ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

生駒おろしの中を3

2019年01月21日 21時23分46秒 | ウォーキング

街道らしい道を南向いて
弘法大師のように進んでいきます。



お、ここには
「野崎まいり公園」がありますねえ。
ちょっと開けた公園内に
建物も立っています。



中に入っていきますと、
飯森城、野崎城などの案内や
飯盛山のハイキングコースの
解説もありました。



ここに貼られてあるこんな地図が
欲しかったのですが、
見当たりませんでしたねえ、残念です。



おっ、この辺りは「ヒアリ」が
いるんですかあ。
かなり山の方まで来てるのに、
こんなところまで生息域を
広げているんですねえ。

そんな無人の野崎まいり公園を出ると、
そのすぐ横の道が野崎観音への登り道です。



この野崎まいりというのは
良く聞く言葉ですねえ。



そうです。上方落語にも
「野崎まいり」がありますし、
歌舞伎なんかでも取り上げられている
テーマですねえ。
言葉は聞いたことがあるのに、
多分doironにとっては生涯初の
野崎まいりです。
お参りしていきましょう。

ここまで上がってくる道もまた
急傾斜で風が強かったねえ。
生駒おろしですねえ。



そして遠くの景色が
見えるようになってきます。



おおここは「大阪みどりの百選」
なんですねえ。
こんな石が・・・



まあ、この大東は緑の多い町ですが、
名所と絡めてここに
設定しているんでしょうねえ。



ここが本尊ですね。

多くの人々がお参りしたんでしょうねえ。
きっと両親も来たんやとおもいますよ。
それにここは上の方まで
車で上がってこれるので、
けっこうな賑わいでした。

「野崎観音十六羅漢、
うちの親父は働かん」
こんな遊び歌も歌われたそうだ。

さあ、働いていない親父というか
じじいはここを離れていきます。

高野街道に降りてゆき、
道を南下してゆきます。



前の方から結構高齢者の
集団が歩いてきますねえ。

巡礼服を着ている人もいて、
高野街道歩きなんでしょうねえ。

弘法大師もこんな遊びが
流行るなんて考えていたのかなあ。

しばらく歩くと、
今度は専應寺の石票が現れますので、
また山の方へ行ってみましょう。




戸森山 専應寺

ここは鎌倉時代に作られた
お寺ですが、退廃を繰り返し



江戸時代には大阪城の石を
切り出す京極丹後守が
陣屋に使っており、
その人が寄付した井戸が
今も残っています。



でもまあそんな歴史がある割に
結構お寺は荒れ模様でしたねえ。



そしてここは野崎まいりの
前座で参る寺だったようです。
それにしてもこの辺は
山手に神社とかが多いねえ。
しばらく上っていってみたのですが、



こんなに荒れた参道のある
神社もあるようでした。



これはちょっと上っていけませんねえ。

まあこの辺でまた高野街道の方に
戻っていきましょう。

今日はときおり吹く風が冷たくて
一瞬寒くなったりします。
生駒おろしはそんな風なんですかねえ。

高野街道に出ると、
案内板が立っています。



大東市域ではこういう案内が
立っているようですねえ。
そこの案内にもあった
「メノコ橋」ってなんでしょう。

行ってみますと、道の右手に
橋の欄干が置かれています。



これがメノコ橋といわれてた
橋の残骸です。
その名前の由来はというと・・

昔々空海はこの辺りを通りつつ
山手にも挙がって修行を
していたようです。
そんな修行につかれて、
彼はよくこの橋のところで
寝転がって急速をしていたようです。

空海が寝床に使っていた橋
ということで、寝床橋と
いわれていたようですが、
それが訛っていつのまにか
「メノコ橋」と呼ばれるように
なったそうです。

でもまあ、よくぞこうして
欄干なんかをのこして
おいたものですねえ。

さあこの辺から東高野街道は、
村中の細い街道筋から
車の通る国道と重なっていきます。

地名も寺川という名になっています。

中学校の時の友達の家も
このあたりですねえ。
メモしてきた住所をもとに
探っていきますと、
どうも家はあの辺のようです。



JRとは少し離れたいいところですねえ。

一度遊びにおいでと言ってたので、
また日を改めて伺いましょう。

続く


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