時々もらう質問。
「患者さんに死を受容させてあげる方法を教えてください」
私自身、死を受容できるだろうか・・
そんな風に考えてみても、
今も、そしてこれからも、
死を受容するなんてできないと思っています。
加えて、
受容させてあげる・・
こう考えた時点で、
何か間違っているように思います。
患者さん自身の価値観を
外から力で変えようとしているように
感じるのです。
医療者の役割は、
患者さんの価値観を変えることではなく、
どのような価値観を持っているか、
じっくりと感じることが
まず、最初の一歩だと思います。
患者さんが感じていることを
キャッチできたら、
それが、患者さんとずれていないか
確認します。
ここまでの流れを、
私は、「思いをを馳せる」作業と呼んでいます。
その上で、時に、医療者自身の考えも示しながら、
対話をしていきます。
医療的アドバイスが必要と判断したら、
パターナリズムに陥らないように注意しながら、
提示してみます。
時には、私だったら・・という私の価値観そのものを
提示してみることもあります。
それが、必要な場合と、不要な場合もあるでしょうから、
また、修正していきます。
患者さんの価値観と
医療者または対等な一人の人としての価値観
を向い合せたり、衝突させてみたりしながら、
対話を続けます。
この繰り返しの中で、患者さんは
人生を振り返りかえったり、
これから先のことを
自分なりの承認をなさっていきます。
この患者さんなりに、ご自身で・・ということが、
とても重要なことなのです。
医療者から見ると、あたかも、その対話が
死を受け入れさせてあげたように
感じてしまったとしたら、
もう一度、自分の姿勢を見直す必要があるように思います。
ちなみに。。
認知症が進んだ患者さんの場合は、
マスクを外して、視線をきちんと合わせて
挨拶を丁寧にすることから始まり、
動作や言葉の繰り返しを中心に、
患者さんの中に入ることは、
ゆっくりと、ゆっくりとやっていきます。
こうしたプロセスを若い医療者に
学んでもらおうと、回診などで示した時、
なんと、偶然、患者さんがご機嫌になったと、
感じられてしまい、
本当に、がっかりしてしまったことがありました。
患者さんの心をノックし、
そっと、中に入ったり、出たりし、
その中で、私は、結構、挑戦的な質問をしたり、
対峙させることもあり、、
その力加減を一緒に体験してほしいと思うのですが・・
その医療者の感度なのかもしれないと思うことが
このところ、続きました・・
ガンセンターに通院する必要があるので、告知する医師が多いことにとても疑問を感じる今日この頃です。確かに治療に前向きになっていただくことは大切ですが、どの薬も効かずに副作用に苦しみ続けた父。生きるために医師の指示に従いましたが、他にも方法があったのではないかと。
生きるためには耐えないといけないと言われたそうですが、どうせ死ぬなら大好きな刺身を食べさせてあげたかったです。
尊厳死、選択する余地与えられるののならば告知してもいいかもしれませんか、本人が望んでもいざとなるとうろたえたり、逆に告知せずに家族がまいってしまったり。
いずれにせよ一般人に死を受け入れさせるのは無理ではないかと。医療従事者はいつしか鈍感になり知らず知らずのうちに相手を追い込んだり傷つけたりしている。病んだことがないから病んでる人や家族の気持ちがわからない。強いものには弱者の気持ちが理解できない。
薬剤師も同じです。いつしか傲慢になり、患者様や家族の人生や生活やかかえるものを見ようとしない…。
自分自身や家族の死とはなにか、死と向き合うとはどういうことなのか。自分が直面しないからわからないのかもしれませんね。
患者サイドからあなたのような医師は頼れる存在。すがり付いたり、泣きついたりしても話を聞いてくれそう、そんな気がして毎回読ませていただいています。薬剤師としての勉強も、かねて。
乱文乱筆お許しください。
私が癌ならホスピスにいきたい…。叶わぬ夢だけど。
法律で決まってる訳じゃないでしょ
と言われて絶句してしまいました。
こうしたことも、感性でしょうか。
がっかりしたことでした。
しかし、自分が病気になった時、病気の受容というものは、とても困難なものでした。未熟な私は、いまだに受容しきれておりません。
そう考えますと、死の受容など、私には到底無理でしょう。
“死を受容させてあげる”という言葉は、傲慢な言葉だと思います。(言っているご本人は、そんなつもりは全くないのは承知ですが。)
時に医療者は、こうあってほしい患者像や自分の価値観を、無意識に患者さんに押しつけていることがあります。
その方の思い、価値観、その時々の心の流れを同じ目線で見つめ、できるケア・必要なケアを提供し、後はその方が死を受容してもしなくても、どのような選択をしても、その方の人生でその方の生き様なのだと尊重したいと思っています。(これまでの反省を込めて‥)
家族の病に伴走することで、三人称ではない二人称の辛さを経験し、それが医療者としても、人としても一段上ったと感じた時、家族が与えてくれた宝になるのではないかと思います。
貴重なご経験をお書きくださり、コメント、ありがとうございました。
感性というより、きみさんの知識が遥かに勝っていたのだと思います。
そういう時、主治医にご自分の身を守るためにも記録は大切ですよと伝えると、ハッとしてくれることが多いように思います。
つまり、決められているからするのではなく、医療者としての自分自身のためであることの強調です。
(身を守ると書くと、保身とか取り繕うような意味に誤解されそうですが、そうではなく、事実を事実として記録していくことが重要という意味です)
そのことに気づくことができるということは、のこさんが患者さんの立場となったことが大きいのではないでしょうか。
患者さんの痛みにきちんと届くことができる医療者、届き切らないかもしれないけれど、同じ方向に向くことができて、その先の辛さを想像してみようとする力、そんな力を感じます。素敵です。
それが、結果的に患者さんを守り、仲間たちを守るのだと思います。
ありがとうございます。
鎮静についても、告知についても、学習会のようにして皆で考えられるようにできたらと思います。
その3つがきみさんからのメッセージに盛り込まれていて、素晴らしいなあと思いました。