兵庫大仏を、あの石切大仏なんかを
思い出しながら眺めた後は、
地図を見ながら先ほどの
コースの方へと戻っていくとしよう。
この辺りは、
「兵庫津の道」のエリア内で
あると同時に、京から下関へと続く
「西国街道」
も通っている。
兵庫大仏の先を左折すると、
その西国街道神戸の
「札場ノ辻」に出ていく。
西国軌道の地図をツラーっと
見ていくと、道が
90度曲がっている部分がある。
たぶん、兵庫津の方つまり兵庫の
中心地に向かって街道は曲がっており、
ここを抜けてまた方向転換をし、
須磨、明石の方へと進んでいく
ようになっている。
ここにはぜひよらなくちゃ
みたいなコース設定やね
そしてこの先でdoironコースは
海辺の方に入っていく。
海岸線のところにあったのが
「古代大和田の泊石椋」
のモニュメントだ。
う~ん、これはカエルのような・・・
ちゃうちゃう
これです、これ。
昭和27年の新川運河拡張工事のさいに
出土した大きな石の塊で、
この辺りにあった大輪田泊の
防波堤の一部だとされている。
横には説明版もあったが、
文字盤がくちゃくちゃで
解読は困難この上ない。
さあ、そこから海岸線沿いを
進んでいこう。
この先には鍛治屋町という町がある。
このあたりから出てくる人物が、
高田屋嘉兵衛だ。
淡路島の貧しい農家に生まれ、
庄屋の娘を無理やり連れて
神戸にやってくる。
これがその娘の姿
ちゃうちゃう
そして神戸に来てから
彼の船乗りとしての
人生が始まるのだ。
当時、船乗りは厳しいおきての中で
組織されていた。
決められた屋号のものしか
大きな舟を出せない。
そんな中、彼はいかだのような
舟で江戸まで材料を
運んだりしながら船乗りとしての
名を挙げていく。
で、あるときに廃船間近の
船を手に入れ、それを改修して
知り合いの屋号を借りて
荷物の運搬に取り組み始める。
一度舟を手に入れ運搬するごとに
大きなお金が動いていき、
今doironが読んでいる小説の部分では、
北海道に行く北前船を
運転を始めているのだ。
この後ロシアとの交流なども
出てきそうなのだが、
途中いろんな本と出合って
ちょっと離れている
というのが最近の状況である。
年内くらいには
全部読んでみたいなあと思っている。
その高田屋嘉兵衛が
住んでいたこの兵庫津で、
とても大きな庄屋だったのが
北風家だ。
すべての船乗りに、
無料で風呂や食事を
配っているという大御所で、
その北風家が反映したのが
この鍛冶屋町だった。
北風家は繁栄をつづけ、
この地方の港の多くをまとめていた。
無名時代の高田屋嘉兵衛を
講演したのも北風家だったし、
あの与謝蕪村の講演もしていたそうだ。
また後世になっても、
このブログの最初の方に
出てきた明親園の開港にも
関連していたが、
明治28年に北風正造によって
歴史の幕は閉じた。
しかし当時のその一族は
今も名前を変えて
主な港町に散在しているという。
高田屋嘉兵衛がその北風家の
風呂に行くシーンも、
小説「菜の花の沖」の中には
たびたび登場していた。
まあということは嘉兵衛の家も
近かったということだ。
その鍛冶屋町から
しばらく歩いていくと、
竹尾稲荷という神社があるが、
どうも彼の家はそのあたりだったそうだ。
その稲荷がここ。
彼の顕彰碑が立ち、
大きな案内板が設置されていた。
そしてそこからしばらく
阪神高速に沿って歩いていくと、
「西出鎮守稲荷」という
神社に到着する。
近辺の人たちはここを
「チヂミ」神社といって
慕っているそうだ。
なぜチヂミなのかなあ
と思って調べてみたが、
どうもよくわからない。
昔ここで「チヂミ」を焼いて
売ってる人がいたのかなあ。
それとも住職さんが
小柄な人だったのかなあ。
いろんなことを想像したが、
どこにも理由は乗っていなかった。
でも待てよ、ここの神社の名前は
「西出鎮守稲荷」。
舌の周りの鈍い人が
「チジュ稲荷」→「チジュイリ」
→「チヂミ」と略して
言ってたのかもしれないぞ
無理あるかなあ
そして、なぜここが
画高田屋嘉兵衛と
関係あるかというと
そのわけは、続く
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