飯盛山に山頂案内板をつけました。
また今度ここに来る時に
ちゃんとついているかどうか確認すること、
それもまた楽しみのひとつになりますねえ。
山頂広場のすぐ横にはこんな祠もあります。
このあたり、なんか修験臭がしますよねえ。
役行者の修行所があったり、
下には彼の母親関連の寺もあったりします。
そんな祠を見ながら、
では孝子の方へと下ってゆきましょう。
結構な急こう配も結構ありましたので、
ここからは下りがメインと聞くと
ホッとしますねえ。
こんな鉄塔の下をくぐり、
多くの人が集まれそうな広場もこえたら、
右に鳥居が見えてきました。
小さな石の案内がたっており、
「千間寺址」と書かれてあります。
そうここにはかつて「飯盛寺」
という寺があったそうです。
役行者が開いたお寺です。
そこは室町時代に根来衆に
支えられて栄えた寺だったのですが、
千間寺と名を変えて
織田信長に攻められて焼失しました。
今もこの寺のあたりには
瓦が散乱していたり、
井戸の後があったりします。
しかしまあこんな山の中に
よくぞお寺など建てたものです。
そんなお寺跡を過ぎてなおも進んでいくと、
左に下ってゆく道がありますよ。
ここが前回みさき公園に降りられず、
淡輪方向へと下って行った道ですね。
いろんな石像なんかの置かれた
谷筋をくだってゆきました。
まあ今回は予定通りに孝子の方へと
進んでゆきます。
そこからすぐに札立山分岐に出ます。
ここから分岐を左に行ったら
「札立山」にでます。
あ、何かいわれのありそうな名前ですね。
このあたりの山は修行や軍隊の
施設だったそうですが。
「南無阿弥陀仏」と書いた札を立てたとか、
「欲しがりません。勝つまでは」
という札を立てたんでしょうか。
いえいえそんなんではありません。
実は食べ物なんかの大阪の入札額を、
昔は驛傳ということで人々が走って
和歌山まで伝えたんだそうです。
その額に基づいて和歌山を
出港したそうです。
その情報伝達で大阪側の走る人が
この札のある場所で和歌山側の
走る人に伝えるという事が
むかしあったそうです。
まさにそんな驛傳の中継所
だったわけですね。
もちろん今の陸上競技の語源です。
でもここまで全力で走ってきた人も、
再度ここから下りていくのは
大変だったでしょうねえ。
当時の走る人の走力は
10kmを40分程度だったそうです。
山道ですからねえ。
山の神と言われていたかもしれません。
そんな札立山へ続く道の分岐点がここですね。
ジダンはここから札立山へと
向かったそうですが、
こちらは右折して高仙寺から
孝子方面へと向かいます。
かなり来ましたねえ。
もう今日のコースのあと残りは
五分の二くらいでしょうか。
途中、右に曲がれば孝子駅の
案内もありましたが、
これは高仙寺を通らずに、
奥山谷に出て奥孝子の村中を通り
駅へと向かって行く道をさしています。
今日は高仙寺へと向かう
予定なのでそのまま進んでいきましょう。
けっこうな下り道で、
このあたりにも季節外れの
つつじが咲いていたりしますね。
そして紀州備長炭になる
ウバメガシの木も増えてきます。
また、のこっているたくさんの
渋柿なんかも眺めながら
ワイワイと進んでいくと、
遠くで工事をしている音なんかも
聞こえてきましたよ。
だいぶ人里に降りて来たようです。
そして到着したのが「藤戸山」です。
この山も稜線上の小ピークです。
表示がないとわからないと
書かれてありましたが、
どなたか親切な人がちゃんと
案内を取り付けていました。
案内板もこういう目立たない
ところには有効ですねえ。
続く
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