山中宿にはかつて本陣と20を超える宿がありました。
なぜ、こんな山の中に宿がたくさんあったかといいますと、
この地を通った参勤交代には
たくさんのお供の者もついているうえに、
運搬、炊事など多くの人足も集まったからだといわれています。
例えば天保12年(1841年)の
紀州徳川家11代藩主徳川斉順の参勤交代では、
武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁したとの記録があります。
それにしても、紀伊田辺藩や紀伊新宮藩ならいざ知らず、
譜代大名でしかも親藩である紀州藩も参勤交代をしていたんですねえ。
そもそも参勤交代は
大名に莫大な費用を費やさせ、
幕府に反旗を翻す余裕をなくすために
始めた制度だといわれていますが、
でもなぜ親藩まで?
というのがdoironの疑問です。
浅い知識しかないので突き詰めていくと
わからないことばかりです。
あ~あ、学生の頃にもっと歴史の授業を
まじめに聞いておけばよかったなあと、
後悔することばかりです。
街道歩きを通じて少しでも
勉強出来たらなと思っている次第です。
ま、それはさておき、
ということでこの宿場は
参勤交代の頃に大いににぎわったということですが、
ここを通るのは紀州藩、田辺藩、新宮藩の
3大名(藩主)にすぎず、
しかも参勤交代は一年おきであるから
往復でならして年に1度。
合計で年に3回の大名行列をむかえるだけで
賑わったとは考えにくく、
やはり紀州詣や熊野詣の人々がいたからこそ
賑わったに違いないでしょう。
山中宿本陣跡や
旅籠の後を
眺めて歩きながら、
そんなことを考えていたdoironなのでした。
ここは山中渓住民センター。
入り口には、これまであちこちで見てきた
紀州街道の黒い石碑が建っていました。
中をうかがうと入り口の扉にこんな張り紙が・・・
津波に注意て、なんでやねん
って感じです。だって海抜70mもあるじゃん。
あ、これはどうしたことでしょう。
紀州街道の堺を歩いている時に、
こんなサボテンのある家を見た気がします。
過去の記録を調べてみたら、
何でも気がついたら撮っておくもんですね。
写真がありました。
これ。
何だか奇妙な共通点です。
さらに進みますとこの整備された道の出口には、
「塞の神」といわれる石の道祖神があります。
そこには案内板があり、
熊野詣の旅人を見守ってきたとありますが、
そのあとに紀州藩が毎年12月20日に
悪疫の病人や犯罪者を
この先の境橋より紀州から和泉へ追放したのだが
この塞の神のおかげで
この地区には被害が少なかったとありました。
今となっては人道的にどうか
ということももちろんありますが、
時代が時代だからと納得もできます。
でも、あれ?と思うのは
参勤交代で出向く先に、
罪人などを追放するのはどうなんだろうか
って思ってしまいます。
そんなことよりも紀州の殿さまの
御膝元に置いておく方が問題なのだから、
臭いものにはふたをしろ、
ではなくとにかく臭いものは追い払えということなんでしょうかね。
これもよくわかりません。
昔の為政者は何を考えていたのか、
また庶民はどういう思いで暮らしていたのか、
街道を歩いていると
ついついそんな思いにとらわれてしまうのは、
街道に漂ういにしえの人々の
情念の仕業なのかもしれません。
山中宿の整備された街道往復で約25分を費やし、
再び山中渓の駅に戻ってきました。
駅前にはコンビニはありませんが、
ちょっとした食堂やお店があります。
ビールもありますが、まだ歩き始めなので
さすがにそれは遠慮しておきました。
それにしても気合の入った名前の店です。
ここは街道沿いでもありますが、
大阪最南部の紀泉アルプスの山々の
東の入り口でもありますから
こういう名前なんでしょう。
確認してみればよかったかなあ。
これからは写真だけでなく、
ふと思ったことはためらわず聞いてみることにしましょう。
なにせフリーライターなんですからね。
とまあ、引っ張ってきましたが
いよいよここから和歌山に向かって出発です。
続く
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