ここでは軽自動車とDD51のデットヒートを繰り広げていました。結構、軽自動車も速かったのですが追い上げてきたDD51に負けて画面の左に入ってしまいました(涙)。 89,01,25 佐倉 9831レ
この時期、八高線のDD51に少し飽きていたので臨客の情報があると佐倉機関区のDD51を狙いに向かっていました。当時は首都高湾岸線が全通しておらず大井JCで首都高横羽線に強制合流させられ、この混雑たるや今思い返しても半端なく何度もイライラした事か。この時も同じルートを通っているはずですが大井JCでの混雑の記憶はありませんが01月ですのでとんでもない渋滞にはなっていなかったと思います。まぁ、それを思うと横浜ベイブリッジが完成した現在はどんなに便利になった事か。しかし、今の自宅マンションに引っ越してからは駅近もあり愛車で東京へ行くことも皆無となっています。
さて、DD51の話に戻しましょう。佐倉機関区は国鉄時代からDD51が所要両数よりはるかに多く配置されていました。これは公表された話ではなので何処まで信ぴょう性があるかは定かでしたありませんが政府は鹿島港に首都圏災害時の救援物資の備蓄倉庫があり、もしもの時は佐倉機関区のDD51で新小岩駅(小名木島)まで輸送する計画で電気のいらないDD51を配置していたと言われています。高崎第一機関区のDD51も同じで所要両数より多く配置されていたのは総理府から国鉄への要請されたものだと伺った事があります。その後高速道路の開通で救援物資輸送は自衛隊のトラックで行う計画に変更され新会社になって佐倉機関区も高崎運転所もDD51の配置両数が激減しています。
この貨物列車は鹿島へ行く財源の他に総武線に入るタンク車も連結されて見応えのある列車でした。今思えばもうちょっと右に移動し高圧鉄塔をポールで隠したかったと思いますが、当時はそこまで気が廻らなかったのでしょう!
余談ながらこの当時、周辺は軟弱な地盤のため大規模な宅地開発が出来ないと言われていましたが、現在はどうなんでしょうか? 89,01,25 物井 5471レ
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