ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道聖地の入口へ2

2014年05月19日 21時56分01秒 | ウォーキング

田舎の県道を進んでいくと
一歩ごとに都会の喧騒を
離れていくような気がします。

逆に一歩ずつ熊野に近づいている
ともいえます。

道端には園芸種でしょうが、
初めて見るような植物も咲いています。



遠くに来たなあという感覚を増幅させてくれます。

昔の旅人も迫る山の景色を見ながら、
いよいよ熊野に踏みいるんだなと
気持ちを引き締めたことでしょう。

しかし、道はまだまだ続きます。

おお~直営農園です。



のどかですねえ。

閉まっているタバコ店の前にある
公衆電話も今となっては懐かしい光景です。



3体の地蔵がたたずむ
小さな峠を越えると



やがて阪和自動車道が見えてきます。



小さな集落の中を導き石に沿って進み、





阪和自動車道の下をくぐると



田園風景が広がります。



その田園の向こうの山すそに
張り付いている集落の中に、
神社が見えていたので行ってみました。

武内神社です。



この神社の境内には
「武内宿禰(たけのうちすくね)産湯の井戸」があります。





300年生きたという彼が
産湯に使った井戸の水は、
そんな彼の長寿にあやかろうと、
紀州徳川家が産湯に使っていたそうです。

300年も生きたのですから
これからの街道歩きの中でも
きっとまた出てくる名前でしょうから
憶えておきましょう。

その井戸には
今も水が湧いているとのことです。

doironも頭でも洗って
長髪にあやかろうと思いましたが、
井戸にはふたがされていました。

え、なになに?
長髪じゃなくて長寿?
失礼いたしました。

せめて「武内宿禰誕生所」
と刻まれた石に触れて



長寿を願っていきましょう。

それにしても300歳とは・・・
親父も真っ青です。
さぞや介護も大変だったことでしょう。

神社をあとにして、
池と阪和道の間を通る道を進んでいきます。



え~っと、確かこのあたりに、
徳本(とくほん)上人の石碑があるはず
と探してみますと・・・ありました、ありました。
あんな上の方から見下ろしています。



同行の人が見つけてくれました。
こういう時は一人じゃないのがありがたいですね~

この徳本上人の石碑といえば
たしか和佐王子の少し先の山の中にもありました。

「南無阿弥陀仏」と独特の書体で書かれた文字が
石に刻まれている名号碑です。



徳本上人は江戸時代後期に
和歌山の日高郡に生まれた上人で、
街道の各所に旅人の無事を祈願して
名号碑を多く残している行者です。

「とくほん」と言えば、
あの湿布薬を思い浮かべますね。
でもそちらは江戸時代前期の
医聖と言われる「永田徳本」という
漢方医の名前にちなんでいるそうです。
時代はもっと前です。

ランナーの故障の味方で
これまでのランナー時代に
走行の安全も見守ってくれていたと思ったら
残念ながら「とくほん」違いでした。

阪和道に沿って歩いていくと、
前方に小高い森が見えてきました。



地元の人が「向い山」と呼んでいる山です。
その下あたりは道路工事の最中でした。

どうしようかと迷っていると、
農作業の男性がやってきて
「そこの竹の山に登って行ったら祠があるで」
と教えてくれました。

やはり紀伊の人は親切です。

その祠というのが
「紀伊続風土記」が伝える
「奈久智王子」の場所なのです。

竹藪の中をかなり上まで登って探してみますと



あるもんですねえ。
あちこちに石仏が置かれてありました。





しかし結局登り始めてすぐのところにあった
ブロックに被せられたビニールをめくってみると
そこに王子跡がありました。



最初に訪ねた工事中の奈久智王子に次いで、
二つ目の「奈久智」です。

実はどちらがそうなのか
はっきりしていないそうです。

これまでに得た情報を整理してみますと、
上皇の御幸から離脱して、
日前宮に参り、
再度御幸に合流した定家の随行日記には、
「遠路山々の道を凌いで
奈くちの王子に参る」と書かれています。

とすると、地形的に考えて
前者の場所を指しているように思います。

しかし一方で、近所に
「王子谷(おいだに)」と言われる地名があったり、
古道を広く見下ろせる位置にある後者が、
王子っぽいという気もします。

もっともなのは、
時代と共に王子の位置も
変遷したんだという説があって、
doironはどうやらそれが
正解なような気がします。

先ほど道案内をしてくれた人が
農作業をしている横を



お礼を言って通り抜けていきますと、
またまた工事現場にさしかかりました。



工事の人に断わって、
無理やり通っていきますと、
ま新しい祠に納まっている地蔵がありました。



大勢の地蔵がひしめく祠と違って
ここは一体だけでした。

道路の穴ぼこに気をつけながら抜けていくと、
間もなく和歌山市と海南市の境界にさしかかります。



この電柱のところが境界です。



熊野街道が通過している市町村ごとに
この道を盛り上げるために
独自の取り組みをされているようで
海南市は熊野古道に
こういう石を建てているようです。





お、ここの水路にもメダカがいるようです。



自然が豊富に残っているんですね。

田んぼ道を抜け、集落の中へと道は続きます。



その集落にあるのが、
紀伊名所図会にも描かれている
「四ッ石地蔵」です。



途中、写真を撮ったり、
メダカを眺めたり、
両奈久智王子を探索して
ウロウロしながら歩いてきたので、
あまり参考にはなりませんが、
ここまで歩き始めて1時間40分が経過しました。

続く。


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