DT200Aの庫 (goo-blg)

恩師 小嶋光雄先生を偲ぶ


 ご家族からいただいた小島光雄先生の在りし日のお姿です。左側が私たちの担任を勤めていただいた時期のお写真だと思われます、後に先生から”あの頃が教員として一番脂が乗っていた時期で、子供に愛情を注いでいれば、それが全てなんだ!怖いものなどひとつも無い!”と言う信念を持ち、何の疑問も持たずに貫き通せた時期だった”と仰ってました。
 右の写真は晩年の時期の写真ですが、不幸にも脳梗塞を患い右半身が不自由になってしまいましたが、子供の頃私たちに教えた通り不屈の精神で左手で字を書けるようになり、今年の年賀状はご家族の代筆ではなく先生の自筆の年賀状をいただき感動したものでした。


 私の人格形成に一番影響を与えた恩人が先月(11月23日)にお亡くなりになりました。享年87歳であと数日、この世にいらしていれば88歳の米寿を迎えられて事になります。
 その方は小嶋 光雄さんとおっしゃり私の小学校3年と4年を担任していただきました。お住まいは私の自宅マンションのある戸塚に住われています・・・と言うより私が小学4年生の時に当時住んでいた大田区池上の家の近所にペイント工場が出来ましたが、当時のペイント工場は揮発性の高い薬品を多く所有し、ひとたび火災が起きれば大火になる事は眼に見えていると思った父親が慌てて引越しを言い出し、次は何処に住むと言う話の中で小嶋先生の住んでる戸塚に住みたいと言ってこの今の居住地に引っ越してきた経緯があります。
 先生は昭和一桁の生まれだけあって根性、根性、ど根性を信念として、とことん精神論を教え込まれました。巨人の星の星飛雄馬が大好きで、とにかく頑張れ、頑張ればその先に何かがある!と言う事を何度も聞きました。また、礼儀にも厳しく人に呼ばれたら大きな声で返事をする事を叩きこまれました。私は記憶にないのですがある日、テストの答案を採点して返す際に名前を呼ばれても返事をしなかったクラスメイトがいて、怒った先生は解答用紙を全て窓の外に投げてしまい、私たちが慌てて回収に行き、先生の手元に戻して改めて解答用紙を我々に返してくれたと言うエピソードががあったとクライメイトから聞きました(今、これをやったらマスコミの絶好のネタになってしまいますが、当時の親は学校の時間は先生にお預けしている時間で全てを託していると言う意識で、それを知っても親たちは何も異議を唱える事はありませんでした)。
 しかし、厳しいばかりでなく子供に対しての愛情もたっぷり注いでいただき、休み時間には教員室(職員室)には戻らず、一緒にドッチボール等をしてくれました。また、雪の降った放課後は早く下校させたい校長や教頭に〝子供が一番遊びたい日に下校させるのはおかしい!〝と進言してくれて放課後は暗くなるまで校庭開放していただき、さらに一緒に雪合戦していただいた思い出があります。
 先生は3年生から6年生まで同じクラスの児童を担任しましたが(通学していた徳持小学校のクラス替えは当時、6年間に1回のみでした)、私は5年生の学期途中で戸塚に引っ越して転校する事になりました。しかし先生は私の〝せめて5年生が終わるまでは徳持小学校のこのクラスに留まりたい〝と言う希望を叶えるために教育委員会まで行って掛け合ってくれて、朝の登校は戸塚駅から小学校最寄駅の東急池上線池上まで先生が付き添うと言う条件で前代未聞の長距離越境通学の特任をもらっていただき3ヶ月ですが先生と一緒に東海道線・京浜東北線・東急池上線と乗り継いで通学することが出来ました。
 ちなみに下校時は私ひとりでの帰宅でしたが、これがまたとても面白く、楽しくてたまらない時間でした。まだ川崎駅で貨物扱いがあり品川機関区のDD13が常駐していてその入換をみたり、現在の南武線ホームから更に多摩川の堤防まで明治製菓の専用線があって新鶴見機関区のDD13がワム60000やワラ1など数両の貨車を牽引して尻手方向からやって来る姿を見る事が出来ました。また、本来は川崎駅で京浜東北線から横須賀線(当時の横須賀線は東海道線の線路と共用し停車駅が違うだけでした)に乗換えるのですが、横浜まで京浜東北線に乗って京急を眺めた記憶もあります。


 先生が病に倒れて、一度だけお伺いした事がありました。突然の訪問ながらも暖かく迎えていただいたことがとても印象に残っています。小島先生は結構、鉄道ネタの引き出しが豊富と言う話を聞いた事がありますが、その引き出しの元は私がレクチャーしたネタであることは誰も知りません。   21,06,08   iphone7カメラ機能で撮影

 それだけの熱血先生だけに私だけでなくクラスメイトのほとんどが一番の先生は?と問われれば小島先生と答えます。知らせを受けLINEグループで訃報を伝えましたが、みんなショックを受けていました。そして私も当時の熱血先生の印象が大きく突然の訃報にただ、ただ唖然となってふしまいました。そしてその訃報を受けた夜、私が休むとベットの周囲に人の気配が一晩中ありました。きっと先生が訪ねて来てくれたまだと思い、数多くの教え子の中で私の枕元に来ていたた事が本当にありがたく思えました。
 小島先生は最後、校長にまでなり、また子供への愛情を買われて養護学校の校長も歴任していましたので何百、あるいは何千人とたくさんの教え子がいただろうと思いますが、小島先生のエンディングノートに訃報を知らせる名簿があり、その中に教え子は私の名前ともう一人だけがあったそうで、そのエンディングノートに沿って小島先生の娘さんが私のところに訃報をお知らせいただいた次第です。
 書き出すとこの数倍くらいのエピソードを書けますが、長くなりますのでまずはここで一区切りして、先生の想い出話を締めくくりたいと思います。
 謹んで小島先生のご冥福をお祈り申し上げます。小島光雄先生、本当にありがとうございました。先生の教えを胸にもう少し生きて、そちらに向かいます。


 このクラスは最後、6年3組として小学校を卒業しているので六三会(むつみかい)としてみんなが還暦を迎えた今もほぼ毎年、クラス会を開催しています(高校時代とその後の何年か、そしてこの新型コロナウイルス感染拡大時は除きます)。数年に一度は泊りがけのクラス会も設定され09年01月のクラス会は山梨県下部温泉で一泊二日のクラス会となり小島先生にも参加していただき、男性陣は一緒に風呂に入り、女性陣は夜通し飲み続けて夜を明かし、今となってはそれらが本当にかけがえのない想い出となりました。    09,01,10  下部温泉   Canon EOS50D

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「その他」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事