ラジオ体操に通いだして1年ほど経ち、会釈のみならず、会話も交わす方が増えてきました。変わらぬものと変わりゆくものにも気がつくようになりました。
ラジオ体操の開始10分前には、23段の階段(13階段ではありません)を昇り社殿にお参りをします。落ち葉が増えてきました。KAさんは私よりかなり早く来て、社殿の周りの落ち葉を拾い集め、清掃をし、ゴミをまとめてゴミ箱に移動しています。頭が下がります。
唯一お若い(と言っても30代の)方、不思議な事にラジオ体操第一が終了すると会場から去ります。KOさんとマーちゃんはどうしてだろうねと会話を重ねていましたら、天祖神社の祭礼の日に富士前町会のテントまで奉納金を持ってきてくれました。早速KOさんが、ラジオ体操第一のみで去る理由を尋ねますと「ラジオ体操第2は知らないから」との意外な返事。いつもラジカセを持ってきてくださる85歳のSさんにこの事を話すと、何日か後に、Sさん、ラジオ体操第2の体操の仕方を書いたパンフレットを渡してあげました。そのお若い方、数日後からラジオ体操体操を終わりまで一緒にするようになりました。
寒くなりだした日々にも半袖のスポーツシャツで現れるUさん、聞くところによりますと、このラジオ体操に通うこと26年の超ベテランのご婦人で、溌剌とした体操をする方。元区議さんの妻さんと聞きましたので、ネットで調べると、なんと「花笠踊り」の先生で、元幼稚園の先生だと知りました。一昨日体操をしながら、空の方を眺めていますから、何だろうと私もその方向に目をやりますと、残月が晴れた空に架かっていました。昨日その月を眺めると同じ時刻で月は少し東に移動していました。
私が密かに敬愛する85歳のSさんに「富士講のメンバーですか」と尋ねると「私は富士講には入っていません。父は『神苑講』に入っていました。その『神苑講』が昭和13年に、富士神社の周りの石垣工事をしたのです。その名残が社殿の裏側にありますからご案内しましょう」との嬉しいお話。体操開始の数分前に社殿の後ろを一緒見に行きました。確かにその事業をした記念版が埋め込まれ、Sさんのお父上の名前も刻み込まれていました。私にとって非常に楽しくなる発見です。
「神苑講」と「富士講」の関係をお聞きすると、「神苑講」が「富士講」に変わっていったとのお話。その時はお聞きしませんでしたが、これには些かに疑問を感じました。「富士講」は江戸時代から存在していた講。「富士講」の方が古くから存在していたはずです。
妻とこの事で考えて見ました。二人の間での一応の解釈ですが、江戸時代に流行した「富士講」は富士登山を目的とする集まりの一般名詞的な呼び名。その「富士講」を実施するいろいろな講があり、その講には例えば「神苑講」の様な固有の名前が付けられていたが、それらが統合されて、富士神社の講としては、現在は固有名詞としての「富士講」のみが残った。「神苑講」が「富士講」に名前変更したというより、「神苑講」も他の講と一緒に「富士講」に統合されたのではないか、と解釈しました。初心者が勝手に解釈するとはおこがましいとは思いますが、後日詳しく調べて見たいと思います。
(石で作られた記念碑が埋め込まれていました)
(神苑講のメンバーの名前も刻まれています)
(色あせてしまった記念碑もありました)
(昭和13年の工事で完成した石垣)
朝のラジオ体操、単に体を動かすだけでなく、他の方と会話を交わし始めると気が付くことが多々あり、心地よい空間となり始めています。