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いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

友と共に 西高野街道 5

2014年10月18日 21時10分18秒 | ウォーキング

岩室の交差点で富田林と泉北ニュータウンを結ぶ
府道34号堺狭山線を歩道橋で渡る。





その歩道橋の下に建てられてあったのが、
堺からずっと続いて建てられていた
「西高野街道」の道標の
大阪狭山市バージョン。



昨年建てられたものだからまだ新しい。
刻まれてある内容も堺市のものより、
道標っぽくて好感度大だ。

道はここからしばらくのぼりが続く。



登り始めてすぐに道端に
3本の石が建っている。



1本は「西高野街道」を表すもの、

もう一本が「岩室郵便局跡」。



そして最後が「家塾跡」。



家塾(かじゅく)は一般の人が経営する私塾のうち、
幕府や藩から公認されて
諸費用の支出を受けていたものだそうだ。

この岩室の石に刻まれているのは
「中林喜市郎」氏、
ここの少し手前の十一里石に刻まれていたのが
岩室の「中林喜兵衛」氏、
そしてこの石が建つそばにある豪邸で



今は市の所有になっているのが
「中林一郎」氏
とどうやら中林家は岩室の名士なんだろう。
それぞれの関係はわからない。
その先で道は二股に分かれており、



その分岐点に道標が立っていた。



右は天野山まで二里 左は高野山まで十里

と刻まれている。
西高野街道と天野街道の分岐点である。
それを道標通りに左にとると、
またまた「太神宮」と竿に書かれた伊勢燈籠に出会う。



しかし、これはただの伊勢燈籠ではなく、
灯火台に「おかげ」と刻まれた
「おかげ燈籠」という燈籠だ。

伊勢神宮の信仰の中には、
「おかげ」という感謝の気持ちを表す習わしがあり、
伊勢のおひざ元にある「おかげ横丁」にもその名をとどめている。

道はその先でググッと下っていく。



その坂道を尾張坂という。

少し東のところにある狭山池の改修のために来ていた
愛知県出身の土木技術集団である
尾張衆にちなんでこの名がつけられている。

その尾張坂を下りきったところに
東から合流してくるのが、



四天王寺から南下してきた下高野街道。

4本ある高野街道のうち最初の合流点となる。
ここには、大阪狭山市が建てた案内板と



田畑を耕す牛の健康を願い、
農家が祀る牛瀧地蔵がある。



ここから、狭山池にそそぐ三津屋川沿いをしばらく歩く。



田園地帯の気持ちい道である。

何となくパワースポットめいた
三津屋太子堂への道を眺めながら、



道は緩やかに登って行き



「茱萸木」の集落にさしかかる。

「茱萸木」は、難読地名としてよく登場する地名で、
正しくは「くみのき」と読む。

「茱萸」はあの赤い実のなる
「ぐみ」のことをいうのだが、
地元の人が濁らず「くみのき」と発音しているところから、
当時の狭山町も濁らずに告示したそうだ。
あ~しまった
こんな時こそ電プレを確認しておくべきだったなあ。

初夏に収穫されるグミなので、
この時期に歩いていても
目にすることはなかったなあ。

歩き始めてここで約12km。

地域の公民館に弘法大師御堂が併設されている。



太子堂はdoironの地元の村にもあって、
そこに毎月村の人が集まり、御詠歌を唱えている。

先日、親父が亡くなった時には
その人たちが我が家に30人近く集まって、
集団で御詠歌を唱えてくださった。

きっとこの弘法大使御堂でも
そういう活動が行われているんでしょう。

幾つか目かの伊勢燈籠を眺めながら、
直線道路を進んでいくと、
のぼりなどで彩られた立派な
「玄昌法師地蔵尊」
別名酒かけ地蔵に到着。



「地蔵をなめたら酔うかなあ」などと、



すでにアルコールの匂いを漂わせながら、
罰当たりなことをほざく三人組なのであった。

そしてその先にあったのが、
3つ目の里程石である「十里石」。



「是ヨリ高野山女人堂江十里」

と他の里程石と同じように刻まれている。
これを含む全13本の里程石を建てることになった発起人が
茱萸木村の小左衛門と利兵衛という二人だったわりに、
地元茱萸木のこの里程石は
ひっそりと建てられている。

そして道はいよいよ河内長野市内へと入っていく。

続く。


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