旧小田小の展示の中には、
かつての生徒の通知表
なんかもありました。
中身をさらしたりしているのは
もうなくなった人のものかなあ。
そういえば、両親が亡くなったときに
親の持ち物を整理していると、
大量の写真とともに
doironの通知簿も出てきました。
まあ、成績はホニャホニャでしたけど、
性格欄が面白く、
友達との付き合いが熱心な人と
ずっと書かれてあるのが
なんかうれしかったなあ。
ここに展示されている通知簿も
そこまでしっかり見たら
面白かったかもしれませんねえ。
構内を回っていくと、
こんなステンドグラスの部屋もありました。
当時、この学校を設計した人たちは
最初の学校づくりをとても
大切にしていたんだそうです。
外観の塔のある建物も
熱心に考えたそうですし、
このステンドグラスも
わざわざ神戸まで買いに行って
手に入れてきたもので、
数枚残っていたものをもとにして
復元もされたそうです。
明治14年。
この山の中の小さな盆地に
どれだけの人がいたのかわかりませんが、
災害に襲われたりする田舎の中の
とっても熱い思いを語る人たちで
この小学校は作られたようですね。
作られた当時は
「啓迪学校」と呼ばれていたそうで、
中国の書物の中から啓迪後人という
一説からとったもので
「教え導く」という意味だそうです。
最後に校舎の上の塔なんですが、
何に使われていたのかといいますと、
学校でしょ、
だからそのなかに「鐘」を
入れていたんだそうです。
災害に悩んだ地域の中でも
この辺は地元へ時間還元
ということで意識したことも
あったかもしれません。
さあ、ではここを出てから一気に
南の方へと歩いていきましょう。
あ、そうそう、この地域の
マンフタを説明していなかったですね。
道を歩いていて見つけたマンフタは
3枚ありました。
この辺りは2004年までは
「上野市」という名前でした。
まず最初はこれ。
旧上野市のものがまだ残っているもので、
忍者と伊賀上野城が描かれています。
忍者とともに描かれているのは
旧上野市の「市の鳥・・・シラサギ」と
「市の花・・・萩」だろう。
でもう一つが「市の木・・・カシ」ですねえ。
そして、上野市のブランドのものはもう一枚。
これには城の姿は描かれず、
ほかの素材は使われていましたね。
そして、もう一つのマンフタがこれ。
今の伊賀市のもので、
3人の忍者が頭に
「市の木・・・アカマツ」
「市の鳥・・・キジ」
「市の花・・・ササユリ」
を載せているような
デザインになっていました。
ま、いずれにしてもマンフタには
松尾芭蕉は現れず、
主役はすべて忍者でしたねえ。
道の傍らにこんな地元の
酒屋を見かけました。
あれ~でも杉玉が上がってませんねえ。
まだ新酒が出来ていない
ということなんでしょうか。
ひなびた駅を眺めながら、
こんな交通看板の下を進んでいきます。
そして途中から町の田舎道へと
左折して入っていきます。
これが上野の本町通です。
こういう虫籠窓もあるような
古い家や、
昔からのお店も並んでいますが、
さほど繁盛している様子はないですねえ。
あ、これは何お店でしょうか。
「伊賀流忍者店」と書かれています。
休みだったので調べてみたら
忍者のウェアや武器を
売っていたようです。
この辺りは外国の観光客の人たちも
さほど多くもおられないようですね。
本町通と合わせて二の町通り、
三の町通りが並行して引かれ、
それに直行して西の立町、
中の立町、東の立町が築かれるという、
城下町にしては珍しく、
藤堂高虎により見通しのよい
町区画割がすすめられたようです。
街中で珍しい地名がもう一つあります。
昔、忍者がよく住んでいた町が
三の町通りの外にあって、
今も町名は「忍町」
と言われているそうです。
いやあ、かっこいい名前の町ですねえ
といいつつもう一話続きます。
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