今朝の新聞を読んでいて、
思わず読んでしまった大学センター試験の文章・・
国語の最初の問題の
栗原彬の「かんけりの政治学」という論説。
かくれんぼは、『藤田省三の「或る喪失の経験ー隠れん坊の精神史ー」によると
オニが隠れていたものを見つけることによって仲間のいる社会に復帰し
隠れたものも、オニに見つけられることによって擬似的な死の世界から蘇生して
社会に戻ることができる』
という点を引用し
相互の役割を経験することによって
自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験としています。
(ほう・・こんな意味があったのかあ・・)
それに対し、最近は、かくれんぼよりもよく遊ばれている
複数オニと陣オニについては、次のように説明されていました。
複数オニは、裏切りであるとし、
一斉に逃げ出し、傍に隠れている仲間がいた時、自分がみつかって鬼に転じたら
その傍の仲間をあばきだすスパイに転じることになると指摘。
また、陣オニは、自分だけが助かればよいゲーム。
陣とは、社会秩序に相当し、
陣に触れることは、社会秩序へのコミットメントを競争条理で獲得すること
選良の資格を手にすることを意味し、
これは、社会秩序の中心と私的エゴイズムとを結びつけるための
単独行動的な冒険であると。
(言われてみれば、そうだなあ・・)
これらは、他者と競争して優位に立とうとする経験が、さらに社会的成功を利己的にめざすことを目的とした人生ゲームに繋がっていくと読み取れます。
一方、かんけりは、輪が市民社会、かんは秩序の中の中心であり管理塔。
かんを蹴るという行為は、家、学校、地域、
そして自己内面の管理社会のコスモロジーに蹴りを入れていることに相当すると。
隠れているときは(籠っているとき)は、
管理社会化した市民社会の避難所のような守られている温かみがあり
見つかって捕らえられても、仲間が助け出してくれるだろうという連帯感がある・・
隠れるという意味を「かんけり」と「かくれんぼう」で対比させてみると
「かんけり」では、温かい避難所として感じられ、
「かくれんぼう」では、死の世界のような隔離されたものとして捉えられる
と、述べられていました。
この文章を読んで、
かんけり、かくれんぼう、複数オニ、陣オニ・・
子供の遊びの中で、大人の社会はこのように映し出されていて、
その遊びの人気、廃れは、その時の大人社会を無言で指摘しているのかもしれない
そんな感覚に陥って行きました。
たかが かんけり、されど かんけり・・
それにしても、この文章、受験生ははたして面白いと感じたのかなあ・・とふと思い
2ちゃんねるの大学受験のスレッドをのぞいてみました。
難しかった問題の代表格になっており、
かんけりを、ここまで深読みしなくたっていいじゃんって内容の感想が
たくさん書かれていました。
やっぱりなあ・・ 今時の10代後半の子供達には、感覚的に難しいだろうなあ・・
面白いと感じた私は・・・?! 問題は、確かに難しいと思いました。
と・・・・・・ もう一つ気がついたことが・・
新聞の問題、字が小さくて読めない。
老眼が進んだかなあ・・・・・・・・・・・・
コメントに返事はしないのですか?
凄く失礼だと思います。
一言でもいいと思いますけど…?
ブログスカウト事務局の池田と申します。
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エッセイから日々の生活の様子がうかがえ、まるで身近な友達のような親近感を感じました!
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#突然ご連絡致しました失礼をお許しください。
もし不愉快に思われましたら、恐れ入りますがコメントの削除を
お願いいたします。
aruga先生、全部のコメントに返信されています。
コメントを入れさせて頂いたことが有る者ですが、コメントをよく読まないで、失礼だというコメントをされる方が失礼なのでは?
aruga先生へ
読者まで不愉快にさせるようなコメントは、アップされなくてよいと思います。
すみません。
削除して頂いても構いません。
正直申し上げて、困惑しております・・・
池田さん
アップさせて頂きましたが、メールアドレスをお書きくださっておりましたので、表には出ないようにした方がよいかとも思っております。ご希望がありましたら、ご一報ください。ご連絡取らせて頂く場合は、別途いたします。
そらさん
今まで、コメントは頂いた分、できるだけアップした方がよいと思っておりました。
不愉快な思いをされるような場となってしまいましたこと、悲しく、今後、お立ち寄りくださる方の立場を含めたこの場の在り方を考えていきたいと思います。
社会構造というか 社会心理みたいなものが
良く表れている、ということなんでしょうか
私が小さい頃は陣オニはまだ登場して
居なかったはず…
警泥はやったかなぁ…
お祭りも社会学を通してみると、
あの盛り上がりのなかで一人ひとりという個が
融合して分解できない集まりとなり、
つまり村・町などの社会的集まりで、
あの盛り上がりで一体感が生まれ、
祭りを通して 祭りのたびに更新していく…
とか何とか 人類学の講義で先生が言っていました (実はいまいち理解できなかった…)
入試問題、わたしも英語とかちょっと読みましたが
新聞のはちょっと字が小さすぎますね
いまさらのように、社会学とか人類学とか、今の仕事に関係していそうで関係していないような学問を、学んでみたいなあと思うこのごろです。
脱線ですが、すごく昔の祭り(数百年前の)は、お見合いだったり合コンだったり、場合によっては出会い系サイ○のような場だったようです。祭りの盛り上がりは内因性エンドルフィンの分泌を促進するのでしょうね・・
> 「子どもは誰かといっしょにいるとき、一人になれる」
http://d.hatena.ne.jp/sk105/20081216/1229452666
> 柳田国男は・・ウィニコットの命題を、家遊び(母親と一体化している段階)→軒遊び(母親がいるので一人遊びができる段階)→群れ遊び(母親がそばにいなくても他の子どもたちのなかに混ざって遊ぶことのできる段階)という遊びの発達過程として定式化した。
ふと上記への繋がりを思い出しました(笑)
別件ですが、精神科医でさえ薬の選択には秀でていても、カウンセリング能力には欠けている方が多かったりします。。。
これは、人の発達プロセスですね。
記事の方は、どちらかというと、遊びを通した社会の変化をみているといってよいでしょうか。
二つ目のリンクでは、誰かを内部に持つことの意味が書かれていて、これも興味深く読みました。
おもしろかったです。
ご紹介ありがとうございました。
「死に行く5段階」の中で、逆にこのプロセスが露呈されるような気がします。
死んでゆくということは、究極の孤独?の受容を余儀なくされるわけですから。
「全人的な痛み」という言葉から、細分化された医療から統合された医療も必要なんだと感じます。