そう、実はこの関宿には
かつて来たことがあるのです。
今のように歩くことを目的に
あちこちをウロウロと
していないころです。
仕事を早期退職した後、
しばらく介護施設で
働いていたのですが、
そこを退職する前に会社の娯楽で
連れてきてもらったことがあります。
松茸としゃぶしゃぶの
食べ放題旅行という
豪華なツアーでしたね。
その帰りに、ここに足湯がある
というので来たことがあります。
さほど歩きはしないツアーでしたが、
地図を見てると思い浮かんできます。
それに他の旅行社なんかも
ツアーを組んでいるようで、
観光客もどんどん増えてきて、
外国人の姿も見るようになってきました。
まあなにも知らずに
へこへこ歩いていた時代と違って
惑わされずに今回は
しっかり見学しつつ歩きましょう。
あ、ここに関町の道路元標がありますねえ。
doironが持つ14本目の元標です。
そしてそのすぐ横には郵便局もあり、
その前には日本最古の
ポストを模したものが置いてあります。
そしてこの郵便局の場所は、
関の高札場だったそうです。
宿のおきてとかをここに
掲示していたそうで、
市民の要望に基づいて
復元したんだそうです。
もうますます昔の雰囲気を
この辺りは濃く残しています。
そしてここにある福蔵寺には、
あの東の入り口で松にもたれて、
親の仇を果たした
「小萬」の墓もありましたね。
ここにあるのは百六里の庭
というところです。
江戸から106里の所という意味で
市民が付けたそうですが、
う~ん、そんな距離ですかねえ。
庭も復元されていますが、
ここの建物の上に上がると、
関宿の東海道を上から
見下ろすような感じになっています。
味のある景色です。
そしてこの先のバス停があるという
場所に行くと、ああかつて
入ったことのある足湯がありました。
写真撮影したかったのですが、
女の人がいっぱいで無理でした。
ちょっとごめんよとかいいながら
カメラ構えたら
手裏剣を投げられそうです。
写真を探したら7年前に
ここに入った時の写真が残っていました。
これです。
ああ~若いですねえ。
確かにここを間違いなく
ちょこっとだけ体験していたんですねえ。
さあもうすこし、
東海道に戻って西向いて
歩いていきましょう。
こんな猫ににらまれながら
進んでいきますと、
500mくらいで西の追分に出ます。
これで関宿をすべて
歩いたことになるのですね。
昔の旅人は、いよいよここから
「坂の下」を目指し、
鈴鹿峠を越えていくのですね。
江戸から京に至るまでの
最後の山場を迎えるわけです。
ゲリラ雨もあっただろうし、
冬場は深い雪に埋もれた道を
歩いたんでしょうねえ。
そうしてたどり着いた京の町は、
さぞかし立派に見えたんでしょうねえ。
さあこれで今回の歩きは終わりですが、
駅に向かってまた東海道を
1キロほど戻っていかなくてはなりません。
地図を見ながら東海道を
南に外れて歩いていくと、
関宿の道の駅に出ていきます。
まあせっかく来たんで
味噌煮込みうどんのほかにも
お土産を見ていきましょう。
名古屋湾の方が近いので、
貝の佃煮なんかも購入しましょうかね。
そして、やっぱり最後は
またまたビールです。
小さなおかきを買って
それをつまみにいただきました。
ああ、なんかほっとして
写真はすっかり忘れてしまいましたね。
その道の駅のすぐ横が関駅です。
そこから電車に揺られて
2時間以上かけて帰宅しました。
それにしてもここの街道歩きは
とても楽しかったです。
街道歩きそのものが
久しぶりということもありましたが、
それなりに昔の人の想いや
遺物に出会ったいい所でしたね。
また次の機会があれば、
亀山から今度は関と反対方向の
宿に向けて歩いてみたいなあ
などと考えながら、
電車の中でうつらうつらしながら
帰宅したdoironなのでした。
おしまい
伊勢別街道との分岐点
でもある東の追分はここです。
関の浮世絵にはこんな絵も
描かれていますねえ。
ここから先は、こんな風にも
描かれている「坂の下」にも
つながっていきます。
鈴鹿峠の下ですねえ。
だから雪も降ったら
こんなに厳しいよという絵に
なっていますねえ。
そしてこの場所も、
塚は残っていないけど
一里塚のひとつだったようです。
この東の追分から、
道は古い住宅にはさまれた、
いかにも古い街道のような
道になっていきます。
そう、旧関宿一帯は東海道で唯一の
「重要伝統的建造物群保存地区」
に指定される旧宿場なので、
雰囲気たっぷりの街道です。
そして道路の舗装も
こんな感じで少し古めかしい感じで、
雰囲気を盛り上げています。
ここには、宿らしくこんな
休憩や宿泊などの
「いせや伊三郎」なんて
お店もありましたよ。
今も宿として活動もしているんですかねえ。
そして、こういう昔の油屋さんは
博物館になっていたり、
家を喫茶店風にしていたり
しますがなんかねえ入りにくいです。
銀行もこんな和風で
でも中にはコンピュ―タ―システムが
うごいているんでしょうねえ。
さてさてと思いつつ
進んでいきますと、
あここは食堂です。
そしてなんとここには
お待ちかねの「味噌焼うどん」が
あるではないですか。
家の前はトラックが通るような
道ではないので、
ここで生まれたものではないのでしょうが、
まあこれだけ立派な
看板をあげているようだし、
還暦越えのジジイが入るには
よさそうな店なので
入ることにしました。
店に入ると、結構年配の
じいさんがテーブルを連ねて
昼寝をしていましたが、
「おおいらっしゃい」
と起きてきはりました。
味噌焼うどんを注文すると、
店の中からおばさんが出てきて
お茶を置いてくれはります。
たしかになんか昭和な
雰囲気のお店ですねえ。
江戸後期とまではいきませんが、
シックな感じです。
おっさん寝ぼけて変な味に
ならんやろなあとか心配しながら
待っていますと、出てきました。
これが亀山名物味噌焼うどんです。
うまいですねえ。
味が濃くてビールにぴったりです。
ただねえ定食を頼んだら。
ご飯が付いてきました。
ここはねえ単品でよかったかもしれません。
で、このうどんは2011年の
中日本・東海大会のB1グランプリで
優勝したそうです。
レシピは、肉野菜をいためたあと、
うどんをいため、最後にみそで
味付けというものです。
ネットを見ますとレシピが
いっぱい出てきますので、
チャレンジしてみましょう。
ピリ辛の味も濃くつけると、
休日夜のビールご飯にぴったりでしょう。
doironはお土産に買いましたけどね。
よかったです。
伊勢うどんを我慢して
ここまで来た甲斐がありました。
さあ、ではさらに進んでいきましょう。
ここは問屋場跡です。
今は山車の置き場所になっていますが、
街道の宿場での役場のようなところです。
そしてその近くにも
案内がありましたが、
ここのあたりには11月3日に
街道祭りがあるのですねえ。
きれいに着飾った昔風の人が
大名行列をするようです。
doironも町を静かに歩くだけでなく、
こんな華やかな祭りも取材したいものですが、
まあ友達の仕事の車に
便乗するくらいですから、
そんなにうまくはいきませんがね。
東海道関宿の石が建っていたり、
道標があったりして
にぎやかになってきました。
ふと気が付いたら観光客も
結構いっぱい現れています。
JRの駅や観光バスの駐車場が
あったりするので、
観光地化してきましたよ。
両替所跡や本陣跡も
わかりやすく案内されています。
そして関宿全体の地図も
掲示されていますよ。
とまあそうして歩いているうちに、
ふと思いついたことがあります。
「なんかこの辺来たことが
あるような気がするなあ」って
感覚が浮かんできました。
続く
鈴鹿川は大海人皇子が東国へ向かう途中、
洪水に難渋しているところに
駅路鈴をつけた鹿が現れ、
その背に乗って川を渡った
という伝説から付けられた川で、
全長38キロの三重県の1級河川。
今は大半が国道一号と並走している。
そんな川の堤防の上を
まっすぐつながっているのが
「大岡寺畷」という名前の道です。
川の風は気持ちいいですよ。
この季節は徐々に河原の
緑を秋の景色に変えていくところです。
亀山は結構楽しかったなあ。
関の方はどうなんでしょう
と歩いていきます。
あ、東名阪自動車道の下には
木枯し紋次郎みたいな
イラストと浮世絵が並んでいますよ。
ああ鈴鹿川の風が
「誰かが風の中で」を
奏でているようですよ。
ちょっと眺めてみましょう。
これが亀山のすぐ東の
「庄野」というところです。
雨風が大変な感じですねえ。
四日市では旅人の頭の傘が
風で飛ばされていますねえ。
そうそうその右横にいる旅人の姿が、
ここに書かれてあった
木枯紋次郎の姿ですねえ。
鏡像になっています。
それから、これが今回先に
報告した亀山の絵です。
なんかこの辺は、
ちょっと自然が厳しい感じで
描かれていますねえ。
京都は近くなったけど、
まだまだ油断しちゃいけないよ
ということなんでしょうか。
車の全く通らない高架下で、
浮世絵を写真撮影しながら
へらへら笑っていた
doironなのでした。
そこからまだ大岡寺畷を
歩いていきます。
田んぼの稲刈りはもう済んではいますが、
ああ亀山はお茶の産地でもあるんですね。
ところどころに茶畑がありました。
こういう農業地域を守っていくためにも
鈴鹿川は大切にされているんですね。
道端でイタチの死骸を発見。
こんなに車もほとんど通らない道なのに。
車に引かれたんでしょうねえ。
なんとまあ運の無いイタチなんでしょう。
ごめんなさいね、人の都合で
こんな目にあって。
成仏してくださいね~。
旧東海道の印のある道が、
ここではJRをわたって行き、
国道に出たところを50mほど
歩けば右に登っていく道があります。
ここが東海道関宿の東の入り口です。
広い休憩所がありますので、
休憩していきましょう。
横には広い畑地があるのですが、
何も植えられておらず、
キリン草が大集落を作っています。
ああ、これは時期が来たら
花粉がすごいぞという感じです。
花粉にまみれて咳が出るぞ、
ああそれで関宿かあ、
なあんてことはありません。
ここには「関の小萬のもたれ松」という
案内がありましたよ。
昔、夫の仇を討とうと
関塾に居た女性が、
なぜかここで「小萬」という
女性を生みました。
う~ん、なんか物語の一部に
飛躍的な裏物語が
隠れているような気がしますが、
それは横に置いといて。
その小萬が亀山城で武術を磨いて、
父の仇を討ったという話があります。
その小萬が村の若者から離れて、
ここの松に持たれていた
という話が残っているそうです。
大きな松はありませんが、
切株がありました。
これかなあ。
鈴鹿馬子唄にこんな
一節が残っています。
「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」。
街道のはずれの場所に
こんな話があるのは、
なんか興味深いですねえ。
それを思ってかどうかわかりませんが、
こんな石像なんかも残っています。
さあ、ではここから関宿へと
入っていきます。
関宿はもうずっと以前の
7世紀に登場します。
東海道の47番目の宿として、
民家も多く本陣なんかもありました。
その当時の様子は浮世絵にも
こんな風ににぎやかに
描かれています。
また東海道だけでなく、
東の追分は伊勢参りの街道との
分岐点も表しています。
この絵はその追分あたりを
描いているんじゃないでしょうか。
式年遷宮に合わせて
今も鳥居が新調されるんだと
そこの説明書きに書かれていました。
続く
水を飲んだりして休憩してから
またしばらく歩いていきますと、
右手に大きな木が見えてきました。
これが東海道の一里塚です。
三重県内には12の一里塚があった
とされていますが、今も残っているのは
ここのみだそうです。
幹回りが5mで
高さは20mの椋(むく)です。
doironが氏子代表をやっている
近所の神社にはこの椋がたくさんあって、
黒くて甘い実を着けるので、
子どもの頃はよく食べたものです。
昔の子どもにはこんな知識も
知らず知らずあったのですねえ。
ここの一里塚は南北に塚があって
木が植えられていたそうですが、
いまは北側にしか残っていないそうです。
あ、東海道の一里塚というのは
徳川幕府が作らせた里程道標
みたいなものです。
熊野古道を歩いた時も
いくつかありましたねえ。
このあたりは特にお店とかはなく
普通の町の様子です。
でも会社まわりとかには
こんな花が植えられていたりします。
それとなく地域の人々も
私たちの家は東海道沿いにあるのよ
というような誇らしい気持ちを
持っているような気がします。
まだまだすこし高台にある道も
この辺りは少しくねくねしています。
地形的な制約があったのでしょうねえ。
右に大きく曲がるこの道の
さきにあったのが、
布氣皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)です。
むむ、むつかしい名前の神社ですねえ。
主祭神は天照大御神、豊受大神、伊吹戸主神で、
布氣神社がのちに神様と
関係の深い布氣皇舘太神社となったもの。
灯篭の並び立つ長い参道を抜けていくと、
こんな本殿があります。
静かな神社です。
きっと静かに神様を祀ってきたのでしょう。
doironも静かにお祈りして
次に向かいましょう。
ここにはねえ、昼寝観音もいる
と書かれてありましたが、
残念見つけられません。
見つけたかったなあ。
今後の昼寝の参考にするのになあ。
お家で絵を描いたり
ブログをやったりしているときは
必ず昼寝観音に変身している
doironなのですからねえ。
おっ、この郵便局はシックですねえ。
そうそう亀山で郵便局といえば
マニアなら真っ先に浮かんでくるのが、
亀山から関に向かうのと
反対側にある井田川の郵便局です。
ここの局番号がなんと
「22222」なので、
平成22年2月22日に
貯金をする人が大行列だったそうです。
なので、じゃ次のチャンスはというと、
令和2年の2月22日ですね。
でもねえ、残念。
この日は土曜日でした。
令和22年2月22日まで
待たないといけませんね。
なんとこの日は水曜日で、
大安の日でしたよ。
なのでこのシックな郵便局も、
局番号が「22◇※△」
なんでしょうねえ。
そしてこんな下り坂をくぐっていきますと、
東海道沿いに赤く塗られてあった道も、
自動車道のところで消えています。
東海道五十三次の四十六番目の
亀山宿も一応ここが
西の果てになるようです。
では次の四十七番目の関宿に
向かって行きましょう。
JRでいただいた地図では、
ここからしばらく鈴鹿川沿いを
歩いていくことになります。
ここでこんな橋脚をわたって
JRをこえていきますと、
田んぼに囲まれた田舎道に出ていきます。
へえ、案内の地図はなんで
こんな道につないでいるのかなあと
思うと理由がありました。
このあたりの鈴鹿川沿いの一直線の道は
「大岡寺畷」といわれています。
東海道が約2キロ鈴鹿川沿いの堤防を
通るからです。
この地域にあった大岡寺から
つけられた名前だといわれていますが、
まあ諸説はあるようです。
しかし車もほとんど通らない、
鈴鹿川沿いの道は、
風も気持ちよくてとても気持ちいです。
京を目指して江戸を出てきた旅人は
もうすぐだと、さわやかな気持ちで
ここを歩いていたんでしょうねえ。
続く
石垣島から帰ってきました。
なので、その感動を書きたいのですが
書き始めた東海道を仕上げて
他にももろもろ書いてから
ということになります。
あったかい南国の海の後で
東海道の古い街を書くのは
抵抗ありますが、頑張って続けます。
ーーーーーーー
谷底の下の方で子どもたちが
散歩しているのを見て
ここの高さを実感しました。
でもここはこの高さが重要なんです。
昔の浮世絵で東海道五十三次の
亀山の絵のモデルになった場所でした。
まあこんな絵よりはなだらかですけど、
道もしっかりしてなかった昔、
雪の降るころなら
難所だったんでしょうねえ。
ほかの絵はこんな風に荷物を運んだり、
松並木の中をのんびり歩く姿
だったりするのですが、
この竜川の京口橋辺りは
とてもけわしい所だったようです。
そんな東海道をさらに歩いていきましょう。
この亀山宿の昔の街道には今は
道にこんな赤い色が塗られているので、
歩くのもわかりやすくていいですねえ。
ここには全国の街道沿いや
神社に寄付を行った
「谷口一族」ことが書かれていますねえ。
う~ん、これは初めて目にした一族です。
また勉強していかなくては
なりませんねえ。
ここには涅槃図などが寄進されたようです。
街道沿いにはいろんな出来事が
続いていきますよ。
ここには赤堀水野介の碑が立っています。
「亀山の仇討」に関連して
仇討された人の碑が立っています。
古い家が続いていく中で、
こんな伊勢うどんのお店もありました。
う~ん、気になりますが、
亀山の名物じゃないですよねえ。
ここへ来る前に調べてあったのですが、
亀山の名物といえば
「亀山味噌焼うどん」
ですねえ。
国道1号を通るトラック運ちゃんなんかに
人気のあったメニューが、
今は名物になっているとのことです。
ああ、なんかB級グルメですねえ。
それに、帰りは電車ですから
味噌焼うどんってなんか
ビールに合いそうじゃないですか。
ぴったりですねえ。
今日の昼食はその名物にしましょう。
ああ、でも伊勢うどんで
思い出すことがひとつあります。
むかし、三重県の海で
トライアスロンが開催されました。
もう今はない大会ですが、
2回ほど出ています。
51.5キロのオリンピックディスタンスですが、
まだまだトライアスロン競技が
さほど行われていない時代だったので、
大阪のトライアスリートには
人気の大会でした。
そこへ友達と行った時に
初めて食べたのが伊勢うどんでした。
しかも漁港の中にある小さな食堂でした。
初めて見たときは驚きましたねえ。
「おばちゃん、だしを入れ忘れてるよ」
と叫びそうになったもんね。
そんな事件があったのを思い出します。
うう~でもここは我慢ですねえ。
頑張って歩いていきましょう。
道には東海道の大きな石碑が立っています。
これは名古屋の蓬莱屋の横に
立っていた石碑。
それに比べたら立派ですねえ。
街道沿いにはこんなお寺も
多く残っています。
最近では墓地も兼ねたお寺が多いですねえ。
ここは変わった建物やなあ
と思ったらどうも食堂みたいな感じ。
味噌焼うどんのお店はまだかなあ。
ここには焼き肉屋もありますよ。
なんとここは明治の時代に
いまから四代前の明治天皇が
伊勢参りの帰り道に亀山に寄り、
この店でご休憩をされたそうだ。
立派な案内も張られてますねえ。
そういえば、亀山神社の所にも
「明治天皇行在所」がありましたねえ。
そもそも最上位の天皇が、
こうして日本国中を視察して
回ったのはとても大事件だったそうです。
この旧東海道を明治天皇は
しずしずとお通りに
なられたんでしょうねえ。
道にはこんな四角いマンふたに
旧東海道と書かれていました。
doironもそんな道を
しずしずと歩いていきましょう。
大きな交差点には休憩施設があります。
地図とベンチがあって、
座って水分補給ですねえ。
昔の旅人も、瓢箪や竹筒にいれた
水分を飲んだりしていたのでしょうねえ。
お金を持たずに伊勢参りする人は
柄杓を持って歩いていたそうで、
水分補給は今も昔も大事だったんですねえ。
ま、飲まないと死んじゃいますがね。
こんな風に休憩所など、
なかなかいろいろと
整備された街道歩きはたのしいです。
続く
今日は今頃は帰宅の
飛行機のなかでしょう。
楽しかったかな、石垣。
もう少しでこの秋最大の
旅が終わります。
では亀山の続きです。
ーーーーーーー
いかにも昔の山道のような感じの
経路でつけられた道を、
頑張って登っていきますと、
ちょっと広い感じのところに出ました。
おお~これです。
東海道五十三次亀山宿の案内の
石碑が置かれていますよ。
このあたりが、
たまり坂と呼ばれるところで、
城見庭園といわれています。
目の前には城の外堀である
池の側が見えています。
そして足元を見ますと、
マンホールのふたには
城のようなものと市の花である
「はなしょうぶ」が書かれていますねえ。
その城の亀山城多門櫓も
見えてきます。
あそこまで登っていきましょう。
途中、飯沼慾斎生誕の地の石が
建っていましたねえ。
江戸時代の医者で本草学者。
まあdoironの趣味から見れば
彼の残した草木図説は
見てみたい著書ですねえ。
昭和の始めに牧野の図鑑が
出るまでは日本の植物図鑑としては
最高のものでした。
旧来の本草学から植物学へと
進化させていったのは
この人でした。
そんな旧来の科学から
今の科学へと進行させていった
学者の一人の飯沼氏は、
この下の東海道の近くで
生まれていたとのことです。
さあでは右手に亀山市役所を眺めながら、
コースは左へと曲がっていきます。
そこが亀山城の残っているところです。
マンホールにも書かれている
多門櫓へ登っていく石段がこれ。
上に上がると景色がよく見えますねえ。
でも櫓の中には入れるようには
なっていません。
下に降りてそのあたりを
ぐるぐる回ってみましょう。
これがお城の楠門跡ですねえ。
大きな石が二本にょっきりと
建っていました。
そしてこれは「与助井戸」
といわれる井戸の後です。
本丸で使用していた井戸といわれ、
ここの「与助鍛冶」を
場外に移したところから
こんな名前で言われています。
この井戸には場外への抜け道もある
とのことですが、確認はされていません。
さて、この亀山城の城主は
どうだったのか。
順を追っていきましょう。
まず最初にこの城を築いたのが
1265年に伊勢平氏の
流れをくむ関実忠でした。
関氏が何台か続いた後、
織田信長の伊勢侵攻以後は
蒲生氏郷、岡本義勝が城主となりました。
その後この城は伊勢亀山藩主の
居城となったのです。
ここ亀山は東海道の要衝
ということもあって、
城主は多くが譜代大名で、
本多氏の後石川氏が入城後は
明治まで城主を務めたそうです。
ただし、城の取り壊しの名を
受けた堀尾氏が丹波亀山城と
勘違いしてこの城の天守閣を
壊しており、それ以降は
天守は再建されていません。
残った石垣なんぞを眺めながら、
城跡を出ていきます。
横には今は亀山神社がありますので、
ここものぞいていきましょう。
静かな神社でしたね。
境内には「宝篋印塔の基礎部」は
本丸の石垣の中に
あったものだそうです。
碑文は一面にのみ刻まれており、
市内では最古の石像品とされているそうです。
この城跡の一角には
子どもの公園も隣接されています。
国鉄が100周年を記念して
ここにSLを置いたんだそうです。
そんな施設も併設されているのですが、
さすがに亀山は侍関係というより、
東海道の宿の町ですねえ。
あまり充実した様子はありません。
では再度山の下の方に降りて行って
地元の町を歩いていくことにしましょう。
亀山城西の出丸跡や
櫓の後を見ながら
街の方に下っていきます。
でもこの時に経路を
間違えましたねえ。
降りていったところは
「京口門跡」でしたから
亀山の西の入り口です。
もう少し東の方に出て
街道筋を歩きたかったのですが、
まあ今回は関まで向かっているので、
次の機会に歩くことにしましょう。
で、その京口門跡なんですが、
地形上から高いところに
道が続いています。
下を見たら幼稚園の子どもたちが
大勢散歩していました。
続く
今夜は当初の計画では
石垣牛を食べに行ってるはずです。
安いお店を探し、予約しておいた店です。
こんなに遠くのお店を
予約したのは初めてです。
果たして味はどうだったのか。
結果はまた後日ブログで。
今日から先日歩いた亀山から関の
ブログをはじめます。
ーーーーーーー
今年に入ってから三重県の方に
よく出かけています。
津や鈴鹿、桑名、四日市、
松阪なんかをかなり歩いてきましたねえ。
三重県の町の方にはかなり詳しくなったぞ
と思いつつも、実はもう一ヵ所だけ
とても気になる場所がありました。
それが亀山市です。
たしか以前、亀山城って出かけたことがあり、
それをブログにしたような
変な感触があるのですが、
違いましたね。
あれは京都の亀岡でしたねえ。
亀岡にあるのに亀山城って
おかしいなって思って
調べたことがありましたね。
それはなぜかといいますと、
その亀岡のあたりも旧名は
「亀山」と呼んでいたそうです。
でも、東海道の宿でもある
三重県の亀山市とややこしい
ということで「亀岡」と
名前を変えたんだそうです。
だったら城の名前も亀岡城と
するところでしょうが、
その改名も明治に入ってからの
事だったので、江戸時代には
亀山城と呼ばれていたのです。
そうつまり亀山城は
京都と三重に二つあったわけです。
なので当時それを知っている人は
「伊賀の亀山城」と「丹波の亀山城」
と区別していたといわれています。
でもややこしいですねえ。
亀山城へ行けと言われて、
出張先を間違えた武士も
いたのでは、と思ったら
ほんとに、とても驚くような
話が残っています。
昔、丹波亀山城の天守を
取り壊せと命ぜられた堀尾忠晴氏が
間違えて伊賀の亀山城の
天守を取り壊したというのです。
ウヒャーすごい間違いですねえ。
珍百景の百倍くらい驚く話です。
実際取り壊されたので、
以後、伊賀の亀山城の天守は
再建もされていません。
そんな驚く事件があったのと、
東海道五十三次の宿である
亀山ですから、これはもう
必ず行っておかないといけない
という場所なわけです。
で、もう世間がすっかり
秋になってきたころに
友達便があるというので、
出かけていくことにしたのです。
行きは朝早くに友達の仕事車に
乗せていただいて、出かけていき、
途中の亀山で下ろしてもらいます。
帰りは申し訳ないので
自力での電車帰宅となるわけです。
では出発しましょう。
津へ向かう友達の車に、
ちょっと寄り道してもらって
JRの亀山駅を目指します。
ここは以前18切符で
岐阜へ行った時に、
帰り道電車の乗り継ぎで
立ち寄った駅ですねえ。
確か駅前に大きな鳥居が
あった場所でしたねえ。
降りていきますと、
ありましたよ。
これが駅前の大鳥居。
能褒野神社一の鳥居と
書かれています。
残念ながら、今回はこの
能褒野神社は通りません。
古事記や日本書紀では
日本武尊(ヤマトタケル)は
能褒野で亡くなったとされています。
しかし、その能褒野墓は
後世に所在不明となりました。
亀山のこの辺りには
その墓と思われる古墳が
いくつかあったが、
どうやらそのうちのひとつが
内務省によって「能褒野墓」に
治定されたということがありました。
その墓の周りに作られた神社が
能褒野神社だ。
この駅前の鳥居の本体です。
フムフム、結構由緒正しい墓なのだ。
この駅前の一の鳥居は、
道路工事によってここに移動され
そびえることになったそうだ。
もう電車を降りたところから、
歩きの楽しさを
予感させてくれるように
なっているわけですね。
駅の中のパンフレット置き場の中から、
歩きの地図を探して手に入れ、
それをもとに歩いていくことにしました。
今回の目的は、東海道五十三次の
四十六番目の亀山宿から
四十七番目の関宿まで
歩いていくことになります。
それでは歩き始めましょう。
まずは、伊賀の亀山城の方に
向かって行きます。
道はそちらに向かって
登っていくような感じで
続いています。
駅からすぐのところに
県道565号線が通っていますが、
これが旧の国道1号です。
これを歩行者は越えて
どんどんと山の方へと登っていきます。
続く
今頃は石垣市内の居酒屋で
オリオンビールを飲んでいる頃ですね。
でもこのブログは予約投稿。
今日は今年の祭りのことについて書きます。
ーーーーーーー
ここんところ、今年の祭りの
収支報告などのことについて、
役員内でいろいろと
意見が交わされています。
doironところの祭りというのは、
だんじり曳行で
大体「花」といわれる寄付で
成り立っています。
ただ単にだんじりを曳くだけなのに、
なんでそんなに花がたくさんいるの?
と思われる人も多いと思いますが、
これがねえ大変なんです。
だんじりって思わぬところで
結構お金がかかるのです。
まずだんじりを動かすために
必要な経費というのが
びっくりするほど必要です。
もうスーパーカーを運転するより
経費が掛かります。
まず、だんじりのタイヤである「駒」。
これも二日間、試験曳きも入れた
三日間で多いと12本くらい
必要となります。
サファリラリー並みですね。
知らんけど・・
そんなに必要なのは
やり回しで削れたタイヤを
交換するためです。
これがねえ昔は大きな丸太を削って
作ったタイヤだったのですが、
なかなかそん太い丸太も見つからず、
とても高価になっていますので
最近は合板的に作られた
タイヤを使用しています。
とまあそうはいっても人を
乗せて走るだんじりですし、
非常に重いのでええ加減な
タイヤではいけません。
ちゃんと曳行を支えることの
できるものでないといけません。
まあこういう駒になったことで、
駒の表面をまき直しということも
可能なので、もう本丸太の
タイヤを使うことはないでしょう。
でもこの合成のタイヤにしても、
買うとなったら1本で7~8万円します。
まき直しで三分の一くらいでしょうか。
となると、こういう曳行に
必要な駒を用意するだけで、
どれだけ経費がいるのか
わかってもらえるでしょう。
必ず必要な経費はほかにも
「前てこ」「うちわ」「鳴り物経費」
「前てこを入れるために必要なつつみ」
「屋根のむしろ」「駒の稼働に必要な
グリス類や緩衝材」などがあります。
これらがなければだんじりは
動きません。
そんな必要経費に加えて、
曳行に携わる人々への保険
というのもすごい経費となってきます。
きけば驚くような保険費ですよ。
またパレードなんかをするときには、
警備員の経費や必要物品の整備などで
各パレード経費の会費が必要となってきます。
もうこれらを用意するというだけで
花の大半がなくなってしまいます。
もちろん、各種団体の食べ物や
飲み物などの経費は
自分らの会費で用意しているんですよ。
だから、あいつら寄付もらって
飲み食いしてるんやあ
というのは大間違いなんです。
そんな花と祭りの経費を
収支的に比べてみると、
去年は残念ながら赤字でした。
祭りの寄付をくれる人の数も
減ってきているうえに、
経費が高くなりつつあるからです。
しかしこういう状況が続くようであれば、
祭りそのものを続けていくのも
むつかしくなってきます。
実際そのため今年の曳行を最後に
祭りをやめる町も出てきました。
これはいかんぞと、
だんじりの曳行をつかさどる
我々「保存会」では、
会長の強い思いもあって
祭りの花の収集を強くしよう
と今年は思い切って
踏み込んでいきました。
最終一人が一か所花をもらえるところを
増やすだけでもすごい違うぞ、
と呼びかけ強化を図っていったのです。
結局そのおかげで、
祭りの寄付もことしは
昨年よりも20万円ほど
多く集まりました。
そこへもってきて、
今年は台風の影響で
一日祭りが中止にもなった
ということで、収支は
ようやく黒になったのです。
これは、おかげさんで
皆さんの意識が大きく
動いたことによるものだと、
我々は喜んでおりました。
そしてこういう状況も来年以降も
忘れずに続けていかなくてはなりません。
花の強化に加えて、来年は
必要経費を少しでも
縮めていくことについても、
いろいろと検討していくことになり、
組織づくりも始まろうとしています。
みんなの苦労を考えたら、
何もこんな祭りを続けなくてもと
思われるかもしれませんが、
まあ地域の祭りとは
こういうものなんでしょう。
安全に楽しく、そして地域ひとつになって
祭りをやり上げるという気持ちは
なんかとても大切です。
地域の結束を固めていくためにも
しっかり持ち続けたいな
と、全戸で100件近くしかない
こんな小さな村でも思ったり
しているのです。
今年の初めにドジ旅で
南の島に行きました。
そう、石垣島です。
県庁所在地の那覇からは
400キロ離れている
亜熱帯海洋性気候の島です。
オリオンビールの国です!
前回は三泊四日でかなりいろんな
場所に行って探索をしてきたのですが
まだまだいけなかったところや
見れなかった場所もあります。
今回はそれらを中心にして
探索をしてきます。
明日出発します。
二泊三日なんですが
自宅の警備は村の友達です。
毎日家の様子をチェックしてくれる
ことになっています。
ああこんな時は近所の友達は
重宝しますねえ。
お互いにいろいろと助け合っています。
先日出かけた沖縄料理の
食堂では、なんと店長が石垣の人
地元の話をちょろちょろっとしましたよ。
7~8年くらいで石垣は
大きく変わったといってはりました。
今年の春からも変わっているかなあ。
しばらくの間、パソコンも離れて
楽しく過ごしてきますので
ブログは予約投稿です。
年内には報告していきますので
また読んでくださいね。
そして天気はどうかなあ。
晴れたらいいなあ。
夏の衣替えを石垣以降に伸ばしています。
夏服も持って行かないといけないからね。
今の気温は25度前後のようです。
帰ってきたら大急ぎで
衣替えですねえ。
用意もできたので
では今夜もサンゴ礁の夢でも見ながら
寝ますかね。
おやすみなさい。
そして明日から行ってきます。
昨日はいろいろと忙しい日でした。
実は今週中にdoironは
石垣島に行きます。
そのために必要なものを
用意するという用事もあって
ウロウロとしておりました。
とまあ言いつつも日曜日だし、
近所の友達も休みなので
競馬やマージャンの話とかしながら、
その友達の家でお茶を飲む
という時間も過ごしましたがね。
そんな中でその家にある
巨大テレビで即位パレードを見ておりました。
すごい人でしたねえ。
あんなに大勢の人の中にいて、
トイレなんか行きたくなったら
どうするんやろ、とか
心配しながら見ておりましたよ。
あんなに大勢の警備員のいてる中で
立ちしょんはできないだろうし、
コンビニもきっと一杯だろうし、
きっと高齢者の中には
地獄の思いをした人も
いたんではないかねえ、
とか話しておりました。
前日から並んでいた人なんかは
どうしたんでしょうねえ。
パレードが始まりますと、
その晴れやかな幸福感は
すごかったですねえ。
「天皇・皇后両陛下もにこやかに
あんなに手を振って筋肉痛になりそうやなあ」
とか話しておりました。
そんな中でdoironがとても
気になったのが、沿道の方を
向いて等間隔で立って警備する
人たちでしたね。
後ろをにこやかに手を振って
パレードする車が通っても、
けっして顔をそちらに向けたりはしません。
じっと沿道の方を向いて立ち
視線だけで警備をしておりましたね。
全ての警備員がそんな感じでした。
doiron達年代は祭りのときに
交差点警備をするのですが、
もう全員がやりまわしの方に
意識を奪われているのとは
大違いですね。
まあ危険度とか責任感とか考えたら、
その警備感覚は1億倍くらい
ちがいますけどね。
まあそれくらい即位パレードの
警備の人たちの感覚はすごくて、
圧倒感さえ感じましたね。
専門家はそんな彼らの姿を見て
「彼らは顔も動かさずに
目だけで警備しているんですよ」
とおっしゃってはりました。
いやあ、本当に関係者は
大変な思いをした一日でしたね。
何事もなく、
平和に終わってよかったです。
「あ、公園で立ちションしている
高齢者に皇宮警察が
包囲網を築きました」なんて
ニュースもなくてよかったですねえ。
天皇・皇后両陛下も歓喜にあふれ
緊張がほぐれてさぞや
ほっとしていることでしょう。
なんでも天皇陛下は
お酒が好きだということでしたので、
昨夜はいいお酒を
いただいたんじゃないでしょうかね。
前日の祝賀も良かったですねえ。
嵐もまさかデビュー時に
時代の変遷の中で天皇陛下に
歌を聴かせるなんて
思ってもなかったでしょうねえ。
まあ二日間東京はお祝い一色の一日でした。
新しく始まった「令和」の時代に、
自分はどう生きていくのか
なんてことを少し考えたりもした
立冬も過ぎた週末でありました。