![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/f4/d2ddab18b62555ac0bdacab0ceb0173e.jpg)
この撮影地は追っかけはかなり難しいところです。それでも何台か追っかけ組がやってきましたが、駐車した位置で列車通過間際に住民の方とトラブルが発生していた様です。この状況下で非常に残念な光景でした。 11,04,03 豊実-上野尻 9294レ Canon EOS7D
あの大震災から25日が過ぎました。新聞や雑誌を見る度にまだ身内に行方不明者がいるのに人のために献身的に活動する地域の人々や損得勘定なしにで人間としての原点である助け合いの精神で献身的活動する警察・消防を始め電気・ガス・水道等の各機関の皆様の復旧活動の記事を涙なしでは読む事が出来ず、通勤途上で読んでは感動し駅や汽車の中で目立たぬ様に涙をぬぐうのを苦慮している日々です。また自分自身の思想・心情としては軍隊であり日本に存在すら認めてはいけないと思っている自衛隊ですが、先の阪神大震災同様に国家・国民の危機と捉えて人の嫌がる遺体処理の作業を献身的に黙々とこなしている隊員の姿にイデオロギー抜きで感謝の言葉しか浮かばないくらいに感動を憶えています。
さて今回の大震災では福島県は地震・津波に加えて明らかな人災である原発事故による放射能汚染とその風評被害に翻弄されています。確かに地震と津波の被害は宮城県・岩手県の方が甚大でしたが、この先、何十年と続く見えない放射能の脅威と闘わなくてはならないと言う事を考えるとトータルの被害としては福島県が桁外れで大きいと思えます。さらに追い討ちを掛ける様に福島県では深刻な燃料不足が発生し、住民の方々の生活に支障をきたしていると聞いています。その原因は燃料輸送の主たる機関である東北線が不通なためで、その打開策として上越線・磐越西線を迂回するルートで燃料輸送を開始。その輸送のために西日本の各地からDD51に招聘がかかり新潟の地を仮の住処として活躍を開始しました。
当初は磐越西線での線路容量の関係で一日1往復タキ10両600Kリットルの輸送でしたが政府からJR貨物に対して輸送量の増強の要請がありJR東の全面協力のもと4月2日から(実際には前倒しで3月30日から)磐越西線内2往復体制で燃料輸送が増強されました。
DD51が大好きな私の事。今回の迂回燃料輸送は絶好の被写体となるのですが、福島県中通と会津地方は地震の直接な影響は少なかったものの原発から放出される放射能汚染のために避難してきた住民の方々が会津若松市やその周辺にを多く避難している地域です。DD51の重連を撮りたいと言う欲求は誰よりもあのましたが、ますば人間として、そしてひとりの共に助け合う日本国民として、とりあえずは3週間が経過する3月いっぱいは磐越西線の撮影は自粛してきました。この自粛期間に具体的な根拠などはありませんが、とりあえず自分が決めたルールは守ろと決めた次第です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/bb/011083f82cc65aa37d4f57e868166427.jpg)
燃料迂回輸送が始まって初めての日曜日となった3日は有名撮影地は激パとなりました。上の写真の撮影地で9294レの通過15分前の様子です。この光景が不謹慎と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これだけの人数が福島県下で食事をしたりお土産を買ったりすることで、ほんの少しではありますが冷え切っている現地の経済の一助となる見方も出来ると思います。 11,04,03 豊実-上野尻 9294レ通過15分前 FUJIFILM FinePix AX250
そして4月に入り早速、磐越西線へ出撃する機会に恵まれることとなり、3日に出撃することとなりました。今回ご同行いただけるのは弊ブログに何度かご投稿いただいているひだ号様です。彼は弊社の後輩(なんと20歳代)であるとともに、とてつもないバリ鉄との噂が入っています。なんでも弘南にラッセルが走ると言う情報を得て、なんと一交勤務の非番で日帰り撮影に向かうと言う過激な頼もしい後輩です。
さて、ひだ号様には私の自宅に3日0時においでいただきました。そして私の愛車FORSTERに乗り換えて、いざ出撃です。大震災前に比べて1/3から1/4も灯りが暗くなった東京を抜けて東北道へ入ります。東北道も行楽の車もほとんどなく快調に北上していきます。事前に収集した情報だと会津のガソリンスタンドは安定的に供給されているものの、中通は量制限はなくなっているものの車列が出来る事も多々あるようです。さらに高速道路も那須高原SA以北のガソリンスダンドは給油の列が出来て、給油できる量も制限があるとの事でしたので念のために蓮田SAで給油をしましたが、蓮田のガソリンスタンドの店員によると那須高原SAでも給油でも量制限はないとの情報を得る事ができました。そのために蓮田SAで給油したものの、さらにその先の給油がままならないといけないので那須高原SAでも再度給油して万全を期しました。そして高速から降りる郡山の直前の鏡石PAに3時頃に到着。明るくなるまで仮眠することにします。
周囲が明るくなった5時過ぎに行動開始です。郡山ICで出て撮影の前にまずは49号沿いのコンビにで食料調達をすることにしました。コンビにの店内に入ってビックリしたのが商品の豊富さでした。おにぎりも弁当もパンも豊富に並んでいます。更にビックリしたのがペットボトル2Lの水が販売していました。店員に聞くと”ここは被災地なので食料は優先的に配達されるし、水も発注した分だけ入荷する”との事。東京や神奈川ではほとんど姿を消してしまい、静岡や長野まで買出ししたものの(もちろんそのために行ったのではなく、撮影のついでですが…)、購入出来なかった2Lの水のペットボトルがなんと福島県に豊富にあるとは意外でした。しかし被災されたみなさまのために供給されたペットボトルの被災地域外の私が水を買い占めるというのは人としてとる行為ではないので、その日に飲む自分の必要な量だけ購入することにしました。
さて撮影ですが喜久田-安子ヶ島間で9292レから撮影を開始します。自分の真上は青空なのですが、東には厚い雲が出ていていてギラギラの写真は撮れませんでした。その後は磐越道を活用して無理のない程度に追っかけをしてコマ数を稼ぎながら、ここぞという撮影地は腰をすえて撮影する事にしました。この日(3日)の天気予報は会津地方が曇。中通の天気が晴。朝夕は曇という予報でしたので晴のカットは撮れない事も覚悟したのですが幸いにも何カットは晴てくれて、納得とまでは行きませんでしたが一定程度の手応えのある一日を過ごすことが出来ました。
撮影途中では原発の放射能汚染のために自主非難している大熊町の住民の方々を載せたバスを見かけましたが、憔悴しきった住民の方々の顔を見て、本当に大変だなぁ!と感じると共に、この大変な状況下にあるにもかかわらず、自分の趣味が続けられるありがたさを感じずにはいられませんでした。
この日最後の撮影は野沢-上野尻間の49号オーバークロスで撮影しましたが、残念ながら9293レも曇ベースで列車が通過したとたんに晴れてくると言ういつものパターンでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ea/c95e7113689d4fc7640a647b38aa83ef.jpg)
今回の燃料輸送で招集されたDD51は吹田機関区から757号機・759号機・833号機1027号機・1188号機。愛知機関区832号機。門司機関区から835号機・852号機で形態的にも多彩な顔ぶれです。特に1027号機はかつて磐越西線で活躍した元東新潟機関区のカマで機関士側・助士側共に旋回窓とプロテクターを装備した姿は磐越西線を走りるにふさわしいいでたちです。磐越西線の非電化区間でのDD51重連運転は夢の様です。なお、磐越西線非電化区間は山都の鉄橋が重連禁止区間となっていて補機は後部補機になると言う定説がありましたが今回、関係者に確認したところ現在はその制約はなく重連運転が可能になっていた。との事でした。 11,04,03 堂島-会津若松 9294レ Canon EOS7D
9293レ撮影後は会津西ICから帰路に着きましたが、磐越道から東北道に入ると各所で地震の爪あとがあり、ところどころで路面も陥没または崩落している所があり地震の強さを思い知らされました。往路では暗がりでわからなかったみたいですが、その被害の大きさに唖然としてしまいます。
さらに東北道を走ると災害派遣の横断幕をつけた自衛隊のトラックや東京消防庁や横浜市消防局などのバスを追い抜きました。そのらの車両に乗っている人たちは被災現場に入って活動された人たちが帰還されていると察しがつき、思わず”ありがとうございます。本当にご苦労様。”と言葉が出てきました。また瓦礫を搬出運搬するトラックも無数に走っていて、ここは被災地域の真っ只中と言う実感が湧くと共に、そんな地域に接する所で自分の趣味が出来るありがたさに感謝してしまいました。さすがに被災地と直結している東北道ですので車の量も多く、途中少し渋滞もありましたが自宅には到着見込みだった21時に45秒遅れて到着。自宅近くのガゾリンスタンドで満タンにして、23時には就寝する事が出来ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/8b/54706528eefcc1214faeb5ec397d8849.jpg)
更科(信)に近いこの撮影地も多くの鉄ちゃんが集結していました。ここは順光となるので晴れて欲しかったです。 11,04,03 翁島-更科(信) 9293レ FUJIFILM FinePix AX250
最後に現地を後にして帰路についた車内で現地でお逢いしたリーベン車両K氏よりDD51への想いがこもったメールをいただきました。ご本人から承諾をいただきましたので、ここでご紹介させていただきます。(一部加筆)
先週、来週と出張で磐西を訪れる機会は今回しかないので芳しい天気予報では無いにも関わらず出撃しました。昨日(2日)の夕方、津川駅構内停車中に撮影した833号機の「門」の区名札を見た時、門司生え抜きのカマでないとはいえ北九州出身の小生としては九州から震災復興のため駆り出されて任務に付く同機の姿を見て目頭が熱くなりました。また美祢線が復旧し美祢、山陰線で同機との再会を果たした時も目頭が熱くなるのでしょうね。
とありました。このメールを読んで私もほろっとしてしまいました。今回の燃料輸送で招聘されたDD51の中には城東貨物線電化で余剰となって廃車待ちだった吹田のDD51や美祢線不通でここ稼動していなかった門司のDD51も含まれています。持て余した機関車に一躍、脚光が注がれ遠い地で活躍すると言う事に人のめぐり合わせになぞってしまいました。
地震・津波。そして放射能汚染に負けるな福島!
共に頑張ろう、東北!
被災地域への燃料安定供給の責務を果たすため頑張れ、デーデー!