DT200Aの庫 (goo-blg)

20年前の8月 No1 金五郎山で堪能した夏


 今思えばやり過ぎの感もある重油併燃の真っ黒な煙を出して走り抜けるC623号機。夏はこれで決まり!と言う感じでした。   93,08,08 蘭島-塩谷 9263レ TMX スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED

 この時期、自分の生活が北海道のシロクニの運転日に合わせてまわっていたと言っても過言ではありませんでした。4月下旬から5月初旬の連休中にシロクニは運転を開始しました。この時期、北海道に限らず交通機関は混雑し宿も思うように予約が出来ない時期ながらシロクニ逢いたさに何度も訪れています。
 夏も同様にシロクニに逢いたくて出掛けています。北海道を良く知らない人は”夏の北海道ですか!涼しくて良いですねぇ!”と言いますが、さすがに朝夕は涼しいものの昼間はうだるような暑さに閉口してしまいます。でもシロクニに逢いたい、撮影したいと言う一心から何度も撮影に出掛けています。
 また、この頃は効率的な撮影重視と言うこともありましたが飛行機の運賃が高かったので(現在みたいに早期割引等皆無で正規運賃しかありませんでした)フェリー(主に新潟―小樽)で往復していたのが特筆されます。この時も当時所有していたタウンエースに機材と寝具を積み込んで出掛けています。


 夏はシロクニ以外に50系で海水浴臨が運転が運転され、それもひとつの目的でした。   93,08,06 塩谷-小樽 9232レ TMX スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED

 今は札樽道が開通して鉄道の需要がほとんどなくなってしまい運転されなくかりましたが、この頃は夏になると蘭島海岸での海水浴客対応で土日には札幌―蘭島(余市)間に臨時列車が運転されていました。充当形式は毎年異なり、DCが充当される年もあれば、”利尻”や”まりも”等の夜行列車編成を借り出して運転された年もありました。また牽引形式もDD51はもとなりDE15の重連運転もあったようです。
 夏のシロクニはこの海水浴臨がオマケで撮影出来るのが魅力でした。海水浴目当ての車で仁木あたりから蘭島あたりまで例の抜け道まで渋滞が発生し追っ掛けはリスクを背負うことからこの時は連日、上りのシロクニを撮影すると昼食を買い込んでこの蘭島―塩谷間で腰をすえて撮影してました。
 やはり復活シロクニは私の鉄ちゃん人生において忘れられない存在でした。今は、これたけ心ときめかして充実感を味わえる被写体がなくなってしまったことに寂しさを感じます。


 客車8両にDD51を加えた現車9両と言う長さは結構長いものです。シロクニが運転されていたこの頃は沿線の草も適当に刈られていましたがいまはどうなんでしょうか?きっと物凄い丈の草で   93,08,06 蘭島-塩谷 9233レ TMX スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED

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コメント一覧

残席3
らんしま号は夏のシロクニ撮影のおまけとして良かったですね。私が撮った日は、午後の一時間で6連・7連・8連と3本ありましたよ。
とらさん
情緒不安定にて

読み終わった戦争中の資料を次々に祖母に渡していたら、だんだん祖母の元気がなくなってきました。「10時の列車が到着するとアメリカの飛行機が来てバリバリバリと機銃掃射して(涙)」家族で、おばあちゃん読むのやめなよ。

といっても読みふけって、どんどん落ち込んでいっているので、研究辞め~
とらさん
おはようございます。

沼津海軍工廠の計画案また見てます。しっかりと製本させてますが、出版元等は全く書かれてません。しかも、私の前にも何人もの方が解読に挑戦した痕跡が、鉛筆で残ってます。間違いなく言えるのは沼津海軍工廠が完全完成する前に終戦したということ・・・
とらさん
み、み、見つけた~!!!沼津海軍工廠の計画案をみつけました。しかし、書き方が昔すぎて解読不能。
息詰まったので寝ますzzz
とらさん
ちなみに、私、岳南鉄道については、すでに詳細な歴史を調べて、そこらへんの本よりも詳しい本が書けるところまできました。

しかし、あまりにもドロドロしているので発禁でしょうな。

歴史の順序だと岳南鉄道も貨物輸送で役目を果たし終えました。もうすぐ廃線です。貨物専用戦に旅客電車を走らせたまでのことなのです。多少は地元住民の要望もありましたが・・・
とらさん
今、沼津に戦時中にあった沼津海軍工廠について調べています。岳南鉄道は元々、ここへ富士宮や富士方面から労働者を運ぶ為に計画された鉄道なのです。

しかし、沼津海軍工廠の資料は全て焼却されていて何をやっていたんだか、さっぱりわからない・・・今の沼津駅の北側のリコーや明電舎一帯を覆う巨大工場だったのはわかりましたが・・・そこまで。今の爺ちゃんや婆ちゃんたちが、かろうじて工場があったのを知っている程度。

また、歴史をひも解いていると、悲しいかな地方鉄道はこれから衰退の一途をたどることがわかります。時代の流れです。

話は戻って、沼津海軍工廠 謎だ謎だらけだ!全国の他の工廠なら資料は全て焼却してないようですが、沼津は全部焼却してしまっている。あの巨大な工場で何が行われてたんだか。

こういう謎に、ぶち当たると、徹底的に調べたくなるのが私の性分でして!解明してやりますよ。ある程度(笑)
とらさん
E10はもともと板谷峠越えでの運用のために製造されましたが、運用開始後の翌年、板谷峠が電化され、全国を流浪する運命に。特殊すぎるつくりから敬遠されまくって、ました。米原ー田村間に行ったときに白帯が入れられました。かろうじて生き残っていたE10 2は青梅の公園に保存されてますが、JR東日本の鉄道博物館にも入れてもらえかかったマイナーすぎるSLです。
DT200A@SH-11C
とらさん
自分の股関と模型をいじっている様なよっぽど暇な時のコメント、ありがとうございますm(__)m


〉Nゲージの蒸気機関車E10を手に入れました。
とても、マイナーな機関車ですが、お気に入りの一つです。
生まれてこなければよかった蒸気機関車とも言われております。

 E10型は4110型の置き換え用に造られましたが、この世にE10が現れた時点で既に働き場がなくなっていたと言う不幸な機関車です。最後は米原ー田村間の交直セクションで働いていましたが、あの区間にE10がふさわしいとはとても言えない機関車でした。
とらさん
Nゲージの蒸気機関車E10を手に入れました。
とても、マイナーな機関車ですが、お気に入りの一つです。

生まれてこなければよかった蒸気機関車とも言われております。
DT200A@SH-11C
とらさん
暑さにバテてよっぽど暇な時のコメント、ありがとうございますm(__)m

〉一度は、北海道を駆け抜けるC62の姿を見たかったものです。

 私達は復活シロクニの試運転初日から最終運転日まで見れたので、在る意味幸せな世代かもしれません。
とらさん
C 62 3の現役復帰は短い寿命でした。
一度は、北海道を駆け抜けるC62の姿を見たかったものです。

梅小路にあるC62 2を陸送と船で北海道に運んで走らせる粋なイベントやってほしんだけどな~梅小路から鉄路で回送すると痛んだ経緯があるから、陸送と船で運んでくれよ!!!
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