚も
ありました。
和歌山起点の一里塚で、
ここはなんと11里塚。



昔からの一里塚の松の痕跡が
残っていました。



それにしても11里とはねえ。
doironも40キロ以上を
歩いてきたんやねえ。

この先でようやく橋本の駅に到着です。

今回歩いたのはこんな感じで
約7キロでした。



この大和街道も、
最初の目的からすると
終点の五條まであと一回で
たどり着きそうですねえ。

さ、ではその五條からどう歩くか。
奈良へ行くか、三重へ行くか、
ぼちぼちと検討を始めておきましょう。

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大和街道と高野山参りが交差する橋本市。
昔はよく通過した町ですが、
こんな風にじっくり歩いて通るのは
初めてでした。
電車の便や広い景色とかから見ても
住みやすそうなところですねえ。
歴史を大切にしつつも
発展していけばいいですねえ。

おしまい


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