以前は光線の良い時間帯に貨物列車がなかったので見向きもしなかった撮影地です。八高線を撮り始めた頃は畑や空き地でしたが、月日が経つにつれ電柱が立ち未舗装道路にアスファルトが敷かれ、新しい住宅が立てられ風景がどんどん変わっていきました。 00,11,26 明覚―小川町 回9242レ
10年前の11月は八高線の臨客を撮影しています。八高線の臨客と言えば高崎から高尾へ直通する高尾臨や高麗川で折返す沿線駅主催の団体臨客列車は運転される事もありましたが、それらは高崎を早朝に発車するために日の出時刻や太陽の向きから、撮影地が限定されていました。しかしこの日の列車は高崎をの8時過ぎ発車して高麗川まで客扱いをする時刻設定で(復路は逆ルートで回送)、このような時刻での臨客の運転はほとんど例がなく、今まで撮影ポイントとしてチェックを入れておきながら影があるとか、太陽の向きが悪い等から諦めていた撮影地で撮れる可能性が出てきます。更に12系の配置のある高崎の客車を使わず、わざわざ尾久から14系を回送してきて、更に機回し要員も確保出来なかったらしくDD51のPP運転となり異例ずくめで、それだけにどうしても撮影したくて出撃した覚えがあります。たしか出撃途中の高麗川駅で川越住民様と待ち合わせして一緒に北上したはずです。
八高線と言えば秩父鉄道影森から産出される石灰石輸送の貨物列車が寄居経由で多数運転され、その牽引には高崎運転所(かつては高崎第一機関区)のDD51が牽引していました(川越線貨物輸送廃止までは寄居ー八王子間は大宮機関区のDE10が乗り入れていました。)。
八高線は身近の非電化デーデー走行線区として魅力を感じ、東武の57型の撮影と共に八高線の撮影は私の30歳代のライフワークとなり何十回、いや何百回と撮影に訪れたものでした。
しかし、反モーダルシフトとなるトラック輸送転換のあおりを受けて八高線貨物輸送は99年9月をもって廃止となりました。
最後まで八高線貨物輸送の象徴だったのが高麗川駅から専用線が延びる太平洋セメント埼玉工場で、撮影の往復には工場の煙突たら立ち上る煙を観ては、八高線貨物輸送が一日も長く見られる様に願った事が昨日の様に思えます。実際、最後の最後まで残った八高線の貨物輸送は太平洋セメント埼玉工場への影森ー高麗川間の貨物輸送でした。
貨物列車の全面廃止後はあれだけ通った八高線沿線の道も関越道が事故で全く動かない時に抜け道として使う以外は、ほとんど通らなくなってしまいました。希に通ると武蔵野の面影を残す良い雑木林だった所が真新しい住宅地になっていたり、地元の人しか知らないような、細い道が片側2車線の幹線道路になっていたりして月日が経った事を感じ、驚くばかりです。
この日もデーデーフリークである川越住民様と八高線貨物列車廃止後初めての撮影となり、ロケハンがてら懐かしい撮影を訪れては、八高線撮影の思い出を語りながらカメラをセットした思い出があります。
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