【愛と奇跡と感謝】
A Course In Miracles 奇跡のコース
『愛は救うために殺すことはありません』
愛は救うために殺すことはありません。愛が救うために殺すとしたら、攻撃はよいということになります。これはエゴの解釈であって、「神」の解釈ではありません。これを要求し得るのは罪悪感の世界だけです。というのは、罪悪感を持った者にしかそれを追いつくことはできないからです。自分を「楽園」から追放したのは「父」であるとアダムが信じなかったならば、アダムの"原罪"は誰にも影響を及ぼすことはなかったでしょう。(中略)
この世界はまさに「神の子」が十字架にかけられている図です。そして、「神の子」を十字架にかけることは不可能であることに気づくまで、あなたはこの世界を見るでしょう。しかし、、「神の子」は無罪であるという永遠の真理を受け容れるまで、これに気づくことはないでしょう。「神の子」に値するのは愛だけです。なぜなら、「神の子」は愛だけを与えてきたからです。
奇跡のコース 第1巻 第13章 罪のない世界 Ⅰ序論 訳=大内博
皆様、おはようございます。
お目覚めいかがでしょうか?
さて、「罪悪感の世界」とはいつから始まったのでしょうか?
教会ではアダムとイヴが楽園から追放された創世記に、
その原罪が始まったと教えておられます。
私もそう信じてきました。
しかし、それは本当に確かなことなのでしょうか?
「神は愛なり」と教えておられるのに、
何故に神は人間を楽園から出したのでしょうか?
それは本当に追放なのでしょうか?
いいえ、違います。
私はこれは人類に与えられた≪祝福≫なのだと思います。
つまり、神様は私たちに≪自由意思≫という最高の贈り物を与えられたのです。
従って、アダムとイヴはそれぞれの自由意思によって楽園を飛び出して、
アドベンチャーの旅に出かけたのだと思います。
神様は人間がどんな体験をされて戻って来るのかを楽しみに待っておられます。
子どもが遠足に出かけてどんな愛の体験を持ち寄って帰って来るのかを、
心ときめかせながら待っているのです。
私はそう思っています。
愛は救うために殺すことはありません。
愛は救うために犠牲を強いることもありません。
キリストの十字架は人類の罪の犠牲ではありません。
キリストはもう2度と十字架にかかることはありません。
キリストは復活し、私たちの間に立っておられます。
そして私たちに光の道と永遠の命を示されました。
これが、"あがない"です。
この道は誰もが通れる道です。
この道を進むも進まないのも自由意思にまかされています。
さあ、今日も私たちは愛の冒険者として、
素晴らしい世界へ飛び出そうではありませんか。
神様の意志が実現します。
すべての生きとし生けるものに最善が為されます。
天国は私たちの内にあります。
愛だけが現実です。
ハレルヤ!
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