教育ってなんだろうか。
そんなことを考えることがこの1年、
続いていました。
過日、ある知り合いの医師にメールを書いていました。
”業務を行ってもらうのではなく、夢をかなえてもらうために・・”
このような文章を書いていて、
はっと思いました。
教育、人を育てるとは、
将来、こんなことをやりたい、
こんな風になりたい、
そんな思いをもった若い人の夢をかなえる手伝いをすること。
自分の中にあった無意識に気づくことができました。
そんなことも薄れ始めたとき、
ある詩に出会いました。
フランス語の詩でした。
ナチスに教師や学生が銃殺され、
そんな中でも
学びの場を作り、
希望を語りあったこと。
長い詩でした。
私は、フランス語はまったく読むこともできません。
素敵な響きなのかも・・と
思いながら、
日本語の対訳が記載されていたものに出会いました。
有名な箇所を抜き出してみました。
Louis Aragon
ルイ アラゴン
Chanson de l'Université de Strasbourg
ストラスブール大学の歌
(前略)
Enseigner c'est dire espérance
教えるとは 希望を語ること
étudier fidélité
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
Ils avaient dans l'adversité
彼らはなおも苦難のなかで
Rouvert leur Université
その大学を再び開いた
À Clermont en plein cœur de France
フランスのまんなかクレルモンに
(後略)
訳 大島博光
教えるとは希望を語ること
最初、ピンときませんでした。
これがナチスドイツ占領下のフランスの大学のことだとわかり、
恐怖や抑圧の中で、
将来に希望を見出しながら
新たな学びを続けていくことに
腑に落ちたような感覚になりました。
もしかすると、
震災で大切な人を一瞬にして失った子供たちにとっての学校も、
教師は新たな知識を伝えながら、それは将来の力になることを信じ、
生徒達は一生懸命耳を傾け、
時に、虚無感を感じることもあるでしょうが、
こんな、学びの場もあるのではないかしらと
さらに、想いは東北に向かいました。
この土日は、病院では、拠点病院必須の緩和ケア研修会を開催していました。
大学受験生はセンター試験でした。
そして、まもなく大学入試も始まります。
一人の大学人として、
若い人たちと、将来の希望を語り、
夢を実現することを手伝える者でありたいと思います。
学びたい人に思います。
夢を持ってください。
10年後、どんなあなたになっていたいですか。
死を目前にしたときに
ああ、よい人生だったと思えるにはどんなことがかなえられるとよいですか・・・
病気になる前から、地域の中小病医院の医療者に怒りを感じ、若い看護師に目が点になることも多く、病気なってからますますその悲しみは増しました。
看護教育の現場でのいわゆるイマドキのワカモノへのアブローチは、恩師も先輩も悩んでいらっしゃいます。
ネットのコミュニティを見て現実を見てため息が出てしまうこともあります。
看護教育のあり方、
>教えるとは 希望を語ること
>学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
この様に教師も学生も感じられたなら何かが違ってくる気がしました。
私はきちんと夢に向かって生きませんでした。
今更、何も成し遂げていない焦りに苦しみます。
妹さんはフランスの方と結婚されたのですか?!!
>学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
>この様に教師も学生も感じられたなら何かが違ってくる気がしました。
同感です。
この言葉を一度反芻しただけで、何か自分の中で変わったように感じました。
>私はきちんと夢に向かって生きませんでした。
>今更、何も成し遂げていない焦りに苦しみます。
ここにお書きになるにも勇気が必要がいったのではないでしょうか。率直な言葉に心が打たれます。
今までの気持ちが次に進む力になったのですね。いつか、必ずお目にかかりましょう。その時を楽しみにしています。
上の先生が、いろんなことを部下に伝えていくこと、自分がいなくても、業務がきちんとできていること・・・いろいろありますが、人が育つって、どういうことかな?と思います。
自分が教えなくても、下の人が一生懸命やってくれたら、自分も励まされるし、それも人が育つことにつながるような気がしたり、自分が一生懸命だったら、下の人もわかってくれるのではないかと思ったりします。
気持ちが伝わるって大事ですね。
ご指摘の通り、それを昇進ではかるのは一面しかみていないことになるでしょう。
一生懸命さや満足度などをみたり、ともに、心が通じ合うことがそれにあたるのかもしれませんね。