初めて常念岳に登ったのは1980年(昭和55年)、正確には今から29年前の夏です。上高地の徳沢→蝶ヶ岳→常念岳→大天井岳→燕山荘→中房温泉と縦走してきました。
上高地河童橋から徳沢までは、梓川沿いの、森林に覆われた平坦な道が続く気持ちよいコース。入山一日目は、井上靖原作「氷壁」の宿徳沢園脇にテントを張りました。テントはかってボーイスカウト経験のあるHさんが持参。布製のごわごわしたテントでしたが、しかしこのテントが実は問題でした。今でこそ軽量の、組み立ても簡単なテントしか使われていませんが、29年前はまだ布製のテントも使われており、このテント実に重いのです。ポール立てにかなり苦労をして組み立てました。
早朝にテントを撤収し、荷詰めの段になってこのテントがザックに収納で出来ないのです。メンバー4人のザック、縦走をするには余りに小さかった事もありますが、どうしてそんな事になったか、今でも思い出せません。徳沢から蝶ヶ岳への登りに、このテントを代わる代わる持つ事にしたのです。あるものは自分のザックの上部に括りつけたり、あるもには首からつるしたり。本格的な登山が未熟な4人とは言え、他の登山者から見れば、滑稽で無謀な行為に見えたことでしょう。
この様なスタイルでの登山が文字通り重荷になりました。4人とも同じ職場の人間。一緒に働き、よく呑んでいましたから人間関係の意思疎通は出来ていたのですが、一緒の登山は始めて。後から思えば、登山への意思疎通には欠けていました。最年長の私が中心となり、しっかりとした計画を練らねばならなかったのだと思います。この上りの「長堀尾根」で長時間を要し、稜線に出たのはお昼近かったと思います。稜線に出れば、雄大な穂高が眺められたはずですが、記憶にありません。疲労困憊していました。コースタイム4時間40分のところ、6時間は要した事でしょう。
ここから常念岳への尾根縦走、ただただ難儀でした。漸く常念岳に到着、微かに見える「常念小屋」までの道のりが長かった記憶だけ残っています。「一の沢」を登ってきた仲間3名は既に小屋に到着していて、小屋付近から手を振って待っていて呉れました。常念岳から下る途中、仲間の一人が「明日は直ぐ帰らせて貰います」と。今でも覚えている一言です。
しかし、次の日の早朝、テント場から見た槍ヶ岳、忘れられない風景がそこに展開していました。前日の疲れも取れ、心に余裕も出来きたからだと思いますが、腰を下ろしゆったりと眺める”対岸”の稜線は左から前穂高・奥穂高・北穂高と連なり、大キレット挟んで南岳・槍ヶ岳へと続く一大パノラマ。同行の仲間達も息を飲んで見つめていました。後から思えば、その後続く幾多の山行は、ここが出発点だったと思います。
快晴の中、パーティーは7名となり、重いテントも某大学の山岳部員だったKさんのキスリングに上手く収まり、彼を先頭に大天井岳めざし出発。大天井岳からは所謂「表銀座コース」です。が、この辺りから昨日の疲れの影響か、パーティの歩みは遅くなります。燕山荘に着いたのは夕闇が迫る頃。慌てて「中房温泉」への下山を開始するも途中で日が暮れてしまします。懐中電灯を使わねばならなくなると、更に歩みは遅くなり、宿の到着は午後11時、宿は食事をそのままにしたまま待っていてくれました。宿の予約は私がしたので、宿からは私の家に電話。「まだ到着しません。どうしたのでしょう」の様な内容だったのでしょう。妻からこの時の驚きを何度も聞かされました。
帰ってきてからの反省会。装備が貧弱過ぎた、懐中電灯持参者が一人に象徴される如く打ち合わせ不十分等々、登山のイロハに当たる様な事柄が反省材料に挙げられたのです。初めての本格的な縦走は失敗に終わりましたが、全員が無事帰ってこられた事がせめてもの救い。この登山経験を一つの教訓にしてその後の山登りをしてきた積もりですが、もう一度この稜線に立ち、心行くまで山岳風景を味わいたいとの思いが、少しずつ湧いてきてます。
それにしても「いまだ下山せず!」に登場された遭難パーティは、私達が縦走してきてのとは逆(こちら表銀座コースの普通の歩みですが)に、厳冬の時期の猛吹雪の中をラッセルしながら進んでいった事を思うと、その困難さがどんなに大変であったか、少しは想像出来るのです。