ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

淀川完歩8 前半の山場に突入

2015年08月14日 22時48分11秒 | ウォーキング

淀川完歩も前半の山場にさしかかった。

鹿跳橋からかなりの区間は、
ほとんど民家の無い、
したがって店などもない山中の、
歩道のない自動車道を歩くことになる。



山の中で、川の流れの姿は変化に富んでいて
見ごたえがあるのに



歩く道がこれなのは残念だ。

でもここは越えて行かなければならない。

この日は朝早くに電車に乗って
目的地に向かった。

スタートとゴールでは交通の便がつながっていないために、
いつもの車をやめてそうしたわけだ。

ということは、歩行後のビールも飲み放題てなもんだ。

午前7時過ぎに、満員電車に乗って出発した。

もう最近は、歩く格好で
サラリーマンでギュウギュウの電車に乗っても
ほとんど気になることはない。

人間はこうして厚かましくなっていくのだね。

JRを乗り継いで、
石山駅まで行ったのだが、
大阪駅を出るとさすがに通勤経路とは逆になるので、
席に座ってのんびりと向かったのであった。

石山駅で降りてバスの時刻まで少し時間があった
駅のコンビニで昼食と飲み物を調達。
今回の経路では、
途中の補給が難しそうなので、
いつもより1本多めに
凍らせたスポーツドリンクを買った。

結果的にこれが功を奏したのだが、
それは追々書いていこう。

これは石山駅前の芭蕉の像。



彼はこの近くの幻住庵に4カ月滞在し、
「幻住庵記」を記したそうだ。

あの「奥の細道」に次いで有名な隠遁記で、
彼が自炊などをしながら過ごした日々を綴っている。

彼のゆかりの地は淀川沿いにはないが、
これもまた訪ねてみたい場所のひとつなのだ。

駅前からスタートしたバスは
当然これまでに歩いた瀬田の唐橋、
石山寺、南郷洗堰を通過しながら、
のどかな田舎の道を進んでいった。





そして鹿跳橋の停留所に降り立ったのが、



午前10時。よしよし時間通りだ。



ナビをセットして歩行を開始しよう。
と、はりきって歩き出したものの、
いかんせん暑い。

しかもトラックなんかが頻繁に通り、
埃っぽいことこの上ない。
横でザアザアと流れている瀬田川に
救命胴衣を着けて浮かび、
流されていきたいものだ。



鹿跳橋からの道は、
「滋賀県道・京都府道3号大津南郷宇治線」
と長ったらしい名前だが、



もうひとつの呼び名がある。

それが「宇治川ライン」。

doironが生まれた頃に認定され、
昭和47年に今の道路名となっている。

尾張、あるいは北陸の方からの旅人や商人は
この川を琵琶湖から船で下り、
帰りはこの道を旅して帰ったんでしょうなあ。

また、後述するように
かつてこの川が観光地として
一世を風靡した時代もあったそうだ。

いずれにしても長い歴史と
経緯を持つ道であることには変わりはない。

道沿いにはこんな不動尊もあった。



道はやがて「畑」地区に入って行く。

でもこの名前が気になった。
だって、川のすぐ横まで山が迫り、
「畑」などあまり広がらなさそうな地域にも関わらず
どうしてこんな名前がついたんだろう、
と思っていたら、
そこにあった石碑を見て「ハタ」と気がついた。



石碑に刻まれてあるところによると
畑はもともと「波多」と言われていたようだ。

瀬田川の流れが急流になり、
白波がバシャバシャいってるところやもんな。



納得しました。

石碑には、この先にある天瀬ダム建設に伴い、
村人全員が移転したことが刻まれてあった。

お、これは墓地の最下流側にあった、
集団で瀬田川を見下ろす無縁仏?



眺めのいいところで、
ずっと瀬田川の流れを見つめているんやねえ。
川の流れと共にうまく撮影できたら絵になるのになあ。
ちょっとポジションがとれなくてあきらめた。

さあ、ここからはさらに山の中に入ってきます。

クネクネと続く。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿