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吹田第一機関区のDD51と言えば鳥栖機関区から流れて来た初期型のデーデーを思い起こしてしまいます。まぁ、私と同様に吹田のデーデーと言って初期型のDD51を思い浮かべる方は人生の後半戦を楽しまれている先輩諸氏と察しますがぁ…(笑) 77,05,12 吹田第一機関区 DD5112号機
3月12日のダイヤ改正で大阪の城東貨物線が電化完成されます。これに伴い吹田機関区のDD51が同線から撤退すると伝えられています…と言う事で名目上、明日が城東貨物線でのDD51最後の日となります。
主たる走行線区の撤退。さらにはDD51の車齢を考えると一部に他区への転配もあるものの、そのほとんどが廃車になるのではないでしょうか?
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この頃の吹田第一機関区にはラウンドハウスがあり威厳がありました。歴代の大型蒸機がこのラウンドハウスで休んだと思うと感慨深いものを感じるのは私だけではなかったと思います。写真の832号機は稲沢(現:愛知)に転属となりキャブの冷房改造はされたものの、原色のままで活躍している様で嬉しい限りです。 77,05,08 吹田第一機関区 DD51832号機 スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
私が城東貨物線の存在を知ったのは小学生時代で小遣いを貯めて、たまに購入する鉄道雑誌でした。当時、城東貨物線は本州最後のD52が活躍する線区として紹介されて、インパクトのある線区でした。さらに、その城東貨物線をさらに印象付けたのが、鉄道ジャーナル誌の投稿欄で地元の中学生が「D52の写真を撮りに城東貨物線沿線に立ってたら、チンピラに絡まれて写真機を盗られてしまって、困っている。どうしたら良いのか?」と言う投稿でした。当時、私は小学生の分際で35ミリハーフカメラを持って高島貨物線へD51の撮影へ良く出掛けていたので、自分の事と置き換えて、とても怖い話だと思ったものでした。当時、高島貨物線沿線にはヤクザの事務所がいくつかあるのを誰に教えられるでもなく知っていました。地元の人から゛あの近くには近づいちぁ、ダメ!゛と言われた事がありましたが、どうしてもそのヤクザの事務所の前を通らなくては撮影出来ない時など恐々と目立たない様に通ったものでした。しかし近所の人たちの忠告とは裏腹にヤクザの事務所の前でいつも黒塗りの乗用車を磨いている角刈りの怖い人相の人達は私には非常に優しく、夏には冷たい水を飲ませてくるた事があったくらいでした(自販機が普及していなかった当時は、夏に喉が渇き大変助かった記憶がありますが、水をもらったのでそのままヤクザに勧誘されてしまうのではないかと言う恐怖感もありましたが…笑)。それだけにヤクザとチンピラは違うんだぁ!と子供心にも印象強く思った事を覚えています。
あれから40年以上経った今でも城東貨物線=チンピラにカメラを盗られる!と言う潜在的な負の記憶があり、良い印象が持てずお手軽に撮れるデーデー区間でありながら一度も撮影する機会もなくDD51の引退を迎えてしまいました。
余談ながら、この投稿に対して鉄道ジャーナル誌の編集部からは「もし、事実なら今からでも遅くないから警察に届ける様に」とコメントが添えられていました。
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写真の829号機は吹田第一機関区を離れることなく生涯を閉じています。 77,05,12 吹田機関区 DD51829号機 スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
私にとって城東貨物線を担当する吹田第一機関区のDD51と言えばボディの白線が一直線の初期型のDD51を思い起こします。 当時からDD511号機は秋田機関区に配置されている事は有名でしたが、あの頃の秋田はあまりにも遠く、DD51全機を撮り尽くそうなんて思ってもみない私には秋田へ行って1号機を撮るなんて思いもつきませんでした。
これに対して吹田第一機関区の初期型DD51は九州や山陰への蒸機撮影の際に大阪周辺で(いま思えば吹田操車場だったと思います。)車窓から量産機とは明らかに異なる塗装のDD51を何度も目撃していただけに、距離的に遠いと言う意識はなく、いつかは撮ってみたいと思っていました。
その何年か後、新社会人となった際に思いもよらないチャンスがやって来ました。なんと入社し現場着任前に3ヶ月間、大阪・吹田で研修を受ける事になったのです。当然、寮で寝泊まりする事になったのですがたった3ヶ月ではありますが、大阪にベースキャンプに撮影が出来る事になりました。当時はまだEF58のブルトレや福知山線の客レがあった時代ですから、休みの日はもちろん、研修が終わってからも精力的に撮影していました。時期は4月から3ヶ月ですので日射時間の長い夏場になります。朝は吹田発の初電で山崎に向かい広島のゴハチ牽引の゛安芸゛から撮影をして寮に戻り、太陽が高く撮影に向かない時間帯は研修を受け、太陽が傾き出した夕方になると、またまた撮影に出かけると言う、鉄ちゃんのお手本の様なライフスタイルを続けた3ヶ月でした。
当然の様に以前から気になっていた吹田第一機関区に行ってDD51を何度か撮影していますが、やはりトラウマになっていたのでしょう、城東貨物線では撮影していません。
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吹田第一機関区で休むDD51829号機(左)とDD5112号機(右)。後ろに見えるEF65F型がいる場所は吹田第二機関区になります。 77,05,12 吹田第一機関区
ところでDD51の配置経歴を調べると首都圏や中京圏、さらには近畿圏に必ずDD51が十数両配置されている機関区がありました。首都圏近郊ならかつての佐倉機関区。中京圏なら稲沢(現:愛知)機関区。そして近畿圏では吹田第一(現:吹田)機関区です。これらの機関区に共通するのが使用線区では定数いっぱいの牽引力を要求される事がない事。さらに使用線区には電化、非電化が混在していてDD51であれば、電化・非電化に関係なく入線が出来ると言う事で重宝がられたと言う共通点です。吹田(第一)機関区も現在は城東貨物線が主たる走行線区ですが、かつては梅田貨物や安治川口等にも足を伸ばしていた事からも、使い勝手が良かったと伺い知れます。またヤードでも架線のない所まで入換が出来ると言う強みもありました。(余談ながらDD51の入換作業については、逆転機の特殊性から現場では嫌がられ、一作業程度の簡単な入換はあったにせよ、一日中入換に従事と言う実例は非常に少ないと言う事実もあります。この点についてはいずれ機会があれば、ご説明させていただきます)
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私が撮影したDD51の中では最若番だと思います。77年当時でも留置線の一番奥にいたのですが、ほとんど使われていなかったのかもしれません。65年から吹田第一機関区に在籍していたのでD52と肩を並べて活躍したと思われます。 77,05,08 吹田機関区 DD515号機 スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
なお、このブログを書くにあたって鳥栖機関区から吹田第一機関区へ多数のDD51が転配されている経緯について青抑解様に事実確認をさせていただきました。青抑解様は知る人ぞ、知るDD51を全号機撮影されたと言う業界きってのデーデーフリークで、鉄道雑誌ではDD51にとどまらずDL一般の執筆されいて、また信号保安でも知識が深い方で有名です。今回もこちらの質問に対して期待以上の回答をいただきました。その内容は素晴らしいもので私へのメールとしてこのまま朽ちて行くには忍びないのでご本人承諾の上、ここに原文(一部『』は私が注釈を挿入)紹介させていただきます。
吹田に配置されていたDD51の初期車『注:白線が一本線のDD51』(5~12,17~19)のうち鳥栖にいたのは新製直後の39年度に5、6、9(7~、10~は未落成)で、翌40年度には吹田に転出しています。これらの後釜で鳥栖に新製配置されたのは2桁のカマで、後述の24、26も含まれています。24、26は40~44年度まで鳥栖、46~47が門司(鳥栖に700代投入で捻出)、48~51まで早岐(門司に800番代投入で捻出)で、52年度に米子に転出、その後、56年度から吹田です。従って24、26は51年6月の長崎電化で捻出されたことになります。なお46は41~43年度まで稲一、44年度から吹田、724は他の800番代と共に45年度の新製配置で吹田にきています。吹田に724が配置されたのは、当時から国鉄末期まで篠山口~大阪の朝通勤の仕業をもっていたからで、724は46と共に最後までこの運用に就いていました。何故、39年に鳥栖に投入された若番が一年経たずに吹田に転出したのか、この経緯は判りませんが、おそらく当初から城東貨物の無煙化用と考えていたのではないかと思います。ハンドル訓練かも知れません。従って゛さくら゛・゛はやぶさ゛のマーク着きの一本線のDD51の写真は見たことがありません。
ちなみに5のキャブのプレートと銘板が飯田町の貨物本社の一階に展示してあります。吹田機関区贈とあり、吹田でも慣れ親しんだ機関車だったのでしょう。配置、移動の年代は年度末時点です。
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青抑解様の文中には出てきませんが貨物列車専門に思える吹田第一機関区のDD51の中で724号機や46号機と共に写真の26号機もSG整備され客レ(当時の福知山線の客レは全て旧客*)牽引をしていました。(*=当時の国鉄部内では旧型客車を雑型客車と表記されていました。)
この日は運用変更があったのでしょうか、通常は朝夕だけの福知山線の客レのはずが昼間に福知山からの客レ牽引に吹田第一機関区のDD51が充当されていました。 77,05,08 塚口 DD5126号機 スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED